昭和村「御前ヶ岳」登山 2021年 春

JR只見線を利用し、昭和村入りして三日目。今日は平安末期の“平家”に関わる伝説を持つ、会津百名山「御前ヶ岳」(1,233m)に登った。

 

「御前ヶ岳」は、昭和村大芦地区の中心部から南東に延びる高松峰と小松峰の先にそびえている。「会津百名山」の第52座で、「会津百名山ガイダンス」には次のように紹介されている。

御前ヶ岳 <ごぜんがだけ> 1,233メートル
遠い昔の高倉宮以仁王伝説による山名。奥会津の静かな山に登れば、紅梅御前、桜木姫の悲話を思う。[登山難易度:初級]*出処:「会津百名山ガイダンス」(歴史春秋社)p140

 

以仁王とは、後白河天皇の皇子で、平安末期(1180年)に発生した平氏打倒の挙兵(以仁王の乱)の中心人物。

「御前ヶ岳」という名称は、都落ちした高倉宮以仁王(たかくらのみやもちひとおう)を追った妃の紅梅御前(こうばいごぜん)と付き人の桜木姫が住んでいたという伝説に由来します。
*出処:福島県 奥会津 昭和村観光協会「御前ヶ岳」

昭和村の東隣にある下郷町には、以仁王を祀った高倉神社と桜木姫の墓があるという。高倉神社の境内にある「高倉の大スギ」は以仁王の乱が起こった1180年頃に植えられ、樹齢800年を超えていると言われている。*参考:福島県「南会津地区の巨木を紹介します」 

  

「新編會津風土記」(編纂:1803(享和3)年~1809(文化6)年)の野尻組 大芦村の山川の欄には、「御前ヶ岳」の記述は無かった。*出処:新編會津風土記 巻之八十二「陸奥國大沼郡之十一 野尻組」(国立国会図書館デジタルライブラリ「大日本地誌体系 第33巻」p119(コマ65) URL:https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1179220)

●大芦村 ○山川   
○大山 村より未の方(*注:南南西)十八町(*注:1.96km)にあり、頂まで一里三町(*注:4.26km)、又村の巳の方(*注:南南東)二里(*注:7.86km)に能山と云山あり、大山より稍卑し、共に鷹の巢を架する所なり  *は筆者注釈


国土地理院・地理院地図を見ると、村中心部から南南西1.96kmと記されている“大山”は館垣山(908.1m)、南南東7.86kmと記されている“能山”は家老山(1,059m)となっているようだった。事実は不明だが、平安期の源平の争乱に関わる伝説を持つ「御前ヶ岳」が、江戸期会津藩による地誌に記述されていない事に興味がわいた。

   

今日も自転車で、逗留地である「奥会津 昭和の森キャンプ場」から畑小屋地区にある「御前ヶ岳」登山口まで行き、登山。下山後は、国道400号線沿いにあるカフェで昼食を摂り、「昭和温泉しらかば荘」で温泉に浸かり、キャンプ場に戻る計画を立てた。

*参考:

・福島県:只見線ポータルサイト

・NHK:新日本風土記「動画で見るニッポンみちしる~JR只見線

・東日本旅客鉄道株式会社:「只見線(会津川口~只見間)復旧工事の完了時期について」(PDF)(2020年8月26日)

・拙著:「次はいつ乗る?只見線」カテゴリ ー只見線沿線の“山”(登山/トレッキング)ー / ー只見線の春

 

 



 

昨夜は冷え込み、夜中に何度も目覚め熟睡できなかったこともあり、朝方気温の上昇と共に深い眠りについてしまった。起きたのは9時過ぎ。

 

朝食は、缶詰のスパムでスクランブルエッグを作った。

 

登山の準備をして、出発しようとしたところ、スマートフォンが緊急地震速報を鳴らした。直後、大地がゆっくりと、大きく揺れた。地震情報を見ると、震源は宮城県沖で最大震度5強、会津地方は震度3だった。

     

 

10:45、「奥会津 昭和の森キャンプ場」を自転車に乗って出発。国道401号線を南会津町界地区方面に進み、大芦地区の中をしばらく行くと、畑沢川を渡る手前、道路右脇に「御前ケ岳」方面を示す木製の標識があった。このT字路を左折し、畑小屋方面に向かった。


村道は緩やかな上り坂になっていた。


途中、県外ナンバーの車が追い越した。登山客という雰囲気ではなく、土曜日ということで工事関係者の車両かとと思った。


しばらく進むと、すれ違った車両と別の1台が、畑沢川に架かる橋の前後に止まっていた。通りすがりに見てみると、竿を持った釣り人だった。イワナが釣れるのだろうか、と思った。

 

この橋を渡った直後、急な坂を上る途上に鳥居の上部が失われた神社があった。この先の集落、山神平と畑小屋の守り神だと思ったが、氏子となる住民の減少で手入れされないのだろうと思った。

  

 

11:06、前方に「御前ヶ岳」が見え、山神平集落に入った。

  

ハウスには真新しいビニールがかぶせられ、手入れされているような家屋も目立ったので、住民は住んでいるのだろうと思い、村道を進みながら両脇の家々を見た。しかし、住んでいる、と確信が持てたのは1軒だけだった。

 

道脇には、小さな鯉のぼりが飾られ、風に吹かれ泳いでいた。孫の成長を願う、住民の誰かが設置したのだろうと思った。

  

山神平集落を過ぎると、村道の傾斜が少し増し、自転車をこぐ足に力を込めた。

  

坂の途上に、山神平多目的集会施設があった。建物の周辺は刈払いされ、ガラス越しに中の様子を見ると、使用感があった。位置から察すると、山神平と畑小屋両集落のための施設なのではないかと思った。

 

敷地には桜の木があり、満開だった。

  

集会施設のはす向かいに、崩れかかろうとしている家があった。無人と思われる家屋も点在し、歴史を終えようとしている集落の今を知った。

 

 

11:21、畑小屋集落の入口に着く。

 

右手に墓があり、“鶴翁壽紋清居士”、“天心實相馬居士”、“顕高院義道德光清居士”などの戒名が見られ、明治後期刻印が多く見られた。ただ、春彼岸から1か月ちょっとだが、花などが手向けられた様子ではなかった。周辺の家々には人は住んでいないようで、人が離れて10年程度という廃れ具合だった。墓の状態と考え合わせると、畑小屋の最期の住民達は晩年に子を頼り土地を離れ、彼の地に眠ったのであろうか。

前掲した新編會津風土記に畑小屋の記述は無いが、『〇木地小屋 〇松澤 本村から南に一里八町にあり、家敷六軒、東西三十間南北四十六間、山中に住す』とある。位置的に山神平と畑小屋と合ってて、木地小屋=畑小屋は合点がゆく。木地とは山の中の木から作り出される器を指し、それを生業としている方を木地師という。この木地師が集まる集落を“木地小屋”としていたが、明治期の農地解放で田畑を求め移り住んだ方が多く、集落の生業の中心が農耕に変わったために“畑小屋”という名に変えたのではないだろうか。

畑小屋には平安末期の伝説が残り、当時住んでいた木地師の助けを借りたならば、東下した姫君は「御前ヶ岳」の山中でも暮らせたのではないか、という前提があったから伝説が起こり、今でも残っていると思う。そう考えると、この歴史ある畑小屋(旧 木地小屋?)が、消えてしまうのは惜しいと思った。会津百名山「御前ヶ岳」登山口という地の利を生かし、せめて歴史が刻まれたこの墓石群が保存されないだろうか。

  

 

 

11:23、墓から少し進み、登山者が利用する駐車スペースに到着。案内板越しに、「御前ヶ岳」の全体が見えた。

案内板には次のように書かれていた。

紅梅御前と桜木姫の伝説
 治承四年(西暦1180年)、宇治川の戦いに敗れ命からくも逃れた後白河天皇の第二皇子・高倉宮以仁王は越後に落ち延びることになり、中仙道から上州沼田を経て尾瀬から下郷の大内宿に入った。
 王の妃「紅梅御前」は付き人の「桜木姫」と数少ない家来とともに京から王を追ってこの地に辿りついたものの、恋しい人はすでに越後へと向かってしまったあとであり、身の置きどころがなくこの山中にしばらく住んでいたといわれ、その遺跡が今に残っている。 その時からこの山を「御前ヶ岳」と呼ぶようになったという。 二人はまもなく亡くなり、紅梅御前は下郷町戸赤の渓流沿いに、桜木姫は下郷町大内集落のはずれに今もひっそりと奉られている。 

 

村道に面した登山口に向かう。関東地方のナンバーを持つ車が停車し、ドライバーは近くにある神社の方に居た。先には未舗装の畑小屋林道(3.933m)が延びていて、転石峠付近を経て「駒止湿原」(1,100m、会津百名山56座)方面に続いている。

   

自転車を廃屋の前に置いて、登山の準備を行った。

  

 

 

11:26、軽く準備運動をし、水を一口飲んで、「御前ヶ岳」登山を開始。ほぼ目の高さの位置に山頂を見て登山を開始するのは初めてで、良いものだと思った。

 

首に笛、熊鈴を左足の付け根に取り付け、“クマよけ”音楽は、ケツメイシにした。ランダムで再生したら、〽準備はできたか?...、と“カーニバル”が流れ、気が引き締まった。

  

坂を下ると岳沢を渡るが、その手前には“クマに注意”の看板が立てられていた。今日も『熊に自分の存在を知らせ、近寄らせない』事を強く思った。

  

橋を渡り、短い斜面を左に進んだ後に、廃屋の前を右に鋭角に曲がり、登山道に入った。

 

木製の戸板の脇には、一輪のショウジョウバカマが咲いていた。

  

登山道に入ると、すぐに、風景に同化した看板らしきものが見えた。

 

“御前ヶ岳登山道入口”と書かれた、矢印形をしたものだった。杭から外れ、地表に置かれているようだった。

  

まもなく、木橋で沢を渡った。

 

登山道は、クマザサが生えていたが疎らで、踏み跡も広くはっきりしていた。

 

 

まもなく、前方に杭標とトラロープが張られているのが見えた。

 

杭標は、御前ルートと山神平ルートの分岐を示すもので、熊の攻撃を受けたようでボロボロだった。山神平ルートは、現在頂上付近の斜面の状態が悪く、通行止めになっているため、トラロープで規制しているようだった。私は右に延びる登山道を進んだ。

 

沢水が浸透している場所には、木道が設けられていた。このような木道は助かる。今まで登ってきた山に、木道が欲しいと思った場所は何箇所かあった。

  

林の中に登山道は延びる。クマザサの丈は低く、疎らだったので、熊の心配は無かった。ただ、念のため、時々笛を吹き、熊鈴を鳴らしながら進んだ。

 

途中、足元の枯葉の中に紫の点を認めた。顔を近づけて見ると、タチツボスミレのようだった。

  

 

登山道は傾斜が増し、最初のピーク(868m)に向かってゆく。途中、二股の杉があり、間を通り抜けた。

  

木々に葉が無いため、登山道から前方に「御前ヶ岳」の稜線を見ながら、気持ち良く歩くことができた。

 

 

11:56、開けた尾根道になると、木々の切れ間から「御前ヶ岳」の山頂も見えた。

  

最初のピークを過ぎると、登山道は鞍部のダウン・アップとなり、その後、傾斜が徐々に上がってゆき、ヒモ場が現れた。踏み跡上に大きな岩も見られるようになった。

    

  

12:05、「御前ヶ岳」手前のピークの稜線が見えるようになると、ヒモ場が連続する急坂となった。堆積した枯葉を踏む足元が不安定という事で、ロープをつかみながら進んだ。

 

足元の枯葉が少なくなると、傾斜は増し、登山道は木々の根と岩が混在するようになった。ただ、階段状になっていて、登りやすかった。

 

このあたりから、ロープをつかまないと安心して前に進めなくなった。足元に注意しながら、ゆっくり進んだ。

 

ロープは新旧混在していて、定期的に交換されているようだった。使用されているトラロープが岩に接触している箇所もあったが、メンテナンスがされていることが分かり、ヒモ場自体への不安は、まったく感じなかった。

 

登山道の両脇に目をやると、大きな岩が点在するようになった。木に受け止められたような落石も見られた。

  

 

12:18、振り返り、麓を見ると、村道の登山口付近だった。

 

デジタルカメラをズームすると、停めた自転車をとらえる事できた。SONY「DSC-WX500」のズーム機能と性能に感心した。

  

また、少し進むと、岩の隙間があった。

 

手を近づけると、冷たい空気が流れていた。“風穴”だった。

   

風穴から立ち上がる冷気を浴び、先に進むと、視界に赤いものが入った。スズランに見えたが、帰宅後に調べてみても品種は分からなかった。

   

岩場の登山道は続いた。ロープは十分過ぎるほど張られていて、登る不安は無かった。ただ、岩が多いだけに落石を発生させてしまう可能性があるので、他の登山者が続く場合は慎重に登る必要があると思った。

  

 

12:28、岩場の登坂が終わる。

 

振り返ると、けっこうな急斜面を登ってきたことが分かり、「会津百名山ガイドブック」に“登山難易度=初級”とあったが、“中級”にした方が良いのでは、と思ってしまった。

 

岩場急坂の後は、緩やかな傾斜となり、歩きやすい登山道だった。

 

まもなく、前方に巨石群が現れ、“立入禁止”の黄色いテープで規制されていた。巨石の間には人が入られるような深い切れ目があった。

     

 

12:32、登山道は、さらに傾斜が緩やかになり、ブナの二次林とクマザサ群の中に延びていった(標高1,140m)。

 

前方には「御前ヶ岳」山頂の稜線がはっきり見えた。踏み跡も鮮明で、進むべき方向に不安はなかった。ただ、クマザサの丈が高く密になってきたので、笛を大きく吹き、熊鈴を手に持ち鳴らしながら進んだ。

 

途中、登山道の真ん中に残雪があった。

  

 

12:40、クマザサの間を進み、少し坂を上ると、「紅梅御前 桜木姫 お住まいの跡」に到着した。

 

案内版は凹み、標杭は齧られていた。明らかに熊の攻撃だった。案内の記述は、登山口駐車場の案内板とほぼ同じ内容だった。


 

「紅梅御前 桜木姫 お住まいの跡」を過ぎると、登山道の傾斜が少し増し、ヒモ場が現れた。ヒモが無くても登られるので、ロープは道を誤らぬようガイドの役割もあるのだろうと思った。

 

まもなく、クマザサの量が少なくなり、前方の二次林が疎らになってきた。

  

前方が開けると、残雪が目に飛び込んできた。

 

 

 

12:51、残雪の上を進み、杭標が立つ「御前ヶ岳」山頂に到着。登山口から1時間25分掛かった。「御前ヶ岳」は登山口の正面のたたずまいから、簡単に登られる山ではないと感じたが、岩場の急坂以外は、登りやすくスイスイと登頂できた、という印象を持った。

 

前方には、「博士山」(1,481.9m、会津百名山33座)が堂々と見えた。会津若松市内や会津美里町内、登山口のある柳津町内から、これほど「博士山」の稜線が見えたことはなく、感動してしまった。*参考:拙著「柳津町「博士山 登山」 2020年 春」(2020年5月17日)

 

二等三角点標石に触れて、登頂を祝った。

  

ここには山名の木製標杭が立っていたが、熊の攻撃を受けたようで、特に裏面がひどい状態だった。齧りとっても美味しくは無いと思うので、熊にはこれ以上の攻撃はしないで欲しいと思った。

 

山頂の眺望は、「博士山」に向かって開けた北側だけだった。南側は、ブナの二次林に覆われ、眺望は無かった。

   

東側は、現在山行が禁止されている山神平登山道があり、わずかに開けていたが、葉が生い茂れば、何も見えない木や藪の状態だった。

  

 

13:05、下山を開始。往路を戻った。

  

 

13:13、急坂のヒモ場を下る。ロープをつかみ、慎重に足を進めた。

  

 

急坂の下りを終え、ブナ・ナラの二次林の平場を歩く。「志津倉山」細ヒドコースに似た、心地よい空間だった。

 

 

登山道入口のある廃墟が見えた。左に折れ、岳沢を渡った。

 

 

 

13:44、登山口に戻る。下山時間39分。あっという間だった。

 

登山口入口から振り返り、「御前ヶ岳」を眺める。下山後に登ってきた山の全体が見られるのは、良いと思った。 

 

「御前ヶ岳」登山は、登り1時間25分、下り39分で無事に終える事ができた。

この山は、山開き登山が行われるだけあって、登山道は整備され、全体的に歩き易いコースだった。1,140mピークまでの岩場急坂は息が切れるが、ヒモ場は途切れることなく続いていて、ロープの交換もされているようで、安心して掴みながら登る事ができる。ただ、グループで登る場合や、登山者が多い場合、落石に注意が必要だ。「会津百名山ガイダンス」で難易度が初級となっているが、この岩場だけは、“厳しい山”という意識を持った方が良いと思った。


「御前ヶ岳」には必要な標杭や案内板があり、広く登山者を呼び込める山だと感じた。但し、只見線を利用した登山となると工夫が必要だ。昭和村最寄りの会津川口駅から路線バス(川口車庫~大芦)が走っているが、最寄りのバス停から登山口までは5kmと距離がある。毎年5月下旬に開かれる山開き登山は、例年出発式が8時から登山口で行わるので、只見線を利用した場合は前泊が必要で、宿に登山口までの送迎を依頼する必要となる。


只見線と「御前ヶ岳」を組み合わせるには、

①只見線の乗客に対する登山ツアーの企画(登山道までの送迎)
②大芦地区への乗り捨て可能な電動アシスト付き自転車の設置

等が考えられる。タクシーは、最寄りの会津川口駅から現在でも利用できる。


「登山ツアー」については、“観光鉄道「山の只見線」”の浸透を目指すのであれば、他の山でも新緑と紅葉時に企画してもらいたいと私は考えている。「電動アシスト付き自転車」は、矢ノ原湿原など村内の見どころ・食べどころ巡りにも役立ち、只見線利用者の旅の自由度を高めるためには、場所を複数定めて乗り捨てを自由にすべきだと思う。*参考:昭和村観光協会「レンタルサイクル」*貸出・返却は「交流・観光拠点施設「喰丸小」」

  

昭和村を代表する山である「御前ヶ岳」に、只見線を利用して登る客が増える事を期待したい。

 

 

14:09、「御前ヶ岳」登山口を後にして、快調に自転車を進めて「奥会津 昭和の森キャンプ場」に戻った。温泉に行く準備をして、直ぐに再出発。

    

キャンプ場を出て左に曲がり、両原地区に下っていった。 

 

 

 14:26、民宿に併設されているカフェ「まつや」に到着。“営業中”という幟があり安堵するが...。

 

店の前に行くと、中に灯りは点いておらず、閉まっていた。ゴールデンウィーク中の開店情報を確認してやってきたが、何か事情があったのだろうと思い、あきらめた。


次は、同じく国道400号線沿いにある 交流・観光拠点施設「喰丸小」に向かった。

 

14:35、「喰丸小」の旧校舎を利用した、蕎麦カフェ「SCHOLA」に到着。SCHOLAとは、ラテン語で学校を意味しているが、ベージュの建物の前に行きガックリ。ここも閉まっていた。ラストオーダーが15時30分となっていて、客が不在だったため閉店したのだと思った。

「SCHOLA」の閉店で、昼食をあきらめることにした。この先にはソースカツ丼で有名な「やまか食堂」があるが、営業は15時まで。明日は一日キャンプ場で過ごす予定なので、天気が良かったら、この3軒のうちどこかに食べに来ようと思った。

この後は、温泉に入るために、国道400号線沿いにある「昭和温泉しらかば荘」に向かった。

  

国道400号線を金山町方面に少し進むと、「奥会津 昭和の森キャンプ場」の「みはらし広場」展望台が見えた。

  

展望台前が刈払いされていて、展望台が赤屋根なので、稜線上で目立っていた。思いのほか低い場所だが、良い景色が見られることに驚いた。

  

さらに国道を進むと「双体道祖神」(右)と「庚申塔」(中央)があった。以前は通り過ぎてしまったが、今回は立ち止まり、石像・石柱を見てみた。


 

「双体道祖神」。二人の童を彫ったものだろうか、仲良く手をつないでいるように見えた。

 

「庚申塔」。根元に三猿と思われるものが彫られ、正面からは言わザルと見ザルが見られた。

案内板は「庚申塔」のものだった。

昭和村有形文化財 庚申塔
 庚申講は星宿信仰が源となった講事で、人の罪過を報告するという三尸虫(さんしちゅう)が天に昇る庚申の夜は、集落の男性が夜を徹して眠らず、身を慎むことを旨とした。
 後に、五穀豊穣や魔よけが信仰の中心となり、60年に一回巡ってくる庚申年に、庚申供養や三猿などを刻むのが常とされた。
 元禄4年(1691)に建立された六角の石碑の中央には「大通智勝仏」と主尊の銘が刻まれており、庚申の主尊は「青面金剛」が主流であったことと比して全国的にも希少な供養塔である。大通智勝仏は法華経を演舌したと伝えられる仏で、六世紀に中国の天台智覬大師が著した「妙法蓮文句」に登場する。
  平成9年12月1日指定 昭和村教育委員会

  

国道をさらに進み、阿久戸集落を過ぎ、気多淵集落の田んぼ越しに目を向けると、一昨日登った「高館山」(847.7m)の美しい山稜が見えた。急坂が続いた登山道だったが、こんもりとした山に見えて、意外だった。


下中津川地区を過ぎると、しばらく左手に田んぼを見ながら進んだ。

 

 

 

14:57、「昭和温泉 しらかば荘」に到着。

 

訪れるのは二度目になる。宿泊施設を併設した、綺麗な建物だ。

入口付近で検温し 受付で料金を支払い入館。駐車場には多くの車があり覚悟はしていたが、浴室も人が多かった。内湯と露天風呂ともに、それほど広くはないので、新型コロナウイルスの事を考えると地元の方は気になるだろうなぁと思った。駐車車両の半数以上は県外ナンバーで、その大半は関東圏だったので、なおさらだった。全国各地で起こっている、観光地のジレンマに思いを巡らせた。

  

「高館山」「愛宕山」そして「御前ヶ岳」登山の疲れをいやすため、半身浴を中心にゆっくり湯に浸かった。入浴後はロビーで一息つき、「昭和温泉 しらかば荘」を後にした。

  

表に出て、駐車場の桜を見ると、満開だった。

【昭和村 昭和温泉しらかば荘】
・源泉名:昭和温泉しらかばの湯 (源泉かけ流し)
・泉質:塩化物温泉(低張性、弱アルカリ性、高温泉)
・泉温:61.0度

 

「昭和温泉 しらかば荘」を出て、オーハラ堂で三度目となるビール冷却用の氷を購入し、国道400号線を進む。しばらくすると太陽が隠れ、西から鼠色の雲が広がってきた。雨が降り出す前に到着したいと、キャンプ場までの坂を必死に上った。

  

 

16:56、国道401号線からショートカットしキャンプ場に入る。「昭和温泉 しらかば荘」から、約1時間かかった。空には明るさが残り、直ぐに雨が降り出すような空模様ではなかった。

  

キャンプ場を見渡すと、テントの数が朝より増えていたようだった。今日が土曜日ということで、ゴールデンウィークに入った方もいるのだろうと思った。

  

自分のテントに到着すると、さっそくビールを呑んで「御前ヶ岳」登頂を祝った。風呂上りから時間が経っていたが、旨かった。 

 

昼食を抜いていたため、直ぐに食べられるもの、と缶詰「いわしの蒲焼」にネギを乗せて、バーナーで温めて食べた。最高に旨かった。ビールとの相性も良く、一本目はすぐに飲み干してしまった。

この後、夕食に取り掛かるが、雨が降り出してしまった。夕立のような強い雨だったので、タープを下ろし、前室で初日の残っていた味付き肉を炒め、卵を茹でて夕食とした。

 

今日の「御前ヶ岳」で、昭和村で予定していた「会津百名山」の三座に、無事登頂することができた。明日は、一日キャンプ場で過ごし、疲れを取って、明後日からの“金山町「会津百名山」二座登山”に備える。今夜は、管理棟で毛布を借りた事もあり、ぐっすり眠られるだろうと思い、早めに休む事にした。  

 

 

(了) 

 

 

・  ・  ・  ・  ・

*参考:

・福島県 生活環境部 只見線再開準備室:「只見線の復旧・復興に関する取組みについて

・産経新聞:「【美しきにっぽん】幾山河 川霧を越えてゆく JR只見線」(2019年7月3日)

・東日本旅客鉄道株式会社:「只見線について」(PDF) (2013年5月22日)/「只見線(会津川口~只見間)の鉄道復旧に関する基本合意書及び覚書」の締結について(PDF)(2017年6月19日)

  

【只見線への寄付案内】

福島県はJR只見線全線復旧後の「上下分離」経営での維持費や集客・地域振興策の実施費用として寄付を募集中(クレジット可)。

①福島県ホームページ:只見線復旧復興基金寄附金・只見線応援団加入申し込みの方法 *現在は只見線ポータルサイト「只見線応援団」URL:https://tadami-line.jp/support/

 

②福島県:企業版ふるさと納税

URL:https://www.pref.fukushima.lg.jp/sec/16005g/kigyou-furusato-zei.html

[寄付金の使途]

(引用)寄附金は、只見線を活用した体験型ツアーや周遊ルートの整備、只見線関連コンテンツの充実化等に活用させていただきます。 沿線地域における日本一の秘境路線と言われる観光資源を活用し、更なる利用者の拡大と認知度向上を図ります。

 

以上、よろしくお願い申し上げます。

次はいつ乗る? 只見線

東日本大震災が発生した2011年の「平成23年7月新潟福島豪雨」被害で一部不通となっていたJR只見線は、会津川口~只見間を上下分離(官有民営)とし、2022年10月1日(土)に、約11年2か月振りに復旧(全線運転再開)しました。 このブログでは、“観光鉄道「山の只見線」”を目指す、只見線の車窓からの風景や沿線の見どころを中心に、乗車記や「会津百名山」山行記、利活事業に対する私見等を掲載します。

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