JR只見線沿線の「会津百名山」で未踏だった「駒止湿原」(1,100m)と「駒止峠」(1,135m)に行くため、会津若松~只見間で列車を利用し、路線バス「自然首都・只見」号と輪行した自転車で現地に向かった。
「駒止湿原」は国の史跡名勝天然記念物で、只見線の会津川口駅から直線距離で南南東に約27km、只見駅から同じく南東に約30kmに位置している。最寄りは、会津鉄道㈱会津線の会津田島駅になる。*参考:文化庁 文化遺産オンライン「駒止湿原」
湿原を構成する大谷地・白樺谷地・水無谷地の大部分が昭和村にあり、南会津町はその東側の一部となるが観光客のメインの入口として案内されている。*参考:昭和村観光協会「駒止湿原」、南会津町観光物産協会「駒止湿原」 / 環境省 自然環境局 自然環境計画課「生物多様性の観点から重要度の高い湿地」区分2 福島県 選定地分布
そして、「駒止峠」は現在南会津町を形成する田島地区(旧針生村域)と南郷地区(旧入小屋村域)とを隔て、国道289号線の旧道(現 町道東106号線)の最高点になっている。この「駒止峠」から東に1.2km下った場所に「駒止湿原」南会津町口がある。
「駒止峠」と「駒止湿原」は、セットで「会津百名山」の第56座となっていて、「会津百名山ガイダンス」(歴史春秋社)では、以下の見出し文で紹介されている。
駒止峠・駒止湿原 <こまどめとうげ・こまどめしつげん> 1135・1100メートル
鼻舟山・御前ヶ岳から続く駒止山塊の南端に位置する駒止峠・駒止湿原は春の新緑、初夏の湿原に咲き競う花、秋の紅葉と見事であり訪れる人も多い。付近には木地師集落跡など史跡の多い所でもある。[登山難易度:初級]
*出処:「会津百名山ガイダンス」(歴史春秋社) p42
また「駒止峠」について、「会津の峠」(歴史春秋社)に次のように記されている。
*出処:「新版 会津の峠(下)」(笹川壽夫編著、歴史春秋社刊) p237
駒止峠 約1135m
冬の災害の多い景勝地 南会津町針生~山口
-伝説と巡見使の道-
駒止峠は南会津郡の田島と南郷を結ぶ険しい峠である。駒止の名前の由来は、治承4年(1180)に以仁王が南会津に落ち延びた時、この峠を馬で越えたが「馬でさえ足を止める程の険しい峠であった」という言葉から駒止と変えたとか、以仁王がここからのすばらしい景色にしばらく馬を止めて見とれていたからともいわれている。
駒止峠にはかつて大峠という別名もあった。・・・(中略)・・・その名前の由来通り、大変険しい峠越であったことは伝説にも残された通りで、明治22年になって新道が開削されるものの、とりわけ冬期間には、数々の遭難事故が記録される程の難所であった。
さらに「駒止峠」については、会津藩の地誌「新編會津風土記」(1809(文化6)年編纂完了)の會津郡高野組針生村と古町組入小屋村の項に、「駒止峠」を指す“駒戸峠”の記述がある。
●針生村 ○山川 ○駒戸峠
村西二十八町にあり、古町組入小屋村にゆく路なり、登ること十數町峯を界ふ
●入小屋村 ○山川 ○駒戸峠
村東一里にあり、登ること三十五町針生村の峯を界ふ、府下に通る路たり
*出処:新編會津風土記 巻之四十一「陸奥國會津郡之十四」、 巻之四十三「陸奥國會津郡之十六」(国立国会図書館デジタルライブラリ「大日本地誌体系 第33巻」p209,210,235 URL: https://dl.ndl.go.jp/)
ちなみに“駒戸”は、田島(針生)側から「駒止峠」を越える別道「小峠」の入口に“駒戸山”という地名が残っている(南会津町針生駒戸山)。*下図出処:国立国会図書館デジタルライブラリ「大日本地誌体系 第33巻」p209,210,235
今回の旅程は、以下の通り。
・会津若松駅から只見線の始発列車(小出行き)に乗る
・只見駅で下車し、定期路線バス「自然首都・只見」号に乗る
・南会津町の南郷総合支所前停留所で下車し、輪行した自転車で国道289号線を田島方面に向かう
・国道289号線駒止パイパスに進まず、旧道に入り「駒止峠」に向かう
・「駒止峠」に到着後、最も近い三角点「根岸山」(三等)に向かう
・三等三角点「根岸山」到達後、「駒止峠」に向かう
・「駒止峠」南会津口から、大谷地→白樺谷地→水無谷地と散策し昭和口に向かい、その後南会津口に引き返す
・「駒止湿原」から、会津鉄道・会津田島駅に向かう
・開店時間が合わせて、駅チカの「南会津マウンテンブルーイング」の「Taproom Beer Fridge」に行き、クラフトビール飲む
・会津田島駅19時40分発の列車の乗って会津若松に向かい、帰途に就く
今日の天気予報は、降水確率ゼロの快晴。好天の下、「駒止峠」からの眺望と、「駒止湿原」で見られる植物に期待し現地に向かった。
*参考:
・福島県・東日本旅客鉄道株式会社 仙台支社:「只見線全線運転再開について」(PDF)(2022年5月18日)
・福島県:只見線ポータルサイト
・福島県:平成31年度 包括外部監査報告書「復興事業に係る事務の執行について」(PDF)(令和2年3月) p140 生活環境部 生活交通課 只見線利活用プロジェクト推進事業
・拙著:「次はいつ乗る?只見線」カテゴリ -只見線の春- / -「会津百名山」山行記-
今回は、只見線の始発列車に乗るため会津若松市内に前泊。
今朝、宿をを出て会津若松駅に移動。上空には雲一つない青空が広がっていた。
駅舎に入ると、改札脇に展示スペースは観光列車「SATONO あいづ」号のパネルやポスターが並べられ、「ぽぽべぇ」も立っていた。
切符を購入し、輪行バッグを抱え改札を通り只見線のホームに向かった。跨線橋からは、「磐梯山」(1,816.2m、会津百名山18座)の稜線が見えた。
ホームに下り、4番線に入線していた只見線の始発小出行きを見ると、先頭キハ110と後部キハE120形の2両編成だった。
ホームの、列車の扉の位置には「ぽぽべぇ」が描かれた整列乗車を促すステッカーが貼られていた。じっくり見るのは初めてだったが、「ぽぽべぇ」が1号車では1匹、2号車では2匹という凝ったデザインになって、会津若松駅スタッフの遊び心が伝わった。
今回、切符は会津若松~只見間を購入。帰りは会津田島から会津鉄道の列車に乗り、会津若松~郡山間は「Wきっぷ」を利用するため、「小さな旅ホリデー・パス」は使わなかった。
6:08、只見線下りの始発列車が、会津若松を出発。客数は、先頭が9人、後部は私を含めて8人だった。
市街地にある西若松、七日町をを経て、列車は阿賀川(大川)を渡った。上流側の「大戸岳」(1,415.9m、同36座)の山塊は朝陽を受け、山肌が見えた。
会津高田を出て“高田 大カーブ”で、列車は西から北に進路を変えた。そしてカーブを抜けると、右(東側)の車窓から「磐梯山」が朧げに見えた。
列車は、田園地帯を突き抜けてゆくが、会津平野は田植えのシーズンのようで、方々に田植え機が見られた。
根岸に停車すると、逆光の中、田の中に嘴を入れながら歩く鳥の姿が見られた。
6:02、新鶴を経て、若宮手前で会津坂下町に入り、左に大きく曲がり再び西に進路を変えた列車が会津坂下に停車。先に到着していた上り一番列車(会津川口発)と交換を行った。
5分停車したのちに会津坂下を出ると、短い田園区間で「飯豊連峰」が大きく見えた。「飯豊山」(2,105.2m、同3座)、日本百名山19座)を盟主とする、「飯豊連峰」は山襞をはっきり見せ、堂々たる山容だった。*参考:公益財団法人 福島県観光物産交流協会「ふくしま30座」飯豊山
https://tif.ne.jp/yamafuku/mt30/18.html
その後、列車は会津平野と奥会津を隔てる七折峠に向かって、右に大きく曲がりながら登坂を始めた。
峠の中にある塔寺を経て、登坂を終えた列車が第一花笠-第二花笠-元屋敷-大沢と続く四連トンネルを抜けると“坂本の眺め”を通過した。遠くに、福島‐山形県境に山裾をのばす「飯豊連峰」が見えた。
“七折越え”を終え、会津坂本に停車。貨車駅舎(待合室)に描かれた「キハちゃん」に挨拶。おはよう!*参考:会津坂下町「只見線応援キャラクター誕生!!」(2015年3月13日)
https://www.town.aizubange.fukushima.jp/soshiki/2/3337.html
会津坂本を出た列車は、柳津町に入り奥会津を駆けた。代掻きを終えた田には、未だ稲が並んでいなかった。
会津柳津に停車。先月(4月13日)に改修工事を終え町所有の施設としてリニューアルオープンした真新しい駅舎が目立っていた。*参考:柳津町・㈱JR東日本びゅうツーリズム&セールス・東日本旅客鉄道㈱東北本部「柳津町会津柳津駅舎情報発信交流施設のオープンについて」(2024年3月13日) URL: https://www.jreast.co.jp/press/2023/sendai/20240313_s02.pdf
郷戸手前では“Myビューポイント”を通過。緑に覆われた「飯谷山」(783m、同86座)の山容がはっきりと見えた。
会津桧原を出た列車が桧の原トンネルを抜けようとしたところ、エンジンの変速機が操作されたようで減速した。そして、トンネルを抜けてまもなく、「第一只見川橋梁」を渡った。
この“観光徐行”前の車内放送が、今回は無かった。只見線は全線ワンマン運転が行われているので、安全運転第一のもとで、運転手に案内放送をするかしないかと一任しているのだろうと思った。
上流側、只見川の切り立った“駒啼瀬”の右岸上部にある「第一只見川ビューポイント」にカメラを向けズームにしてみた。すると、最上部になる送電鉄塔根元のDポイントに数名の“撮る人”の姿が見えた。
反対側の座席に移動し下流側を見ると、先月末に登った「日向倉山」(605.4m)が只見川の水鏡にも映り込んでいた。*只見川は東北電力㈱柳津発電所・ダムのダム湖
この後、列車は「第二只見川橋梁」を“観光徐行”しながら渡った。上流側には「三坂山」(831.9m、同82座)が聳え、青空の下で稜線をくっきりと見せていた。
列車が次駅に停車するため減速し、アーチ3橋(兄)弟の“次男”宮下橋(県道237号(小栗山宮下)線)を見下ろしながら、“長男”大谷川橋梁を渡った。*参考:三島町観光協会(観光交流館からんころん)「『みやしたアーチ3橋(兄)弟』のビューポイント」(2013年6月16日) URL: https://blog.goo.ne.jp/mishimakankou/e/e93620f5690ee4e3adf6d1124b2f46e5
7:29、会津宮下に停車。上り会津若松行きの2番列車との交換を行った。
上り列車はキハE120形の単行(1両編成)だった。そして、会津川口発の列車ながら、車内は全てのBOX席に客が1人以上見られ、意外なほど多い客数だった。
会津宮下を出た列車は東北電力㈱宮下発電所の背後、続いて宮下ダムの脇を駆けた。
ダム躯体を通り過ぎると、列車は、しばらく宮下ダム湖の右岸すれすれを走った。
列車は“観光徐行”し、「第三只見川橋梁」を渡り始めた。ここでは陽も高くなり、下流、上流側とも河岸全面を覆った木々の葉が鮮やかに見えた。
7:46、只見川(宮下ダム湖)の左岸に置かれた早戸に停車
駅前には、工事関係者のものらしい、多くの車両が停まっていた。只見川に注ぐ逆瀬川河口付近の土砂除去工事が、まだ続いているのだろうかと思った。
早戸を出た列車は金山町に入り、8連コンクリートアーチ橋の細越拱橋を渡った。
会津水沼を出ると下路式トラスの「第四只見川橋梁」を渡った。
架道橋を潜り抜け国道252号線と並行すると、“見晴らし区間”になった。国道252号線道路(線形)改良工事で電柱・電線地中化が合わせて行われたが、車窓からの眺めで改めてその効果を実感した。
列車が東北電力㈱上田発電所・ダムを右に見ながら進むと、ダム湖越しに今月3日に登った「岳山」(941.7m)の山塊が見えた。*参考:国土交通省北陸地方整備局 阿賀野川河川事務所「阿賀野川の流域紹介」雪崩によって作られる地形~奥只見 / 国土地理院「氷河・周氷河作用による地形」アバランチシュート
会津中川を出て、大志集落の背後を駆け国道252号線を潜り抜けると、前方に只見川に架かる上井草橋(トラスドランガー橋、154m)が見えてきた。
ここで振り返ると、「岳山」山塊を背後に只見川(上田ダム湖)に突き出た大志集落が綺麗に見えた。*参考:福島県生活環境部自然保護課 ふくしまグリーン復興構想「大志集落俯瞰とかねやまふれあい広場からの大志集落」URL: https://www.pref.fukushima.lg.jp/w4/fgr/outline/
8:05、会津川口に停車。先に到着していた小出発会津若松行きの上り3番列車と交換を行った。この列車は小出発が早朝(5時36分)ということからか、乗客は少なく2両編成に各数人だけだった。
会津川口を出た列車は、2022年10月1日に復旧‐運転を再開した区間に入った。
1kmほど只見川の右岸沿いを進むが、穏やかな川面はまずまずの冴えを持つ水鏡となり、左岸に繁る木々を映し込んでいた。
西谷信号場跡の終盤、前方に只見川を渡る5本目の橋が見えた。
列車は、復旧工事で会津川口側の橋桁2間が付け替えられた「第五只見川橋梁」を渡った。錆びついた下路式トラスと真新しい橋桁の組み合わせが、「平成23年7月新潟・福島豪雨」被害を思い起こさせてくれた。*参考:金山町「只見線関連情報」JR只見線の状況
本名を出ると、「第六只見川橋梁」を渡った。
上流側直下に見える東北電力㈱本名発電所・ダムでも放流は行われていなかった。
反対側の車窓から下流側を眺めると、川底の石にぶつかり飛沫を見せる只見川の流れが見えた。「第一只見川橋梁」からダム湖ばかりだったので、この光景は新鮮だった。
本名トンネルを抜け、橋立地区に入ると、民宿「橋立」駐車場の端に立つ、只見線(135.2km)中間点を示す看板(ここが、只見線の真ん中だ!)の前を通過。レール脇に立つ標識にカメラのピントが合ってしまい、ピンボケの写真になってしまった。
会津越川を出てまもなく、東北電力㈱伊南川発電所の構内を駆け抜けた。只見川の支流である伊南川の水を9.5kmの水路トンネルで引き、有効落差109mの水勢でタービンを回し、19,400kw(最大)の電力を生み出している。
復旧区間で最も人口の多い集落にある会津横田を出てまもなく、列車は「第七只見川橋梁」を渡った。
ここも上路式から下路式に変わり、トラス鋼材の間から風景を眺めることになる。上流側には豪雨被害を免れた、町道に架かる中路式の四季彩橋が只見川(本名ダム湖)のわずかに波打つ川面に姿を映していた。
渡河を終えると代掻きを終えた田が、“田鏡”になっていた。
会津大塩では、そばの空地に手作りの人形が並んでいた。
この人形は、地域住民が『車窓から人影が見えるように、そしていつも駅近くに人がいるようになればとの願いを込め』設置された、と全線運転再開から一年を迎えようとする昨年9月末の地元紙で、一面に報じられていた。*下記事出処:福島民友新聞 2023年9月27日付け第1面より
只見川右岸に聳える「鷲ケ倉山」(918.4m、同71座)も水面に全体を映し、上空からならば鷲が翼を広げたような雄大な山容が見えるだろうと思った。
会津塩沢を出た列車は、「第八只見川橋梁」を渡った。
会津蒲生が近付くと、蒲生ヶ原越しに残雪の「只見四名山「浅草岳」(1,585.4m、同29座)がよく見えた。
会津蒲生を出た後に蒲生川を渡り、振り返ると只見四名山「蒲生岳」(828m、同83座)が見えた。
国道252号線八木沢スノーシェッド上方の、見晴らし区間を通過。
八木沢地区に入ると、只見川の上流方向に只見四名山「会津朝日岳」(1,624.3m、同27座)の雄大な山塊が見えた。
この後、列車は只見線最長の「叶津川橋梁」(372m)を渡った。
上流に目を向けると、「浅草山」が“孤立峰”のように山頂付近を見せていた。
渡河後に、左の車窓からは“会津のマッターホルン”の名に相応しい尖がった稜線の「蒲生岳」が見えた。
9:25、只見に到着。前方、田子倉ダム湖の背後に連なる、猿倉山(1,455m)から横山(1,416.7m)の稜線に現れる“寝観音”様の御姿が見られた。
輪行バッグを抱え下車して、ホームから連絡道に下り、振り返って只見四名山「要害山」(705m、同91座)を見上げた。
現在、町では只見四名山に「癒しの森」「恵みの森」を加えた“6山”で「自然首都・只見満喫チャレンジキャンペーン」を行っている。*参考:只見インフォメーションセンター「山開き・森開きのお知らせ」(2024年4月23日) URL: https://www.tadami-net.com/news/720/
駅舎を抜けると、駅頭には「自然首都・只見」号となるワゴン車が停車していた。
ワゴン車に近づくと、運転手が出てきて後部ドアを開けて輪行バッグを入れてくれた。そして、行き先を尋ねられたので、私は『南郷支所前停留所です』と答えて運賃500円を前払いし、「自然首都・只見」号に乗り込んだ。
9:10、会津鉄道の会津田島駅行きの「自然首都・只見」号が只見駅前を出発。乗客は私を含め2人だった。
「自然首都・只見」号は、国道289号線を伊南川沿いに走り進んだ。途中2人の乗り降りがあったが、土曜日ということもあってか県立南会津病院への通院客と思われる通院客の姿は見られなかった。
9:55、「自然首都・只見」号は南郷総合支所前に到着。バス停は国道沿いではなく、支所建物の前になっていた。
さっそく、輪行バッグから自転車を取り出して組み立てて、南郷総合支所前を出発した。
南郷総合支所から直進し、重複区間を終えた国道401号線を右に見ながら、国道289号線に入り山口トンネルを潜った。
トンネルを抜けると道の駅「きらら289」(温泉施設併設、源泉掛け流しの浴室も有))が見え、峠越えの準備をするため立ち寄った。
10:35、道の駅を後にして、「駒止峠」に向けて登坂を開始。中小屋集落を抜けるが、国道の傾斜は緩やかで自転車を難なく漕ぎ進められた。
戊辰役・会津戦争で“入小屋の戦い”が繰り広げられた東集落に入った。
東集会所の前を通り過ぎると、約150年前に建てられた古民家(曲家)を改築し、伝統的なスウェーデン民家を再現したという「ゲストハウス・ダーラナ」が見えた。
ランチやディナーだけでも利用できるゲストハウスということだが、茅葺屋根と青いペイントが施された外壁が印象的な建物だった。
東集落を抜けると、柄倉橋手前の道脇に“これより駒止路・安全運転”と記された大きな看板が現れた。
そして、柄倉橋を渡ると、「唐倉山」(1,175.8m、同54座)の山頂部分が見えた。
11:02、国道の傾斜が徐々に増し、右側に「駒止湿原」へ6kmを示す案内板が立っていた。
そして、この案内板から少し進むと、左側に、石像が見えてきた。
「駒止峠」の「逓送隊殉職者慰霊碑」と「殉職警察官慰霊碑」を記された標杭の前に六体の地蔵様が並んでいた。
冒頭に参考文献として挙げた「会津の峠」には、この慰霊碑建立につながったと思われる事件の一つが記されていた。
「新版 会津の峠(下)」(笹川壽夫編著、歴史春秋社刊) p241より引用
...(前略)、冬期間の逓送は、田島・静川・駒止峠・山口線が最後まで残り、その規模・難路に於いて全国一と言われる程だったという。
そんな中、大正12年3月12日静川局・駒止峠交換所間の通常郵便逓送手だった星重太郎は駒止峠へと差し掛かっていたが雪崩に遭い命を落としている。さらに、昭和13年2月17日、山口・駒止間の逓送手大桃長一郎ら10名は、昨日までの悪天候が回復したことを受けて御前11時に山口局を出発、一路駒止峠を目指すが、30分後には悪天候に変わり、午後1時30分にや猛吹雪となった。9kmの地点に差し掛かった時雪崩が発生、逓送隊後部にいた補助逓送手の山本キミノ、山本ハル、大桃フミエの3名が一瞬にして巻き込まれた。
まず、大桃フミエが約80m下方で発見される。遭難から1時間30分が過ぎた頃山本ハルが発見され、仮死状態ではあったが、人工呼吸の結果ことなきを得た。2名は助かったが山本キミノが遺体で発見される結果となった。
慰霊碑を過ぎると、まもなくバイパス(田島方面)と旧道(駒止湿原方面)の分岐を示す標識が現れた。
分岐を左に進み、旧国道(現 町道東106号線)に入った。
分岐から少し進むと、町が立てた看板に『この森林は、福島県の森林環境税を財源として整備を行っています。自然に感謝し、自分の心に誇りをもって行動し、森林に安心を与えてあげましょう』と記されていた。
バイパスとの分岐から400mほど進むと、バリケードが設置されていた。次の金曜日(5月24日)までの期間で道路工事が行われているようだった。
工事期間の終了まで1週間をきっていて、車両が通過できない場所は自転車を担いで越えればいいと思い、自己責任でこの先に進む事にした。バリケードの右端に人ひとり通り抜けられるような隙間があり、自転車を持ち上げて通り抜けた。
バリケードを越えると、さっそく”新緑のトンネル”となった。陽光を浴び鮮やかで多様な緑は目に優しく、漂う空気は旨かった。
右の斜面に目を向けると、コンクリート製の桝があり、塩ビ管から水が落ちていた。“峠の給水所”のようで、ここでどんな人が喉の渇きを潤したのだろうと思った。
バイパスとの分岐から700mほどで、最初のヘアピンカーブになった。南郷側には24箇所のヘアピンカーブがあり、自動車での走行はより神経を使うだろうと思った(田島側は10箇所のヘアピンカーブ)。
峠道は緑に包まれ、周囲も大半が緑一色だったが、時折、紫の藤の花が見えた。
ヘアピンカーブが多いためか峠道の傾斜は緩く、しかも繁った木々の葉が道を覆う場所が多く、ほとんど直射日光を浴びなかったため、苦無く自転車を漕ぎ進められた。
また、陽光を通した新緑は美しく、疲れを感じることなく、心地よく清々しい気持ちが続いた。
11:42、分岐から3.3kmの場所で、右側が開けている場所になった。
駒止ブロックの手前まで行き、眺めた。地理院地図を見ると「尾白山」(1,398m、同40座)方面だったが、山座同定はできなかった。
また、先に進むと、更に大きく開けた場所があった(分岐から3.7km)。
道の右端に行くと、「唐倉山」の尖った稜線が良く見えた。*参考:拙著「南会津町「唐倉山」登山 2021年 晩夏」(2021年9月21日)
そして、「唐倉山」の左奥には、山襞に残雪がある山が見えた。頂が小さく双耳になっていて、見たことがある山だと思い地理院地図で確認してみると、東北以北最高峰で「会津百名山」第1座の「燧ヶ岳」(2,346.2m *三角点「燧岳」)のようだった。まさかここで福島県の最高峰を目視できるとは思わず、感動してしまった。
峠道を更に進むと、最近工事を終えたような場所があった。擁壁の一部が補修され、舗装し直されているように見えた。
また、この先には山側の斜面が大きく削られ、コンクリートで法面覆いされた場所があった。
この辺りで、地面に記された 車両制限速度が40(km/h)から30(km/h)に変わっていた。
12:05、バイパスとの分岐から約5km。峠道から見上げると、山の稜線が見えた。地理院地図を見ると、昭和村大芦地区を流れる玉川の源頭部の山のようだった。
この先、左に直角に曲がり、3つのヘアピンカーブを抜けると、右側が大きく開けた(分岐から5.4km地点)。
自転車を山側の斜面擁壁に立てかけ、駒止ブロックの前に立つと、大きく開けた、素晴らしい眺望が得られた。
「唐倉山」山頂と同じような高さにいるようで、「唐倉山」」の向こうに、南から孤立峰「燧ヶ岳」、「会津駒ヶ岳」(2,132.6m、同2座)・「三岩岳」(2,065.2m、同5座)・「窓明山」(1,842.5m、同15座)の山塊が良く見えた。
結果、ここの眺望が一番良く、“駒止峠ビューポイント”と呼べる場所だった。
ちなみに、「唐倉山」山頂から見えるこの“駒止峠ビューポイント”が、「唐倉山」登山時の写真に写り込んでいた。
“駒止峠ビューポイント”から先は、峠道の傾斜が緩やかになった。道路補修の工事を終えたような場所もあり、この先に工事箇所が無かったことから、5月24日の終了期間前に全ての作業を終えたようだった。
“駒止峠ビューポイント”から2つのヘアピンカーブを抜け、直角に左に曲がると、直線の先に峠の最高点らしい場所が見えた。
12:30、切通しの先が下り坂になっていて、事前にGoogleMapのストリートビューで確認していた「駒止峠」山頂(1,135m)に到着したようだった。
この「駒止峠」山頂には林野庁関東森林管理局の「会津山地緑の回廊」を示す案内板が立っていた。
また、この案内板の20mほど先のブナの木には、赤ペンキで矢印が記され、“ここが峠の頂”と示しているようだった。
ストリートビューでは、このピークの先に地蔵様があったので、それを見に少し坂を下った。
50mほど下ると、左側の斜面の上に石像が見えた。
「駒止峠」山頂に置かれた地蔵様。いつから置かれているが不明だが、バイパスができるまで、どれほどの人の往来を眺められていたのだろうと思った。
「駒止峠」山頂(1,135m)には三角点が無いため、ここから一番近い三角点である「根岸山」(1,177.9m)に立ち寄る事にした。
山頂から少し南郷地区側に引き返し、未舗装の作業道に入った。この作業道は「駒止峠」の別道「小峠」に通じる道だ。
作業道を400mほど進むと、ブナの幼木に赤ペンキで印が付けられているのが見えた。
正面に立って見ると、赤ペンキの印は森の奥の方続いていて、踏み跡らしきものも見られた。ここは事前に地理院地図の等高線を見て、「根岸山」への取付き点としていた場所付近だったので、自転車を置いて、熊鈴と笛を身に付けるなど準備をした。
12:45、三角点「根岸山」に向かって登山を開始。しばらくは赤ペンキの印を辿った。
だが、100mほど進むと、境界杭らしきものが現れ、赤ペンキの印はこの付近で途絶えた。
境界杭の先は、踏み跡は消え、藪も濃くなった。ただ、前方を見ると、ピンクテープが見えた。
ピンクテープに近づき、そこから先に見える小高い場所を目指した。
周囲の見通しが悪くなったので、笛を吹き、「北大クマ研」の“ポイポーイ”を大きく叫びながら登り進んだ。*参考:北海道新聞「「ポイポーイ」クマよけのかけ声が響く北大天塩研究林 地図とコンパスで広大な山林を調査して歩く北大クマ研のヒグマ調査に同行」(2022年9月15日) URL: https://www.hokkaido-np.co.jp/article/730946/?pu
短い斜面を登ると、平たい空間になった。
そして、少し進むと足元にピンクテープが見えた。三角点には近すぎると思ったが、一応、この付近の地表を探したが、標石は見つからなかった
地理院地図の等高線を確認し、緩やかに波打つ山頂尾根らしき場所を北に進んだ。
150mほど進むと、こんもりとしたピークが見えた。
このピークに乗り、ササが生い茂る地表を10分ほど探索し、『尻吹峠、早坂峠、黒岩に続いて、ここでも三角点は見つからないか...』と思い始めた。そこで、何気なく左方向に少し目を向け、地表を見ると苔むした四角い物体が目に留まった。標石だった。
13:21、標石の正面に回って屈むと、“三等 三角”の刻印を確認した。三等三角点「根岸山」に到達し、標石に触れて、“発見”を祝った。
標石の周りの落ち葉や笹を除けて、標石を露出させた。『三角点標石は山頂の、相応の場所に埋設されているなぁ』と改めて思った。
スマホの通信可能エリアだったので、国土地理院の「基準点成果等閲覧サービス」を開き、位置情報を許可すると、画面中央に三角点「根岸山」が表示された。間違いなく、ここは「根岸山」だった。
*三等三角点「根岸山」
基準点コード:TR35539644801
北緯 37°12′10″.3437
東経 139°36′25″.0744
標高(m) 1177.93
造標 昭和27年8月10日 *「点の記」より
*出処:国土地理院地理院地図「基準点成果等閲覧サービス」URL:https://sokuseikagis1.gsi.go.jp/)
三等三角点「根岸山」を後にして、取付き点に戻った。
途中、足元に真っ黒な物体を認め、見るとクマのお尻からの落とし物だった。表面は乾いておらず、最近のもののようだった。『自分はクマの活動域を歩いている』と改めて強く認識し、笛を大きく吹いて、“ポイポーイ”と叫びながら、藪を掻き分けて進んだ。
三等三角点「根岸山」から、10分とかからず取付き点に戻ってきた。木に立てかけた自転車は、無傷だった。
さっそく自転車にまたがり、旧道に戻った。
そして、「駒止峠」山頂を抜け、下り坂を快調に進んだ。
少し進むと、右側が赤穂原川の源流域になり、雪塊が見えた。
右側斜面の落ち込みが徐々に深くなり、赤穂原川の水音が聞こえ始めた。
「駒止 峠の茶屋」跡となる空き地前を通過。
「駒止 峠の茶屋」は、難所「駒止峠」を越える人々の“お助け小屋”が前身で、故・中村源治さんが20代で引き継いで民宿を兼ねた「峠の茶屋」として開業。囲炉裏で焼いたイワナの塩焼きや有名で、「駒止峠」を訪れる観光客を中心に根強いファンがいたという。中村さんが亡くなった後、奥様や娘さんにより営業を続けたが、2000年に入り雪害で建物が損傷し営業が困難になり、2005年に廃業してしまった。*出処:「希望の里暮らし」(高桑信一 著、つり人社) / Web「福島の山々」URL: https://yamayama.jp/komado/komado.htm 等
「峠の茶屋」跡から500m下ると、分岐が見えてきた。
13:48、「駒止湿原」の南会津町側の入口に到着。ここまで田島地区側を塞ぐゲートは無く『おかしい』とは思ったが、自転車を押して急坂を上った。
まもなく、駐車場が見えたが、車が1台も無かった。
そして、トイレが置かれた上段の駐車場に到着。ここにも車は1台も無かった。昭和村側が国道401号線の通行止めで、今はこの南会津町側が唯一の「駒止湿原」への入口になっているので、これで今日は湿原に誰もいない事が確定した。
駐車場の入口には、湿原に咲く花々などの写真が載った大きな看板が立てられていたが、とうに春の花が見ごろを迎えている中での閑散に、違和感を覚えた。
この“駒止湿原の四季”と題された案内板には、春、夏、秋に分けられ植物の名前が入った多彩な写真に並べられていた。
そして駐車場の上の方には、「駒止湿原」の案内図と、“天然記念物 駒止湿原”の説明板が立っていた。
天然記念物
駒止湿原
昭和45年12月28日指定 文部省告示
平成12年3月7日指定 文部省告示
▢指定基準特別史跡名勝天然記念物及び史跡名勝天然記念物指定基準(昭和26年文化財保護委員会告示台号)天然記念物二植物の(六)泥炭形成植物の発生する地域の代表的なもの
▢指定概要
駒止湿原は福島県田島町と昭和村の境界に位置する火砕流台地の台地面西部にある高層湿原で、大谷地、白樺谷地、水無谷地の三つの湿原が含まれる。湿原には、ヤチスギラン、ツルコケモモ、ヒオウギアヤメなどの北方系の植物が分布し、周辺にはブナ林とともに湿地林、遊水低木林、針葉樹植物など湿原発達諸段階の植物がみられ、学術的価値が高い。三つの湿原とその周辺(104.67ヘクタール)については昭和45年に指定され、湿原と一体である受水域も、土地の公有化に伴って平成12年に追加指定(43.3291ヘクタール)され、自然復元が図られている。
文部省 福島県教育委員会 南会津町 昭和村
*参考:本田技研工業㈱ 「Honda Kids」日本人の心のふるさと⁉ 水をたたえた草原「湿原しつげん」のふしぎとナゾ
14:09、自転車を停め、遅い昼食を摂ってから「駒止湿原」に向けて歩き出した。
舗装道を進んでゆくと、茂みの間に延びる遊歩道の入口があった。
丸太で作られた遊歩道を進むと、まもなく両側がクマザサで覆われた踏み跡が続いた。周囲の視界が悪いため、熊除けの笛を大きく吹いて、“北大クマ研のポイポーイ”を叫びながら歩き進んだ。
14:15、ブナ林を抜けると、前方が少し開け、大きな案内板が立っていた。
案内板は一つ目の湿原「大谷地」を説明するものだった。
大谷地
▢面積 13.3ヘクタール
▢特徴
大谷地は、三つの湿原の中で最も面積が大きい。湿原が発達し始めた時期は、およそ5,000年前で、泥炭層の厚さも1.7メートルと概して薄い。ほかの二つの湿原とは異なり、泥炭層と岩盤のうちの間には厚さ1メートルに及ぶシルト層があり、泥炭が堆積する以前には浅い池沼や小さな沼沢が断続していたとみられる。(以下、省略)
案内板の直後は、左側だけが開けていた。
すこし進むと、右に植生保護用の金網が見られ、
その先で前方が開けた。右側には、藪に覆われた焼沢川の源流があり、しばらく、並行して進んだ。
木道は、一部朽ちている場所もあったが、歩けないほどではなかった。
木道の周辺には、花々も見え始めた。
黄色い花びらと花弁が、陽光を浴び輝くリョウキンカ(立金花)。
淡い紫が可憐な、タテヤマリンドウ(立山竜胆)。
焼沢川源流に注ぎ込む小川には、葉が密集していた。ミズバショウの花が落ちた後の葉ではないかと思った。
14:25、前方がさらに開け、湿原らしい光景を見ながら木道を歩いた。
少し進むと、これから真っ白な果穂を見せるであろうワタスゲ(綿菅)が足元に点在していた。
また、少し進むと、花を付けたミズバショウ(水芭蕉)が見られた。
14:32、焼沢川(玉川支流)に注ぐ小川が、木道の脇に姿を見せた。そして、木道は北から東に方向を変えた。
流れは弱かったが、水は澄み、清らかだった。
14:37、木道がブナ林に延びた。
林を抜けると、正面に道標が立っていた。
道標は、左がこの先の2つの湿原、右が駐車場(南会津側)を示していた。通常、「大谷地」は一方通行なので、この道標を立てたのだろうと思い、左(北北西)に進んだ。
戦中の食糧難の時代、この「駒止湿原」の東に農地を拓いたというが、その名残で轍のある作業道が延びていた。300mほど進むと、前方に白い案内板が見えた。
14:49、案内板は二つめの湿原「白樺谷地」の説明が記され、一読してから右(東)に延びる木道を進んだ。
白樺谷地
▢面積 5.7ヘクタール
▢特徴
白樺谷地は、大谷地と同じ焼山沢の支谷に発達した湿原であるが、もともと低平な広い谷であったようで、湿原の形も大谷地のように複雑ではない。泥炭層の厚さは2.5メートルで、大谷地よりは厚いがシルト層はない。泥炭層が堆積し始めた時期は、およそ15,000年前とみられるが、その大部分は湿地林や遊水低木林、あるいはせいぜい低層湿原などの繰り返しであったが、途中にサワラやキタゴヨウの針葉樹湿原の時代があったことが注目される。1,000年前以降は大谷地と同じく急速な発展を見せ、ヌマガヤの中間湿原を経て高層湿原に達している。(以下、省略)
30mほどの灌木帯を抜けると、前面が開けた。
足元にリョウキンカやタテヤマリンドウ以外の植物は見られなかったが、開けた空間を気持ち良く歩き進むと、前方に幹が白い針葉樹が立ち並んだ。
木道はその中に延びた。それらの“白木”は名が特定できなかったが、湿原ならではの植生だと思った。
“白木”と灌木の密集帯を抜けると、再び前方が開けた。
そして、木道の脇に蕾を見つけた。何の植物か特定できなかったが、冬を越え、春や夏へと移り変わる季節は実感できた。
14:56、木道が南東東から北東に変わり少し進むと、「白樺谷地」が終わったようで木道は森の中に延びた。
この森は広いようで、一部が朽ちた木道が長く延びた。
木道を2度直角に近い形で曲がりながら歩き進むと、森を抜けた。三つ目の湿地「水無谷地」に入ったようだった。
この「水無谷地」は他二つの湿地とは異なり入冷湖沢の源頭に発達したというが、両側の森が近く開けていないという点でも異なっていた。
ただ、ここでは、まだ生き生きとしたミズバショウの群生を見る事ができた。焼山沢源頭にある他二つの湿原より、水温が低いのだろうかと思った。
ここでも、中間に茂みがあり湿原が分断されていた。
茂みを抜けると右側に白い花の群生があった。タムシバのようだった。
15:05、「水無谷地」は再び開けた空間になった。入冷湖沢の源流の一部も姿を現した。
開けた空間に、それを取り囲む木々の緑、白い幹の針葉樹、小さな流れ、そしてミズバショウと私がイメージしていた湿原らしい光景も、この「水無谷地」で見られた。
15:10、木道が三度森に向かった。「水無谷地」が終わったようだった。
森の中に入ると、まもなく上り坂になり、突き当りに見慣れた案内板が立っていた。
「水無谷地」の説明板だった。ここだけ、昭和村側に立てられていた。
水無谷地
▢面積 8.3ヘクタール
▢特徴
水無谷地は、他の湿原とは別の、入冷湖沢の谷頭に発達した湿原である。南北に細長い湿原であるが、西側の山が比較的急傾斜であるのに対して東側の傾斜は緩くいくつかの支谷に沿って広く湿原が発達しており、全体として枝分かれの多い複雑な形になっている。泥炭層の厚さは2.3メートルで、ほぼ白樺谷地に等しい。その発達の始まりは三つの湿原のうち最も古く、およそ20,000年前とみられている。その大部分は遊水低木林やせいぜい低層湿原までのくり返しであったが、他の二つの湿原と同じくおよそ1,000年前から高層湿原に向けての急速な発達があり、現在の景観となったのは数百年前とみられる。(以下、省略)
案内板の先は平坦に近い上り坂が延びていた。
100mほど進むと、一転、今度は急坂の下りになった。慎重に下った。
下りきると、「水無谷地」の水が注ぎ込む入冷湖沢の谷地のようで、まもなく上り坂になり、前方に大きな標杭が見えた。
「駒止湿原」昭和村側入口を示す標杭だった。そして、その奥には大きな案内板が見えた。
15:14、轍のある道を進むと、大きな案内図が立てられ、駐車スペースが広がっていた。
湿原の図が描かれた案内図は、南会津町のそれより新しく、見やすかった。この案内図の隣には、南会津町側と全く同じ“天然記念物 駒止湿原”の説明板が立っていた。
15:17、「駒止湿原」昭和村駐車場を後にし、引き返した。
「駒止湿原入口」標杭の前で、車道から遊歩道に入る。
15:20、「水無谷地」に入る。
15:28、「水無谷地」を歩き終える。
15:31、「白樺谷地」に入る。
15:36、「白樺谷地」を歩き終える。
農道を、400mほど進む
15:40、駐車場との分岐に到着。本来ならば直進しなければならないが、今日は誰も居ないというこで「大谷地」に入った。
「大谷地」は西陽を受け、木道が浮かび上がっていた。
「大谷地」には追い越し場になっている幅広い木道があったが、改めて見た。
15:51、「大谷地」を歩き終える。
15:54、駐車場につながる農道に合流。
15:56、駐車場(上段)に到着。昭和村側の駐車場から、早歩きで39分で踏破した。
会津百名山「駒止湿原」の散策を終えた。
清廉なミズバショウを中心に、春の花々が一面に咲く光景を期待していたが、少雪と早春から続く高温のためかそれは叶わなかったようで、地球温暖化が奥会津の稀有な湿原にも及ぼしている影響を感じながらのトレッキングとなってしまった。
ただ、花々は少なかったが、広大で奥行きがあり所々に清らかな流水が見られる湿原と、それを取り囲む鮮やかに葉を茂らせたブナの林の眺めは素晴らしく、気持ち良く歩き続けられた。また、学術的にも価値の高いこの景勝地「駒止湿原」は、“観光鉄道「山の只見線」”の多様な価値を高める存在であると実感した。
現状、鉄道を使った「駒止湿原」へのアクセスは、会津鉄道・会津田島駅からが南会津町口に向かうルートが断然優れている。距離的に近いこともあるが、県の合同庁舎がある南会津郡の中心地ということでタクシーの数は奥会津地域で最も多く、町内宿泊者限定となるが「シャトルタクシープラン」もあり宿泊地から「駒止湿原」南会津町口まで送ってもらえる。*参考:南会津町 商工観光課 駅からのアクセス「シャトルタクシープラン」/ 南会津町観光物産協会「駒止湿原」
只見線の駅から「駒止湿原」南会津町口へのアクセスは、只見駅からタクシー移動も可能だが、距離が42kmと長大で料金的に一般的ではない。ただ、他選択肢は少なく、今回私が採った“路線バス+輪行の自転車”が、南会津町口と昭和村口双方に向かうには最も省力だ。
①只見駅:「自然首都・只見」号で南郷総合支所前下車→輪行した自転車で約13km
②会津川口駅:会津バス「川口車庫~大芦」線で大芦下車→輪行した自転車で約12km(7kmは未舗装道)
輪行はコツを習得し慣れが必要だが、只見線を利用した旅の幅を広げる。そこで、ロードバイクの分解収納・組立の講習会を開いたり、期間限定で良いので、観光繁忙期に只見線の主要駅に“輪行スペシャリスト”を配し直接指導するなどし“只見線と輪行”文化を広めれば、只見線の誘客に確実につながると私は思っている。
この“只見線と輪行”文化の浸透と定着と同時に、只見線を利用した「駒止湿原」への訪問者を増やすための案として、以下が考えられる。
①“只見線を使った「駒止湿原」トレッキングツアー”を企画し、駅~「駒止湿原」間で貸切バスを走らせる。
②「自然首都・只見」号を、事前予約制で、「駒止峠」の南郷口と針生口(国道289号線と旧道との分岐点)で乗降可能とする。
③電動アシスト機能付きレンタルサイクルを、昭和村大芦地区と南会津町南郷総合支所設置。南郷総合支所分は旧針生小学校や会津田島駅に乗り捨て可能とする。
いずれも行政が関わる必要があるが、②はすぐにでも実施可能ではないだろうか。
①と③については、昭和村観光協会の「駒止湿原」のホームページに記された『(昭和村口へのアクセスは)悪路のためおすすめしておりません』を考慮すると、①の貸切バスは南会津町口のみとなり、③はママチャリ型のレンタルサイクルでは昭和村口への往復は厳しいかもしれない。だが、観光客のアクセス手段の選択肢を増やす必要はあると思う。
昭和村には「矢ノ原湿原」、南会津町には「宮床湿原」(会津百名山)があり、只見線を利用した「駒止湿原」へのアクセスが向上されれば、“観光鉄道「山の只見線」”に湿原という確かな観光コンテンツが加わり、誘客につながるだろうと思った。*参考:拙著「昭和村「矢ノ原湿原」2017年 紅葉」(2017年10月21日)・「南会津町「明神岳」登山/「宮床湿原」トレッキング 2021年 夏」(2021年8月28日)
16:00、「駒止湿原」南会津町側の駐車場を後にした。
旧道(峠道)に入り、下り坂を快調に進むと、まもなく2つのヘアピン・カーブとなった。
そして、カーブを抜けると峠道は赤穂原川に沿うようになった。
また、赤穂原川には峠道7箇所の橋が架かり、下り進むと左右交互に清流が見られた。
このあたりで、釣り竿を持ち、川床を眺めながらこちらに上ってくる方とすれ違った。イワナが釣れるのだろうかと思った。
4つ目の橋を渡ると、赤穂原川右岸上方にガードレールがあり、立ち止まって良く見ると道が崩落しているようだった。
調べると、林道石橋線のようだった。峠道(町道東106号線)をバイパスするような道だが、役目を終えたため復旧されないのだろうと思った。
最後の橋となる「一の𣘺」を渡った。“はし”の字の旧字に歴史を感じた。
この「一の𣘺」を渡ると、山の斜面に“東堂山”と刻まれた石碑が立っていた。国土地理院地図で確認するが、この斜面の上方に“東堂山”という記述は無かった。
16:15、「一の𣘺」の先、50mほどにゲートがあった。これを見て、「駒止湿原」へのアクセスは完全に閉ざされていたことを知った。
自転車を抱え、ゲートの脇を通り抜け振り返って見ると、南郷口に立てられていた工事標は見当たらず、同じ建設会社の名が記された“通行止”の看板だけがゲートに括り付けられていた。
この時は、これほどの強固なゲートが設置され、「駒止湿原」が“閉鎖”されている理由が分からなかった。
ゲートを背に、少し進んで右に大きく曲がると前方が開け、「七ヶ岳」山頂(1,635.8m、同25座)に連なる峯が見えた。
少し先に進むと、会津バスの「駒止湿原入口」バス停があった。ただ、時刻表を見ると会津田島駅方面に行く2便は午前のみ、会津田島駅方面からやってくる2便は午後のみという、通学者向けのダイヤだった。
バス停の少し先に林道石橋線の入口があり、そこで立ち止まり振り返って「駒止峠」方面を眺めた。
この先、峠道は大規模に圃場整備された田園の上部に延び、見晴らしが良く気持ち良かった。
針生地区の中心部に入ると、営業状態は不明だが、旅館や民宿が多く目に付いた。只見町黒谷にある旅館と同じ屋号も見られた。
16:25、国道289号線にぶつかり、峠道(旧道)14kmが終わった。
ここで、峠道の入口の写真を撮ろうと、国道289号線に面した擁壁に自転車を立てかけたが、上に立つ“駒止湿原入口”と記された看板を見て、驚いた。なんと“5/25(土) 開山”と貼り紙されていた。
これを見て、峠道(町道東106号線)にバリケードが設置され、「駒止湿原」に誰も居なかったかがはっきりとした。
当初は昭和村側から「駒止湿原」に入り、「駒止峠」山頂を経由して田島方面に抜ける計画を立てたが、昭和村側の国道401号線が工事通行止めでアクセスできないため、南会津町側から変更していた。まさか、「駒止湿原」に“山開き”があるとは考えず、また開山前とは思わず今日訪れてしまった。
お陰で、「駒止峠」では自動車の往来が無くブナの新緑を満喫し、「駒止湿原」では「大谷地」を往復することができたものの、道中何も起こらなくて本当に良かったと心底思った。
「駒止峠」は素晴らしい峠道だった。南郷側は緑のトンネルと「燧ヶ岳」「会津駒ヶ岳」の眺望、田島側は赤穂原川の清らかな流れと沢音、それぞれ違った特徴があり「会津百名山」に相応しいと思った。実際は自動車や他のサイクリストの往来があるため、多少の喧騒はあるかもしれず、また13.8kmと長い道程ではあるが、「駒止峠」は自転車や徒歩で越える価値があるとも思った。
「駒止峠」を後にして、会津鉄道・会津田島駅に向かって国道289号線を駆け下りた。
赤穂原川が注ぐ桧沢川を渡り急坂が終わる頃に、会津若松方面、昭和(村)方面、宇都宮方面への分岐を示す標識が現れた。その柱には、『福島空港92km』というサインも取り付けられていた。
会津地方に限らず県内のいたるところにこの『福島空港〇km』が見られ、どれほどの効果があるのかは不明だが、県にとって空港の利用促進と県民認知の向上は重要なのだろうと思った。
国道は桧沢川の谷底平野に沿って見通しの良い状態になり、市街地まで続いた。下り坂には違いなかったが、平坦といっても過言ではなく、調べると9km進み標高が90m下がるという傾斜だった。
国道沿いでは田植え作業が見られたが、終盤のようで、ほとんどの田では小さな稲が綺麗に列を作っていた。
塩江地区に入ると、右前方に奇妙な形の巨木が見えてきた。
南会津町指定天然記念物「下塩江五本松」だ。樹齢約200年とも言われ、一本の幹が地上2.5m付近から5本に分枝しているという。*参考:福島県農林水産部「福島県森林環境税」南会津地区の巨木を紹介します
南会津町指定天然記念物
下塩江五本松
昭54年10月8日 指定
1.所有者 下塩江苦
2.所在地 南会津町塩江字上坪乙九五九番地
3.樹 高 約25メートル
目通り幹回り 約5.5メートル
樹 齢 約150年~200年
このアカマツは地上2.5メートル付近から5本に分枝しており「五本松」、「塩江の五本松」と呼ばれている。
江戸時代の針生街道の道筋は、この老木の下を通って西に続いてた。古街道の名残である。樹下には小祠及び石碑があり、往時の民間信仰の面影をとどめるとともに、西方遠く駒止の峰を望み、夕暮れ時には一層の風情を引き立てている。
南会津町教育委員会
阿賀川(大川)に注ぎ込む桧沢川を渡ってまもなく、「会津酒造」に到着。ここで日本酒を買おうと思っていたが、閉まっていた。
永田橋を渡り、只見線では大川橋梁が架かる阿賀川(大川)を見下ろした。
17:11、永田橋を渡り会津鉄道の高架を潜ると右側に「京屋酒店」が見え、立ち寄った。
「会津酒造」で買えなかった「会津」か「山の井」を買おうと思い酒瓶を眺めていると、店主から『“黒てふ”ありますよ。そこにあるので終わりです』と言われ、棚に目を向けると黒いラベルが並んでいた。限定品で機会があれば呑んでみたいと思っていた酒に出会い、迷わず「国権酒造」の純米大吟醸酒「てふ」(通称“黒てふ”)の四号瓶を購入した。この“黒てふ”は、次の土曜日に全線乗り通す予定の只見線の列車の中で呑もうと思った。
「京屋酒店」を出ると会津田島駅に向かい、駅頭で自転車を輪行バッグに収め、ベンチで休むなどして時間を潰した。
18時を周り、会津田島駅から歩いて「南会津マウンテンブルーイング Taproom Beer Fridge」に向かった。
私と同世代の店主が、木材店の社長を務めながら開いてい醸造所で、Taproom(タップルーム:自家製ビールを客に提供する場所)があるということで、機会があれば訪れたいと思っていた場所だ。
タップルームに入ると、木材をふんだんにつかったあたたかな内装が出迎えてくれた。私は店主から『料理は無いので、近くのコンビニかスーパーで調達してください』と前置きされ、壁に取り付けられたタップを指しながら各クラフトビールの説明を受けた。
そして、私は最初の1杯を「Pale Ale」にした。
注文すると、店主は流れる手つきでタップのバーを下げて、琥珀色の「Pale Ale」を美しく注いでくれた。
足つきのスクーナービールグラスを掲げ、「駒止峠」「駒止湿原」の無事踏破を祝ったのちに「Pale Ale」を流し込んた。ほどよく冷えた「Pale Ale」は香り、風味、のど越し、全てが素晴らしく、旨かった。
この後、都合4杯のクラフトビールを呑みながら、ご主人からビールや、本業の木材など、興味深い話を伺った。
「南会津マウンテンブルーイング」は、今月3日に現地の向かいに新しいビール工場を増設したというので、この店を目的に只見線の旅を計画したいと思った。
また、ご主人の下で修業した方が、私の住む郡山市の堂前にクラフトビールの店「PIRONO」をオープンするということで、この店にも訪れることをご主人に伝え「南会津マウンテンブルーイング Taproom Beer Fridge」を後にした。
急ぎ、会津田島駅に向かい、駐輪場から輪行バッグに収めた自転車を回収し、会津若松行きの最終列車に乗り込んだ。
19:40、会津鉄道㈱会津線の上り列車が会津田島を出発。1両編成の車内は、しばらく私一人だった。
20:47、途中で数名の客を乗せた列車が、終点の会津若松に到着。只見線を使った「駒止峠」「駒止湿原」を踏破する旅が、無事に終わった。
(了)
・ ・ ・ ・ ・
*参考:
・福島県 :只見線管理事務所(会津若松駅構内)
・NHK:新日本風土記「動画で見るニッポンみちしる~JR只見線」
・産経新聞:「【美しきにっぽん】幾山河 川霧を越えてゆく JR只見線」(2019年7月3日)
・東日本旅客鉄道株式会社:「只見線について」(PDF)(2013年5月22日)/「只見線(会津川口~只見間)の鉄道復旧に関する基本合意書及び覚書」の締結について(PDF)(2017年6月19日)
【只見線への寄付案内】
福島県はJR只見線全線復旧後の「上下分離」経営での維持費や集客・地域振興策の実施費用として寄付を募集中(クレジット可)。
①福島県ホームページ:只見線復旧復興基金寄附金・只見線応援団加入申し込みの方法
*現在は只見線ポータルサイト「只見線応援団」URL:https://tadami-line.jp/support/
②福島県:企業版ふるさと納税
URL:https://www.pref.fukushima.lg.jp/sec/16005g/kigyou-furusato-zei.html
[寄付金の使途]
(引用)寄附金は、只見線を活用した体験型ツアーや周遊ルートの整備、只見線関連コンテンツの充実化等に活用させていただきます。 沿線地域における日本一の秘境路線と言われる観光資源を活用し、更なる利用者の拡大と認知度向上を図ります。
以上、宜しくお願い申し上げます。
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