只見線乗車前の会津若松市内観光 2024年 夏

JR只見線で「只見線ナイトトレイン」として運行されるトロッコ列車「風っこ」号に乗車する前に、早めに会津若松市入りし、訪ねたいと思っていた場所を自転車で巡った。

*参考:

・福島県・東日本旅客鉄道株式会社 仙台支社:「只見線全線運転再開について」(PDF)(2022年5月18日)

・福島県:只見線ポータルサイト

・福島県:平成31年度 包括外部監査報告書「復興事業に係る事務の執行について」(PDF)(令和2年3月) p140 生活環境部 生活交通課 只見線利活用プロジェクト推進事業

・拙著:「次はいつ乗る?只見線」カテゴリ ー只見線の夏ー / ー只見線沿線の食と酒

 

 


 

 

今朝、磐越西線の2番列車に乗ろうと、郡山駅に向かった。駅舎上空には、うっすらと雲がかかる青空が広がっていた。

自転車を輪行バッグに収め、切符を購入し改札を通り1番線ホームに停車中に列車に乗り込んだ。

6:52、会津若松行きの列車が郡山を出発。

  

沼上トンネルを抜けて、中通り地区から会津地方に入った。青空の面積は広がり、猪苗代を出てまもなく、「磐梯山」(1,816.2m、会津百名山18座)の美しく、堂々とした山容がはっきりと見えた。

カメラをズームにして、山頂付近を撮ると、登山者らしい点が小さく見えた。*参考:拙著「猪苗代町「磐梯山」山開き登山 2023年 春」(2023年5月28日)

 

磐梯町を出て、東長原広田と進むと、徐々に会津平野の田園が目の高さになり、終点が近付くと会津総鎮守・伊佐須美神社の山岳遷座地「博士山」(1,481.9m、同33座)と「明神ヶ岳」(1,074m、同61座)が近接して見えるようになった。

  

 

8:08、列車は会津若松に到着。輪行バッグを抱え改札を抜けると、脇に観光列車「あいづ SATONO」を紹介する「ぽぽべぇ」が立っていた。

駅舎を抜け上空を見上げると、初夏らしい爽やかな青空が広がっていた。

さっそく駅頭で自転車を組み立て、出発した。「只見線ナイトトレイン」となる「風っこ」号の出発は13時49分で、時間がたっぷりあった。

 

 

1箇所目は、“朝ラー”が食べられる「中華そば ふたぼし」。

8:36、10分ほどで国道49号線沿いにある店舗に到着した。

「中華そば ふたぼし」は朝7時30分から営業を開始していて、月曜日の定休日以外は、出勤前でもラーメンが食べられるという本格的な“朝ラー店”だ。

引き戸を開けて店内に入ると、先客は2名。その後、3名の客が入ってきた。 

 

間仕切りが置かれたカウンター席に座り、メニューを見た。メインのラーメンが5品でスープも3種から選べて、サイドメニューとなるミニ丼が6品だった。ラーメンのトッピングも充実していた。

ラーメンは、中華(醤油)、塩、スタミナ辛、油そば、ふたぼしブラックとあったが、シンプルにあっさりスープの中華そばを選び、麺を中盛にした。

 

注文から5分ほどで「中華そば」が運ばれてきた。ほどよくスープが香り、散らされたネギが印象的な盛り付けだった。


2箇所目は、未完の巨大城郭「神指(コウザシ)城」跡。

国道49号線を西に進むと、南西に「博士山」と「明神ヶ岳」が見えた。

只見線の列車の中(会津本郷~会津高田 間)からは、双峰が離れ、かつ「博士山」がかなり奥まって見えるため、伊佐須美神社の山岳遷座地として関連性が分かりづらい。しかし、このように同等の高さのように並んでいるように見えると、“遷座第二峰”「博士山」から“遷座第三峰”「明神ヶ岳」(明神獄)を経て、麓の高田南原に伊佐須美神社が遷ったという由緒が容易にイメージできた。*参考:伊佐須美神社「御由緒・歴史

 

さらに、国道49号線を進むと、水路を中央にした田園越しに、左に「吹矢山」(819.8m)、右に「小野岳」(1,383.4m、同41座)、そして中央に会津盆地を塞ぐ“大きな戸”ように「大戸岳」(1,415.9m、同36座)が見えた。

「大戸岳」は、只見線の列車の中からは見えない山頂を含む、全体の稜線が見えた。*参考:拙著「会津若松市「大戸岳」登山 2022年 春」(2022年5月4日)

 

国道49から県道326号(浜野高野会津若松)線を経由し国道252号線に入り進むと、旧湯川に架かる涙橋(柳橋)を渡った。

涙橋は、戊辰役・会津戦争で、薙刀を武器とする娘子軍を率いた“烈女”中野竹子(享年22歳)が没した地だ。橋のたもとには大きな柳の木と、その脇に町内会による「涙橋の由来」が立っていた。

涙橋の由来
 柳橋は会津と新潟を結ぶ越後街道の湯川にかかる橋で付近に道しるべとして多くの柳が植えてあったので古くは楊柳橋と称された。
 会津藩が上杉時代の慶長五年(西暦1600年)に上杉景勝が石田三成と計り徳川家康を牽制し十二万人を動員、西へ半里程の如来堂に幻の神指城を築造する際、要所である橋を長さ十七間幅三間余の欄干のある堅牢な柳橋をした。柳橋の二百米程下流の薬師川原には藩政時代に処刑場があり、特に昔キリシタン弾圧により寛永12年には会津キリシタンの中心人物である横沢丹波と外人宣教師など六十余名が捕えられ一度に処刑された処でキリシタン塚がある。
 戊辰の役では娘子隊(女白虎隊)の隊長中野竹子が柳橋の激戦で敵弾に倒れ殉死し碑もある。
 この場所には休み小屋があって刑場にひかれる罪人は井戸の水で家族等と水盃を交わして別れを惜しんだところから通称涙橋と呼ばれ昭和の初めの木橋には涙橋ともしるされてあった。
    山浦敏人 文
平成26年9月吉日
  橋本町内会

 

中野竹子 辞世の句
 〽 武士の 猛き心にくらぶれば 数には入らぬ 我が身ながらも
*参考:朝日新聞「ことばマガジン」なみだの橋を渡って(4) URL: http://www.asahi.com/special/kotoba/archive2015/moji/2014091600002.html / ㈱かたちなきもの「会津物語」八重の物語  8 戦場に咲き誇った一輪の花 中野竹子 URL: https://aizumonogatari.com/yae/material/4285.html

 

涙橋を渡って県道152号(橋本会津高田)線を経由して国道118号線入り少し北進すると、左前方に飯豊連峰を背景に木々が密集しているのが見えた。「神指城」跡だ。

 

9:46、信号を渡り、「神指城本丸」跡の南東端に立つ説明板の前に到着。「神指城」は当時・豊臣秀吉の命により会津を治めていた上杉景勝の重臣・直江景続の総指揮の下で築城が開始された未完の大城で、「直江状」→徳川家康による上杉討伐→関ケ原の戦いへと至る一因にもなった。*参考:(一財)会津若松観光ビューロー「会津の歴史」上杉景勝時代(安土桃山時代)概要 URL: https://www.tsurugajo.com/history/uesugi.html

説明板は毛筆文字で記され、二重濠の“「回」字形”の城郭図が掲載されていた。

神指城跡 (福島県会津若松市神指町本丸)
 神指城は、慶長3年(1598)越後から会津へ百二十万石で移封された上杉景勝が、執政の直江景続に命じ築かせた日本有数の規模を持つ平城です。
 「会津旧事雑考」によると、当初は会津盆地中央とする予定でしたが、平坦で川との落差のない神指ヶ原に定め、慶長5年(1600)3月18日から築城を開始しました。景続の総指揮により、神指の十三ヶ村を強制的に移住させ、城は北東の鬼門に位置する「高瀬のケヤキ」と北極星を基点に縄張り(設計)しました。領内から十二万人を動員し、東山町慶山から石を運び本丸に石垣を築き、町割まで計画しました。しかし家康の上杉討伐令により、6月10日で工事は中止しました。本丸は石垣と堀や三方の門、二ノ丸は四方の土塁と堀が完成しましたが、天守閣は着工できませんでした。
 面積は、若松城(鶴ヶ城)の二倍約五十五ヘクタールもあり、毛利輝元の広島城に似た「回」字形をした城郭でした。中央の京・大阪、西の広島、東の会津というように、政治経済の中心拠点にしようと川や運河を利用して築こうとしました。慶長6年(1601)に上杉氏は、米沢三十万石へ移封となり、城は破城され、更に寛永16年(1639)領主加藤氏が、石垣を総じて若松城(鶴ヶ城)に運び去り、神指城は廃城となりました。
  会津古城研究会 会長 石田明夫 監修
          設置者 神指城を守る会

  

「神指城」を背にすると、北東、会津平野の先に「磐梯山」が見え、

南東東には、鶴ヶ城の天守閣最上階が確認できた。

「神指城」跡は、未完で濠が埋まり石垣も無いことから外観上の魅力には欠けるが、戦国期から幕藩体制の確立にかけての会津の立ち位置や歴史の物語が感じられる場所だと思った。

この「神指城」跡の近くには、築城中止から268年後に発生した会津戦争の史跡があった。 

会津藩預だった新選組の数名が逗留し、西軍(新政府軍)に急襲された如来堂だ。如来堂の入口には、“史蹟 新選組殉難地”と刻まれた標石が立っていた。*参考:会津若松市観光課「会津と新選組~幕末の会津と新選組の歴史を紐解く~」史跡 如来堂(新選組殉難地)【神指町如来堂】

 

3箇所目の目的である、「日々餡」に移動。

阿賀川の堤防に上り、下流側に北上した。

阿賀川堤防上はサイクリングロードになっていて、気持ち良くペダルを漕いだ。右に目を向けると、「神指城」跡の杜越しに「磐梯山」が見えた。

まもなく、工事中の道路を横切った。

県道59号(会津若松三島)線のバイパス路で、阿賀川に架かる橋は2019年に竣工しているものの、土地の買収が進まず未完のままだ。ただ、今年4月に土地収用法による事業認定が行われ、開通の見通しが立ったという。

堤防から会津パールラインに入り、会津大橋で阿賀川を渡ると、まもなく目的地が見えてきた。

 

10:12、「あんことおはぎ 日々餡」に到着。1921(大正10)年創業の岩村製餡工場に隣接する直売所だ。

店頭には人だかりができていて、近づくと、ウッドデッキに会津若松市の非公認キャラ「カッパぐーりん」だった。撮影会のようで、多くのギャラリーがスマホなどを向ける中、様々なポーズを取っていた。何度か目にしたことのある「ぐーりん」だったが、まさか女の子だったとは思わなかった。*参考:カッパぐーりん 公式ホームページ  URL: https://www.kappagree-n.com/

 店に入ると、人気店らしく行列ができていた。

また、店内の壁には、地元のメディアのアナウンサーを中心に、多くの色紙が飾ってあった。

目当ての品は決まっていたが、並べられている餡菓子はどれも魅力的だった。まずは、決めていた「七福おはぎ」と「萬福おはぎ」(あんこ)に、『もう一つ』とショーケースを眺め、「お多福大福」(あんこ)を選び、注文して会計を済ませた。「おはぎ」と「大福」は“当日召し上がり”ということで、スタッフからは持ち帰り時間を聞かれ、手渡された商品の中には保冷剤が入っていた。

「七福おはぎ」は只見線の列車の中で、「おはぎ」と「大福」は湯上りに食べようと、次の目的に向かった。

 

4箇所目は、温泉。「日々餡」から1kmほど離れた「大江戸温泉物語 湯屋あいづ」。

会津パールラインを進むと、前方に大きな建物が見えてきた。

 

10:35、「大江戸温泉物語 湯屋あいづ」に到着。もともとは、厚生年金健康福祉センター(ウェルサンピア会津)ということで、“ハコもの行政”時代を感じさせる堂々とした外観だった。

『会津に江戸⁉』とは一瞬違和感があったが、徳川三代将軍・家光の異母弟・保科正之公を祖とする会津松平藩の200年を越える治世や、戊辰役でその正之公が定めた「会津家訓十五カ条」の第一条を頑なに守り西軍と戦った経緯を考えるとしっくりきた。*参考:会津松平家奉賛会「会津松平家と家訓十五カ条」 URL: http://aizu-matsudaira.com/kakin.html

さらに、運営会社「大江戸温泉物語ホテルズ&リゾーツ」にとって、この「湯屋あいづ」は全国展開の第一号ということで、会津と江戸の時を越えた奇遇を思った。*参考:大江戸温泉物語ホテルズ&リゾーツ「沿革」URL: https://corporate.ooedoonsen.jp/company/history/

 

受付で入湯料(600円)を支払い、長い廊下を渡り浴室に向かった。

浴室は内湯と外湯どちらも広く、清潔で明るかった。ほど良い湯加減でゆっくりと浸かった。

【会津神指温泉】
・泉質 ナトリウム−塩化物泉(低張性・弱アルカリ性・高温泉) *加水・加温・循環ろ過
・泉温 50.9℃
*参考:「大江戸温泉物語 湯屋あいづ」当館自慢の大露天風呂 会津神指温泉 URL: https://aizu.ooedoonsen.jp/news/12888

   

湯から上がり、休憩スペースで「日々餡」の「おはぎ」と「大福」を頂くことにした。

まずは、「萬福おはぎ」。どっしりと重く、小豆餡のなんとも言えぬ光沢が目を引き、ほのかに甘い香りがした。食べて見ると、餡の層は中央のもち米と同等で、しかも食感を歯ごたえに差違を感じず、見事に一体化していた。“あんことおはぎ”と店名に出すに相応しい。旨さと風格だった。

次は、「お多福大福」。真ん丸のモチが、上品に片栗粉を纏っていた。食べると、モチには強いコシがあり、ほど良く甘い滑らかな餡との相性は絶秒だった。『大福は外皮のモチが大事』と思っている方にはお勧めの一品だと思った。

  

「大江戸温泉物語 湯屋あいづ」を後にし、本日5箇所目、最後の目的に向かった。阿賀川の堤防を気持ち良い風を受けながら、ゆっくりと自転車を漕ぎ進めた。

阿賀川を見ながら2kmほど進むと、堤防道は湯川沿いとなり、まもなく前方に目的地の大きな建物がみえてきた。

 

11:59、花春酒造㈱に到着。この「神指蔵」は1995(平成7)年に竣工し、2005(平成17)年に市内花春町から当地に本社も移転された。

広い構内に入り、直売所に向かった。

入口の前には、仕込水となる「古城の名水」が勢いよく流れ出ていた。まろやかで優しい口当たりで旨かった。

古城の名水(神指城跡)
磐梯山、猪苗代を一望できる背あぶり山があります。会津盆地と猪苗代湖をへだてる位置に在り、この山に積もった雪が大地に浸透し豊富な地下水脈となっています。
深井戸を掘り汲み上げています。水質は最良と言われています。
 御試飲ください。

 

事務所に併設された直売所に入った。正面の陳列棚や冷蔵ケースには日本酒の他、焼酎や梅酒が並んでいた。

そして、入口脇の冷蔵ケースを見ると、直売所限定販売の「神指」が4種並んでいた。すべて吟醸酒で、今回は淡い青色のラベルの「夢の香 純米吟醸 火入れず」を選んだ。

花春酒造は、1718(享保3)年に宮森久右衛門が「井筒屋」の屋号で酒銘「天正宗」を造り創業した300年の歴史を持つ酒蔵だ。酒銘にもなっている“花春”とは、戊辰役・会津戦争の戦禍から蔵を再建した五代目久右衛門が、清朝乾隆期(1735‐1796)頃に活躍した揚州八怪の一人・金農の漢詩『開酒国』から採ったという。

ちなみに、この宮森家からは「榮川」の榮川酒造㈱や「寫楽」の宮泉銘醸㈱が分家し、会津地方を代表する酒蔵になっている。花春酒造の経営権は創業300周年を前に宮森家から、会津出身のラーメン「幸楽苑」の創業者・新井田傳氏をはじめとする個人が出資する会社に譲渡されたが、老舗として会津の日本酒文化を支え、牽引して欲しいと思った。

 

12:31、花春酒造「神指蔵」を後にして、会津若松駅近くの駐輪場に到着。全ての予定を、無事に時間内に終えることができた。

今回の総移動距離は約25kmだったが、会津若松市の市街地は殆ど平坦なため、自転車の移動は負担が少なかった。

現状、会津若松市のレンタルサイクルは、貸出開始時刻が9時以降になっているが、24時間営業で複数ステーションへの乗り捨て可能というシステムを導入すれば、観光客の時間の有効活用に寄与するとともに観光経済圏は拡大するはずだ。只見線に乗る前や乗った後に、市内の広範を時間を気にすることなく気軽に巡る事ができれば、“只見線の利活用”につながり、会津若松市が持つ沿線随一の観光力が只見線の経済効果を確かなものにするだろうと思った。

 

この後は、只見線乗車。

駐輪場に自転車を停めて、会津若松駅に向かった。駅舎に入ると、KIOSKの前にスペースで旅行代理店のスタッフによる「只見線ナイトトレイン」の受付が行われていた。

受付を済ませ、スタッフによって開けられた自動改札の脇の鉄柵から入場した。

 

跨線橋を渡り4-5番線ホームで待っていると、「只見線ナイトトレイン」に使われるトロッコ列車「風っこ」号が車庫から出てきた。

そして、これから乗り込もうとする客で混雑する4番線に、低いディーゼルエンジンの音を響かせながらゆっくりと入線した。

 

「風っこ」号が停車し、外観の写真等を取っていると、向かい側の5番線に、会津鉄道の観光列車「お座トロ展望列車」の風号が入線してきた。*参考:会津鉄道㈱「お座トロ展望列車

 

ホームが落ち着いた頃に、「風っこ」号に乗り込んだ。

今回、往路で指定された席は2号車で、通路側のC席だった。復路では別の席になるということだった。

席について発車時刻まで待って居ようと思ったが、木を燃やしたような匂いがして、向かい側の2-3番ホームに人だかりが見え、見覚えのある客車が停車していた。『そうか、今日は「SLばんえつ物語」号の運転日だったのか!』と思い、急ぎ2番線に向かった。

 

2-3番線ホームは子供たちや家族連れ、一眼レフカメラを抱えた方々で混雑していて、2番線の先頭に行くと、多くの方が記念撮影をしていた。1946(昭和21)年に製造され、1999(平成11)年から「SLばんえつ物語」号として運行を開始した「C57」形蒸気機関車180号機(C57-180)の先頭には、運行開始25周年を示すヘッドマークが掲げられていた。

そして、炭水車には、“黒いダイヤ”とう名が納得できるような黒々と光沢を放った石炭が山盛りにされていた。

しばらくすると、「SLばんえつ物語」号は、復路(会津若松→新津)の準備のため後退し、引き込み線に向かっていった。*参考:東日本旅客鉄道㈱「のって楽しい列車」SLばんえつ物語 

SLの壮観な走りを見ていると、只見線で復活できないかと思った。

「Sl会津只見線」号を牽引してい「C11 」形蒸気機関車(325号機)は、現在東武鉄道㈱の保存となり「SL大樹」として活躍しているため、借り受けるのは難しいかもしれない。そ駆け抜けるSLを復活させて欲しいと思う。多大な費用が掛かるとは思うが、「只見線利活用計画」を進める福島県が中心となってまずは見積りし、寄付やクラウドファンディングに活路を見出して欲しいと思った。

  

跨線橋から「SLばんえつ物語」号を見送り、その足で「風っこ」号を見下ろした。

「風っこ」号の車内に戻り、しばらく待っていると、ホームに会津若松駅のスタッフが集まり、見送りの準備をし始めた。

 

13:49、「風っこ」只見線ナイトトレイン号が、横断幕を広げるなど手を振る駅スタッフの見送りを受けながら会津若松を出発。

 

列車は快速運転のため七日町を通過したが、西若松では上り列車との交換のため10分以上停車した。陽差しが強く、『緑稲が埋め尽くす田園風景を見ながら呑もう』と思っていたビールを、待ちきれずにここで呑んだ。旨い!

 

車内では、列車の発車直後から、同乗した旅行代理店のスタッフにより弁当とお茶が配られた。輪箱飯で有名な、会津若松市内の名店「田季野」で作られたものだった。

地鶏と茸のおむすび弁当で、おかずは椎茸フライ、わらび玉子焼き、会津みそ焼き(鶏肉)、くるみ団子、ぜんまい煮、かぼちゃ煮、桜ごぼう、こんにゃくゆず味噌田楽、トマト酢漬け、そしてサラダと10種だった。

 

西若松を出た列車は、大川(阿賀川)を渡った。弁当を食べながら、上流側には山頂が隠れた「大戸岳」山塊を眺めた。

会津本郷を通過し会津若松市から会津美里町に入った頃に、会津中央乳業のアイス「べこの乳発 コーヒー特急」が配られた。

弁当は食べ終わらなかったが、溶けないうちと食べる事にした。銭湯で飲むコーヒー牛乳そのものの味に感じられ、なつかしさを感じながら美味しくいただいた。


列車は田園の間を駆けた。窓枠が取り外された「風っこ」号の車内には風が吹き抜け、心地よかった。

 

会津高田を通過し、“高田 大カーブ”で進路が西から北に変わると、左に「明神ヶ岳」から七折峠に緩やかに下る西部山地が見えた。

そして、右(東側)には、会津平野の田園越しに、「磐梯山」が見えた。 

 

列車は根岸新鶴を通過し、快調に進んだ。私は、両側に緑稲の気持ち良い風景を見ながら、「花春酒造」で購入した「神指-夢の香 純米吟醸 火入れず-」呑んだ。アテは、残しておいた弁当のおかず。

「神指」はまろやかで良い香りが印象的だった。辛さはあまり感じず、味噌田楽や桜ごぼうによく合った。

 

若宮手前で会津坂下町に入ってた列車は、会津坂下で少し停車した後、会津平野の広大な田園と別れを告げ、七折峠に向かった。

 

登坂の途上、塔寺手前で右側の車窓から会津平野を見下ろした。

 

登坂を終えた列車は、四連トンネル(第一花笠-第二花笠-元屋敷-大沢)を抜けると、まもなく“坂本の眺め”を通過。飯豊連峰は、少し霞んで見えた。

 

会津坂本を通過する際は、貨車駅舎(待合室)に描かれた「キハちゃん」に見送られた。*参考:会津坂下町「只見線応援キャラクター誕生!!」(2015年3月13日) https://www.town.aizubange.fukushima.jp/soshiki/2/3337.html / YouTube「キハちゃんねる」URL: https://www.youtube.com/channel/UChBGESkzNzqsYXqjMQmsgbg 

 

「神指」のアテが無くなったので、「サラダホープ」を取り出した。新潟県限定のあられだが、何と会津若松駅近くのスーパー「Pivot」に並べられていた。JR東日本の系列店ということで、仕入・販売ができたのだろうと思った。

 

列車は柳津町に入り、会津柳津に停車。停車時間は1分だったが、多くの方が横断幕を広げるなどして出迎え、そして見送ってくれた。

 

郷戸出前では、“Myビューポイント”を通過。右側の車窓からは、「飯谷山」(783m、会津百名山86座)が良く見えた。

 

滝谷を通過した列車は滝谷川橋梁を渡り、三島町に入った。*以下、各橋梁のリンク先は土木学会附属土木図書館デジタルアーカイブス歴史的鋼橋検索

  

会津桧原を経て桧の原トンネルを抜けると、十分に減速した列車が「第一只見川橋梁」の桐の花色の上路式アーチトラス橋を渡り始めた。

そして、「風っこ」号は橋上で停止した。只見線に最も有名になった「第一只見川橋梁」からの景色をゆっくりと眺め、写真を撮って欲しいと企画されていた1分間停車のサービスだった。

車内の乗客のほとんどが立ち上がり、席を移動しながあらスマホやカメラを構え、シャッターを切っていた。

私は、上流側、右岸の駒啼瀬上方にある送電鉄塔の下の「第一只見川ビューポイント」の最上段Dポイントにカメラのズームを合わせて見てみた。しかし、その下のCポイントを含め、1人も観光客は居なかった。

下流側には、4月に登った「日向倉山」(605.4m)が見えた。*参考:拙著「柳津町「日向倉山」登山 2024年 春」(2024年4月13日)

 

会津西方を通過してまもなく、列車は“観光徐行”で「第二只見川橋梁」を渡った。

   

15:40、会津宮下に停車。上り列車(小出発・会津若松行)との交換を行うため20分以上停車するということもあり、2号車の客は私以外全員が降りて、ホームで写真撮影や駅舎やその周辺の観光をしていた。

この会津宮下駅では、、昨年「只見線トワイライトトレイン」の運行に合わせ、駅前で「只見線マルシェ」が開催(14:30~18:40)され、会津地鶏の焼鳥など三島町の特産品が並んでいたという。*下掲出処:「只見線ポータルサイト」 URL: https://tadami-line.jp/2023/05/「只見線マルシェ」会津宮下駅で開催!/

 

席に座り外を見ていると、向かい側のホームに次から次に人が現れ、最終的には30名を越えた。小旗を持った添乗員らしき方の姿があったためツアー客と思われたが、只見線のベストシーズンである紅葉期と見紛う光景に驚いた。

“列車に乗って「第一只見川橋梁」を渡る”というイベントを組み込んだツアーは多く、会津宮下駅前でツアー客を降ろした観光バスが、会津柳津駅前に移動し列車から降りた客を再び乗せて次の目的地に行くという内容だ。

 

16時過ぎに、2両編成の上り列車が入線するが、なんとほぼ席が埋まっている状態だった。これで、ここから乗り込むツアー客の大半は車内で立って過ごすことが確定した。

会津宮下~会津柳津間の乗車時間が約20分とはいえ、ツアー客が座席に座れない状況は、2022年10月1日の全線運転再開以後、紅葉期を中心に目立つようになってきた。

只見線の沿線風景は、席に座ってゆったりと眺めることで良さが感じられると私は思っている。立っていても圧倒的な印象を与える絶景は、只見川(ダム湖)の水鏡の有無や気象条件などに左右され、必ず出会えるとは限らない。のどかで四季折々の静かな美を感じられる景色が、135.2kmの大半で見られるのが只見線の良さで、座ってゆったりとした心持ちで眺めることが勧められる。

だから、この立ちながら乗車するツアー客の姿を見て、いつも残念と感じるとともに申し訳ない気持ちになる。ツアー旅行を入口に只見線に初めて乗車する方は少なくなく、良い印象をもって列車を降りてリピーターやインフルエンサーになって欲しいが、立ちっぱなしの乗車ではそれは叶わないと思う。

だが、この“ツアー客が座席に座れない状況”の対策は、確かに難しい。一部区間の突出した乗客増ということで、指定席の導入や臨時列車の増発は帯に短し襷に長しだ。

私は、多大なコストが必要だが、①ベンチシートを備えたロビー車両を1両用意し普通列車に増結する、②会津柳津駅に列車交換設備を復活させ、会津宮下や会津川口、只見間で“ツアー客専用車両”を走らせる、という目標を「只見線利活用計画」に掲げ、10年単位で実現に向けて活動する必要があると思っている。

 

この混雑が続く保証はないが、紅葉期の只見線の観光力は国内屈指で、この期間は恒常的にツアー客が会津宮下~会津柳津間を中心に車内を賑わせるだろう。「只見線利活用計画」を進める福島県は、“ツアー客が座席に座れない状況”の改善を実践して欲しいと思う。 

 

会津宮下を出発すると、車内では日本酒「おらが金山町 てまえ酒」のふるまいがあった。「てまえ酒」は、金山町で生産されている酒造好適米「フクノハナ」を使い、町出身の佐藤壽一氏が名誉杜氏を務める末廣酒造(会津若松市)で作られた純米酒だという。

「てまえ酒」を呑んでみた。濃厚な吞み口で、香りも強く、吟醸酒と思えるような味だった。キンキンに冷やすか、ぬる燗が合う純米酒だと感じた。

 

東北電力㈱宮下発電所の背後と、宮下ダムの脇を駆けた「風っこ」号は、徐行しながら「第三只見川橋梁」を渡った。

人工物がほとんど目につかない只見川の渓谷は、深い緑に覆われていた。*只見川は宮下ダム湖

  

早戸を通過すると、只見川に浮かんだ観光和舟の船頭が手を振って見送ってくれた。

そして、国道252号線と交差すると金山町に入り、8連コンクリートアーチ橋・細越拱橋を渡った。


会津水沼を通過してまもなく、下路式トラスの「第四只見川橋梁」を渡った。

鋼材の間から見える只見川の水面には水鏡が現れていた。*只見川は宮下ダム湖

  

会津中川を通過すると終点を告げる車内放送が流れ、列車は只見川に沿って右側に大きく曲がった。ここで右の車窓から振り返ると、只見川に突き出た大志集落が見えた。

只見川の水面は波立ち、水鏡は一部だったが、「岳山」山塊を背景にした眺めは、まずまずだった。*只見川は、東北電力㈱上田発電所・ダムのダム湖

 

16:37、「風っこ」号は、終点の会津川口に到着。

ホームには、会津川口駅を管轄する会津坂下駅の駅長をはじめ、地元の子供たちが集まり、出迎えてくれた。

列車は約1時間の停車の後に折り返し運転し、陽が暮れ闇が濃くなる中を「只見線ナイトトレイン」となって会津若松に向かった。*参考:拙著「「只見線ナイトトレイン」(会津若松⇋会津川口) 乗車 2024年 夏」(2024年6月22日)

 

 

(了)

 

 

・  ・  ・  ・  ・

*参考:

・NHK:新日本風土記「動画で見るニッポンみちしる~JR只見線

・産経新聞:「【美しきにっぽん】幾山河 川霧を越えてゆく JR只見線」(2019年7月3日)

・福島県 :只見線管理事務所(会津若松駅構内)

・東日本旅客鉄道株式会社:「只見線について」(PDF)(2013年5月22日)/「只見線(会津川口~只見間)の鉄道復旧に関する基本合意書及び覚書」の締結について(PDF)(2017年6月19日)

 

【只見線への寄付案内】

福島県はJR只見線全線復旧後の「上下分離」経営での維持費や集客・地域振興策の実施費用として寄付を募集中(クレジット可)。 

①福島県ホームページ:只見線復旧復興基金寄附金・只見線応援団加入申し込みの方法 *現在は只見線ポータルサイト「只見線応援団」URL:https://tadami-line.jp/support/

 

②福島県:企業版ふるさと納税

URL:https://www.pref.fukushima.lg.jp/sec/16005g/kigyou-furusato-zei.html

[寄付金の使途]

(引用)寄附金は、只見線を活用した体験型ツアーや周遊ルートの整備、只見線関連コンテンツの充実化等に活用させていただきます。 沿線地域における日本一の秘境路線と言われる観光資源を活用し、更なる利用者の拡大と認知度向上を図ります。

以上、宜しくお願い申し上げます。

次はいつ乗る? 只見線

東日本大震災が発生した2011年の「平成23年7月新潟福島豪雨」被害で一部不通となっていたJR只見線は、会津川口~只見間を上下分離(官有民営)し、2022年10月1日(土)、約11年2か月振りに復旧(全線運転再開)しました。 このブログでは、車窓から見える風景写真を中心に掲載し、“観光鉄道「山の只見線」”を目指す只見線の乗車記や「会津百名山」等の山行記、利活用事業に対する私見等を記します。

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