昭和村・只見町「吉尾峠」トレッキング 2023年 紅葉

私選“只見線百山”候補の検証登山。今日は、「会津銀山街道」の“四峠”の一つで、昭和村中向口と只見町布沢口を結ぶ「吉尾峠」を越えようと、JR只見線の列車を利用して現地に向かった。

 

「会津銀山街道」は(会津)若松城下と(会津)沼田街道(現国道289号線の一部)上にある小林(只見町)を“バイパス”する形で最短路で結んでいた。*下図出処:福島県南会津建設事務所「歩く県道 地域づくりニュース」(令和2年度 Vol.1)より抜粋

当時は若松城下と奥会津地域を経て上州・沼田を結ぶ最短路で多くの往来があり、軽井沢銀山で精錬された銀などの物資が通る主要街道だった。*下図出処:福島県会津若松建設事務所「会津銀山街道地図」/ 参考:福島県 生活環境部 自然保護課「ふくしま尾瀬」【第9回】尾瀬の一番古い道「会津沼田街道」

「会津銀山街道」の“四峠”とは、若松城下~①銀山峠~②石神峠~③美女峠~④吉尾峠~沼田街道・小林(現 只見町)を指している。このうち「銀山峠」と「美女峠」は「会津百名山」になっている。


現在、「会津銀山街道」の大半が県道だが、車両の走行ができない未成区間がこの“四峠”になっている。県はこの未成区間を全通させようとし工事を進めたが断念し、「銀山峠」「美女峠」「吉尾峠」を“歩く県道”として整備する作業(道普請)が行われている。*下図出処:福島県 南会津建設事務所 (上)「地域づくりニュース 令和2年度 Vol.1 歩く県道 会津銀山街道 吉尾峠」/ (下)「地域づくりニュース 令和3年度 Vol.1 歩く県道 会津銀山街道 吉尾峠」


今回は、道普請がされていることもあり、会津川口駅からレンタルサイクルで移動し、昭和村の中向口から「吉尾峠」越えを開始し、只見町の布沢口に抜ける計画を立てた。布沢口からは松阪峠を越えて会津横田駅に移動し、そこから只見線の列車に乗って帰途に就くことになる。

昭和村、只見町を含む奥会津の天気は晴れ。紅葉はまだ見頃だろうと期待し、現地に向かった。

*参考:

・福島県:只見線ポータルサイト

・福島県・東日本旅客鉄道株式会社 仙台支社:「只見線全線運転再開について」(PDF)(2022年5月18日)  

・福島県:平成31年度 包括外部監査報告書(PDF)(令和2年3月) 「復興事業に係る事務の執行について」 p140 生活環境部 生活交通課 只見線利活用プロジェクト推進事業

・拙著:「次はいつ乗る?只見線」カテゴリ -只見線の秋- / -只見線沿線の“山”(登山/トレッキング)-

 

 


 

 

今朝、郡山駅から磐越西線の始発列車に乗った。

切符を購入し、1番線に向かい待機中の列車に乗り込んだ。

5:55、会津若松行きが郡山を出発。 


沼上トンネルを抜け会津地方に入ったも好天は続いた。猪苗代を出ると、山頂に雲を載せた「磐梯山」(1,816.2m、会津百名山18座)が正面に見えた。*参考:拙著「猪苗代町「磐梯山」山開き登山 2023年 春」(2023年5月28日)

 

 

7:11、途中駅で高校生を乗せ混雑した列車は、会津若松に到着。生徒が一斉に改札に向かっていった。

私は一旦改札を抜け切符を購入してから、再び改札を通り只見線の4ー5番線ホームに向かった。

 

ホームにはすでに10名ほどの客が列を作っていて、そこに折返し運転となる列車が入線してきた。キハE120形+キハ110の2両編成だった。

 

この列車は会津川口発の上り1番列車で、停車すると多くの高校生が降りた。

乗客が降りてから、後部車両(キハE120形)に乗り込み席を確保してから、連絡橋に上り写真を撮った。駅は薄霧に包まれ、右奥(北東)の「磐梯山」は稜線が微かに見えるだけだった。

 

 

7:41、只見線・会津川口行きの列車が、会津若松を出発。七日町西若松で高校生を中心とする客を乗せ、車内は混雑した。

 

大川(阿賀川)を渡った。上流側の「大戸岳」(1,415.9m、同36座)の山塊も霞んで稜線がうっすらと見えた。*参考:拙著「会津若松市「大戸岳」登山 2022年 春」(2022年5月4日)

  

会津本郷出発直後に会津若松市から会津美里町に入り、会津高田では県立会津西陵高校の生徒が多数降りた。昨年、最寄りの大沼高と、会津坂下駅が最寄りの坂下高が統合した会津西陵高の開校で、当駅の朝夕の賑わいと活気が増した。

 

会津高田を出て、“高田 大カーブ”でを抜けて進路が真北に変わり田園地帯に入ると、列車は濃霧の中を駆け、根岸新鶴で停発車を繰り返した。

 

若宮から会津坂下町に入り、列車は進路を再び西に変えて会津坂下に停車。上り2番列車(会津川口発)とすれ違いを行った。

列車からは、県立会津農林高校の生徒が次々に降りた。

 

 

6分の停車の後会津坂下を出ると、客は疎らになり車内は一気に静かになった。そして、列車が七折峠を駆け上る頃に、車内検札があった。

昨年10月1日の全線運転再開を機に、只見線の会津若松~只見間はワンマン化したが、時折車掌が乗り込んでいる。今回は平日ながら紅葉期の観光客増で配置されたのだろうと思った。

 

切符は、今回も平日ということで郡山~会津若松間を「Wきっぷ」で利用し、只見線内は別に買う事にした。会津若松~会津川口間は1,170円。

平日の只見線の旅で毎度思うのだが、“只見線フリーパス”は必須だ。2日間有効で3,000円というのが理想だが、福島県の人口集積地である中通りからの旅行者を増やし、沿線の経済効果だけではなく、只見線への県民の“マイレール意識”を高め、“観光鉄道「山の只見線」”を県民によって強固に下支えするためには必要不可欠だ。「只見線利活用計画」を進める福島県は、JR東日本の協力を得て、是非実現させて欲しいと改めて思った。

   

 

列車は会津平野と奥会津を隔てる七折峠に入り、塔寺を経て登坂を終え、会津坂本を出た後柳津町に入る。盆地を覆う霧の上に出たようで、上空には青空が広がっていた。

会津柳津を出発し、郷戸手前で“Myビューポイント”を通過。「飯谷山」(783m、同86座)の色付く山肌が見えた。*参考:拙著「柳津町「飯谷山」登山 2020年 初冬」(2020年12月6日)

 

 

 

滝谷を出発直後には、滝谷川橋梁を渡り三島町に入った。渓谷は色付き、只見線最高の桁下高から見える車窓からの景色は見ごたえがあった。*以下、各橋梁のリンク先は土木学会附属土木図書館デジタルアーカイブス歴史的鋼橋検索

  

会津桧原を出ると、車内では『これから列車は、只見川に架かる橋を渡ります。トンネルを抜けますと、一番有名な「第一只見川橋梁」を渡ります。列車は速度を落とし運行しますので、車窓からの景色をお楽しみください』との車内放送が流れた。

そして、桧の原トンネルを抜ける直後に速度を落とした列車は、「第一只見川橋梁」を渡った。上流側、駒啼瀬の渓谷の色付いた木々は陽光を浴び美しく、その様が只見川の水鏡に映され無二の景観を創っていた。*只見川は東北電力㈱柳津発電所・ダムのダム湖

上流側上方にある鉄塔に向けてカメラをズームにすると「第一只見川橋梁ビューポイント」の最上部Dポイントには、30名を超える人影があった。“撮る人”は、順光で良い写真を得られただろうと思った。

 

会津西方を出た直後には「第二只見川橋梁」を渡った。ここでも“観光徐行”され、ゆっくりと景色を見る事ができた。*只見川は柳津ダム湖

また、上流側には青空を背景に「三坂山」(831.9m、同82座)が綺麗に見えた。*参考:拙著「三島町「三坂山」登山 2020年 晩秋」(2020年11月23日) 

 

しばらくして列車は減速し、「アーチ3橋(兄)弟」の次男・宮下橋を見下ろしながら、長男・大谷川橋梁を渡った。*参考:三島町観光協会(観光交流館からんころん)「『みやしたアーチ3橋(兄)弟』のビューポイント」(2013年6月16日)  URL: https://blog.goo.ne.jp/mishimakankou/e/e93620f5690ee4e3adf6d1124b2f46e5

  

会津宮下に停車すると、小出発の始発列車とすれ違いするために待機した。

会津若松行きの列車が停車。2両編成の車内は混雑していた。

この列車は小出駅5時36分発で、平日ながらこの盛況ぶりに、紅葉期の只見線の“観光力”の高さを感じた。この人の流れを、飲食・土産購入や『また乗り来よう』というリピート意識醸成に結び付けるような「只見線利活用計画」を福島県は実行して欲しいと思った。

  

会津宮下を出た列車は、東北電力㈱宮下発電所の背後と宮下ダムの脇を駆けた後、「第三只見川橋梁」を渡った。上流側の左岸は陽光を浴び、輝いていた。*只見川は宮下ダム湖

反対側の空席に移動し、下流側を眺めた。国道252号線の高清水スノーシェッドの躯体の一部を中心に、「三坂山」の南側斜面は見事に色付いていた。

 

滝原トンネルと早戸トンネルを続けざまに抜けた列車は早戸に停車。町の花・桐の花の紫色の国道252号線の早戸大橋越しに、雪食地形の山肌を持つ山々が綺麗に見えた。*参考:只見町ブナセンター 公式Youtbeチャンネル「雪食地形」 URL: https://www.youtube.com/watch?v=JBzi_I7g7S4 

 

早戸を出た列車は、金山町に入り左に大きく曲がりながら、8連コンクリートアーチ橋の細越拱橋を渡った。

 

会津水沼を出ると、「第四只見川橋梁」を渡った。下路式トラス橋の鋼材が、列車とともに水面に映った。*只見川は、東北電力㈱上田発電所・ダムの下流域で宮下ダム湖。

列車が第四沼田跨線橋を潜ると、只見線ー国道252号線ー只見川が並行する区間になった。

ここは、国道の線形改良工事(水沼工区)で、電柱・電線が地中化され見晴らしが各段に良くなった。只見線車窓からの眺望創出を意図したかは不明だが、事業を行った福島県会津若松建設事務所に改めて感謝した。

  

会津中川を出た列車は大志集落の背後を駆け、終点を告げるアナウンスを受けて減速しながら右に大きく曲がった。振り返ると只見川に突き出た大志集落が見えた。*只見川は上田ダム湖

列車は150mを越える林道の上井草橋(トラスドランガー桁)を潜った。只見川では浚渫土砂を積んだ架台を引いたタグボートが行き来していた。 

 

 

 

 

9:40、列車は快晴の会津川口に到着。

列車から降りた観光客は、周囲を景色を見て歓声を上げたり、写真を撮るなどし、ホームはしばし賑わった。

 

私は駅舎に入り、金山町観光協会が運営する売店でレンタルサイクルの申込みをした。スタッフが1名ということで、物販の対応が済むまでしばらく駅頭で待った。

 

15分ほどで、スタッフから空気圧などを確認し整備を終えた自転車と利用規約を渡された。返却は会津横田駅近くにある商店(ヒロセ)前を指定したため、乗捨時は返却無しの保証金を合わせてレンタル料金は1,500円だった。

 

 

10:15、準備をして、会津川口駅前を出発。借りた自転車は、Panasonic社製「SW」。タイヤは小径で、電動アシスト機能のON-OFFボタンだけがあるシンプルなつくりになっている。

只見線沿線のレンタル自転車の大半は“ママチャリ”型で、旅先で日常感たっぷりのママチャリを借りたいとは思わないが、この金山町の漆黒の「SW」だけは旅先に乗りたい車種になっている。

  

駅前を通る国道252号線から、右折し国道400号線に入り只見川の支流・野尻川沿いを駆けた。電動アシストの威力は大きく、登坂も苦にならなず、スイスイと進めた。

 

10:34、玉梨・八町温泉街を通過。

 

10:44、玉梨スノーシェッドを潜り抜け、小綱木橋の上から野尻川右岸にある「乞食岩」を眺めた。渓谷は紅葉の最盛期で、陽光を浴びていることもあり、素晴らしく美しかった。


10:47、昭和村に入った。

 

野尻川沿いの紅葉の美しい景色は続いた。

綱木橋上からの眺め。

  

野尻二号橋からの眺め、

 

野尻一号橋からの眺め。

野尻一号橋から下流側に目を向けると、今年中に登りたいと考えている私選“只見線百山”候補の「大妻山」(942.8m)が見えた。

会津川口駅から昭和村に至る沿道では美しい眺望は得られるから、自転車での20kmほどの道のりは充実すると改めて思った。紅葉期のみならず、早緑に山花が混じる“山咲き”が見られる早春や青々と草が生い茂る盛夏も良いので、金山町のレンタルサイクルが昭和村でも乗り捨てられるように制度改良されるなどして、多くの観光客が二次交通を利用して訪れて欲しいとも思った。

  

 

11:02、野尻川に架かる山崎橋を渡り、野尻地区に入った。

続いて岩本橋を渡り、野尻川と並行するようになり、会津銀山街道「美女峠」(800m、同85座)の入口前を通った。

立ち止まり、「旧道美女峠遊歩道」の案内板を見た。

新型コロナウィルス対策が第五類に移行したのを受け、「美女峠トレッキング」が4年振りに次の日曜日(11月5日)に、今年は三島町間方地区の「かしゃ猫クラブ」の主催で行われるという。また、柳津町の「銀山峠」では、先月に「第13回 銀山峠歩こう会」が開催されていた。*参考:拙著「昭和村-三島町「美女峠」トレッキング 2022年 紅葉」(2022年10月30日) / 「柳津町「銀山峠」 2018年 紅葉」(2018年10月28日)


「美女峠」入口から少し進むと、「俎倉山」(左)(1,056.4m)と「志津倉山」(右)(本峰1,234.2m、同50座)山塊のこんもりとした山容が見えた。*「美女峠」は「俎倉山」の左(西)側を通っている

 

  

11:11、国道沿いに中向集会所が見え、十字路になった。

この十字路を右折し、県道153号(小林会津宮下停車場)線に入り集落の間を直進し、野尻川に架かる原橋を渡った。

原橋を渡り振り返り、集落越しに「俎倉山」と「志津倉山」の山並みを眺めた。

 

ここ原橋から、会津銀山街道「吉尾峠」に向かって登坂が始まる。印刷してきた国土地理院地図のハードコピーを見て、経路とその傾斜を再確認した。

印刷した標高図が逆で、本来は下図のように、昭和村側は「吉尾峠」まで約3kmで、200mの標高差を登坂することになり、終盤には急坂が待っている。*下図出処:*出処:国土交通省 国土地理院「地理院地図」URL: https://maps.gsi.go.jp/  *「ツール」ー「断面図」で筆者が作成し切り抜き抜粋

 

原橋から少し進むと、「吉尾峠」の案内板が立っていた。

巡見使の道「吉尾峠」のご案内
吉尾峠はかつて奥会津と会津城下を最短で結ぶ主要な街道でした。 戦国時代には伊達軍が、江戸時代には巡見使が、そして戊辰戦争には西軍が越えた歴史の道です。 昭和20年代半ばまで人々が行き交う賑やかな街道でしたが、只見川電源開発事業や高度成長など大きな時代変化の中で道路整備が遅れ、昭和村と只見町は近くて遠い存在になりました。
 
天明8年(1788年)古川古松軒著「東遊雑記」によれば、巡見使の一行が布沢から吉尾峠を越えて野尻に止宿している。吉尾峠について「布沢より山道三里八町といえども四里あまりあり、野尻に止宿。とにもかくにも深山幽谷のみにて、行けば行くほど山深くして、広大なるこということばかりなく、会津百万石といいならわせしこと宜なり。」と記録されている。

  

舗装道を進むと道幅が狭くなり、前方に軽トラックが見えた。

軽トラックが停まっていた場所の先から未舗装道になり、二又に分かれた。

轍の無い右側に進むと、何かに掛けられた青いビニールシートがあり、県会津若松建設事務所の歩く県道事業道普請資材と表示されていた。シートの下は道普請に使う丸太材のようで、「吉尾峠」の作業は今年度も行われているようだった。

 

 

 

 

11:26、二又の分岐から50mほど進み、「吉尾峠」中向口に到着。“吉尾峠入口”と“吉尾峠中向登口”とそれぞれ記された標杭が2本立っていた。

さっそく自転車を押し、県道153号(小林会津宮下停車場)線“歩く県道”区間を「吉尾峠」目指して進んだ。峠路の脇には野尻川の支流・坂下沢が流れていた。

序盤の“歩く県道”は、道幅が広く地面が固く、自転車に乗って進めそうな状態だった。沢には道普請で設置された木橋もあり、快適に歩けた。

前方が明るくなると、鮮やかな紅葉が街道を囲み、良い雰囲気になった。


切通しと思われる狭隘な箇所は、陽が差さないようで、地面はぬかるんでいた。

 

途中、“歴史街道 吉尾峠”と記された板標が立っていた。

 

 

11:33、最初の渡渉をした。沢の幅は狭く、自転車を持ち上げても難なく越えられた。

 

11:34、一里塚の前を通過。

 

11:35、2回目の渡渉。ここは沢幅が広く、難儀した。

 

前方に橋が見えた。

道普請による最近の設置のようで丸太材は白く、全体が浮かび上がって見えた。支柱には“でとよしばし”と記されていた。

 

11:39、3回目の渡渉。ここは、沢幅が狭かった。

11:40、4回目の渡渉。岩の上を慎重に進んだ。

 

沢沿いにあった峠道が洗堀されたのだろうか、道普請による曲線のしっかりとした木道もあった。県の建設事務所が関わっている施工の確かさを感じた。

 

11:46、5回目の渡渉。

渡渉を終え坂下沢の右岸に設えられ、一部が施工途上の木道を進んだ。

すると、前方から鈴の音が聞こえてきた。キノコ採りに来たらしい方の熊鈴だった。挨拶を交わし、すれ違った。

木道が途切れると、頼りない踏み場の区間になった。自転車を担ぎ上げてバランスを取りながら、何とか通り過ぎた。

 

11:52、6回目の渡渉。

 

すこし長めの、ぬかるみもあった。


 

11:55、7箇所目の渡渉点となった。ここは道普請により、大きな手が加えられているようで、新しい丸太材が多く見え、これから使われるであろう材がブルーシートで覆われていた。

この作業の規模を見て、道路工事とまではゆかないが、「歩く県道」の道普請は一種の公共事業として行われていることに感心した。

 

 

12:00、前方に丸太橋が見えた。

近付くと、丸太は苔むし、しばらく使われていないようだった。8箇所目の渡渉点は、このすぐ下流側にあった。

 

坂下沢が直線に延びる場所では、峠道は洗堀されておらず、会津銀山街道が賑わっていた当時のままだろうと思いながら進んだ。

 

12:07、9回目の渡渉。

12:09、10回目の渡渉。ここは沢岸が低く、増水時は靴濡れ必須の場所だと思った。

 

12:11、11回目の渡渉。ここまで、渡渉が連続するとは思わず、都度、電動アシスト付き自転車(約20㎏)を持ち上げて沢を越えるのはきつかった。


細く長いぬかるみを越えて、

 苔むした木道は、利用せず脇を通った。

 

 

12:15、峠路は傾斜を増し、沢がどんどんと下方に見えるようになり、足場は固く歩き易くなった。自転車も難なく押して進められた。

給水できるような小さな清水もあった。


 

標高が上がるにつれて、快晴ということもあり、最盛期の紅葉が陽光を浴び美しく見えた。

 

 

12:21、前方上方に、「吉尾峠」に連なる尾根が見えた。

傾斜が増した峠道は、斜面が崩れて、幅が狭くなったり地面に凹凸ができている箇所もあったが、全般的に歩き易かった。

 

 

12:32、尾根が近付いてきた。

振り返って、上ってきた方角を眺めた。

 

 

12:35、峠道の傾斜は更に増し、枝が覆うような薄暗い場所になった。

近付くと、涸れ沢のような状態だった。雨の日や、雪融けの時期の往来は大変だったろうと思った。

涸れ沢の先には、急坂だが地面が平らな峠路が延びていた。

 

 

急坂を登り終えると、峠道は左に折れ、平らになった。

ヘアピンカーブのように鋭角に右に折れ進むと、まもなく、切土の先に広場が見えた。

 

 

 

12:43、「吉尾峠」に到着。中向口から自転車を押し、時に担ぎながら1時間17分で到達した。

「山の神」前の広場は思いのほか広く、広場の木に立てかけられた標杭には、“銀山街道 吉尾峠”と記されていた。

この標杭の側面には、境界を示すように“大沼郡昭和村”と“南会津郡只見町”とも記されていた。

 

 

 

12:48、5分ほど休憩し、「吉尾峠」布沢口に向かって自転車を押して進んだ。振り返って「山の神」広場を眺めた。「会津銀山街道」“四峠”の中では、最も雰囲気の良い場所だと思った。

 

 

わずかに下り傾斜の峠道を進むと、まもなく開けた空間が現れた。

  

12:56、しばらく進むと、前方に標杭が立っていた。

標杭には“吉尾集落跡”と記されていた。左側(南)は平地になっているが、峠道から少し低い位置にあり、全体がアシに覆われて集落があったと思わせる痕跡は見つからなかった。

「吉尾集落」について、「会津の峠(下)」の「吉尾峠」の項には、次のように記載されている。

 吉尾峠は、(中略)六四二mを乗越す高地の峠である。
 この乗越しから、およそ三〇〇mほど西側に下った海抜六三〇mの平場に、五戸の小さな集落があった。棟数は六棟で、一棟は小学校の分校であった。ある時期には、三八人の吉尾人口を数えたこともある。いわなの群生。天然の舞茸、しめじ、ワラビ、ぜんまいと、自然豊かさを感受する五戸の集落であり、民族と歴史の豊富な集落を感じさせる。...(中略)...
 吉尾集落五戸の人々は、この(*昭和44年8月)大洪水により、生活の根拠を失い、元弘三年(一三三三年)先祖の開いた土地を捨て、昭和四十五年離村する。...(以下、省略)
*出処:新版「会津の峠(下)」(笹川壽夫編著、歴史春秋社刊) p144~146

 

峠道は刈り払いされ、広い歩行空間が確保されていた。地面は多少凸凹していたが、無理なく自転車を押して進めた。

 

13:03、墓地が現れた。驚いたことに、一つ、真新しい墓石があった。

刻まれた永眠の元号は、他の墓石が大正や昭和だったが、その御影石の艶やかな墓石は平成六年となっていた。

この平成六年に享年八十八歳で亡くなられた方の名に見覚えがあり、帰宅後に「会津の峠(下)」をめくると、次のような記述があった。

当時海抜六三〇mの高地に、妻子とともに優雅に暮らしてきた長老故小林桂氏(明治四十一年生)の書いた、『故郷の興亡記』には、次のようなくだりがある。
「昭和四十四年八月十二日暁方、異様な雰囲気の夜明けを感じて目覚めた。雷鳴とともに四方の山々は、一面の滝と霧で、大河となって流れる。...(以下、略)」 
*出処:新版「会津の峠(下)」(笹川壽夫編著、歴史春秋社刊) p145

“長老小林桂氏”は、生まれた吉尾集落に眠りたいと、遺言したのだろうと思い、故郷を想う人間の性を考えさせられた。合掌。


 

墓地を過ぎると、地面に小さな凹凸が続くようになった。

足場は少し悪くなったが、自転車を押して歩き進むのは気持ち良い空間だった。

途中、立ち止まって振り返り、当時の吉尾集落での生活を思い描いた。

 

 

先に進んだ。

幅広の沢には橋が架けられていた。冒頭に載せた「歩く県道 地域づくりニュース」で紹介されていた道普請による、川張沢(下掲左、令和2年設置)とコゴミ沢(下掲右、令和3年設置)に架けられた丸太橋は大きく、目立っていた。

また、真新しい材料で作られた横断側溝や、途中から峠道脇に姿を現した布沢川沿いに強固な土台を築いた木橋も見られた。

 

13:17、吉尾木地師集落跡前を通過。

この「木地師集落」についけ、前掲の小林長老は次のように書き残しているという。

...(前略)七〇年余続いた木地屋敷は、良材を使い果たし、大正年代頃に立ち退き、子孫が、舘岩と昭和にいる。この木地後は、宮ノ沢出口に石段が残っている。木地屋敷と吉尾の付き合いはほとんどなく、独自の生活をしており、言葉も違っていた。一家で十数人の家もあり、博士峠を越えて、木地を運んでいた。...(以下、省略)
*出処:新版「会津の峠(下)」(笹川壽夫編著、歴史春秋社刊) p146

  

峠路の真ん中に、一里塚のようなこんもりとした土の山もあった。

 

 

13:20、布沢川が峠道を分断し、渡渉となった。通算12箇所目だった。ナメ床で水深はさほどなかったが、自転車を担いで進んだため、靴に水が浸透する前に足を進めるわけにはゆかず、しっかりと濡れてしまった。

渡渉の後は布沢川左岸を進んだが、“道”の痕跡は無く、濡れずに済む場所を探しながら、自転車を担ぎ進んだ。

『ここは峠道とは言えないな...』と思い進むと、標杭があり「座頭泣せ」とあり、側面に“越後から来た座頭が沢に入り登り口がわからず泣いた”と記されていた。

「座頭泣せ」を振り返って眺めると、雪融けや雨の増水で水量が多かったら、峠道ではなく川に見え、一見の旅人は困るだろうと思った。

 

 

「座頭泣せ」の先には、結果最後になった、13箇所目の渡渉点となった。布沢川の真ん中付近にある巨岩の上には自転車を担いで難なく飛び乗ったが、その先は足場がなく、足を濡らして対岸に渡った。

 

最後の渡渉を終え、少し進むと上り坂になり、平場に続いていた。

坂の途中で見上げると、「吉尾峠」と記された板が標杭に立てかけられていた。

 

 

 

13:28、「吉尾峠」布沢口に到着。平場は、大型バスも停められるほどの広さだった。

「吉尾峠」と記された板を移動し、自転車を一緒に撮影。「山の神」広場から40分で到着し、中向口~布沢口間を1時間57分で踏破した。 

「吉尾峠」越えは、登山だった。

峠道ということで、自転車を携えてのトレッキングは可能ではと気軽に考えていたが、想像以上の急坂と十を超える渡渉があり、道普請も作業途上ということでかなり大変だった。

ただ、見頃を迎えた山々の紅葉は美しく、吉尾集落跡地という歴史風景も見られ、「吉尾峠」越えは充実した楽しいものになった。現在進行中の道普請がひと段落すれば、「吉尾峠」は素晴らしいトレッキングコースになるだろうと思った。

「吉尾峠」は“只見線百山”に入れるべきで、峠道が整備された現在では、「銀山峠」と「美女峠」と同じく「会津百名山」になってもおかしくない質と“格”をもっている、と今回の山行を通して感じた。

 

只見線を利用した「吉尾峠」越えは、昭和村側には会津川口駅から路線バスがあるため問題ないが、只見町側は布沢口から定期運行バス「自然首都・只見」号が走る国道289号線まで10km以上離れているため、二次交通を確保しなければ難しい。

体力に自信がある方は、自転車を担いで(時に押して)峠越えするという、今回私が採った手段がある。10㎏程度のロードバイクならば、負担なく「吉尾峠」越えができるだろう。

他、老若男女を問わず広く只見線利用者が「吉尾峠」を越えるためには、新たな企画(サービス)が必要だ。バスで送迎される“吉尾峠越えイベント”や、レンタルサイクルを布沢口にデポしてくれるサービスなどが考えられる。

 

只見線の南を、同じような線形で延びる「会津銀山街道」のトレッキングは、“観光鉄道「山の只見線」”のキラーコンテンツになり得る、と銀山・石神・美女・吉尾の“四峠”踏破を経験し思った。体験型の観光(アクティビティ)は滞在時間が延び、宿泊や食事などの消費を沿線にもたらしてくれる。「只見線利活用計画」を進める福島県は、地元と連携した道普請を継続するとともに、只見線乗車を絡めた「会津銀山街道」トレッキングイベントの開催を地元に提案し、開催して欲しいと思った。

 

 

「吉尾峠」トレッキングを終え、会津横田駅に向かった。

「吉尾峠」布沢口からは自転車に乗った。800mほど進むと砂利道から舗装道に変わり、先に木製の案内板などが見えた。

「恵みの森」入口だ。この「恵みの森」も、私選“只見線百山”の候補に入れているが、ナメ床の大きな川底を歩けるなど、うまい森の空気を吸いながら沢歩きができる、すばらしいトレッキングコースがある。*参考:拙著「只見町「恵みの森」 2018年 晩夏」(2018年9月2日)


舗装道となった県道153号線を、自転車で快調に下った。途中、上り坂もあったが電動アシストで難なく越えられた。

 

13:49、夕沢集落を通過。

続いて浮島集落を抜け、布沢川に架かる浮島橋を渡った。

浮島橋の先は、県道352号(布沢横田)線の分岐になった。鋭角に右に折れて、“大型車両通行止め”の工事用看板が立てかけられた脇を通り、県道352号(布沢横田)線を「松坂峠」に向かって登坂した。

只見側の県道352号線は、マイクロバスが余裕で走行できる幅となっていた。


 前方に、赤い横断幕と木製の案内板などが見えた。

「癒しの森」の入口だ。この「癒しの森」も、私選“只見線百山”の候補に入れている。トレッキングコースは短いが、美しいブナの巨木に出会える森になっている。*参考:拙著「金山町・只見町「癒しの森」 2017年 初夏」(2017年6月24日)



14:04、金山町に入った。

 

「松坂峠」の頂を越え、県道は下り坂に入った。色付いた木々は、陽光を受け輝きを放っていた。

 

工事現場を通過。カーブを緩くする道路改良が行われているようだった。

 

「松坂峠古戦場」を通過。

 

「癒しの森」の金山町側の入口前を通過。

 

東北電力㈱伊南川水力発電所の導水管を、左に見ながら通過。

 

 

14:21、前方に鮭立集落が現れた。

“鮭立(サケダチ)”とは珍しい地名だが、日本海から阿賀野川(福島県に入ると阿賀川)、只見川と遡上してきた鮭が支流の山入川に入るが上流に行くにつれて浅くなり、鮭が立往生してしまい、後ろからやってくる鮭に押し出され立ち上がったように見えたため、とも言われている。*出処:tabi&photo-logue 「私の書棚:「いろりばた」63号」URL:https://tabilogue.exblog.jp/21461331/ 


藤倉沢に架かる橋から南に目を向けると、私選“只見線百選”の候補に入れている、「打越山」(872.2m)の一部と北東に延びる稜線が見えた。

今回の「吉尾峠」トレッキングでは、当初、『「吉尾峠」を1時間ほどで越え、「打越」経由で鮭立地区に抜けようか』と思ったが、1時間では踏破できないと分かり、過去に通ったことのある「松坂峠」経由に変更していた。「打越」とは「打越山」の南西にある峠で、松坂峠と並んで江戸時代には田島代官所の一行が通っていたと言われている。

 

県道から少し入ったところにある「鮭立摩崖仏」に立ち寄った。会津地方唯一の磨崖仏で、2度目の訪問だった。

斜面を上り、摩崖仏保護のために設けられた“小屋”に向かった。

かつてこの付近は山伏修行の場で、この摩崖仏は法師・宥尊の作と言われている。この摩崖仏で特筆すべきは全国に3体のみが確認されている「深沙大将」で、ここでは大蛇を肩にかつぎ胸の前で支えている御姿が確認できる。

 

「鮭立摩崖仏」を後にして県道352号線を下り、10分ほで只見線の山入川橋梁が見えてきた。

橋梁を潜ると、前方に先日登った「田代山(高森山)」の尖った山頂が見えた。*参考:拙著「金山町「田代山(高森山)」登山 2023年 晩夏」(2023年9月10日)

 

 


14:40、県道353号線を左折し国道252号線を只見方面に進むと、まもなくレンタルサイクルの返却場所となる㈱横田タクシーに到着した。

無事に返却手続が終わり、横田タクシーの向かいにある「ヒロセ(滝沢商店)」で遅い昼食の買い物をした。

 

買い物を済ませ、歩いて駅に向かった。

  

14:52、「ヒロセ」から5分とかからず、会津横田駅に到着。

ホームの上って待合室を見ると、まだ立入禁止のままだった。壁材落下の危険性があったため、上下分離でこの駅舎を保有する福島県が改修工事を進めている。

 

 

ホームで10分ほど待つと、汽笛が聞こえ徐々に車輪がレールを駆る音が大きくなり、カーブの先にキハE120形の先頭車両が顔を出した。

 

会津若松行きの列車が、キハE120形+キハ110(タラコ色)の編成で入線した。

ワンマン運転のため、乗車口となる1両目後部ドアに移動するが、車内の見て唖然。通路に立ち客があふれ、超満員だった。

 

乗り込んで両方の車両を見渡すが、首都圏の通勤・通学時間帯の列車を見まごうばかりの混雑ぶりで、車内は人いきれで熱気であふれていた。

今日は平日ということで、座れないことはないだろうと高をくくっていたが、只見線の紅葉期の混雑に福島県によるツアーへの補助などの誘客策が重なった効果は想像を超えていた。この混雑は喜ばしいことだが、ゆったりとした気分でのんびりと景色を眺められる、という客が抱いていたであろう期待に添えたかどうか不安にもなった。只見線に指定席をもった専用観光列車の導入は、喫緊の課題だと痛感した光景だった。


15:02、列車が会津横田を出発。切符は事前に購入していた。

 

15:15、会津越川を出た列車は、只見線(135.2km)中間点を示す看板(ここが、只見線の真ん中だ!)の前を通過した。

 

15:18、本名に停車。ホーム反対側にはざる菊が並んでいた。

 

15:25、会津川口に停車すると、台湾からのツアー客と思われる方が、大勢降りた。両方の車内にはスペースの余裕が生まれたが、それでも席は埋まったままで、立ち客の姿も目立った。

ちなみに、向かい側のホームには会津若松13時05分発・小出行の2番列車がすれ違いのため停車していたが、こちらも満席で立ち客も多かった。

 

15:35、会津川口を出ると、只見川(上田ダム湖)を下る浚渫工事のタグボードが、まだ作業をしてた。只見川(ダム湖)の浚渫は、只見線の安全性にもつながる大切な工事だ。作業の確かな進捗と安全を願った。

 

私は結局座ることができず、車両の隅に立ち、ようやく「吉尾峠」踏破祝いをした。「ヒロセ」で購入したビールは冷たく、旨かった。

 

 

車内が少し空いたことで、車窓に近づくことができ、只見川に架かる橋を中心に眺めた。

会津中川を出て会津水沼手前で、「第四只見川橋梁」を渡った。

 

金山町から三島町に入り、早戸を経て「第三只見川橋梁」を渡った。

 

会津宮下でツアー客を乗せた後、「第二只見川橋梁」を渡った。

 

会津西方を出て「第一只見川橋梁」を渡り、只見川の渡河を終えた。

 

 

会津桧原滝谷郷戸を経て、列車が会津柳津に到着すると、ツアー客が降りた。


会津坂本を出ると、七折峠に入り、塔寺を過ぎると、木々の間から会津平野が見えた。

 

七折峠を下りきり会津平野に入ると、前方の茜と群青にうっすらと色付く空に「磐梯山」から北西につらなる山々の稜線が見えた。

反対側の窓から南側を見ると、そらの茜色が濃く美しかった。

 

列車は会津坂下を出ると南進し、若宮を出て会津美里町に入り、新鶴根岸と刈田の間を進んだ。西部山地の空はやや明るく、伊佐須美神社第三山岳遷座地である「明神ヶ岳」(1,074m、同61座)を頂点とする山影が浮かび上がって見えた。

この後、“高田 大カーブ”で進路を東に変えた列車は、会津高田を経て会津本郷手前で会津若松市に入り、大川(阿賀川)を渡り市街地を駆けた。

 

 

17:24、列車は西若松七日町を経て、終点・会津若松に到着。多くの客が降りて連絡橋に向かっていった。只見線を利用した「吉尾峠」トレッキングの旅が、無事に終わった。



(了)

 

  

・  ・  ・  ・  ・

*参考:

・NHK:新日本風土記「動画で見るニッポンみちしる~JR只見線」 *2008年放送

・産経新聞:「【美しきにっぽん】幾山河 川霧を越えてゆく JR只見線」(2019年7月3日)

・福島県 :只見線管理事務所(会津若松駅構内)

・拙著:「次はいつ乗る?只見線」カテゴリ ー只見線の秋ー / ー只見線沿線の“山”(登山/トレッキング)

  

【只見線への寄付案内】

福島県はJR只見線全線復旧後の「上下分離」経営での維持費や集客・地域振興策の実施費用として寄付を募集中(クレジット可)。

①福島県ホームページ:只見線復旧復興基金寄附金

・只見線応援団加入申し込みの方法 *現在は只見線ポータルサイト「只見線応援団」URL:https://tadami-line.jp/support/

 

②福島県:企業版ふるさと納税

URL:https://www.pref.fukushima.lg.jp/sec/16005g/kigyou-furusato-zei.html

 [寄付金の使途] 

 (引用)寄附金は、只見線を活用した体験型ツアーや周遊ルートの整備、只見線関連コンテンツの充実化等に活用させていただきます。 沿線地域における日本一の秘境路線と言われる観光資源を活用し、更なる利用者の拡大と認知度向上を図ります。

 

以上、宜しくお願い申し上げます。


次はいつ乗る? 只見線

東日本大震災が発生した2011年の「平成23年7月新潟福島豪雨」被害で一部不通となっていたJR只見線は、会津川口~只見間を上下分離(官有民営)とし、2022年10月1日(土)に、約11年2か月振りに復旧(全線運転再開)しました。 このブログでは、“観光鉄道「山の只見線」”を目指す、只見線の車窓からの風景や沿線の見どころを中心に、乗車記や「会津百名山」山行記、利活事業に対する私見等を掲載します。

0コメント

  • 1000 / 1000