JR只見線を利用し、会津川口駅から昭和村入りして4日目。今日は登山はせず、逗留地である「奥会津 昭和の森キャンプ場」で一日過ごした。
「奥会津 昭和の森キャンプ場」は昭和村の中心部から南東に5kmほど離れた大芦地区小矢ノ原にある。只見川電源流域振興事業の一環として、国の補助を受けて1992年4月20日にオープン。今年29年を迎える施設だ。*下掲記事:福島民報 1992年4月22日付け紙面より
キャンプ場は石取山(810m)と赤坂山(773m)の間の平坦な台地にあり、広々とした敷地にはテントサイト(電源、フリー)の他、バンガロー村、ケビン(ハウス)村等が置かれている。敷地の北側は高台になっていて、「みはらし広場」展望台からは、昭和村の象徴的な景色である、野尻川沿いに続く村の中心部が見通せる。
只見線を利用して「奥会津 昭和の森キャンプ場」を訪れる場合、二次交通が利用できる。会津川口駅(金山町)から路線バス(川口車庫~大芦線)に乗り、“自由乗降サービス”を利用しキャンプ場入口で降りるというものだ。。
テントなど、主なキャンプ用品は管理棟でレンタルしており、また自分のテントを使用する場合、管理棟で宅急便(ヤマト運輸)の受け取り・発送をしていただけるようなので、予約の際に管理者に伝えておけば最低限の荷物を持って訪れることができる。
今回、私は昭和村内にある「会津百名山」四座に登るため、「奥会津 昭和の森キャンプ場」を起点にしようと考えた。天候や足のケガで「大仏山」は断念したが、「高館山」「愛宕山」「御前ヶ岳」の三座に、登る事ができた。
今日は、一日キャンプ場で過ごし、身体を休め、明日と明後日の登山に備えた。
*参考:
・福島県:JR只見線 福島県情報ポータルサイト
・産経新聞:「【美しきにっぽん】幾山河 川霧を越えてゆく JR只見線」(2019年7月3日)
・東日本旅客鉄道株式会社:「只見線(会津川口~只見間)復旧工事の完了時期について」(PDF)(2020年8月26日)
・拙著:「次はいつ乗る?只見線」カテゴリ ー只見線の春ー / ー只見線沿線の宿/キャンプ場ー
昭和村入りは4月29日。
6:03、下りの始発列車に乗り、会津若松を出発。
雨は降り続き、会津平野の代掻きが終わった田んぼに波紋を作っていた。
列車は会津坂下を経て七折峠を越え、会津平野から奥会津の山間を進む。
会津桧原を過ぎ橋梁区間に入ると、只見川はエメラルドグリーンで、新葉との緑の共演は美しかった。
終点が近づき、振り返って只見川に突き出た大志集落を眺めた。のどかで良い風景だった。
8:06、昭和村の最寄駅となる、現在の終点・会津川口に到着。
会津川口駅前からは、昭和村の中心部を貫く国道400号線を走り、国道401号線沿いにある大芦地区に向かう路線バス(川口車庫~大芦線、会津バス)がある。一日上下3本の便数だ。
只見線との接続が考慮されていて、私が乗ってきた列車の到着後、15分程で川口車庫から路線バスがやってきた。
8:23、川口駅前を出発。
8:56、定刻をわずかに遅れ、「高館山」登山口入口となる阿久戸バス停に到着。路線バスの乗客は、結局、私一人だった。
9:17、自転車を近くの小屋の庇の下に置かせてもらうなどの準備をして、「高館山」登山を開始。
雨が降り続く中、小さな沢を4回渡渉し、急坂を登り、愛宕神社の御堂の脇を通り過ぎ、山頂手前の“愛宕山”を刻まれた石柱を見て山頂を目指した。
10:36、「高館山」山頂に無事到着。
11:41、下山途中に2mほど滑落し、右足ふくらはぎの肉離れを負ってしまったが、大事には至らず国道沿いの登山口に戻った。*参考:拙著「昭和村「高館山」登山 2021年 春」(2021年4月29日)
「高館山」下山後、小雨が降り続く中「奥会津 昭和の森キャンプ場」に向かって移動を開始。
自転車に乗って平坦に近い緩やかな国道の坂道を上り、国道400号線沿いにある店「オーハラ堂」でビールを冷やす氷を購入した後、喰丸郵便局角で右に曲がり国道401号線に入った。
ちなみに、路線バスはここを曲がらず直進し、集落が続く国道400号線沿いを両原地区まで走り、村道赤坂線を駆け上り、「奥会津 昭和の森キャンプ場」の入口の先で国道401号線に合流し大芦地区に向かうことになる。
「奥会津 昭和の森キャンプ場」は標高が高く、国道の分岐が約500mでキャンプ場が約650mと、標高差150mを約3kmをかけて上る必要がある。ギア付きの自転車でもキツイ坂だ。レンタルサイクルを用意する場合、電動アシスト付き自転車が必要だと思った。
喰丸郵便局の分岐から、約20分ほどで「奥会津 昭和の森キャンプ場」の正面入口に向かう村道との分岐(T字路)に着いた。
12:29、T字路を左に曲がると、まもなく、前方に「奥会津 昭和の森キャンプ場」の入口を示す看板が左手に見えた。路線バスの川口車庫~大芦線は“自由乗降区間”で、このキャンプ場入口前でも乗り降りができる。 *参考:会津乗合自動車㈱:「自由乗降」(川口車庫~大芦線は山口管内)
導入路は緩やかな下りの砂利道で、杉木立の間に直線で延びていた。名に違わぬ雰囲気だった。
木立を抜けると、正面右に大きな赤屋根を持つ管理棟が現れた。
管理棟は“森の駅”という愛称になっていた。廊下にはベンチが置かれ、受付となる事務室には窓もあったが、受付など管理人とのやり取りは、中に入って行われるようだった。
管理棟は“土禁”で、靴を脱いで上がらなければならなかった。ソファを除けば、木製品が目立ち、梁天井で広々していた。ただ、冷暖房装置は無かった。この日は雨が降り続き、気温も低かった事から、管理人が気を遣って管理室のストーブをテーブルのそばに移動させてくれた。
利用開始にあたり、新型コロナウイルスに関して、体温や咳・のどの痛み、濃厚接触者の有無などをA5の用紙に記載。そして、A4の「奥会津昭和の森施設使用申請書」を書いた。
「申請書」の下半分は領収書を兼ねた「許可書」になっていて、料金を支払った後に、管理人から手渡された。キャンプサイトは1,400円/日、電源サイトは別途500円/日になり、5泊6日で合計9,500円だった。
A3判の施設案内図をいただく。ホームページに記載のものと同じだった。
電源サイトは7か所。位置を示したA4の紙で、管理人から場所の説明を受けた。聞けば、野外電源から延長コードが届く場所であれば、どこでも構わないとの事だった。延長コードは基本3mだが、より長いものや、場合によっては3m×2本も貸してもらえるようだった。
去年の只見町「奥会津ただみの森 キャンプ場」ではキャンプ用品を最寄りのヤマト運輸営業所に送ったが、今回は事前に了解を取って、管理棟付けで送った。管理人は24時間常駐ではないが、朝9時前には出勤しているということなので、荷物の午前中受取りも代理で行ってくれるとの事だった。もちろん、帰りに荷物の発送(着払い)も依頼することも可能で、伝票も置いてあるようだった。
今回は、管理人が受け取ってくれるとは思わず、荷物の受け取りを14時~16時の間に指定してしまった。
そこで、荷物が届くまでテントを張る場所を見て回った。先客は居なかったので、電源サイト全てを確認し、一番見晴らしの良いと感じた、盛り土エリアの角にした。砂利の部分は車の駐車スペースで、土の上にテントを敷く事になった。
14時30分過ぎ、ヤマト運輸のトラックがやってきて、荷物を受け取った。160サイズと120サイズ、2つの段ボール。富岡町の最寄りの広野営業所からの送料は、持ち込みで計3,480円だった。
管理棟前のベンチに段ボールを置かせてもらい、テントとグランドシート、タープ用のポールを持ち移動。雨が止んでいた事もあり、設営は順調に進み、20分ほどで終わった。たまたま、テントと同色だった電源コードは、3mで十分だった。
地面が土で、石が多かったが、テント内に入ると気にならなかった。
テント正面からの見晴らしも良く、天気が良かったら最高だろうと、天候の回復に期待した。
キャンプ場内の施設と設備。*写真は4月29日~本日(5月2日)間に撮影されたものを使用
24時間出入りが可能な管理棟は、積雪の影響を受けないためか、高床式になっている。
棟の脇には薪割り場があり、客が予約した薪が廊下に積まれていた。薪と炭は販売していて、在庫があれば、予約無しでも入手可能との事だった。
管理棟内には自販機があり、トイレと男女別のシャワー室があった。
脱衣所の段差は高いが、大人1人、子供2人でも余裕がある広さだった。
コイン式で、200円で30分利用できる。
シャワー室も広々。水圧は申し分なく、好みの熱さに調整できた。シャンプーやボディソープは置いてあったが、補充はされていなかったので、持参したものを使った。
管理棟の周辺の設備。
管理棟の目の前、西側の林の中には、5棟の「バンガロー村」がある。各棟には“ふじ”や“こぶし”など、山に咲く花々の名が付いていて、外にタープを張るスペースがあった。広さは15㎡でコンセントがあり、利用料は5,000円/日となっている。
「バンガロー村」のそばには炊事棟がある。ここに限らず、キャンプ場内にゴミ箱は置かれておらず、持ち帰ることになっていた。注意が必要だ。
炊事棟の中は、一方が水場で、他方が焼き場だった。
管理棟の南側にある、男女別のトイレ棟。水洗で、便座は洋式のウォシュレット付きだった。
管理棟の裏、東側にはバーベキューハウスと、“仮設”炊事棟が置かれていた。
“仮設”炊事棟は、催事等で使われるテントの下に、二つのシンクが置かれていた。水はホースで供給されていたが、ホースに割れがあるようで、漏れた水が足元を濡らしていた。洗剤やスポンジは客が置いていったもののようだったので、私は持参したものを使用した。
“仮設”炊事棟の隣にあるバーベキューハウス。3か所の焼き場があり、4人が掛けられる椅子が向かいあっていた。
「テントサイト」。
東と北にあり、電源サイトを除きフリーサイトになっていた。サッカー場ほどの広さを持つ、総芝生敷きの多目的広場にも車の乗り入れが可能で、思い思いの場所にテントが張られていた。
多目的広場の東、東屋周辺にも設営が可能だった。車の通り道以外、どこでも設営してOK、のようだった。
私がテントを設営した場所は高台になっていた。昔の写真などを見ると、ここは盛り土し造成されたようだった。この場所の目の前、北側に広がる広場も、盛り土で造成された、広いフリーサイトになっていた。双方とも、芝生は一部だけで、土や砂利が目立っていた。
その西側、林には2か所の野外電源が立ち、4か所の電源サイトがあった。電源サイト外の、林の中に設営する客も居た。
管理棟の裏にも林があったが、その中にも、車を乗り入れ、テント設営する方の姿があった。
多目的広場の西側には遊具があった。滑り台、ブランコ、太鼓はしごの3種。子供にとっては、少し物足りないと感じた。
場内の北には、「ケビンハウス」があり、バンガローより大きい木造の建物が6棟、斜面に段々と並んでいた。小さな一戸建て、といった趣の建物だった。
芝刈り、刈払いが行き届き、良い雰囲気だった。テラス付きが5棟、テラス無しが1棟で、全てに昭和村内の山の名前が付いている。*三階山、三引山、白森山、志津倉山、御前ヶ岳、博士山
建物の外観はログハウス風。
テラスは、棟幅いっぱいに設えてあり、十分な広さだと思った。中を見ることはできなかったが、約10畳の畳敷で、トイレ、台所、2段ベットが2基、そしてコンセントがあるという。利用料はテラス付きが13,000円/日で、テラス無しの1棟が12,000円/日。
「ケビンハウス」の西側の谷部には、「ふれあい緑の村」がある。谷部だが、両側の斜面は、全体が刈払いされていて、良い雰囲気になっていた。
駐車スペースがあったが、芝生敷なのでテント設営もOKだという。また、周辺はフリースペースになっていた。
「ふれあい緑の村」のトイレ棟と炊事棟は大きかった。
男女別のトイレ棟の内部。
ログハウス調で、広々とし清潔感があった。水洗だが、男子側は和式便器だった。
炊事棟内には、水場が両側に4基ずつ、焼き場が片側に4基あった。
「ふれあい緑の村」の先には「みはらし広場」への道があった。熊対策か、ここも全体が刈払いされ前方の尾根がはっきり見えた。
クマザサは生えていたが、膝下丈で、疎らだった。これならば、陽が高いうちは、熊はうろつけないと思った。
階段を上り、尾根に出ると案内板が立てられていた。右に曲がり尾根を歩く。開けていて、気持ちよい空間だった。左側、斜面に生えたクマザサは子供の背丈ほどだったが、密というほどのものではなく、何か動物が居れば分かるような状態だった。
尾根道を進むと緩やかな下り坂になり、途中から上り坂に変わり、その先に赤屋根の東屋が見えた。
入口から5分とかからず、「みはらし広場」展望台(東屋)に到着。切れ落ちた側は、伐採・刈払いされ、眺望に期待が持てた。正面に見える山は、今回登山を断念した「大仏山」(994.3m、会津百名山65座)。この角度から見ると、斜面の険しさが分かり、難しい山だと思った。
展望台に入り、北西に目を向ける。一本杉越しに、野尻川沿い拓かれた昭和村の中心部が一望できた。
昭和村を紹介するメディア等で良く見ていた景色だったが、実際に見ると、別格だった。
チェーン店やその看板などは見えず、奥会津によく見られる大屋根、特に赤いトタン家屋が目立つ、道沿いに集落ごとに固まる山里の風景。周辺は800~900mほどの雪崩路を持つ山々は、圧迫感を与えず、人の営みを優しく見守っているかのようだった。良い眺めで、良い村だと思った。
昭和村(福島県大沼郡)は、昭和2(1927)年に野尻村と大芦村が合併し生まれたが、江戸時代はほぼ全域が9村の「野尻組」という近隣集団を形成していた。会津藩が享和3(1803)年から文化6(1809)年にかけて編纂したという「新編會津風土記」に、「野尻組」は次のように記述されている。
野尻組
此地府城の西南に當り本郡の南端にあり、東は冑組に界ひ、西は會津郡和泉田組に隣り、南は會津郡高野組に交はり、北は大谷組に連り、東西四里十八町 (東は冑組下谷地村の山界より西は和泉田組布澤村の山界に至る)南北三里十町 (南は高野組大豆渡村の山界より北は大谷組琵琶首村の山界に至る) 四方に山繞り、博士・船鼻の二山東南に秀で、大芦・兩原・小野川等の村々その麓に住し、殊に深山なり、されば大谷・瀧谷の兩組よりは寒氣勁く、雪深く、大抵十月の初より雲積て三月の末に漸く消盡す、然れども近郷の諸組に比すれば、稍平地ありて水田乏しからず、村民耕作を業とし、また麻を植え餘産とす、山中より多く諸菌を出す、此組の諸村野尻郷に隷す、凡て九箇村あり、
野尻組 九箇村
野尻村 端村 中向、松山村、下中津川村、小中津川村、佐倉村、喰丸村、兩原村、大芦村 木地小屋 松澤 、小野川村 端 大岐 木地小屋 岩下
*下図出処:新編會津風土記 巻之八十二「陸奥國大沼郡之十一 野尻組」(国立国会図書館デジタルライブラリ「大日本地誌体系 第33巻」p112(コマ62) URL:https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1179220)
「みはらし広場」展望台から、「ケビンハウス」入口まで引き返す。南東には整備された散策路が広がっていた。周辺の、かなり広い部分の刈払いがされ、気持ちが良い空間だった。大人がゆったりと寛げる散歩道だと感じた。
散策路には二つの池があった。東側が「小矢の原湿原」。
西側が「おしどり沼」になっていて、綺麗な水が張っていた。
「奥会津 昭和の森キャンプ場」の施設は以上の通り。
「奥会津 昭和の森キャンプ場」の周辺には、明治維新の新政府軍“会津侵攻”で命を失った会津藩士の墓がある。キャンプ場を起点に、日本の転換期となった明治維新・会津戦争に理解を深めるのも良いと思った。*参考:拙著「新幹線の中の只見線(戊辰役・奥会津の戦い) 2017年11月」(2017年11月25日)
キャンプ場の入口に近い、国道401号線のT字路には「会津藩戦士二人の墓」。
*説明板の記載内容
昭和村有形文化財「会津藩戦士二人の墓」
この墓は、大芦地内で死亡した2人の藩士を合祀した供養墓である。(矢ノ原戦死 野村新平、屋敷原戦死 角田五三郎)
初代大芦村村長の五十嵐伊之重が発起人で、施主は伊之重ほか四名。賊軍と言われた会津藩士の戦没慰霊のための供養がようやく表向きにできるようになった頃の建立と推定された。
伊之重らによる明治24年の建設広告が発見され、それには「建碑工事落成は明治25年6月となす」とあることから、このころに(1892年)供養碑として建立されたと思われる。
もとは中見沢側の椚したにあったというが、道路拡張のため、現在地の大芦・小矢ノ原に移転された。
平成29年3月31日指定 昭和村教育委員会
国道401号線を進み、大芦地区の中心部には「官軍戦士九人の墓」。
*説明板の記載内容
昭和村有形文化財「官軍戦士九人の墓」
官軍戦死者九人を祀る墓は、当初の中組のコシマキ墓地と、靖国神社に祀られるとともに、明治9年に若松県庁(明治政府)により合葬墓として、この碑が建立された。戦闘で亡くなった政府軍関係者は現在のところ、22名が確認されている。
金沢藩は今枝隊の小杉半蔵、春日隊の3名(小原、小嶋、村田)と半井隊の2名(石黒、杉江)の6名になっているが、実際には今枝隊では小杉のほか、兵士9名(小川、吉田重、吉田余、多和田、山川、藤田、大館、宮嶋、金子)、そして軍夫(卒)6名(小三郎、小十郎、甚三郎、彦三郎、伊三郎、大芦で傷を受け後に越後柏崎で七右衛門)が亡くなっている。
高崎藩は藩士2名(岡登、関口)と軍夫(卒)1名(松本喜十郎)が亡くなっている。
会津藩は2名、その他1名、村民が2名、この戦闘で亡くなっていることが確認されているが、今後の調査を待ちたい。
平成29年3月31日指定 昭和村教育委員会
そして、少し遠くなるが、矢ノ原湿原には「会津藩野村新平の墓」がある。
*説明板の記載内容
昭和村有形文化財 「会津藩野村新平の墓」
明治元年(1868)旧8月23日、会津戊辰戦争で官軍が会津になだれ込んだ日である。
そして9月10日頃から、御親藩を始め加賀藩を主に各藩から約600人の官軍が繰り込んで野尻郷各村(現 昭和村)へ宿陣し警備についた。
9月24日朝8時頃、田島方面から進撃してきた会津軍の奇襲をうけ、官軍は敗走しこの道を下中津川方面へ退却した。
これを追って会津軍朱雀3番寄合組隊、鈴木隊長以下約25名がこの付近まで進撃して来た時、軍を建て直した官軍が逆襲し合戦となり会津軍は少数不利となり、大芦へ退散する。この時の戦いで会津軍、野村新平ここで戦死する。
会津藩士 野村 新平
朱雀3番寄合組隊鈴木隊半隊頭
町奉行、200石、25歳
明治元年旧9月24日大芦村矢ノ原にて戦死
平成29年3月31日指定 昭和村教育委員会
最後に、今回の食事について。
初日こそは、肉を炭火で焼いて食べた。冷凍した味付け肉をクーラーバッグに入れ、キャンプ用品に同梱し、宅急便で送った。肉は完全に溶けていたが、気温が上がっていなかったため、クーラーバッグの中の冷気は失っていなかった。
今回の食事は、5泊6日の長期逗留で、管理棟に売店が無く、最寄りの売店まで“山登り”が必要なため、缶詰中心にすることにした。事前に通信販売等で購入し、キャンプ用品とは別の段ボールに入れ、パックごはんとともに、宅急便で送った。
ごはんは、炊くことも考えたが、登山中心の逗留になり、時間が取れない可能性もあるので、パックごはんを10個用意した。クッカーで湯煎して食べた。
「シャキッとコーン」は、クッカーでバター炒めをした。1缶目は、水を切らずに使ったため、“バター煮”になってしまった。
「さばのトマト煮」には、オーハラ堂で手に入れたスライスチーズをのせ、バーナーで直火して食べた。旨かった。
「いわしの蒲焼き」は、オーハラ堂で手に入れた長ネギを刻み、直火で温め、食べて。これは、最高に旨かった。長ネギは常温でも長持ちし、薬味として合う缶詰も多いと思うので、必須だと思った。
「とり・たまご大根」。直火で温めながら食べると、日本酒が欲しくなった。
一昨、「愛宕山」登山の帰りに、オーハラ堂で入手した卵を使い、今朝調理した。スパムをこんがり焼いて、目玉焼きにした。“カルシファー”とつぶやき、卵を割り入れてしまった。
今夜は、ようやく日本酒を呑む事ができた。昨日、オーハラ堂で手に入れた若松の地酒「名倉山」のワンカップを湯煎し、昭和村産の豆腐を半分に切った。とうふは、香り良く甘みがあり、旨かった。
缶詰「ぶた大根」もバーナーで温め、つまみにした。大根の味のしみ具合と柔らかさが申し分なく、ワンカップとの相性が抜群だった。
その他、滞在中の野菜不足を補うために、野菜ジュースも持ち込んだ。
また、今回は夜に焚き火をして、酒をゆったりと呑みたいと思った。
荷物を少なくするため、バーベキューグリルを焚き火台に転用した。ホームセンターで入手した正方形の金網の中心を凹ませ、グリルに針金で固定。自作の“焚き火台”が完成。
一昨日(4月30日)は、昼から晴れたので、種火となる乾いた枝を周辺から集め焚きつけた。
薪は管理棟で二束購入し、持参した鉈で適当な太さに割って使った。いい感じで火が燃え盛り、夜を過ごそうと思った。
しかし、直ぐに雨が降り出し、焚き火は断念した。昨夜も夜は雨が降り焚き火はできず、今夜は小雨の中で強行したが、気温が低く風も強かったため1時間ほどで終了せざるを得なかった。明日が最後の夜になるので、雨が降らず穏やかであって欲しいと思った。
昭和村の「奥会津 昭和の森キャンプ場」は、森林の雰囲気を楽しめる、良いキャンプ場だった。
最寄り、会津川口駅(金山町)からは路線バス(自由乗降)が利用でき、テント等道具のレンタル、毛布の貸し出しもあるので、持ち込みや宅急便を利用した送り付けと組み合わせれば、只見線の利用者でも手軽にキャンプを楽しむことができる。
只見線の乗客がここを利用する場合の課題は、飲食物の調達と冷蔵。1泊2日なら、村中心部のオーハラ堂などで入手してからチェックインしてしのげるが、2泊を超えると厳しい。一日3本の路線バスか、私のように自転車を持ち込み、それらを利用し買い出しに行く必要がある。片道約6km、標高差約200mの自転車での買い出しは、私でもちょっとキツかったが。
現状、私のような只見線の乗客がここでキャンプをするのは稀だと思うので、飲食物の調達と冷蔵には各位の工夫が必要だ。しかし、今後の只見線利活用計画(福島県) の進捗や、世の中のキャンプ需要の拡大・定着を見ていると、只見線と「奥会津 昭和の森キャンプ場」を結び付け、“飲食物の調達と冷蔵”について何らかの対策を考えておく必要があると思う。
私が過去に利用した、金山町「沼沢湖畔キャンプ場」と只見町「奥会津 ただみの森キャンプ場」には売店があり、食料品や氷の取り扱いがあった。「奥会津 昭和の森キャンプ場」がシーズン(4月~11月)を通してどれだけの利用者があるかは不明だが、費用対効果があるのあれば売店の設置がベストだと思う。もし無理ならば、業務用の製氷機だけでも十分だ。折り畳みのクーラーバッグを持参し、氷を入れ替え、飲食物を冷却・保存できれば長期滞在が可能になる。現状では、売店も製氷機も実現のハードルは高そうだが、検討する価値はあるのではないだろうか。
只見線が“観光鉄道「山の只見線」”と多くの方に認められ、乗客増や沿線観光地・施設への集客を増やしてゆくには、山に関連するコンテンツの一つであるキャンプが、手軽に快適にできる環境整備も必要だと思う。「奥会津 昭和の森キャンプ場」が只見線の利用者に認知され、少しづつ、列車に乗ってキャンプを楽しむ客が増える事を期待したい。
(了)
・ ・ ・ ・ ・
*参考:
・福島県 生活環境部 只見線再開準備室:「只見線の復旧・復興に関する取組みについて」
・NHK:新日本風土記「動画で見るニッポンみちしる~JR只見線」
・東日本旅客鉄道株式会社:「只見線について」(PDF) (2013年5月22日)/「只見線(会津川口~只見間)の鉄道復旧に関する基本合意書及び覚書」の締結について(PDF)(2017年6月19日)
【只見線への寄付案内】
福島県はJR只見線全線復旧後の「上下分離」経営での維持費や集客・地域振興策の実施費用として寄付を募集中(クレジット可)。
①福島県ホームページ:只見線復旧復興基金寄附金・只見線応援団加入申し込みの方法 *現在は只見線ポータルサイト「只見線応援団」URL:https://tadami-line.jp/support/
②福島県:企業版ふるさと納税
URL:https://www.pref.fukushima.lg.jp/sec/16005g/kigyou-furusato-zei.html
[寄付金の使途]
(引用)寄附金は、只見線を活用した体験型ツアーや周遊ルートの整備、只見線関連コンテンツの充実化等に活用させていただきます。 沿線地域における日本一の秘境路線と言われる観光資源を活用し、更なる利用者の拡大と認知度向上を図ります。
以上、よろしくお願い申し上げます。
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