会津坂下町「亀ケ森古墳・高寺山遺跡」 2019年 夏

4世紀後半の造られたと言われる国指定史跡「亀ケ森古墳」と仏教伝来にまつわる“高寺伝説”がある「高寺山」を訪れるためJR只見線の列車を利用し、会津坂下町を訪れた。

 

「亀ケ森古墳」は只見線の会津坂下駅か北に5kmほどの場所にあり、国史跡に指定されている会津若松市の大塚山古墳と同時期の4世紀に築造されたと言われ、古墳時代の会津地方の様相を知る上で重要な古墳となっている。 *出処:Wikipedia「亀ケ森古墳・鎮守森古墳

 

また、「亀ケ森古墳」は、西に隣接する「鎮守森古墳」とともに、国内有数の古墳と言われる「宇内青津古墳群」の一部となっている。古墳は主なもので、前方後円墳12基・前方後方墳3基という。*出処:東北学院大学論集 歴史と文化 第49号「福島県喜多方市 灰塚山古墳第2次発掘調査報告」(PDF))

   

「亀ケ森古墳」は古墳時代前期の築造と言われる全長127mの前方後円墳で、「宇内青津古墳群」の中で最大となっている。先日、世界遺産に登録された「百舌鳥・古市古墳群」内の仁徳天皇陵古墳(全長486m)には遠く及ばないが、雷神山古墳(宮城県名取市)に次ぐ東北第二の大きさを誇る。

「亀ケ森古墳」は1976(昭和51)年5月6日に、「鎮守森古墳」とともに、国の史跡名勝天然記念物として登録された。 *文化庁:文化遺産オンライン「亀ケ森・鎮守森古墳

   

私は先月初旬に只見線沿線にある「御神楽岳」と「本名御神楽」の登山を行い、第10代・崇神天皇の世に大毘古命(大彦命)と建沼河別命(武渟川別)の親子が出会った場所が“相津(あいづ)”と記された(古事記)という“会津”の名の由来を再確認したことで、会津地方の古墳の多さがこの記述を生んだのではないかと思うに至った。三つの古墳群は、当時、会津地方にはそれなりの規模の人口があり、文化があり、王朝(畿内)にも名が知られていた証左ではないだろうかと考え、同じ只見線沿線にある「亀ケ森古墳」を見たいと思った。

 

 

他方、「高寺山遺跡」は日本の仏教伝来にまつわる“伝説”がある。

仏教公伝(552年、538年とも)では、朝鮮・百済の王から、日本(倭国)の第29代・欽明天皇に仏像が送られ、公的に仏教が伝わったとされている。

『会津温故拾要抄』(宮城三平著、1889(明治22)年刊)によると、会津地方では、ほぼ同時期(540年)に梁の僧・青巌(岩)が、この「高寺山」で草庵を結んで仏教を広めたという。高いところにある寺、ということから、そこは「高寺」とされ、その山も「高寺山」と呼ばれるようになったと言われている。

青巌(岩)一行は、越後の浜にたどり着き、阿賀川を遡り会津に入り、塩峰峠(現喜多方市高郷町)から見える東南の山(高寺山)に導かれるように入り草庵を結んだともいわれている(出処:Kazuyosi W氏「会津への夢街道」http://www.aizue.net/ )。

その後「高寺」は大いに栄えた後、中央勢力との戦いに敗れ滅亡してしまうが、再び勢いを取り戻す。しかし、南都仏教の僧・徳一が創建した慧日寺(磐梯山麓)との抗争に敗れ、結果、平安末期に再び滅亡し、表舞台から姿を消した。当時、「高寺」にあった仏像などは周辺の寺院に移され(“高寺おろし”)、往時をしのぶ事ができるが、「高寺」の痕跡(遺跡)は発見されず、伝説となり、地元では“高寺伝説”と呼ばれていた。

 

この“伝説”、あると言われていた“遺跡”が、昨年10月に現実だった事が明らかになった。*下記事出処:福島民報 2018年10月10日付け紙面

  

会津坂下町の「広報あいづばんげ」の今年1月号には見開きで特集され、この快挙を詳しく伝えていた。 *下記事出処:「広報あいづばんげ」(平成31年1月) URL: https://www.town.aizubange.fukushima.jp/soshiki/2/8491.html


  

昨年8月22日に始められた遺跡発掘調査は続いており、先月には古密教の祈祷で利用する「護摩壇」や、湧き水をためる堰とみられる遺構が新たに見つかった、と地元紙(福島民報2019年6月26日付け)が伝えていた。

  

発掘されたものは9世紀頃の遺跡ということで、「高寺」再興後のものではあるが、約1,000年もの時を経て史実となった事で、“仏都・会津”が歴史的背景が重厚なものとなった。また、只見線沿線に大きな文化観光財が追加された事にもなり、「高寺山遺跡」の発見は、2021年の只見線全線再開通に向けて大きな出来事となった。

 

私は遺跡発掘調査が行われているうちに、是非現地を見てみたいと思った。「高寺山」は「亀ケ森古墳」と約3kmしか離れておらず、頂上付近の遺跡発掘現場を見ても十分日帰りが可能であると考え、目的地に追加して、今回の旅を計画した。

  

 

今日は郡山から旅を始め、只見線は塔寺まで列車を利用し、その後は輪行した折り畳み自転車で各地を巡り、会津坂下から再び只見線の列車に乗り、会津若松を経て郡山に戻るという旅程とした。途中、会津若松では、企画展「興福寺と会津 ~徳一がつないだ西と東~」を観るために県立博物館に立ち寄った。

*参考:

・福島県:只見線ポータルサイト

・東日本旅客鉄道株式会社:「只見線について」 (2013年5月22日)

・NHK:新日本風土記「動画で見るニッポンみちしる~JR只見線

・産経新聞:「【美しきにっぽん】幾山河 川霧を越えてゆく JR只見線」(2019年7月3日)

・拙著:「次はいつ乗る?只見線」カテゴリ ー只見線沿線の“山”(登山/トレッキング)ー / ー只見線の夏

  

 


   

 

今朝の郡山駅前。昨夜から降り続いた小雨は上がり、天気予報通り曇り空が続く事を願った。

 

輪行バッグを担ぎ、駅舎に入り改札を通り1番線に移動。出発を待つ磐越西線の始発電車に乗り込んだ。

5:55、会津若松行きが定刻に郡山を出発。

  

切符は、日曜日ということで「小さな旅ホリデー・パス」を利用した。

片道通常運賃(郡山~塔寺)が1,660円だから、お得に旅ができる。「Wきっぷ」(郡山~会津若松:1,860円)を使うより、今日の旅程だと、10円安く済ませられ、切符も一枚で途中下車も自由なので、会津坂下町から先の只見線の旅では「小さな旅ホリデーパス」がおすすめだ。*(往路)会津若松~塔寺:500円、(復路)会津坂下~西若松:320円

  

 

沼上トンネルで中山峠を超え、会津地方に入っても鼠色の雲は広がり、「磐梯山」もすっぽり覆われて、美しい山裾の稜線は見えなかった。

 

 

 

7:09、会津若松に到着。駅舎の正面入り口の上部には“福島県 会津清酒 史上初七年連続 全国新酒鑑評会 金賞受賞数 日本一”と記された横断幕が掲げられていた。

今年の「全国新酒鑑評会」で福島県が受賞した金賞数は22銘柄で、史上初めて7年連続日本一となった。*参考:福島県「平成30酒造年度全国新酒鑑評会において史上初の「金賞受賞数7年連続日本一」達成!」(2019年5月17日) 

 

福島県ハイテクプラザ会津若松技術支援センターの醸造・食品科(科長:鈴木賢二氏)を中心とする県を挙げての継続的な努力が実を結んでいる。福島県人として誇らしい偉業だ。

金賞受賞した22銘柄中13が会津地方の酒で、“会津清酒”が福島県の日本酒のレベルを押し上げている事は間違いない。この会津若松駅で全銘柄を試飲できるなどのサービスがあれば、さらに多くの来県者・来会者が“会津清酒”に触れ、引いては只見線の価値が高まる、と私は思っている。

 

 

再び改札を通り、只見線のホームである4番線に向かう。連絡橋には「青春18きっぷ」ポスターが並べて掲示されていた。

季節の風物詩(春、夏、冬)であり、『旅に行きたい』と旅情を刺激させてくれるこのポスターは、国鉄が分割民営化された後も、全国のJR駅に同じものが掲示され続けられている、唯一のものではないだろうか。

私は高校時代からこの「青春18きっぷ」の利用者で、今年も使わせていただく予定だ。世代を超えて長らく愛用され、沖縄は含まれないものの、日本全体を感じられるこの切符が、今後もあり続ける事を願いたい。

  

橋上からホームを見下ろすと、只見線の列車は入線していた。

『おやっ』と思ったが、構内放送を聞いて納得した。いつも隣りにいる、喜多方行きの列車は、車両事故のため運休となり不在だった。ホームに降りて、2両編成の後部車両に乗り込んだ。

  

 

すると、隣のホームが騒がしくなり、今日が日曜日で「TRAIN SUITE 四季島」が会津若松にやってくる日という事に気付いた。

 

まもなく入線を告げるアナウンスがあり、私は急ぎ2番線に移動し、停車したシャンパンゴールドの長大車両を撮影した。「四季島」の1泊2日コース/春~秋では喜多方と会津若松に停車し、会津若松では朝食と観光が組み込まれている。

7:37、只見線の列車に戻ると、ほどなく会津川口行きの列車が会津若松を出発。


  

七日町西若松を経て、阿賀川(大川)を渡る。

   

渡河を終えると、景色は一変し、列車は田園の中を進んだ。

  

会津本郷を過ぎ、会津美里町に入り、会津高田では多くの乗降客があった。車内は賑やかになり、三連休の中日、日曜日に相応しい雰囲気になった。

  

根岸新鶴と過ぎ、若宮から会津坂下町に入った。車内から、左には西部山麓と並行する只見線の間に広がる田園、右には湯川村方面まで見通せる会津平野の田園を見る事ができる。“緑のじゅうたん”とは、よく言ったものだ。

  

 

列車は会津坂下で上り列車とすれ違い、七折峠に向かって登坂。車内には、重厚なディーゼルエンジンの音が響き始めた。

  

途中、法面の木々が切り倒されていた。

真相は不明だが、車窓からの景観向上というより、枝葉による運行障がい防止ではないかと感じた。去年11月には七折峠で“落葉の影響で車輪が空転して”ダイヤが大きく乱れたことがあった為だ。

だが、この“七折登坂”区間は、枝木の伐採・剪定などにより車窓からの景観向上を図って欲しい場所だ。会津と奥会津の境、田園と山間の境となる七折峠からの眺め、眺望の変化は、“観光鉄道「山の只見線」”を目指すには絶対必要だと、私は思っている。

 

 

 

 

 

8:33、塔寺に到着。私の他、列車と駅舎と撮り続ける方が降りた。

 

塔寺は“七折登坂”の途上にあるため、私を降ろした列車は、ディーゼルエンジンを蒸かし、力強く奥会津の地に向かっていった。

  

 

出入り口に続く階段を降り、駅頭で輪行バッグから取り出した自転車を組み立てた。塔寺で降りるのは二度目。この外観からは想像できないかもしれないが、会津若松を除けば、徒歩圏内に最も重厚な文化財がある駅だ。

  

塔寺駅周辺には、会津坂下町にある国指定重要文化財が全てあり、約3km圏内であるため、歩いて周ることも可能だ。

・恵隆寺観音堂(恵隆寺) URL: http://tachikikannon.jp/

木造千手観音立像(恵隆寺)

塔寺八幡宮長帳(心清水八幡神社)

鰐口(心清水八幡神社)

旧五十嵐家住宅

・木造薬師如来坐像(上宇内薬師堂) URL: http://aizu33.jp/cultural_assets/160/ (日本遺産 会津三十三観音)

     

駅から、国道49号線につながる県道223号(塔寺停車場)線の一本道を下り、国道49号線を横断し旧国道(越後街道)に入り、気多宮地区を進み「高寺山」の見明登山口に向かった。

 

途中、「立木千住観音」の看板を目印に左折し、恵隆寺に立ち寄る。恵隆寺は“立木観音”として日本遺産(会津三十三観音めぐり)の第三十一番札所にもなっている。前述した「木造千手観音立像」は、一度は見た方が良い仏像だと思う。

恵隆寺の敷地を接する東隣りには、「旧五十嵐家住宅」があり、西隣には心清水八幡宮(塔寺八幡宮)がある。

  

  

右手に田園を見ながら町道を進み、見明集落の前を通り過ぎると「糸桜里の湯ばんげ」の看板を左に曲がり、坂を上った。

  

300mほど進むとT字路となり、左折。

 

  

さらに、200mほど進み「高寺山」見明登山口に到着。

 

ここに来るまでは気付かなかったが、見明集落の中を通ってもここに着く事ができたようだ。

「高寺山」は会津地方で一番早く山開き登山が行われ、その際は、旧町営スキー場からの登山道を使っているようだ。他、福島県会津自然の家からの登山道もあるようだが、どちらも国土地理院の地図には記載がなかった。この「見明」登山口からの登山道は、地理院地図にはっきり記されていて、塔寺駅から近い事もあり、ここから登山を開始することにした。

ちなみに、勝負沢(会津西部斎苑方面)と二重平を結ぶ林道は、車両が通れるようになっている。

  

9:52、「高寺山」登山を開始。道は、まもなく夏草に覆われた。事前に“下草が酷く伸びている”という情報を得ていたが、先行きが心配になった。

  

この登山道には、タイヤの轍があり、車両が通行できるようで、進むべき道筋ははっきりしていた。時折、登山道であることを知らせるピンクのテープも見られ、迷う事は無いが、足元は一部区間を除き、悪かった。

  

途中、清水が登山道全体を覆っている区間があり、靴への水の侵入に気を遣いながら進んだ。

  

この周辺には、ドクダミが多く咲いていた。

   

まもなく、突き当りに小高い山が現れ、赤い鳥居と杉の巨木が佇んでいた。どうやら分岐のようだった。

草の生え方から右に行くのが自然だと思ったが、左も一応確認し、とても進めるような状態でない事が分かり、迷うことなく右に進んだ。地理院地図には左に行く道も記載されていたが、草は背丈を超え、薄暗く、素人が進むべき場所ではなかった。

    

右に進むと、足元の草丈は低く、ピンクテープも時折見られ大きな不安は感じなかったが、登山ではなく“探検”している感じがした。

登山道を進み、感じた事だが、木々の間が適度に空いていて、違和感があった。帰宅後に調べてみると、この一帯は1966(昭和41)年に大規模植林が行われたという。

   

登山道の勾配は徐々に上がり、水の流れが地面を削り、溝となった箇所を歩くようになる。

  

  

10:08、取上峠に到着。地面が見え、看板も多く、今歩いてきた道が登山道の一部を実感することができた。ここは、旧町営スキー場からの登山道の合流地点になっているようで、広く平らなスペースとなっていた。

  

峠からは、下り坂となる。ここも雪解け水が流れると思われる“沢”をたどり、足元に注意しながら進んだ。

  

 

10:11、勝負沢と二重平を結ぶ林道に出る。轍には最近のものと思われるタイヤ痕が残っていて、遺跡発掘調査で多くの人の出入りがある事を思わせた。

  

200mほど歩くと、二重平と山頂への分岐点に到着。会津自然の家が設置したと思われる「登山コース→」という看板が現れた。

 

登山道に入る。足元は踏み固められ、凹みには袋入りの砂利が敷き詰められていて、歩き易かった。発掘調査で山登りをする方も、これならば快適に歩く事ができると思った。

 

 

10:17、尾根の取付に着く。意外に急な坂に『おっ』と思ったが、“きのうまでの自分はウォーミングアップだったよ。今日からが本番!!”という看板を見て、気合を入れ直して登る事にした。

斜面は昨夜の雨の影響で少し滑ったが、“手すり”として張られた、まったく緩みの無いトラロープがあるおかげで、不安なく上りきることができた。山頂に到着して分かった事だが、難所と言える箇所はここだけで、逆にこの坂をじっくりと登った方が、登山を実感できると感じた。

   

取付の登坂の後は、なだらかな尾根道が続く。踏跡が林の中に延び、気持ちよく歩く事ができた。

 

私は登山口から一人で歩き、結果、最後まで誰とも出会わなかった。熊の目撃情報もあることから、熊鈴を手に持ち、終始意識して力強く鳴らしながら歩いた。

登山道の両側は見通しが良く、大きな不安は感じなかったが、熊の存在を忘れる事無く、自分の存在を知らせ続ける事は怠らなかった。

  

 

 

しばらくすると、前方に下草が疎らな空間が現れ、左下に目を向けると地面が広く露わになった踊り場のような場所があった。

 

そこに進んでゆくと、三角形に紐が張られ、一部が綺麗に掘られた遺跡発掘現場が現れた。『ここまで大きな発掘調査が行われているとは...』と驚き、今は木々しかない山の中に突然現れた、いにしえの仏徒の作為に感動を覚えた。

   

登山道に戻る。頂上へは直進だが、私は左側の平坦で土が見える場所に進んだ。

 

まず、目についたのが大きなタープ。木々に括りつけられていた。作業員の休憩スペースと思われた。

 

緩やかな斜面を上ってゆくとグリーンシートが見えた。

 

各辺に紐が張られ、綺麗に矩形に掘られた発掘場所の大半がそのシートで覆われていた。

 

むき出しになった発掘跡を見ると、平たい石が数か所見えた。建物の土台となったものとしては小さいが、人の手が加えられたものに見えた。

  

さらに上部の林の中は、四角形に掘られていた。

 

完全にシートで覆われた場所もあった。

 

木の密度が高い場所も四角に掘られていた。何か発見できたのだろうか。素人目には判断がつかなかった。

発掘は山の傾斜を調べ、人為的な変形が確認できた場所(7箇所)で行われているという。確かに、周辺の平たい場所は、ほとんど発掘調査が進められていた。

 

この場所に立ち、当時どんな建物が並び、僧達がどのような生活を送っていたかを想像すると楽しくなった。また、今回の遺跡が「高寺」再建後のものだとすると、僧・青巌(岩)が庵を結んだ当時はどうだったのだろう、と興味は尽きなかった。会津坂下町は発掘調査を進め、「高寺山遺跡」の国史跡指定を目指すという。今後の調査に期待するとともに、多くの方に、只見線の列車に乗って訪れて欲しいと思った。

  

再び登山道に戻り、頂上を目指した。

 

10:31、「高寺山」山頂に到着。遺跡発掘現場の見学時間を除くと、「見明」登山口から約30分で着く事ができた。

 

頂上には、三等三角点の標石があった。

  

 

この頂上からさらに奥、北西の方に下りながら進むと、“展望台”があった。残念ながら、何も見えない、茂みの只中だった。かつて、ここから只見川や飯豊連峰などが見え、なかなかの眺望だったという。

“展望台”の視界を塞ぐ木々を見ると、全て若木・細木で、伐採は許容されるのではないかと感じた。今後、「高寺山遺跡」の発掘とそれにともなう研究が進めば、この地には多くの観光客が訪れる事になるのは間違いない。町は、界を接する喜多方市の理解も得て、この「高寺山 展望台」の景観創出(復活)を試みて欲しいと思った。

  

 

10:40、下山を開始。 

往路と同じコースをたどり進むと、尾根取付の手前で、前方が開けた場所があった。下るときは正面に見えるが、登る時は振り返らなければならないため気が付かなかった。

 

「磐梯山」や会津盆地の良い景色が見られた。低山ながら、見通しは素晴らしいと思った。

今回、案内板などは見られなかったが、ここは現在唯一ともいえる「高寺山」の眺望スペースとなっている事から、前述の「展望台」の景観創出と合わせて整備して欲しい。

  

 

この後は、駆け足で下山。二重平につながる林道を経て、取上峠を越えて、再び下草に覆われた“道”を進む。木々の間に進むべき空間は示されていたが、やはり『間違っていないか!?』と思ってしまった。

 

 

11:00、赤鳥居の前を通過。往路では感じなかったが、「高寺山」で多くの遺跡発掘現場を見た後では、この杉の巨木に佇む寂れた鳥居から厳かさを感じた。

ここは「高寺山」山岳寺坊の入口で、下界との境界を示している重要な役割があるのではないか。または、滅亡し“伝説”となった「高寺山」全体を神として祀ろうとした地域住民が鳥居を設置したのかもしれない。

いずれにしても、まずはこの杉の巨木の樹齢を調べ、この位置に鳥居がある事の説明が記載された案内板などを登山道に設置し、訪れた方に知らせた方が良いのではないかと思った。

  

 

  

薄暗い登山道を駆け下り林を抜けると、前方が明るくなった。

 

11:05、「見明」登山口に戻ってきた。往復で1時間15分掛かった。

「高寺山」はゆっくり歩いても、2時間程で往復できると感じた。400mほどの山ということもあり、登山というより、山歩き(トレッキング)感覚で誰でも気軽に楽しめる。只見線最寄りの塔寺駅から、この見明登山口まで3kmなので、歩いても無理なく来ることができるのではないか。この点、二次交通の心配は、少ない。

この周辺には、前述した通り「恵隆寺」や「心清水八幡神社」などの国指定文化財を有する寺院などが集中し、温泉施設(後述する「糸桜里の湯ばんげ」)がある事で、散策やアクティビティ(登山、トレッキング)の後に汗を流す事ができる。

 

現在、発掘調査が進められる「高寺山遺跡」は、日本遺産にも認定された“仏都・会津”発祥の地となる可能性がある。そうなれば、“高寺伝説“が伝説でなくなった経緯や、高僧・徳一との物語、そして“仏都・会津”の現在の姿は、更に多くの人を惹きつけると思う。

そのように考えると、登山口からの登山道整備を進める価値は高いと思われる。現在、酷い状態にある見明~取上峠間を『歩いてみよう』と思わせるような登山道になれば、“観光鉄道「山の只見線」”の強力な集客コンテンツとなる、と私は今回の登山を通して思った。

  

「見明」登山口を後にする。 

置いていた自転車にまたがり、平坦な道から再び坂を上った。3分ほどで、(見明山)町営スキー場に到着。1976年にオープンしたが、2006年に開業せずに営業を停止した。最盛期には3万9千人を越える客が、このなだらかなゲレンデを賑わしていたという。

  

この旧スキー場の隣りに、会津坂下町温泉保養施設「糸桜里の湯ばんげ」がある。ここで、登山の汗を落とした。“糸桜里(しおり)”とは、会津五桜「杉の糸桜」に由来するという。

  

温泉は2階にあるため、ガラス張りの大浴槽からは磐梯山の裾野や会津盆地の一部が見渡せ、素晴らしい眺望を堪能しながら湯に浸かることができた。

地元の方の施設で、観光客が増える事が良いのか悪いのか分からないが、湯船から眺める景色は県内でも屈指で、大きな観光資源ではないかと思った。建物の前に広がる林が、磐梯山の稜線や会津盆地の田園風景を欠けさせていて、もったいない気がしたが、県内屈指の公共温泉施設には間違いないと思った。

30分ほど「糸桜里の湯ばんげ」に滞在し、後にした。

坂道を下り、田んぼの中を東に進み、途中で振り返ると、高寺山の平坦な山稜を確認することができた。右のむき出しの斜面は旧町営スキー場。

このように見ると、遺跡発掘現場を見てきただけに、山全体に「高寺三十六坊」が築かれ“高寺三千坊”と呼ばれ盛隆を極めた往事がしのばれた。

 

 

 

 

 

次の目的地は「亀ケ森古墳」。前方に、一部木々が密集し盛り上がった場所が目的地。

 

町道宇内沼越線を進むと、徐々に林が近づいてくる。

 

案内板が現れ、青津集落に入る。ちなみに、この青津地区の東に接する青木地区には町の天然記念物であるイトヨが生息する神明神社がある。

 

 

12:15、「鎮守森古墳」に立ち寄る。「亀ケ森古墳」に隣接している。八幡神社と書かれた神額がつけられた鳥居をくぐり、周掘の位置となる空き地に敷設された参道を進んだ。

  

墳丘部分に小さな社が建っていた。一見しただけでは、古墳とは思えなかった。

「鎮守森古墳」は前方後方墳で築造時期は4世紀中頃と言われ、大きさは以下の通り。*「鎮守森古墳」全長:56m、前方部長:30m、後方部長:26m

    

 

「鎮守森古墳」を後にして、「亀ケ森古墳」に向かった。

  

住宅地を抜け、半円に盛り上がった林が目の前に現れる。「亀ケ森古墳」に到着。

前方後円墳で4世紀末の築造と言われ、東北第二の大きさを誇るだけあって、その大きさに驚いた。ここまでのものとは思っていなかった。*「亀ケ森古墳」全長:127m、前方部長:60m、後円部直径:67m

  

外観からは前方後円墳であることは分からないが、衛星写真(Google Earth)を見ると、形がはっきりしている。

  

「亀ケ森古墳」の後円部には浄泉寺が建てられていて、境内にある青津観音堂は日本遺産会津三十三観音めぐり」の第三十二番札所になっている。

 

参道を進み石段を上ると、堂々とした社があった。

 

古墳は墓だが、仏寺に、仏教伝来前の墓である古墳の案内板とは違和感があった。当時は、もちろんというべきか古墳とは知らず寺を建てたのだろう。

  

だからか、前方部は墓地として使われ、築造当時の形状ではなくなっているという。墓地に適した形状にしようと、墳丘を削ったのだろう。当時とすれば自然の振舞いだと思う。そう考えると、古墳が墳丘の形状を変えずに残り続けるというのが、いかに大変な事であるかが分かった。

    

後円部の法面や周堀跡は、雑草が生い茂っていた。

「亀ケ森古墳」が国史跡に指定されてから43年。現在まで、国の補助や町の予算がどれだけ費やされたかは定かでないが、観光資源として“見せ方”を再整備する必要を感じた。除草や枝の伐採などで景観を整え、看板などの設備整備などが必要ではないだろうか。

  

 

古墳を後にして、町の中心部に向かうため田園を進んだ。振り返ると、青津集落の背後に二つの古墳の林が見えた。

今回「亀ケ森古墳」を見て、古代のロマンを感じるというまではゆかなかったが、1,700年もの昔にこの地で多くの人が住み、文化があったことは実感できた。

 

今後、観光客の足を向けさせるには、前述したように個別の古墳の“見せ方”の整備もさることながら、「宇内青津古墳群」という面で考え、各古墳と築造時期や形状、周辺ではどのような生活が営まれ、部族間の交流の有無などから“物語”を紡ぎ出し、訴求することが必要ではないかと思う。

さらには、会津地域の「一箕古墳群」と「雄国山麓古墳群」との関連性まで広げ、中央(畿内)から遠い会津地域で古墳文化が起こった背景や、会津の中央に対する立場などを分かりやすく示すことで、会津が「古事記」に“相津”と記された背景への理解が深まり、会津の観光力が厚みを増すのではないかと考えた。

これらは、必ずや只見線の集客にもなると思う。会津坂下町は、喜多方市や会津若松市、そして福島県の協力を仰ぎ、是非「古墳群」の観光資源化に取り組んで欲しいと思う。


  

この他、町内には「宇内青津古墳群」の中で最も古く築造されたのもが2ヵ所あり、その一つである「杵ケ森古墳」が会津坂下駅の近くにある。そこにも訪れた。

築造は「亀ケ森古墳」よりも古く“東北最古”の古墳で、日本最古の「箸墓古墳」と墳形が似ているという。古くから存在が知られていたが、1990(平成2)年に発掘調査が行われ、全長45.6mの前方後円墳と判明したが、前方部は既に削られていたという、残念な歴史を持つ。

 

「杵ケ森古墳」は、同時に発見された稲荷塚遺跡とともに公園として綺麗に整備され、手入れもされて形状が良く分かった。

ここで、予定していた場所を回り終えた。

 

    

今日訪れた「高寺山遺跡」と「亀ケ森古墳」などの宇内青津古墳群のエリアは、歴史の幅を体感できる観光ゾーンだと思った。


ここで、将来的な事になるが“塔寺駅”の移設を提案したい。 

塔寺駅から恵隆寺や心清水八幡宮、「高寺山」までは徒歩圏内で、「亀ケ森古墳」は少し離れているが、レンタルサイクルがあれば、道は田園地帯で平坦なため快適に移動ができる。只見線沿線で、会津若松駅を除けば、これほど歴史文化財が集中しているエリアは無い。このエリアの入口となる位置に塔寺駅が移設されれば、観光客のメリットは大きく、会津坂下町にとっても観光地としての訴求力が高まると思う。

 

さらに、移設することで七折峠からの眺望を得られる。会津若松方面から七折峠を登坂した列車が左にカーブする付近に駅ができれば、会津盆地を見下ろすことができる。ここにレストランやカフェ、展望台を設置すれば只見線の集客が一層期待できるのではないだろうか。

駅移設は容易なことではないが、移設後のメリットは大きく、チャレンジする価値は高いと思う。

 

現在、福島県を中心に、2021年度の全線再開通へ向けて“只見線利活用計画”を進めている。“塔寺駅施設”は、観光客が駅を降りて周遊でき、客の滞在時間が延びる、“歴史文化都市・会津”屈指の観光エリアになる可能性を秘めている。そして、移設駅周辺に、レンタルサイクルや物販、ホスピタリティを整備をすれば、“観光鉄道「山の只見線」”の確立に大きな役割を果たせると実感した。

 

私は、“塔寺駅移設”について、その可能性を引き続き探ってゆきたい。

  

 

  

「高寺山遺跡」と古墳群巡りを終え、只見線の車内で遅い昼食を摂ろうと、名物の「馬肉」と「日本酒」を求め移動。

 

まずは、「杵ケ森古墳」がほど近い竹原商店に行き、馬刺し100gを手に入れた。


会津で馬肉が食べられるようになったの150年前の戊辰戦争中と言われている(平石弁蔵著「会津戊辰戦争」)。“西の熊本、東の会津”と言われるように生産量は熊本県が2,316t、福島県が1,107t(大半が会津産)と全国2位となっている。*出処:農林水産省「平成28年度馬関係資料」馬肉関係

馬肉に使う馬は外来種で、農耕馬など頑丈な「重種」と、競走や乗馬に使うサラブレッドなどの「軽種」に分かれ、熊本産や青森産は重種が中心だが、会津産はほとんどが軽種という。重種は味わいが深いが肉が硬くサシが入った霜降りで、軽種は柔らかく赤身の肉種という。生の馬刺しは戦後しばらく経ってから食べられるようになり、昭和30年代の後半から冷蔵庫の普及に伴って急速に広がったという。

馬刺しに添えられる辛子味噌について、若松に興行に来ていたプロレスラー力道山が会津若松市内の肉屋を訪れ、馬肉を『生でくれ!』と言い、持参した辛子味噌を付けて食べた後に広まったという逸話もあ。*出処:福島民友新聞「【食物語・会津の馬肉(下)】力道山が与えた『衝撃』 生食と辛子みそ」2016年9月4日

 

会津坂下町は、かつて越後街道の宿場町として栄え、荷役に使う馬に加えて農耕馬も多く、畜場とセリ場、屠場が塔寺付近にあり、馬食文化が普及した。町内には馬肉を取り扱う精肉店が多く、町の観光物産協会が作成した「ばんげ美味・馬マップ」には馬肉が購入できる店が7ヵ所記されている。

 *パンフレット出処:会津坂下町観光物産協会「ばんげ美味・馬マップ」(PDF)

 *参考:会津坂下町「ばんげびよりvol.4(馬肉料理)を発行しました」(2017年8月3日更新) 

   

続いて向かったのが、町の3つの酒蔵の近くにある五ノ井酒店。改装後は初めて訪れる。筋肉隆々の巨大フィギュアが目印だ。

入口付近にはワインが並べられていたが、奥に進み驚愕。左側には冷蔵庫が列を作り、町の「曙酒造」「豊国酒造」はもとより、会津地方の酒蔵の色とりどりのラベルが貼られた日本酒が並べられていた。郡山の仁井田酒造のブランド、“自然酒”が豊富にあったのは嬉しかった。

ここでは五ノ井酒店のプライベートブランドの日本酒(四号瓶)を手に入れた。

  

13:24、会津坂下町を巡る旅を全て終え、駅に到着。平日の朝夕は二つの県立高校の生徒で賑わう駅だが、静かだった。駅頭で自転車を折り畳み、輪行バッグに入れて、ホームのベンチで列車が来るのを待った。

   

13:42、会津若松行きの列車が入線。私が今朝乗った車両が、会津川口で折り返してやってきた。

私は後部車両に乗り込む。列車は会津川口行きとすれ違いを行い、5分ほどで会津坂下を出発。


さっそく、列車内で遅い昼食を摂る事にした。 

まずは「馬肉」。モモと値段が変わらなかったため、ヒレ刺にした。自家製辛味噌がサービスで付けられていて、箸があれば車内で食べられる。光沢ある赤身が、食欲を掻き立てた。

   

この「馬肉」に合わせたのが、五ノ井酒店のプライベートブランド「央(おう)。初めて呑む。

 

“桃ラベル 夢の香”、荒走りということで薄く濁っていた。

   

家から持ってきたお猪口に注ぎ、まずは一杯。酸味があり、爽やかなのど越しと、すっきりとしたあと味に唸った。只見線の列車内で旨い地酒を呑めて、嬉しくもなった。 

口の中に酒の余韻を残し、「馬肉」をいただく。サシの入っていない赤身だが、淡泊過ぎず、柔らかながら濃厚な食感に、魚ではない肉を感じた。旨い!

この「地酒」と「馬肉」を交互にいただき、“会津坂下”を堪能。

  

そして、コメが食べたくなると考え、コンビニで手に入れた“塩おにぎり”を取り出す。銀シャリの上に、ヒレ刺を載せて一緒に頬張る。あまりの旨さに、涙が出そうになった。

  

車窓から田園を見ながら、会津坂下町の「地酒」と「馬肉」の贅沢な時間を過ごした。列車旅の醍醐味だ。会津若松までの乗車時間は約40分と短いが、十分に酒と名物を堪能できた。

 

 

 

途中、会津若松の2つ手前、西若松で降りて、福島県立博物館に向かった。企画展「興福寺と会津 ~徳一がつないだ西と東~」の会場だ。

 

正面にまわると、駐車場から多くの観覧者が、次から次へと入口に向かっていた。県内初展示の国宝が見られるということで、関心の高さが伺い知れた。

 

入口には、この展覧会の“主人公”とも言える、高僧・徳一の像(複製)が置かれていた。

 

前述したが、徳一(とくいつ)は「高寺」にも影響を与えた、南都仏教の一つ法相宗の僧だ。

奈良時代後期に生まれた徳一は、第46代(48代、重祚)孝謙天皇を輔佐した藤原仲麻呂(恵美押勝)の子とも言われ、興福寺(東大寺とも)に学んだ。彼は、若くして奥州・会津に入り「磐梯山」の麓に慧日寺を開き、最盛期には寺領18万石、子院2,800坊、僧侶300人、僧兵数千人を数える程になった強固な基盤を創り上げた高僧。天台宗・最澄とは「三一権実論争」を5年もの間闘わせ、真言宗・空海に対しては『真言宗未決文』を著して批判したという、苛烈な人でもある。*徳一について詳しくは:磐梯町「名僧・徳一が開基した慧日寺1,200年の歴史を探索」 

 

チケットを購入し中に進んでゆくと、会場は熱気に包まれていた。

私は最初に目についた維摩居士坐像(国宝、興福寺蔵)の繊細な彫り具合に感動し、四天王像の広目天と多聞天(同)の迫力に唸り、時間を忘れて見入ってしまった。これらは徳一が学んだ時代から、かなりくだった鎌倉時代の作だが、興福寺の力をまざまざと見せつけられ、その寺で一目置かれていたという徳一のすごさを改めて思った。

同時に、興福寺で学び、会津にやってきた徳一が、梁の青巌(岩)が開いた「高寺」仏教をどのように見たのか興味がわいた。

  

 

 

企画展をゆっくりと鑑賞し、会津若松から磐越西線の列車に乗り、夕方に郡山に戻った。

西口駅前広場では、よさこい踊りのイベント「踊っぺ!!YOSAKOI オットどっこい郡山」が開かれていて、多くの人で賑わっていた。 

 

今日は一時小雨にあたり、限られた時間であったが、充実した旅となった。次は梅雨が明けた強い日差しのもと、只見線の旅を楽しみたい。

 

 

(了) 

   

 

[追記]

「高寺山」は「会津百名山」の第100座で、「会津百名山ガイダンス」(歴史春秋社)では以下の見出し文で紹介されている。*出処:「会津百名山ガイダンス」(歴史春秋社)p210

高寺山 <たかでらさん> 402メートル
高寺山は、会津盆地西北部の山並みの中の高山。標高402メートルであり、山頂からの眺望は素晴らしい。山頂に登り詰めた瞬間、眼前に迫る残雪の飯豊山の雄大な姿は感嘆の一語に尽きる。また、新緑や紅葉に映える只見川、阿賀川の豊かな流れと、流域の美しい風景が見られる。[登山難易度:初級]

   

 

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*参考:

・福島県 生活環境部 只見線再開準備室:「只見線の復旧・復興に関する取組みについて

・東日本旅客鉄道株式会社:「只見線(会津川口~只見間)の鉄道復旧に関する基本合意書及び覚書」の締結について(2017年6月19日)  

 

【只見線への寄付案内】

福島県はJR只見線全線復旧後の「上下分離」経営での維持費や集客・地域振興策の実施費用として寄付を募集中(クレジット可)。

①福島県ホームページ:只見線復旧復興基金寄附金・只見線応援団加入申し込みの方法 *現在は只見線ポータルサイト「只見線応援団」URL:https://tadami-line.jp/support/

 

②福島県:企業版ふるさと納税

URL:https://www.pref.fukushima.lg.jp/sec/16005g/kigyou-furusato-zei.html

[寄付金の使途]

(引用)寄附金は、只見線を活用した体験型ツアーや周遊ルートの整備、只見線関連コンテンツの充実化等に活用させていただきます。 沿線地域における日本一の秘境路線と言われる観光資源を活用し、更なる利用者の拡大と認知度向上を図ります。

 

以上、よろしくお願い申し上げます。

次はいつ乗る? 只見線

東日本大震災が発生した2011年の「平成23年7月新潟福島豪雨」被害で一部不通となっていたJR只見線は、会津川口~只見間を上下分離(官有民営)とし、2022年10月1日(土)に、約11年2か月振りに復旧(全線運転再開)しました。 このブログでは、“観光鉄道「山の只見線」”を目指す、只見線の車窓からの風景や沿線の見どころを中心に、乗車記や「会津百名山」山行記、利活事業に対する私見等を掲載します。

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