新幹線の中の只見線(戊辰役・奥会津の戦い) 2017年11月

東京に向かう東北新幹線で“JR只見線”を見つけた。網ポケットに挿されていた「トランヴェール」の表紙に只見線を走る列車が描かれていたのだ。

 

「トランヴェール」はJR東日本の新幹線車内サービス誌(月刊)で、管内の文化・風土・自然・食などが記載され、旅のプランも提案されている。管内を走る新幹線(北海道・東北・山形・秋田・上越・北陸)の座席正面にあるシートバッグポケット(網ポケット)に差されている。持ち帰りも自由だが、定期購読も可能になっている。

 

東北新幹線を利用する私にとっては馴染みの雑誌だが、華やかな紅葉を背景に2種の緑色のラインが入った列車が走る姿が描かれた表紙を見た瞬間に『只見線だっ!』と歓喜し、手に取った。

*参考:

・福島県:只見線ポータルサイト

・東日本旅客鉄道株式会社:「只見線について」 (2013年5月22日) 

 

 


  

 

「トランヴェール」11月号の表紙は、只見線を代表する紅葉時期に金山町の「第四只見川橋梁」を渡河するキハ40形だった。下路式曲弦トラス橋の人工物と、重厚な暖色系に彩られた紅葉の自然美を描いた絵に見惚れ、感動してしまった。

  

しかも内容に唸ってしまった。沿線の紅葉の見どころを紹介してると思いきや、

“[特集]会津軍、奥会津で奮闘す! ~知られざる戊辰戦争への旅”

と掲題し、22ページにわたって149年前の「戊辰役」で繰り広げられた只見線沿線を含む奥会津地方の物語が鮮やかな写真とともに記されていた。

“明治維新150年”を来年に控え、関心を高める事で、会津若松周辺への鉄道を使った旅へ誘うという意図もあるだろうが、戊辰役・会津戦争であまり知られていない史実がJR東日本の大動脈である新幹線内で、しかも只見線を表紙に紹介された事を嬉しく思った。*詳しくは、JR東日本(東日本旅客鉄道㈱)のホームページでバッグナンバー(DigitalBook)を参照。URL:http://www.jreast.co.jp/railway/trainvert/digitalbook/tr1711/index.html

    

戊辰戦争の“主戦場”となった会津。NHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公・山本八重が“戦闘服”で参加した会津戦争は、鶴ヶ城(会津若松城)の籠城と包囲攻撃の印象が強く、私もそのイメージを持っていた。*参考:会津若松市「八重と会津博」八重と時代 -会津戦争 URL:http://yae-sakura.jp/aizuhaku/history02

しかも、広大な会津の地にあって、南部は天領で江戸期の城郭も無く、会津戦争とは無縁という勝手な思い込みもあった。さらに、新政府軍の「奥州街道→二本松藩降伏→母成峠突破→鶴ヶ城包囲」という怒涛の進軍で、会津戦争を考える時は東部戦線に注目してしまうため、奥会津は盲点になっていた。*参考:会津若松市「戊辰150周年」URL:https://www.city.aizuwakamatsu.fukushima.jp/bunya/boshin150/

しかし、実際は会津戦争で鶴ヶ城を守るための交戦が、只見線沿線を含む奥会津の各地で行われた。この史実を「トランヴェール11月号」で学び知り、福島県人として恥ずかしい気持ちになったものの、只見線の振興を考える人間としては、大変ありがたく感じた。

  

  

 

かつて、只見線・滝谷駅以南の沿線を含む会津地方の南部の天領は「南山御蔵入領」と呼ばれていた。*下図出処:福島県南会津地方振興局 ~南会津の戊辰特集~「知られざる南会津戊辰歴巡図」(PDF)

会津藩(23万石)はこの南山御蔵入領(5万5千石)の支配を任されていて、幕末には第9代会津藩主である松平容保が京都守護職に任ぜられ、その役料として御蔵入領の年貢徴収権を得られることになった(御蔵入領から御役知への名称変更)。従って、この地(南山)は戊辰戦争の際は、実質会津藩領となっていた。

ちなみに南山(ミナミヤマ)とは、南会津町田島地方の中世以降の呼び名。源頼朝を支えた小山宗光から分家した長沼氏の嫡系によって支配され、南山城(鴫山城)が築城されたと言われている。江戸期寛永年間(1642年)に南山が幕府領(御蔵入領)になり、元禄年間に城の東側に田島陣屋が建てられたという。*参考:旧南会津郡役所公式ホームページ

  

この南山の地には、若松城(鶴ヶ城)下へとつながる沼田・下野・八十里越・六十里越という街道がある。なかでも、日光口と呼ばれる下野街道(会津西街道)は日光街道を経て江戸に通じる要所で、会津藩を中心とする旧幕府軍は、守備隊を派遣し新政府軍と一進一退の攻防を行った。

しかし、奥州街道を北上し白河口を突破した後に二本松藩を破った新政府軍が、西進し母成峠の戦いを制し、猪苗代から一気に会津若松城下に攻め入ると、日光口を守る守備隊は若松城下に引き揚げることになる。

これを機に新政府軍(東山道総督府旗下)は南山に侵攻し、田島陣屋を占領。北越戦争に勝利した北陸道総督府軍も八十里越六十里越の越後口から進軍し、南山には多くの新政府軍が展開することになったという。

 

 

「トランヴェール11月号」には、この後に起こった旧幕府軍と新政府軍との戦いの模様が掲載されていた。掲載されていた戦場などは以下の通り。

 ・只見町塩沢:長岡藩家老・河井継之助終焉の地

 ・只見町叶津(番所):長岡藩の避難民流入

 ・南会津町山王峠:日光口の戦い

 ・南会津町田島:田島陣屋奪還戦

 ・下郷町大内宿:大内峠の戦い

 ・南会津町古町:入小屋の戦い、木伏の戦い 

 ・只見町坂田:滝原の戦い

 ・昭和村大芦:大芦の戦い

 ・昭和村矢ノ原湿原:新政府軍追走戦(野村新平の墓)

 ・金山町横田:(会津四家)山ノ内家屋敷跡 *郷兵部隊の活躍

    

南会津町での戦闘の様子は、「広報みなみあいづ」に詳しい。*下図出処:「広報みなみあいづ」(平成25年3月号)(PDF) p4~7「特集 南会津の戊辰戦争」URL:https://www.town.minamiaizu.lg.jp/material/files/group/1/201303_HP.pdf

    

   

“会津無くして近代日本は成立しなかった”との史観を持つ私にとって、戊辰役当時の奥会津を知る事の重要性を、「トランヴェール11月号」は気付かせてくれた。更に、この歴史を学ぼうとすれば只見線を起点として、戦いの場を理解し、現地に訪れ理解を深める事もできる事も分かった。

今回、「トランヴェール11月号」で奥会津の戊辰役が取り上げられたことは、只見線に新たな価値が与えられた事になったと思う。自然、エネルギー(水力発電)、文化とならび歴史も大きなコンテンツとなった。戊辰役から、天領(南山御蔵入領)となった経緯、山ノ内氏と中世の治世、そして平安期の朝廷と会津との関係、さらに“相津から会津”となる神話上の逸話などへと遡ることもできる。 

 

JR只見線沿線は過疎化が進み高齢化率が高まっているが、観光資源は豊富だ。これを活かす取り組みを自治体を横断して行い、只見線の集客・沿線経済振興に役立ててもらいたいと思う。

 

 

(了)

  

 

・ ・ ・ ・ ・ ・

*参考:

・福島県 生活環境部 只見線再開準備室:「只見線の復旧・復興に関する取組みについて

・NHK:新日本風土記「動画で見るニッポンみちしる~JR只見線

・東日本旅客鉄道株式会社:「只見線(会津川口~只見間)の鉄道復旧に関する基本合意書及び覚書」の締結について(PDF)(2017年6月19日) 

 

【只見線への寄付案内】

福島県はJR只見線全線復旧後の「上下分離」経営での維持費や集客・地域振興策の実施費用として寄付を募集中(クレジット可)。

①福島県ホームページ:只見線復旧復興基金寄附金・只見線応援団加入申し込みの方法 *現在は只見線ポータルサイト「只見線応援団」URL:https://tadami-line.jp/support/

 

②福島県:企業版ふるさと納税

URL:https://www.pref.fukushima.lg.jp/sec/16005g/kigyou-furusato-zei.html

[寄付金の使途]

(引用)寄附金は、只見線を活用した体験型ツアーや周遊ルートの整備、只見線関連コンテンツの充実化等に活用させていただきます。 沿線地域における日本一の秘境路線と言われる観光資源を活用し、更なる利用者の拡大と認知度向上を図ります。

  

よろしくお願い申し上げます。

次はいつ乗る? 只見線

東日本大震災が発生した2011年の「平成23年7月新潟福島豪雨」被害で一部不通となっていたJR只見線は、会津川口~只見間を上下分離(官有民営)とし、2022年10月1日(土)に、約11年2か月振りに復旧(全線運転再開)しました。 このブログでは、“観光鉄道「山の只見線」”を目指す、只見線の車窓からの風景や沿線の見どころを中心に、乗車記や「会津百名山」山行記、利活事業に対する私見等を掲載します。

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