私選“只見線百山”の検証登山。今日は会津川口駅を起点に、駅チカにある史跡「玉縄城跡」を訪ね、四等三角点「尻吹峠」と三等三角点「早坂」を目指して登ろう、とJR只見線の列車に乗って金山町に向かった。
*参考:
・NHK:新日本風土記「動画で見るニッポンみちしる~JR只見線」 *2008年放送
・産経新聞:「【美しきにっぽん】幾山河 川霧を越えてゆく JR只見線」(2019年7月3日)
・福島県 :只見線管理事務所(会津若松駅構内)
・拙著:「次はいつ乗る?只見線」カテゴリ ー只見線の秋ー / ー只見線沿線の“山”(登山/トレッキング)ー
今日の旅も、磐越西線の始発列車に乗るために未明の郡山駅に向かった。
輪行バッグを抱え、駅舎に入り、切符を購入。改札を通り、出発を待つ列車に乗り込んだ。
5:55、会津若松行きの列車が、郡山を出発。
沼上トンネルを抜けて中通りから会津に入る頃には夜が明けて、猪苗代を出発後に「磐梯山」(1,816.2m、会津百名山18座)が見えた。
7:11、会津若松に到着。駅舎上空には、青空が広がっていた。
駅前のバスプールを見ると、「まちなか周遊バス」停車位置に見慣れぬ「あかべぇ」号が停まっていた。*参考:会津乗合自動車㈱「まちなか周遊バス」
地元紙が報じていた、電気バスだった。先月末に新たに2台導入したバリアフリー車ということで、大きく赤べこが描かれた外観と合わせて、観光客にも喜ばれるだろうと思った。*下掲記事:福島民報 2023年10月28日付け紙面
駅構内の売店で買い物を済ませ、改札を通り、只見線の4-5番線ホームに向かった。連絡橋から4番線を見下ろすと、列車はすでに入線していた。
ホームに下りてみると、列車は先頭“がタラコカラー”のキハ110で、後部車両もキハ110の2両編成だった。
“タラコカラー”車両は、“只見線全線運転再開1周年”を記念して9月から運行が開始された。*下掲記事:福島民報 2023年9月22日付け紙面より
7:41、会津川口行きの列車が会津若松を出発。車内は、両車両とも空席が目立っていた。小出まで全線乗車ができないこの列車は、休日でも乗客は少ないことが多い。駅で降りてから楽しめるような飲食店やアクティビティ、次の列車の待ち時間(3~5h)を快適に過ごせる休憩スペースなどの整備が必要だと改めて思った。
切符は休日ということで、「小さな旅ホリデー・パス」を使った。
列車は、市街地にある七日町、西若松を経て、大川(阿賀川)を渡った。上流の「大戸岳」(1,415.9m、同36座)山塊は霞んで見えた。
会津高田を出た列車は、“高田 大カーブ”で進路が西から北に変えた。
この後、根岸、新鶴で停発車を繰り返しながら、刈田の間を軽やかに進んだ。
若宮手前で会津坂下町に入った列車は、上り2番列車が待機している会津坂下に停車した。
会津坂下を出ると、刈田の間を少し進み、右に大きく曲がり七折峠を駆け上った。
登坂途中、塔寺手前で木々の間から会津平野を見下ろすが、霞んでいて見通せなかった。
“七折越え”を終え、列車は会津坂本に停車。貨車駅舎に描かれた「キハちゃん」は迎え、見送ってくれた。*参考:会津坂下町「只見線応援キャラクター誕生!!」(2015年3月13日) https://www.town.aizubange.fukushima.jp/soshiki/2/3337.html
列車が柳津町に入り会津柳津に停車すると、客が多くが乗り込み、車内は混雑した。新潟県の旅行会社のツアー客のようだった。
郷戸手前では“Myビューポイント”を通過。「飯谷山」(783m、同86座)の、色づく山肌が見えた。
滝谷に停車すると、廃ホームに立つ“一本カエデ”が鮮やかに色づいていた。
そして列車が出発すると、まもなく「滝谷川橋梁」を渡り三島町に入った。渓谷は色づき、綺麗だった。*以下、各橋梁のリンク先は土木学会附属土木図書館デジタルアーカイブス「歴史的鋼橋検索」
会津桧原を出た列車は、桧の原トンネルを抜け「第一只見川橋梁」を渡った。上流側は逆光で、窓の汚れが目立ち鮮明ではなかったが、駒啼瀬の色づいた渓谷とそれを映し込む冴えた水鏡が見えた。*只見川は東北電力㈱柳津発電所・ダムのダム湖
ここでカメラをズームにすると、上流側上方の送電線鉄塔の根元にある「第一只見川橋梁ビューポイント」のDポイントには、多くの“撮る人”が確認できた。
会津西方を出発直後には「第二只見川橋梁」を渡った。ここは、下流側が逆光で、水鏡が太陽の光を強烈に反射させていた。*只見川は柳津ダム湖
列車は、“アーチ3橋(兄)弟”の次男・宮下橋を見下ろしながら、長男・大谷川橋梁を渡った。*参考:三島町観光協会(観光交流館からんころん)「『みやしたアーチ3橋(兄)弟』のビューポイント」(2013年6月16日) URL: https://blog.goo.ne.jp/mishimakankou/e/e93620f5690ee4e3adf6d1124b2f46e5
9:07、会津宮下に停車。上り列車とすれ違いで5分停車するため、ホームに下りた。北西に目を向けると、「三坂山」(831.9m、同82座)が良く見えた。
まもなく、上り列車が入線。小出発の1番列車で、キハE120形の2両編成だった。
会津宮下を出ると、東北電力㈱宮下発電所の背後と宮下ダムの脇を駆けて、列車は宮下ダム湖の右岸を進んだ。宮下ダム湖の水鏡も冴えているようで、色づいた両岸を映していた。
このあと列車は、「第三只見川橋梁」を渡った。下流側、只見川左岸の山肌も、まずまずの色づきだった。
上流側は、逆光気味で窓の汚れが少し気になったが、陽光を浴びた左岸の色づきと、水鏡の鮮明さが良く見えた
滝原トンネルと早戸トンネルを抜け、早戸に停車。紫色の国道252号線の三島大橋越しに、雪食地形の山肌を持つ山々が良く見えた。
早戸を出てまもなく、金山町に入り、細越拱橋(8連コンクリートアーチ橋)を渡った。
会津水沼を出ると「第四只見川橋梁」を渡った。
渡河後、国道252号線を潜り抜け、道路線形改良工事(水沼工区)で電柱・電線地中化された区間を見下ろしながら進んだ。見晴らしが良くなり、電柱・電線地中化の効果を実感できる場所になった。*只見川は宮下ダム湖の終端で、東北電力㈱上田発電所・ダムの直下。
この先、上田ダム湖が間近に見え、湖面に左岸の雪食地形が映り込む区間は、今回の工事で電柱・電線地中化が行われなかった。ここを通る度に、『(電柱・電線地中化を)やって欲しかった!』と思ってしまう。*参考:国土交通省北陸地方整備局 阿賀野川河川事務所「雪崩によって作られる地形~奥只見」
会津中川を出発し右側が開けると、後方に東北電力奥会津水力館「みお里MIORI」が見えた。背後の山並みに調和したデザインだと、改めて思った。
終点が近づき車内放送が入り、列車は減速しながら右に大きくカーブした。振り返って、只見川(上田ダム湖)に突き出た大志集落を眺めた。水鏡の冴えは今一つで、川面への映り込みは鮮明でなかったが、まずまずの眺めだった。
列車は、林道の上井草橋をくぐった。
9:43、この列車の終点・会津川口に到着。
会津柳津駅から乗車したツアー客が降り、ホームは混雑した。
ホームの端から、これから登る「玉縄城跡」がある山を眺めて、輪行バッグを抱え、ツアー客が去って静かになった駅舎に入った。
10:02、駅頭で自転車を組み立て、「玉縄城跡」遊歩道入口に向かった。
国道252号線に入り、只見方面に向かい川口トンネルを抜けるとまもなく、県立川口高校の案内板があった。
その先に「玉縄城跡トレッキングコース」と書かれた案内板があり、左折して坂を上った。
坂は急坂で、自転車は押して進んだ。
150mほど進み、直登が終わる場所に、写真と地図が入った「玉縄城跡トレッキングコース」案内板が立っていた。そして、その下に『クマ出没につき当面の間 通行止め』という注意書きがぶら下がっていた。
そんなバカな...と思い、トレッキングコースの入口に行くと、張られていた規制テープが破られていた。『通行止め』は解除されているのだろうと解釈し、自転車を道の脇に停めて、準備をした。
10:09、熊鈴を鳴らし、「玉縄城跡」に向けて出発。
序盤、トレッキングコースは、スギ林の中に延びていた。スギは疎らで、根元の藪の低いため。クマの存在はさほど気にならなかったが、笛を吹き、「北大クマ研」の“ポイポーイ”を叫びながら進んだ。*参考:北海道新聞「「ポイポーイ」クマよけのかけ声が響く北大天塩研究林 地図とコンパスで広大な山林を調査して歩く北大クマ研のヒグマ調査に同行」(2022年9月15日) URL: https://www.hokkaido-np.co.jp/article/730946/?pu
傾斜が増すと、丸太組の階段が現れた。
分岐のように踏み跡が二手に分かれる場所に出て、一瞬『どちら⁉』と思ったが、尾根を目指そうと、左に進んだ。
少し進むとピンクテープが見え、安心して先に進んだ。
歩き始めて8分で、尾根の斜面になり、丸太階段が設置されていた。かなりの急坂で、尾根を見上げながら進み、中腹付近で右に折れ、少し息を切らしながら登った。
まもなく、終点が見え、丸太階段は平場につながっていた。
丸太階段を登りきると、平尾根に乗った。見通しの良い空間は色付き、陽光を受け美しかった。
前方に見えた看板に近づくと、左の斜面に下りるような踏み跡があり、野尻川沿いに下る“山道”との分岐のようだった。
この看板の場所から、ほぼ直角に右に曲がり進んだ。
途中、堀切のような窪地に土が盛られたような場所を通過。
トレッキングコースの傾斜が増し始めると、前方に案内板と柵が見え、右側が大きく切れ落ちているようだった。
新たに整備された、ビューポイントのようだった。
昨秋から、地元紙・福島民報が只見線全線再開通を機に秋・冬・春・夏と4季にわって連載した「つながったレール」で紹介されていた場所で、訪れたいと思っていた場所だった。*下掲記事:福島民報 2022年11月6日付け紙面
柵に近づき、景色を眺めた。想像以上の広がりと重厚感だった。奥会津地域は1,000m前後の山が多く、多くの山並みが一つの構図に入り込む。ここからな眺めはそれが実感でき、只見線やダム湖となった只見川、そして小さな大屋根の集落も見えるので秀逸だと思った。
只見線の構造物は「第六只見川橋梁」で、復旧工事で上路式から下路式曲弦トラス橋に変わったこともあり、風景の中でかなり目立つ存在になっていた。「第六只見川橋梁」の後方には東北電力㈱本名発電所・ダムがあり、その背後には私選“只見線百山”の候補に入れている「袖の窪山」(952.8m)の山塊が横たわっていた。
只見線の“ビューポイント”を後にして、玉縄城址の本丸に向かった。
まもなく、短い丸太階段があり、登った。
登り終えると、また平尾根になった。太古から平尾根なのか、城を築く時に平たくしたのか不明だが、玉縄城は居住性が確保されていたのだろうと思った。
また、堀切に土が盛られ、平たくなった場所を進んだ。
10:25、前方が大きく開け、案内板が立っていることから「玉縄城跡」本丸に到着したようだった。会津川口駅からの所要時間は20分ほど、ということで列車の待ち時間でも、無理なく訪れることができる場所だと分かった。
本丸広場に立つ案内板に近づいて、読んだ。
*以下引用で、筆者にて段落設定、漢数字を英数字に変更
町指定重要文化財 玉縄城跡
山ノ内は広い領内の支配体制を強固なものにするため、一族を領内各地に分封させた。その一環として天文13年(1544)に山ノ内俊清は中丸城を長男の舜道に譲り、末子の俊甫とともに只見川と野尻川の合流点である川口に城館を築き、玉縄城と名づけた。
城は川口地区の西側、野尻川を挟んでそびえる山上に築かれていた。中間は鞍部になり左右に標高480メートルの山が対照的に並び、その下は断崖絶壁になっている。この鞍部を境にして本丸と二の丸に分けられている。二の丸の端には古峰原神社が祭られ、祭日には大きな梵天(幣束)が奉納されたので、土地の人は梵天山ともいっている。
天正17年(1589)伊達政宗の奥会津侵攻後、山ノ内の全領土は蒲生氏郷のものとなった。玉縄城主川口俊保は政宗に臣従し、一族とともに奥州白石(宮城県白石市)に移った。現在も白石市には「川口」の姓があるのに対し、川口地区にはその姓が一軒もない。
昭和48年3月指定 金山町教育委員会
会津藩の地誌「會津風土記」(寛文年間(1661~72) に初代会津(松平家)藩主・保科正之が山崎闇斎に命じて編修)を,第7代藩主・松平容衆が1803(享和3) 年に増補改訂させ、1809(文化6)年に編纂が完了した「新編會津風土記」(全120巻)に、「玉繩城」の記述がある。
●大石組 ○河口村 ○古蹟 ○館迹
村西一町五十間、野尻川の西山上にあり、東西十八間南北二町、玉繩城と稍ふ、山内氏の支族河口左衛門佐某と云者住せり、天正六年葦名盛氏の爲に大槻太郎左衛門を討ち(河沼郡野澤組野澤本町の條下に詳なり)、同十八年伊達政宗に降り、伊達の將大波玄蕃に從て大鹽組横田の城主山内氏勝が討手に加はりしと云、
*(下図)出処:新編會津風土記 巻之八十三「陸奥國大沼郡之十二」(国立国会図書館デジタルライブラリ「大日本地誌体系 第33巻」p122~125 URL: https://dl.ndl.go.jp/pid/1179220/1/67 )
本丸跡にも、ビューポイントがあった。役場のある川口地区を見下ろせる場所のようだった。
このビューポイントは、開放感は無かったが、山間に佇む川口地区の様子が分かり良かった。
少しずれると、この後に向かう「尻吹峠」が見えた。カメラをズームにすると、只見線の撮影ポイント“大志俯瞰”には3台の車が確認できた。
本丸跡は、東側の切れ落ちているため、柵がめぐらされていた。
“本丸”と呼ばれる場所に立ち、たどってきた道のりの傾斜と、この先(南)にある鞍部と同程度の標高のピークを見て、案内板に記された『中間は鞍部になり左右に標高480メートルの山が対照的に並び、その下は断崖絶壁になっている。この鞍部を境にして本丸と二の丸に分けられている。』と照らし考えた。そこで、ここは“本丸”ではなく二の丸跡で、この先に本丸跡があるのではないか、と思った。*下図出処:(左)現地案内板の地図を180度回転、(右)国土地理院「地理院地図」URL: https://maps.gsi.go.jp/
地理院地図を見ると、484mと483mの山が鞍部を“中間”に、ほぼ“対照的に並”んでいる。だが現地案内図には北の484m付近に本丸と記され、現在地もそこになっている。案内板通りなら、483mピーク付近が本丸跡で484mピーク付近が二の丸跡、となるはずだ。真偽のほどは不明だが、今後機会があれば実際483mピークに行き、現地に堀切や土塁があるか確認したいと思った。
10:29、「玉縄城跡」を一通り見て回り、下山を開始した。
10:37、登山口に戻った。約30分で往復でき、会津川口駅から往復しても1時間ほどで済むため、「玉縄城跡」は魅力的な観光コンテンツだと思った。
「玉縄城跡」登山口入口から少し坂を上り、県立川口高校の校門から校舎や校庭を眺めた。
福島県の山間部教育を担う重要な高校の一つで、小規模校の特色を生かした“全国学区”の「地域みらい留学」も実施している。*参考:福島県立川口高校「川口高校 地域みらい留学プロジェクト」/文部科学省「学び続ける高校プラットフォーム」生徒が輝き、教職員も輝く。山間僻地からの挑戦
10:42、坂を下り国道252号線に入り、会津川口駅前を通過し、次の目的地「尻吹峠」に向かった。
国道252号線から、右に曲がり国道400号線に入った。急坂を自転車を押しながら進むと、前方に「玉縄城跡」のある双耳峰が見えた。
上町の住宅街を抜けると、前方に金山小学校入口を示す看板が見えた。
国道を左折し町道川口太郎布線に入り、100mほど進むと金山小学校が見え、通り過ぎた。
町道は林の中に延び、上り坂になった。
坂の傾斜は増し、自転車を押しながら上った。途中、右側(西)が大きく開け、山並みが見えた。
カメラをズームにすると、「玉縄城跡」本丸の案内板があった場所が確認できた。
途中から未舗装になった町道をしばらく進むと、前方が大きく開け、車が見えた。
11:10、只見線の撮影ポイント“大志俯瞰”に到着。3台の車両と3人の“撮る人”がいた。車のナンバーを見ると、会津、白河、宇都宮だった。
平場の先に立ち、大志集落を見下ろした。秋に訪れるのは初めてだったが、素晴らしい眺めだと改めて思った。
この“大志俯瞰”は、この町道を進んだ一段高い場所の2箇所あるが、上段は送電線が入り込むため、只見線の列車が大志集落の背後を駆ける姿は下段の方が良く、“撮る人”はここに集中する。*下の写真は上段からのもの
“大志俯瞰”を後にし、坂を上りきって、町道のほぼ平坦な直線道を進んだ。
途中、“遷座三峰”の第一座で、“会津”の名の謂れとなる伝承を持つ「本名御神楽」(1,266m、同49座)と「御神楽岳」(1,386.5m、新潟百名山)の山塊を中心に、雪食地形の山肌をともなった奥会津らしい山並みが見えた。
11:25、緩やかな坂が終わり、平坦になった急カーブ先に、水道施設が見えた。「尻吹峠」の町道の最高点に到着した。
「尻吹峠」は、「日本山名事典 <改訂版>」(三省堂)に、次のように記されている。
しりふきとうげ 尻吹峠 (高)580m
福島県大沼郡金山町。只見線会津川口駅の東1km。会津若松から横田・六十里越・八十里越で越後に通じる沼沢街道の難所の一つ。道が険しく、谷から吹き上げる風が強いのでこの名がある。
*出処:「日本山名事典 <改訂版>」(三省堂、p526)
また、「新版 会津の峠」という書籍には、次のように記されている。
尻吹峠の名前の由来は、川口から荷物を背に急峻な直登の山道を行く時、前を行く人の尻を吹き上げる程きつい急な坂道であったことから名付けられたと地域では伝えている。
また、この峠は冬期間風が強く、雪が吹き飛ばされるので、冬でも雪がなく、通行できる道であるが、ひとたび御神楽颪(みかぐらおろし)の風が吹くと、人馬の尻を吹き抜け、進めなくなったことから、誰言うことなく尻吹峠の名前がついたという。
*出処:「新版 会津の峠(下)」(笹川壽夫編著、歴史春秋社刊) p163
さっそく、水道施設の柵に自転車を立てかけ、「尻吹峠」の四等三角点に向かった。熊鈴を身に着け、笛を大きく鳴らし、水道施設の斜面を越えて林に入った。
序盤、スギ林は幼木が多いためか見通しが良く、根元に他の植物がなかった事もあり、歩き易くクマの出現も気にならなかった。
ただ、傾斜が増し、前方にピークが見えてくると、スギ林の根元に籔が広がった。
そして、藪が濃くなり、漕ぎながら進むことになった。ここで、再び、熊鈴を鳴らし、笛を吹き、「北大クマ研」の“ポイポーイ”を連呼しながら進んだ。
尾根に乗っているようで、進む方向に不安はなかったが、藪のは背丈を越えるものも出てきた。夏場の繁茂期は、大変なルートだと思った。
11:33、ピークと思われる場所に到着。一見して、三角点標石は無かった。
足元を見ながら、しばらく三角点標石を探すが見つからず、スマホで四等三角点「尻吹峠」の座標を調べ、GPSに入力して探索を再開した。*四等三角点「尻吹峠」(603.9m):基準点コード:TR45639144301 *出処:国土地理院地理院地図「基準点成果等閲覧サービス」URL:https://sokuseikagis1.gsi.go.jp/)
...標石を探すこと、40分。結局、三角点標石を見つける事はできなかった。只見線沿線で登山を始めてから7年、山頂が雪に埋もれた「洞厳山」(1,012.9m、三島町)以外で、三角点標石が見つけられなかったのは初めてだった。
残念だったが、鋭角峰ではなく、登山者の出入りが少なく山頂が森林限界地ではない山は、三角点標石が埋もれてしまっていることもあり、容易に見つけられない事もあることを学んだ。
12:13、四等三角点「尻吹峠」がある場所(山頂)と思われる場所を、後ろ髪惹かれる思いで離れた。
5分ほどで水道施設に戻った。
途中、振り返ってアザキ大根の群生で有名な太郎布高原(上野原台地)と、その背後に「前山」とともに会津百名山81座を構成する「惣山」(816.3m)を眺めた。*参考:拙著「金山町「太郎布高原 アザキ大根畑」 2018年 初夏」(2018年6月2日)
町道川口太郎布線は砂利道から舗装道に変わり、前方に青い道路案内標識が見え、県道237号(小栗山宮下)線に突き当たった。左折し、宮下方面に向かった。
まもなく、町の若者交流センター「あすなろ館」が見えた。
「あすなろ館」の背後にある、「フェアリーランドかねやまスキー場」の東の廃ゲレンデに到着。
12:28、ウォータージャンプ台の脇に行き、自転車を担ぎ廃ゲレンデの登坂を開始した。
計画では、この廃ゲレンデ登坂後に、「フェアリーランドかねやまスキー場」の最高点から三等三角点「早坂」を経て、「早坂峠」道を通り「玉梨八町温泉」に抜けようとしていた 。15時35分に会津川口駅を出発する列車に乗るため、廃ゲレンデ登坂に30分、三角点「早坂」と「早坂峠」の踏破を1時間とし、「玉梨八町温泉」の共同浴場で軽く汗を流してから15時20分にはに駅に到着し自転車を収納しなければならなかった。
ウォータージャンプ台を過ぎると、背丈ほどの高さに迫る雑草が繁り、行く手を塞いだ。カボチャのような植物のツルは何度も自転車に引っ掛かり、なかなか前に進まなかった。
そして雑草群にはカヤも加わり、密集度はさらに増した。『引き返した方が良いかも』と一瞬頭をよぎったが、“検証登山”で一生に一度の経験になるだろうと思い、先に進んだ。
自転車の重量は約10㎏で担ぐのは苦にならなかったが、ツルやカヤは容赦なく車体に絡まった。
(後で気づくのだが、この時は車体に取り付けていた輪行バッグのケースは、あった)
さらに、途中から雑草に加え、灌木を避けながら登り進む事になった。
灌木は無造作に越えるわけにはゆかず、自転車が通れるスペースを探して通り抜けた。
廃ゲレンデの猛ブッシュは、途切れることがなく、体力を大きく消耗した。
13:32、振り返ると、「惣山」と「前山」が見えた。登坂開始から1時間を超えたが『「惣山」と「前山」が見える高度に達したならば、もう少しでこのブッシュを抜けられるか』と期待した。
しかも、陽が届くようになり、さらに期待したが...
期待は大きく裏切られ、まだまだ猛ブッシュは続いた。
廃ゲレンデの全長は約500m。30分で登り終えると考えていたが、1時間30分を越えても、猛ブッシュから抜けられなかった。2021年11月の「笠倉山」登山では、無葉期ながら濃い籔と太い逆木に苦しめられたが、今回は自転車を携えていることもあり、その時以上に体力と気力を使った。*参考:拙著「只見町「笠倉山」登山 2021年 紅葉」(2021年11月13日)
(...後で写真を見返し、この時点で輪行バッグは無くなっていた事が分かるのだが、この時は疲労困憊でその変化に気づくことは無かった)
14:18、リフトの支柱に到着すると、太陽がほぼ正面になった。
14:22、気力を振り絞り、猛ブッシュを掻き分けてゆくと、前方が開けた。やっと猛ブッシュを抜け、“苦行”から解放されたと心底ホッとした。
そして、振り返って、ゲレンデと猛ブッシュの境を眺めた。達成感は無く、検証のためとは言え2時間も掛かった時間と体力の浪費に、一瞬虚無感に襲われた。
気合を入れ直し、ゲレンデのピークに向かって少し歩いた。そしてピーク手前で振り返ると、「前山」と「高久原山」(1,004m)の間に、「洞厳山」(1,012.9m)山塊と「高森山」(1,099.7m、会津百名山58座)の一部が見えた。
14:28、フェアリーランドかねやまスキー場の、最高点付近に立つ案内板前に到着。
ゲレンデのピークから西側の眺望。見晴らしは良くなかったが、かなり高い位置にいるなと実感できる場所だと思った。
一気に時間に余裕がなくなり、「早坂峠」と「玉梨八町温泉」は断念し、三等三角点「早坂」に向かい標石には触れる事にした。地理院地図では、リフト終点のゲレンデを挟んで北にある小高い“山”に三角点「早坂」はあるようだった。
そこでスマホを取り出し、三等三角点「早坂」の座標を調べGPSに入力し、向かうべき方向を確認しその場所を目指した。*三等三角点「早坂」(775.1m):基準点コード:TR35639142301 *出処:国土地理院地理院地図「基準点成果等閲覧サービス」URL:https://sokuseikagis1.gsi.go.jp/)
“山”に登ると、平尾根が続いていた。さっそく、GPSを頼りに三角点標石を探し始めた。
...列車の発車時刻が迫る中、GPSを見ながら平尾根の高い場所を探すが、一向に三角点標石は出てこなかった。結果、「尻吹峠」に続き、ここでも三角点標石探索を諦めた。
今回、踏破が叶わなかった「早坂峠」は、「日本山名事典 <改訂版>」(三省堂)に、次のように記されている。
はやさかとうげ 早坂峠 (高)730m
福島県大沼郡金山町。只見線会津川口駅の南東3km。北東2.5kmに沼沢湖がある。
*出処:「日本山名事典 <改訂版>」(三省堂、p847)
「新版 会津の峠」には、次のように記されている。
早坂峠は、太郎布から八町へ抜ける間道の峠で、近道の意で付けられたという。今は山菜採りや、途中の畑への農作業に利用する位で、人の通りは限られている。近年までは牧場として、地元の人々に親しまれてきた峠である。下り坂の途中に大きなトチの木があり、傍らには清水が湧き出し、往来する人々の休み場となっていた。...(以下、省略)
*出処:「新版 会津の峠(下)」(笹川壽夫編著、歴史春秋社刊) p162
14:43、“山”を下り、ゲレンデのピークから、自転車にまたがり会津川口駅に向かった。このピークまでは車両の轍が下方から続いていて、それに沿って急坂を下った。
周囲を取り囲む景色は高度が下がるにつれて、刻々と変わった。轍がついた“道”はゲレンデの作業道のようで平坦に近かったが、一部には凹凸が激しい場所があり自転車は大きく揺れた。
14:53、ゲレンデの作業道が終わり、県道237号線が見えた。
「玉縄城跡」、四等三角点「尻吹峠」、三等三角点「早坂」を巡る山行が終わった。
「尻吹峠」と「早坂」の三角点標石を探せなかったのは残念だったが、良い天気に恵まれ色付いた山々を見ながらのトレッキングは、自転車を抱えての廃ゲレンデ登坂以外は、楽しかった。
各山と“只見線百山”について。
「玉縄城跡」は、会津川口駅から近く徒歩移動が可能で、「第六只見川橋梁」のビューポイントもあることから、“只見線百山”に入れるべきものだと思った。登山道や案内板も整備されていて、老若男女を問わず負担無く楽しめる場所だった。
四等三角点「尻吹峠」は、途上に“大志俯瞰”(ビューポイント)があり、町道の最高点から三角点標石までは距離が短い事から、「早坂峠」と「玉梨八町温泉」を経由した周回登山(トレッキング)に組み込むという前提で、“只見線百山”に入れても良いと感じた。
そして、今回は行けなかった「早坂峠」とセットの三等三角点「早坂」は、スキー場の頂点にあり、周辺地からの眺望はまずまずなので、“只見線百山”として及第点だと感じた。登坂は廃ゲレンデは避け、①県道237号線からゲレンデ作業道を登る、②廃ゲレンデ前を通り過ぎ県道237号線を太郎布方面に少し進み「早坂峠」道から登り三角点に立ち寄る、というルートが良いと思われた。この2ルートについては、今後現地を歩き検証したい。
二次交通について。
会津川口駅を起点とした周回距離が15kmになるものの、「玉縄城跡」・四等三角点「尻吹峠」・三等三角点「早坂」の3座は、只見線のビュー(撮影)ポイントもあることから、楽しくトレッキング(徒歩)できると思われる。
「早坂峠」を経由して「玉梨八町温泉」に行けば、温泉に浸かり山行の疲れを癒す事が可能にもなる。しかも「玉梨八町温泉」にはバス停があり、18時14分発のバスに乗れば、会津川口駅発の只見線上下線の最終列車に連絡する。宿泊も可能で、「玉梨八町温泉」には恵比寿旅館、小栗山地区には民宿朝日屋がある。
「玉縄城跡」・三等三角点「尻吹峠」・三等三角点「早坂」の3座を巡るトレッキングコースは、会津川口駅を起点に一日をかけて楽しめる、魅力ある“只見線百山”になり得ると感じた。今後、「早坂峠」から「玉梨八町温泉」に下るルートを確認し、その検証をしたい。
左折し県道237号線に入り下り始め、10箇所を越えるヘアピンカーブを抜けて、小栗山地区で国道400号線にぶつかり丁字路を右折した。
...ここで駅に着いてから自転車を収納し列車に乗るまでの段取りを考え、フレームに取付けていた輪行バッグを触ろうとしたが、無くなっている事に気付いた。『やってしまった!』と大いに焦った。廃ゲレンデの猛ブッシュを抜けた記憶を振り返ると、自転車を絡みついたブッシュから強引に引き抜く時に輪行バッグが藪かカヤに引っ掛かって外れたようだった。
自転車は輪行バッグに収納できなければ列車に持ち込む事はできないため、会津川口駅に置いてゆくしかなかった。ただ、少しでも軽くと鍵を持ってこなかったため施錠はできない。『どうしたのものか...』と考えながら駅に向かった。
15:05、会津川口駅に到着。駅前には観光バスが停まり、駅舎内は観光客で賑わっていた。
自転車は、結局、両車輪を外して駅のそばにある「みんなのトイレ」の軒下に置いて、車輪軸に差し込むクイックレリーズを持ち帰る事にした。
自転車の“仮置き”を終え、駅前の加藤商店で食料等を調達してから、賑わう駅舎を抜けてホームに向かった。
15:24、多くの観光客がカメラを構える中、会津若松行きの上り列車が2両編成(キハ110+キハE120形)でやってきた。車内は立客もいる混雑ぶりだった。
列車が停車すると、降りる方もそこそこいて、私は先頭車両に乗り込むと空いたロングシートの端に座った。そして、遅い昼食を摂りながら、ビールを呑んだ。「尻吹峠」と「早坂」の2つの三角点標石に触れられず、登頂祝いとならず、苦い一杯だった。
15:42、交換を行う小出行きの下り列車が遅れたため、会津若松行きは定刻をわずかに過ぎて会津川口を出発した。
車内の大半は観光客で、列車が只見川と交差または並行する度に、彼等は車窓に近づき『うわぁ~』『きれいっ!』などと歓声を上げながら見入り、写真や動画を撮っていた。若い客が多かったのも印象的だった。
車内を賑わわせていた観光客はツアー客だったようで、その多くが会津柳津駅で降りた。そして、七折峠を越えた列車は、日暮れた会津平野に入った。
会津坂下を出てまもなく、進路を南に変え若宮、新鶴、根岸と進むと西部山地の稜線際の茜色と空の群青が、徐々にはっきりとした層となった。“高田 大カーブ”の手前では伊佐須美神社“遷座三峰”「明神ヶ岳」を頂点とする稜線が浮かび上がり、美しかった
17:24、列車は終点の会津若松に到着。3番線に入線し、向かいの2番線に磐越西線郡山行が停車していたため、ホームは混雑した。
(了)
*追記(2023年11月6日)
会津川口駅に仮置きした自転車。4日後(11月9日)に只見線の乗る計画を立てていたため、その時に回収しようとした。しかし施錠していない事を考え、思い直して旅が終わった翌日(11月6日)に仕事が終わってからレンタカーで会津川口駅に向かい、回収した。
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*参考:
・福島県:只見線ポータルサイト
・福島県・東日本旅客鉄道株式会社 仙台支社:「只見線全線運転再開について」(PDF)(2022年5月18日)
・福島県:平成31年度 包括外部監査報告書(PDF)(令和2年3月) 「復興事業に係る事務の執行について」 p140 生活環境部 生活交通課 只見線利活用プロジェクト推進事業
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①福島県ホームページ:只見線復旧復興基金寄附金・只見線応援団加入申し込みの方法 *現在は只見線ポータルサイト「只見線応援団」URL:https://tadami-line.jp/support/
②福島県:企業版ふるさと納税
URL:https://www.pref.fukushima.lg.jp/sec/16005g/kigyou-furusato-zei.html
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以上、宜しくお願い申し上げます。
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