昭和村「愛宕山」登山 2021年 春

JR只見線を利用し、会津川口駅から昭和村入りして二日目。今日は、逗留地の「奥会津 昭和の森キャンプ場」にほど近い、会津百名山「愛宕山」(745m) に登った。

 

「愛宕山」は昭和村大芦地区にある山で、「会津百名山」の第88座になっている。「会津百名山ガイダンス」(歴史春秋社)には、以下のような見出し文で紹介されている。

愛宕山 <あたごやま> 745メートル
昭和村の大芦集落の裏山といった風情の小山で、御前ヶ岳より北西に延びる小松峰最先端に鎮座している。標高745メートル。古くから信仰の山で、山麓には大山祇神社がある。山頂には愛宕神社が建っていて、享保8年(1723)6月24日寄進と刻まれた石灯篭が歴史を感じる。[登山難易度:初級]*出処:「会津百名山 ガイダンス」(歴史春秋社)p168

標高745mとなっているが、登山口となっている大山祇神社の石段下が標高606mで、登山道は急坂ということで歩く距離も短く、健脚であれば30分ほどで登頂可能な山、と多くの山行録に記されていた。 

 


今日は、予定では「愛宕山」登頂後に、同じく会津百名山の「大仏山」(994.3m、第65座)に登ろうとしていた。しかし、予定していた国道400号線側からの登山道は急坂ということで、昨日の「高館山」登で山滑落の際に痛めた右ふくらはぎの事を考え、「大仏山」登山を断念し、「愛宕山」だけに登る事にして、代わりに、「矢ノ原湿原」を訪れる事にした。

 


  

 

朝起きると、「奥会津 昭和の森キャンプ場」の上空には鼠色の雲が広がり、冷たい雨が降り続いていた。テントからは、正面左側に「大仏山」(994.3m)の山頂部分が見えていた。

  

天候は徐々に回復し、11時頃には青空が広がった。

 

天候が回復し、良い景色が見られるのではないかと思い、「みはらし広場」展望台に行く事にした。「奥会津 昭和の森キャンプ場」の最大の眺望ポイントで、昭和村の中心部を俯瞰できる必見の場所だ。

 

ケビン村に続く道を進み、「ふれあい緑の森」のフリーサイトを抜け、林の中の緩やかな坂と尾根道を進むと展望台が見えてきた。私のテントから800mほどの距離。林の中は驚くほどキレイに刈払いされ、熊が好むような環境ではなく、熊との遭遇を気にすることなく辿り着くことができた。

 

展望台に入り、木々が伐採され開けた北西西の方向を見下ろすと、残雪の“会越国境”貉ヶ森山ー日尊倉山の山稜を背後に、野尻川沿いに細く広がる佐倉、中津川、野尻と続く昭和村の中心部が一望できた。

昭和村を紹介するメディア、コンテンツで見慣れた景色だったが、実際にこの場に立つと、見入ってしまうほどの光景だった。これから、田に水が張られ水鏡が並ぶと、より素晴らしい眺めだろうなぁ、と思った。

  

12:54、展望台からテントに戻り、準備をして「奥会津 昭和の森キャンプ場」を出発。国道401号線を左に曲がり下ると、バイパス工事の切土現場があった。

福島県では「ふくしま道づくりプラン」(2012年改訂・策定)に基づき道路整備が行われている。昭和村では、国道401号線が県土連携軸・交流ネットワーク基盤強化プロジェクト/地域連携道路に指定され、会津若松市方面の博士トンネル(4,503m)は湧水で貫通が遅れているが、“2020年代初頭の開通”に向けて工事が進められている。この大芦地区のバイパスと、その先、南会津町界地区に抜ける新鳥居峠のトンネルは“(プラン)策定から10年以内の着工”とされているが、トンネルの着工は見通せないという。地域の人口動向や地政学的な必要性、建設費と維持費の費用対効果などを考え、工事を進めて欲しいと思った。*参考:福島県土木企画課「ふくしま道づくりプラン」URL: https://www.pref.fukushima.lg.jp/sec/41025a/kendoplan.html

  

 

坂を下り大芦集落が見えてくると、前方に山頂部分に木が無い「愛宕山」が見えた。事前の情報で頂上に社があるということで、伐採されている姿に納得した。

  

見沢川を渡ると、大芦中見沢バス停があった。「奥会津 昭和の森キャンプ場」から一番近いバス停になるが、ここを通る路線バスは“自由乗降”路線なので、只見線・会津川口駅からキャンプ場に向かう客にとっては、あまり利用することが無いのかもしれない。

 

バス停の向かいには廃屋があった。家主が自ら解体せず、崩落によって周辺に迷惑が掛からなければ行政代執行もあり得ず、このまま崩れ落ちてゆくのだろうかと思った。

  

国道をしばらく進むと、戊辰役に関連した「官軍戦士九人の墓」があった。村民ととも眠っているようだ。

案内板には、次の記述があった。

昭和村有形文化財 「官軍戦士九人の墓」 
 官軍戦死者九人を祀る墓は、当初の中組のコシマキ墓地と、靖国神社に祀られるとともに、明治9年に若松県庁(明治政府)により合葬墓として、この碑が建立された。戦闘で亡くなった政府軍関係者は現在のところ、22名が確認されている。
  金沢藩は今枝隊の小杉半蔵、春日隊の3名(小原、小嶋、村田)と半井隊の2名(石黒、杉江)の6名になっているが、実際には今枝隊では小杉のほか、兵士9名(小川、吉田重、吉田余、多和田、山川、藤田、大館、宮嶋、金子)、そして軍夫(卒)6名(小三郎、小十郎、甚三郎、彦三郎、伊三郎、大芦で傷を受け後に越後柏崎で七右衛門)が亡くなっている。
  高崎藩は藩士2名(岡登、関口)と軍夫(卒)1名(松本喜十郎)が亡くなっている。
  会津藩は2名、その他1名、村民が2名、この戦闘で亡くなっていることが確認されているが、今後の調査を待ちたい。 
平成29年3月31日指定 昭和村教育委員会

 

 

 

13:10、「愛宕山」登山口に到着。

  

登山口の序盤は、大山祇神社の参道と重なり、まずは石段を上るの事になる。

 

石段の脇には宮の下バス停(川口車庫~大芦線)があり、小屋を覗くと、新聞受けがあった。雪が多い土地ということで、除雪される幹線道路のバス停に設置されたのだろうと思った。


 

13:12、自転車を置いて、「愛宕山」登山を開始。石段を登り切り、鳥居の前で社を見ると、思いのほか大きく、境内も刈り払いされ整備されていた。


社の前に進み参拝。山に入る報告をし、登山の安全を願った。

  

登山道は、社の右側から斜めに延びていた。

 

杉の木立を抜けると、クマザサが膝下程の丈で生えていて、山の斜面に向けて盛り土された登山道が続いていた。

 

登山道は、盛り土の先が切土に変わり、明瞭で見失う事はなかった。

 

切土の登山道が続く。傾斜がきつく、ほぼ直登することになった。

  

中腹と思われる場所から、樹脂製の階段が設けられていた。足元が安定し、安心して登ることができた。

 

急坂が終わると、緩やかな坂になり、前方の明るさが増してきた。頂上が近いことが察せられた。

 

 

 

傾斜が一層緩やかになり、まもなく山頂、という所に杉の倒木があり、登山道を塞いでいた。

  

倒木の枝の間を抜けると、前方に御堂の赤い屋根が、はっきり見えた。

  

 

 

13:32、「愛宕山」山頂に到着。20分で登頂することができた。

 

先に進み風景を見る。見沢川沿いに立ち並ぶ大芦集落の左に「石取山」(810m)、その背後に「志津倉本峰」(1,234.2m)と「志津倉山」(1,203m)、そして正面に「大仏山」(994.3m)がはっきり見えた。

     

三角点に触れ、登頂を祝う。初めて触れる四等三角点標石だった。

  

山頂の南側、御堂の正面には木々が覆い、眺望は得られなかった。

   

御堂は、傾き、心もとなかった。

 

参拝し、内部を見させていただく。荒れ具合が目についたが、屋根の内側が竹組で、カヤが葺かれていた事に歴史を感じた。


御堂の外にある灯篭も崩れ落ちていた。

 

側面を見ると“寶暦八年”と文字が刻まれていた。寶(宝)暦八年は西暦1758年で、徳川幕府は9代家重の治世。

   

5分ほど滞在し、陽光を浴び白い大きな花びらが美しいタムシバに見送られ、「愛宕山」山頂を後にした。

  

 

下山は、登ってきた道をゆっくり進んだ。

  

 

 

10分ほどで、神社の境内に到着した。

  

大山祇神社に登山無事終了の報告とお礼をして、石段を下り、「愛宕山」登山が終了。登山20分、下山15分の、過去最短の登山だった。

「愛宕山」は気軽に登られる山で、山頂の眺望も良く、「会津百名山」に名を連ねている事が納得できた山だった。只見線を利用して昭和村を訪れ、周辺の会津百名山である「高館山」「大仏山」「御前ヶ岳」と合わせ登っても、一日で無理なく登る事ができると思った。

今回、「奥会津 昭和の森キャンプ場」から自転車で登山口に向かったが、歩いても20分ほどで着くことができる(1.7km)。「愛宕山」は、場内の見晴らし峠の展望台とともに、「奥会津 昭和の森キャンプ場」の大きなアクセントになると思う。「愛宕山」と「奥会津 昭和の森キャンプ場」のセットは、“観光鉄道「山の只見線」”の大きなコンテンツとなる可能性があると感じた登山となった。

  

「愛宕山」登山の後は、遅い昼食を摂ることにした。大山祇神社の石段から見えるカフェに向かった。

 

ファーマーズカフェ 大芦屋」。『次に昭和村を訪れる時は、必ず訪れたい』と思っていた店だ。

玄関には、テラス席を覆う屋根が取り付けられていた。店の公式ブログを見ると、先日4月20日から工事が始まり、27日に完成したばかりだという。

  

カウンターに座っていたご主人の出迎えを受け、店内に入る。窓枠や梁の木材が印象的な、木のぬくもりが感じられるインテリアだった。テーブル席は3つで、カウンター席もあった。

 

大きな窓からは、大芦の長閑な風景が見られた。

 

メニューを見て何を注文するか考えた。蕎麦を食べたいと思い、「高遠そば」を選び、食後にと「ばんでぇもち」と「コーヒー」を注文した。

 

 

厨房では、どうらや奥様が調理をしているようだった。「高遠そば」は7分ほどで運ばれてきた。

 

蕎麦は香り良く、色合いやツヤから、食べる前から期待が膨らむ雰囲気だった。

まずは、汁を付けずに一本食べる。好みの茹で具合で、香り、コシともに申し分なかった。

続いて、辛味の強い大根おろしが入った汁に付けて食べる。

旨い!

程よい辛味が交わった、濃いめの汁をまとった蕎麦ののど越しは最高だった。箸が止まらず、一気に平らげた。

また、食べ終わる頃に供された蕎麦湯のぬめり感と濃さがたまらず、残った汁も完飲してしまった。完璧な蕎麦食になった。

   

デザートとして頼んだ「ばんでぇもち」。これまた、忘れられない逸品だった。かかっているタレが何かを聞くのを忘れたが、うるち米の餅は、絶妙な食感で、一般的な餅ほどの弾力は無いが、程よい柔らかさと歯ごたえが共存し、風味もあった。タレとの相性も良く、また食べたいと思えた。

 

コーヒーカップには、ローマ字で大芦屋と表示されたオリジナルカップ。店内の調度品などと相まって、ご主人の、このカフェに掛ける情熱が伝わった。

  

ご主人からは、村の観光ガイドブックをいただいた。一新されたもののようで、私は初めて手に取った。

 

「ファーマーズカフェ 大芦屋」は期待に違わなかった。料理一品一品は特徴があり、おいしく、落ち着いたインテリアと相まって、素晴らしい時間を過ごす事ができた。昭和村を訪れる際には、また来たいと思った。 

   

「ファーマーズカフェ 大芦屋」を出て、畑沢川を渡ると、カフェのご主人も設置に関わったという鯉のぼりと一緒に「愛宕山」の綺麗な稜線が見えた。

  

この後は、「矢ノ原湿原」経由で、オーハラ堂に行き、ビールを冷やすための氷を買う事にした(大芦地区に店は無かったため)。

国道から、大芦バス停があるT字路を右折し、農道大芦・下中津川線に入った。

  

しばらく進み、見沢川を渡り、振り返って「愛宕山」を眺めた。大芦集落にこんもりとある「愛宕山」が信仰の山として、山頂に御堂を持つに至った経緯が分かるような気がした。

 

 

「矢ノ原湿原」に続く村道は、“乗るか押すか”ギリギリの傾斜で、自転車のギアを一番軽くし、ゆっくりと進んだ。

   

国道の分岐から20分で、「矢ノ原湿原」の遊歩道入口に到着。自転車を置いて、歩き進んだ。

 

2017年10月以来、二度目の訪問。木道を渡り、湿原の中まで行こうと思った。

 

木道をしばらく進むと、水芭蕉群があり、綺麗に咲いていた。水に浸かりながらも咲く、鮮やかな一本に目が留まった。

  

木道から土の遊歩道に入り、再び木道を進むと、湿原を見渡せる場所に出た。色付きは、これからという感じだった。

 

前回は気にならなかった、“水ゴケを大切に!!”という標杭が目に付いた。

 

湿原に入ってすれ違った方が、地表にカメラを近づけ写真を撮っていたが、水ゴケが被写体なのだろうかと思った。

 

水ゴケをよく見てみたが、何が魅力なのか分からなかった。最近、“コケ マニア”の存在を知るようになったが、この水ゴケにも惹きつけるものがあるのだろうと思った。

 

 

湿原を見通せる場所で引き返し、村道に戻り、少し先に進むと「会津藩野村新平の墓」がある。自転車から降りて、そばに行き首を垂れた。

昭和村有形文化財 「会津藩野村新平の墓」
 明治元年(1868)旧8月23日、会津戊辰戦争で官軍が会津になだれ込んだ日である。
  そして9月10日頃から、御親藩を始め加賀藩を主に各藩から約600人の官軍が繰り込んで野尻郷各村(現 昭和村)へ宿陣し警備についた。
  9月24日朝8時頃、田島方面から進撃してきた会津軍の奇襲をうけ、官軍は敗走しこの道を下中津川方面へ退却した。
  これを追って会津軍朱雀3番寄合組隊、鈴木隊長以下約25名がこの付近まで進撃して来た時、軍を建て直した官軍が逆襲し合戦となり会津軍は少数不利となり、大芦へ退散する。この時の戦いで会津軍、野村新平ここで戦死する。
   会津藩士 野村 新平
   朱雀3番寄合組隊鈴木隊半隊頭
   町奉行、200石、25歳
   明治元年旧9月24日大芦村矢ノ原にて戦死
平成29年3月31日指定 昭和村教育委員会 

 

「野村新平の墓」の先には、代官清水がある。江戸期、12代徳川家慶の時代に派遣された巡見使が田島代官に『保護し長く領民の憩の水とするよう』と申し入れたのが名の由来になっている。

矢ノ原 代官清水の由来
 今から153年前の天保8年(1837年)に将軍職についた12代徳川家慶は、歴代将軍の例にならって各地に幕府巡見使を派遣した。
 翌年5月15日巡見使松野熊之助、柴田岩三郎両名は当地に入り野尻に一泊、翌日田島代官平岡文治郎と同道、大芦名主、朋之助を案内人として矢ノ原を経て大芦に入る。(名主朋之助の巡見使受入準備記録がある)
 一行は途中ここに休憩し、この清水に喉をうるおすが、あまりにも清らかなこの湧清水に感嘆し代官にこれを保護し長く領民の憩の水とするよう申し入れたという。
 この時まで沼清水といっていたものをこの時から代官清水と呼ぶようになったといわれている。
    平成3年7月   昭和村

  

この先の「矢ノ原湿原」の様子。これだけ見れば、味気ない風景。

 

しかし、紅葉の最盛期の光景を知っていると、見方が変わってくる。これから葉が茂り、陽の光を燦燦と受け、気温の低下とともに色付く、という過程を思い描くと、必要な閑散だと感じた。

 

  

「矢ノ原湿原」入口の風景も、しかり。

 

奥会津五町村活性化協議会が企画した「只見線体験乗車」で昭和村を訪れた当時、曇り空だったが、見頃を迎えた紅葉が入口を彩っていた。

 

  

「矢ノ原湿原」を過ぎ、隣にある「北湿原」も、秋の色付きの“下地”だった。

 

この「北湿原」は私有地で開放されていないのが残念だが、農道から見ても素晴らしい景観だった。

 

「北湿原」の隣にある駐車場には、先ほどのカメラマンのものと思われる車が停められていた。どちらも関東圏のナンバーだった。

  

駐車場の向こうにはハウスがあり、北側では骨組みが行われていた。このハウスは、昭和村の名産、かすみ草の栽培で使われる。*参考:JA会津よつば「夏秋期日本一の福島県昭和村のかすみ草 ─かすみ草とは

 

 

15:30、「矢ノ原湿原」を後にして、村の中心部に向かって農道大芦・下中津川線を下った。

 

左手に見える山々の間から、“会津”の名が起こったとの神話を持つ「本名御神楽」(1,266m、会津百名山49座)/「御神楽山」(1,386.5、新潟県阿賀町)の山塊が見えた。

 

 

15:40、野尻川を渡り、昭和村の中心部に入る。大芦集落を流れる畑沢川は見沢川に合流、見沢川は駒止峠付近を源流とする玉川に合流、そして玉川が矢ノ原湿原の西側を流れ、この先1kmほど下流で野尻川に合流している。

  

国道400号線に入り、オーハラ堂に向かう。今日は、氷と卵、2Lの水、パンを買った。

  

 

オーハラ堂で買い物を済ませ国道を引き返した。キャンプ場に戻る途中、「道の駅 からむし織の里しょうわ」に立ち寄る。

 

駐車場には、思いのほか多くの車両が停まっていた。新型コロナウイルスの影響が無ければ、もっと多くの来場者があったのだろう、と思った。

 

館内に入る。4度目の訪問。織姫によるからむし織の実践は行われていなかった。*参考:昭和村「からむし織体験生「織姫・彦星」募集のご案内

 

入口のカウンター下には、からむし織をまとったひな人形が飾ってあった。この人形の美しさは秀逸で、入口の正面など、もっと目立つ場所に展示して欲しいと思った。

     

「道の駅 からむし織の里しょうわ」の向かいには、「からむし工芸博物館」があり、企画展が開催されているようだった。今回は時間が無いので、訪れなかった。

  

 

 

「道の駅 からむし織の里しょうわ」を出て、20分ほどで「奥会津 昭和の森キャンプ場」に到着。

  

荷物を降ろし、一息ついてから、薪割りをした。薪は管理棟で一束300円で購入。二束用意しておいた。

焚き火台は“自作”した。昨夜使ったバーベキューコンロを有効に使うため、ホームセンターで切り売りで入手した、正方形の金網を使用した。薪で中央に凹みを作り、コンロの底に針金で固定し、不格好ながら形になった。

 

着火剤は用意してこなかったので、マツボックリを使おうと思った。

 

が、昨日の雨で完全に乾いておらず、新聞紙と小枝を組み合わせて火を熾した。小枝は「愛宕山」登山前に集めたものだったが、完全に乾いていて、しっかりとした種火を作る事ができた。

 

割った薪の中で細いものを選び、焚き火台に交互にならべ、燠を作ってゆく。10分ほどで、十分な火力になった。これで、今夜は焚き火を前にゆっくり酒を呑めると思った。

   

しかし、火が熾る途中から降り始めた雨が、徐々に強くなり、焚き火を続ける事は難しくなってしまった。新たな薪を入れることを止めると、燠は徐々に黒くなり、焚き火は30分ほどで終えることになってしまった。残念無念だったが、あと3泊あるので、いつかはできると思い、片付けをした。

 

 

雨が強くなってきたので、タープを下ろし、テントに前室を作り、缶詰中心に夕食にした。「フレッシュコーン」をバターで炒め(誤ってフライパンを跳ね上げて、半分以上こぼしてしまったが)、「めんたいツナかんかん」にマヨネーズを和えて、ご飯に載せて食べた。

 

ご飯の後は、つまみに、まずは「とり・たまご大根」。

  

そして、「燻製とろ鮭ハラス」を直火で温めて食べた。旨かった。

  

昭和村滞在2日目。日中、特に見晴らし峠「展望台」と「愛宕山」登山では、天候に恵まれ、良い景色を見ることができ満足だった。

明日は「御前ヶ岳」登山。ビールを呑みながら、雨が止むことを願い、早めに休んだ。

 

 

(了)

 

 

・  ・  ・  ・  ・

*参考:

・福島県 生活環境部 只見線再開準備室:「只見線の復旧・復興に関する取組みについて

・東日本旅客鉄道株式会社:「只見線について」(PDF) (2013年5月22日)

  

【只見線への寄付案内】

福島県はJR只見線全線復旧後の「上下分離」経営での維持費や集客・地域振興策の実施費用として寄付を募集中(クレジット可)。

①福島県ホームページ:只見線復旧復興基金寄附金・只見線応援団加入申し込みの方法 *現在は只見線ポータルサイト「只見線応援団」URL:https://tadami-line.jp/support/

 

②福島県:企業版ふるさと納税

URL:https://www.pref.fukushima.lg.jp/sec/16005g/kigyou-furusato-zei.html

[寄付金の使途]

(引用)寄附金は、只見線を活用した体験型ツアーや周遊ルートの整備、只見線関連コンテンツの充実化等に活用させていただきます。 沿線地域における日本一の秘境路線と言われる観光資源を活用し、更なる利用者の拡大と認知度向上を図ります。

 

以上、よろしくお願い申し上げます。

次はいつ乗る? 只見線

東日本大震災が発生した2011年の「平成23年7月新潟福島豪雨」被害で一部不通となっていたJR只見線は、会津川口~只見間を上下分離(官有民営)とし、2022年10月1日(土)に、約11年2か月振りに復旧(全線運転再開)しました。 このブログでは、“観光鉄道「山の只見線」”を目指す、只見線の車窓からの風景や沿線の見どころを中心に、乗車記や「会津百名山」山行記、利活事業に対する私見等を掲載します。

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