全線乗車(小出⇒会津若松) 2008年 早春

2008年4月10日5時30分、新潟県側の起点・小出駅からJR只見線の始発列車に乗車。初めて、全線を乗り通した。

 *参考:

・福島県:只見線ポータルサイト

・NHK:新日本風土記「動画で見るニッポンみちしる~JR只見線」 

・拙著:「次はいつ乗る?只見線」カテゴリ ー只見線全線乗車ー / ー只見線の春

  

 


 

 

この旅は司馬遼太郎著「峠」を読み終えて計画。

4月8日、「峠」の主人公である越後長岡藩士で、幕末期に家老上席・軍事総督となった河井継之助が西国遊学で主目的地にした備中松山城城下、現在の岡山県高梁市を訪れた。

  

備中松山城見学後は、JR伯備線を利用し、方谷駅に。河井継之助が教えを請い、師と仰ぐようになった松山藩士で儒家陽明学者・山田方谷が開いた長瀬塾のあった地で、彼はここに滞在した。

 

 

4月9日、河井継之助の生地・新潟県長岡市を訪れ、まずは、「河井継之助記念館」に立ち寄った。*参考:長岡市「越後長岡 河井継之助記念館」URL:https://tsuginosuke.net/

 

続いて、河井継之助の墓所のある栄涼寺。

 

新政府軍に恭順せず長岡城下を戦火で荒廃させた、河井継之助に対する民衆の評価は決して高くなく、“墓荒らし”にも遭ったという。

 

墓所を後にし、路線バスに乗って、戊辰役北越戦争で火力・兵力で劣る長岡藩軍が、長岡城奪還に成功し一矢報いたハ丁沖の戦いのあった古戦場跡を訪れた。

北越戦争は、新政府軍による長岡城再奪還により、終結してゆく。“敗北”した河井継之助率いる長岡藩軍は、奥羽越列藩同盟の盟主・会津藩を頼るため、栃尾から険峻・八十里越を経て会津若松城下を目指した。


ハ丁沖古戦場跡を後にして、JR上越線・越後滝谷駅に降り立つ。駅周辺の桜は三・四分咲きだった。

 

国道17号線を歩き、榎峠古戦場パークの入口に到着。

 

この榎峠は、戊辰役北越戦争の口火を切った場所。

 

 

榎峠古戦場パーク入口の先にある越の大橋を渡り信濃川左岸に行くと、橋のたもとに石碑が見えた。

 

「峠」の文学碑で、表には司馬遼太郎氏の直筆で「峠」の一節が、裏には『「峠」のこと』という氏の文が銅板に浮き出されていた。「峠」には河井継之助が江戸遊学で越えた三国峠や、“会津敗走”で越えた木ノ根峠(八十里越)などの“峠”が出てくるが、司馬遼太郎氏は新政府軍(新時代)と長岡藩軍(武士の世)が戦いの火ぶたを切る事になったこの小千谷周辺の峠を象徴として、「峠」を書いたという。

「峠」のこと
 江戸封建制は、世界史の同じ制度のなかでも、きわだって精巧なものだった。
 十七世紀から二百七十年、日本史はこの制度のもとにあって、学問や芸術、商工業、農業を発達させた。この島国のひとびとのすべての才能と心が、ここで養われたのである。
 その終末期に越後長岡藩に河井継之助があらわれた。かれは藩を、幕府とは離れた一個の文化的、経済的な独立組織と考え、ヨーロッパの公国のように仕立てかえようとした。継之助は独自の近代化の発想と実行者という点で、きわどいほどに先覚的だった。
 ただ、こまったことは、時代のほうが急変してしまったのである。にわかに薩長が新時代の旗手となり、西日本の諸藩の力を背景に、長岡藩に屈従をせまった。
 その勢力が小千谷まできた。
 かれらは、時の勢いに乗っていた。長岡藩に対し、ひたすらな屈服を強い、かつ軍資金の献上を命じた。
 継之助は小千谷本営に出むき、猶予を請うたが、容れられなかった。
 といって、屈従は倫理として出来ることではなかった。となれば、せっかく築いたあたらしい長岡藩の建設をみずからくだかざるをえない。かなわぬまでも、戦うという、美的表現をとらざるをえなかったのである。
 かれは商人や工人の感覚で藩の近代化をはかったが、最後は武士であることのみに終始した。
 武士の世の終焉にあたって、長岡藩ほどその最後をみごとに表現しきった集団はない。運命の負を甘受し、そのことによって歴史にむかって語りつづける道をえらんだ。
 「峠」という表現は、そのことを、小千谷の峠という地形によって象徴したつもりである。書き終えたとき、悲しみがなお昇華せず、虚空に小さな金属音となって鳴るのを聞いた。
  平成五年十一月  司馬遼太郎

 

 

 

4月10日、只見線の始発列車に乗るために早起き。宿の窓から、小出駅のホーム越しに魚野川と“権現堂山”を眺めた。

 

小出駅は、静まり返っていた。

 

ホームに行く。只見線は会津若松~小出間の135.2km。

   

小出を出ると田園風景が広がるが、列車はまもなく山間部を走った。

  

入広瀬を出て、「藤平山」(1,144m)の背後に、“守門岳三峰”の「大岳」(1,432.4m)を眺めた。

  

新潟県側の最後の駅、大白川で下り列車を待つために停車。

 

JR東日本東北地域本社(仙台支社)色のキハ40形が並んだ。

  

 

 

大白川を出発した列車は、末沢川の渓谷に沿って駆け上がり、六十里越トンネルを抜け福島県に入った。

 

只見に到着。雪は未だ多く残っていた。

  

只見を出ると、只見川を右手に見て列車は進んだ。

 

ダム湖(滝ダム)となった只見川に近づき、“不渡河橋”である第八只見川橋梁を渡った。

 

会津塩沢を出て、滝トンネル手前で振り返って塩沢集落(旧塩沢村)を眺めた。河井継之助はここで最期を迎え、没地である村医・矢澤宗益の家跡地は、滝ダム湖(只見川)の底となっている。*参考:只見町「河井継之助記念館」URL:https://tadamikousya.sakura.ne.jp/kawai/about/

  

 

会津川口に到着。ここでも小出行きの列車を待つために停車。

 

 

 

列車、この後順調に駆け、会津若松に到着。

 

会津若松市内は小雨が降っていて、滞在中降り続けた。

 

 

塩沢村で荼毘に付された河井継之助の骨が一時埋葬された、市内の建福寺に向かった。

 

緩やかな坂を上ると案内板があり、その先の石段を進むと少し大きい墓石が見えた。


「河井継之助君埋骨遺跡」に着く。手を合わせた。

 

「埋骨遺跡」からは、戊辰役会津戦争の激戦地となった会津若松城が見えた。

 

 

 

「河井継之助君埋骨遺跡」を後にして、会津若松城に向かう。市内の桜は、未だ蕾だった。

  

会津若松城(鶴ヶ城)に着き、城郭を見上げた。

小学生の頃に地区の子供会の旅行で見たと記憶しているが、初めて目にしたような感覚。堂々とした風貌にしばし見惚れた。


 

(了)

 

 

・  ・  ・  ・  ・ 

*参考

・福島県:只見線の復旧・復興に関する取組みについて *生活環境部 只見線再開準備室

・東日本旅客鉄道株式会社:「只見線について」 (2013年5月22日)/「只見線(会津川口~只見間)の鉄道復旧に関する基本合意書及び覚書」の締結について(2017年6月19日)

  

【只見線への寄付案内】

福島県はJR只見線全線復旧後の「上下分離」経営での維持費や集客・地域振興策の実施費用として寄付を募集中(クレジット可)。

①福島県ホームページ:只見線復旧復興基金寄附金・只見線応援団加入申し込みの方法 *只見線ポータルサイト「只見線応援団」
URL: https://tadami-line.jp/support/

 

②福島県:企業版ふるさと納税

URL:https://www.pref.fukushima.lg.jp/sec/16005g/kigyou-furusato-zei.html

[寄付金の使途]

(引用)寄附金は、只見線を活用した体験型ツアーや周遊ルートの整備、只見線関連コンテンツの充実化等に活用させていただきます。 沿線地域における日本一の秘境路線と言われる観光資源を活用し、更なる利用者の拡大と認知度向上を図ります。

 

以上、よろしくお願い申し上げます。

次はいつ乗る? 只見線

東日本大震災が発生した2011年の「平成23年7月新潟福島豪雨」被害で一部不通となっていたJR只見線は、会津川口~只見間を上下分離(官有民営)し、2022年10月1日(土)、約11年2か月振りに復旧(全線運転再開)しました。 このブログでは、車窓から見える風景写真を中心に掲載し、“観光鉄道「山の只見線」”を目指す只見線の乗車記や「会津百名山」等の山行記、利活用事業に対する私見等を記します。

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