東武特急「リバティ 会津」号 ⇒ 只見線(只見→会津若松) 乗車 2024年 春

東京・浅草駅から東武鉄道の特急「リバティ 会津」号を利用して終点・会津田島駅で下車。定期路線バス「自然首都・只見」号に乗換えてJR只見線・只見駅に移動し、普通列車・会津若松行きに乗る旅をした。

 

東武鉄道㈱の「リバティ」号は、2017年4月21日にデビューした特急列車(500系)で、同社の伊勢崎線・日光線・鬼怒川線・野田線で運行され、一部(上下4本)が伊勢崎線・鬼怒川線・野岩鉄道㈱会津鬼怒川線・会津鉄道㈱会津線を経由し(東武)浅草駅と会津田島駅を結ぶ「リバティ 会津」号となっている。

外観について、デザインを担当したKEN OKUYAMA DESIGN社(代表:奥山清行氏)のホームページに次のように記されている。

(引用)
外観は東京スカイツリーに代表される先進的でシンボリックなデザインとし、車体基本色の「シャンパンベージュ」でおおらかで豊かな時の流れを、特急の格式と沿線の緑豊かな自然を「フォレストグリーン」で表現し、東武グループのグループロゴカラーである「フューチャーブルー」を窓下にあしらい、全体デザインを引き締めています。(出処:KEN OKUYAMA DESIGN  URL: https://www.kenokuyamadesign.com/works/tobu-railway-new-express-train-type-500/)

 

「リバティ」号は、3両1編成を基本に運行され、「リバティ 会津」号(3両)は鬼怒川線と日光線が分岐する下今市駅で「リバティ けごん」号(3両)と連結や切離しを行い、併結運転という運用がなされている。名称の“リバティ”は、この運用方法から着想を得た造語となっている。

【Revaty】
① 「Variety」:多様、さまざまな
→併結・分割機能を活かした多線区での運行
→文字の並び順を変えると r[i]e・va・ty
② 「Liberty」:自由
→東武鉄道の路線を縦横無尽に走り回る自由度の高さ

*出処(下掲同じ):野岩鉄道㈱「2017年春、東武鉄道新型特急車両「Revaty」が「特急リバティ会津」として乗り入れます!」(平成28年10月27日) URL: http://www.yagan.co.jp/uppdffiles/281027特急名称決定リリース.pdf


「リバティ」号が運行を開始した2017年4月21日の地元紙では、全面広告で『東京・浅草~南会津間が乗り換えなしで直結』と記載され、南会津郡4町村の観光地の写真と、浅草・上野エリアと日光・鬼怒川エリアの観光地特集が掲載されていた。*下掲紙面:福島民報 2017年4月21日(金)付け 第13面と第16面

翌日(2017年4月22日)の同紙では、運行初日の賑わいの様子や記者の乗車レポが記載され、そして論説(社説)では“会津全域に効果を”という見出しで現状の分析や提言がなされていた。*下掲載記事:福島民報 2017年4月22日付紙面

また、「リバティ 会津」号の発着点となる南会津町の翌月の広報誌でも、この日(2017年4月21日)の様子が表紙を飾り、巻頭で特集が組まれていた。*下掲出処:南会津町「広報みなみあいづ 2017年5月号 No.134」p1~p5 URL: https://www.town.minamiaizu.lg.jp/material/files/group/1/201705_HP.pdf

 

 

今回、首都圏に親戚の墓参りへ行く機会があり、“世界屈指の人口集積地”である首都圏の観光客が会津若松を訪れる際の導線として『「リバティ 会津」乗車→只見線乗車はどんなものだろうか』と確認しようと考えた。今日の旅程は以下の通り。

・東武鉄道の浅草駅から、「リバティ 会津」101号に乗車

・「リバティ 会津」号の終点・会津田島駅から、定期路線バス「自然首都・只見」号に乗って只見線・只見駅に向かう

・只見駅から、只見線の会津若松行きに乗車

・会津若松駅で磐越西線の列車に乗って、自宅のある郡山に帰る

 

沿線の春はまだ先だが、「リバティ 会津」号の乗り心地や、乗り換えや待ち時間の状況、そして「リバティ 会津」号と只見線の列車からの車窓の風景などを確認し、只見線を活用した首都圏⇋会津若松の導線の可能性を考えた。

*参考:

・福島県:只見線ポータルサイト

・福島県・東日本旅客鉄道株式会社 仙台支社:「只見線全線運転再開について」(PDF)(2022年5月18日)

・福島県:平成31年度 包括外部監査報告書(PDF)(令和2年3月) 「復興事業に係る事務の執行について」 p140 生活環境部 生活交通課 只見線利活用プロジェクト推進事業

 

 


 

 

昨夜、上野公園に行き満開の桜を見た。シートを広げての宴席は禁止になっていたが、多くの見物客が往来し、賑わっていた。

公園内を歩いている際、試験管をかざす野口英世博士像を見かけた。

まもなく千円札での役目を終える、福島県の代表的な偉人でる野口博士の像が、上野公園にあるとは知らなかった。銅像脇にある台東区教育委員会による説明板を読んで、本県出身の玉応不三雄氏の発起、その意志を継いだ日本医師会・北里研究所・野口英世記念会の活動を知り、合点した。

野口英世銅像
       台東区上野公園八番
 野口英世は、明治九年十一月九日、福島県猪苗代湖畔の農家に生まれた。三十一年、北里柴三郎主宰の伝染病研究所助手となり、三十三年十二月に渡米、三十七年よりロックフェラー医学研究所で梅毒スピロヘータ等の研究を重ね、国際的にも高い評価を受けた。大正七年からは中・南米やアフリカに赴き、黄熱病の研究に努めたが、やがて自らも感染してしまい、昭和三年五月二十一日、現在のアフリカ・ガーナ国の首都アクラで没した。享年五十三歳。
 野口英世銅像は総高約四・五メートル(台石を含む)、制作者は多摩美術大学教授吉田三郎。英世の写真に基づき、試験管をかざした実験中の姿を表現したもので、台石にはラテン語で「PRO BORN HUMANI GENERIS(人類の幸福のために)」と刻まれている。 
 銅像像立の活動をはじめて起こした人物は、福島県三春町出身の玉応不三雄である。玉応は英世の偉業を後世に伝えようと、昭和二十二年より募金活動を行ったが、国内の経済力が貧弱な時期にあって困難をきわめ、中途にして病に倒れた。その後、日本医師会・北里研究所・野口英世記念会等が活動を引き継ぎ、昭和二十五年には東京都教育委員山崎匡輔を建設委員長にむかえ、山崎の周旋によって上野公園に造立されることが決定した。
 昭和二十六年三月、現在地に造立。月は異なるものの英世の命日である同月二十一日に除幕式が行われた。
 なお、銅像前面の標示石・敷石は昭和四十六年に会津会が設置したものである。
    平成十四年三月
    台東区教育委員会

*(注釈)①「PRO BORN HUMANI GENERIS」は、氏が勤めたロックフェラー医学研究所の後継機関であるロックフェラー大学のモットーである「Scientia pro bono humani generis(人類の幸福のための科学)」を引用している/②玉応不三雄氏の出身地は、福島県大玉村とも

*参考:福島県 東京事務所「ディスカバーふくしま in TOKYO」vol.1 東京都台東区 なぜ上野に? 野口英世像のナゾ URL: https://www.pref.fukushima.lg.jp/sec/01410a/fukushima-tokyo.html#hideyo / 公益財団法人 文化財保護・芸術研究助成財団「上野の杜から(17)」野口英世のことなど URL: https://www.bunkazai.or.jp/info/pdf/uenonomorikara_17.pdf

 

 

今朝、地下鉄銀座線に乗って浅草入りし、まずは、浅草寺に立ち寄った。雷門を眺め、学生時代の春と秋に、左間の雷神様の前でボランティア活動をした日々を回想した。

仲見世通りを進むと、満開の桜越しに五重塔が見えた。

 

 

本堂に参拝した後、二天門を抜けて(東武)浅草駅に向かった。



駅舎に入ると、正面高く“本日の特急列車 ご案内”という電光掲示板が掲げられていた。

 

切符を購入し、ホームのある2階に昇った。そして改札を通ると、3番線ホームに「リバティ」号は入線していた。

後部3両が「リバティ けごん」1号で前方3両が「リバティ 会津」101号となっているため、車両を見ながらホームを歩いた。


(東武)浅草駅は、ホームが完全に建物の中であるため、照明の無いレールの上は薄暗かった。そんな中で、車両窓下の「フューチャーブルー」が鮮やかに見えた。

 

「リバティ けごん」と「リバティ 会津」の連結部の先でホームが曲線になっていて、ホームと車両乗降口に渡り板が置かれていた。

(東武)浅草駅は、現在の東京スカイツリー駅(旧 業平橋駅)から延長され、隅田川を渡った直後に、隅田川と並行に建てられてため、ホーム先端がR100mの曲線になったと言われている。

ホームと車両の間に広い隙間ができる曲線部分には柵が設けられ、現代のターミナル駅ではなかなか見られない光景だった。

 

 

一通り「リバティ」号の外観を見てから、渡り板を踏んで予約席のある3号車に乗り込んだ。

そして、誰も居ない3号車をじっくり見てみた。 

天井は鬼怒川や隅田川の流れをイメージした曲線の造形で、その曲線が間接照明で浮かび上がっていた。そして、鮮やかな江戸紫のシートと所々に配された木材のパーツは、落ち着きと品があった。

シートはリクライニング機能付きで、回転することで2×2BOX席にすることができる。窓は大きく、奇数席を回転させた場合、4人が“一枚窓”から車窓の風景を楽しめるような設えになっていた。

シートの足元は広く、体の大きな方でも窮屈さを感じないだろうと思った。

窓側、通路側の肘掛にはコンセントがあり、内部にはテーブルも収納されていた。BOX席化する場合にも、ドリンクなどが置ける今では標準化している仕様だった。


 

出入口に後部(浅草側)には大型の荷物を置けるスーペースがあった。

今回は見なかったが、バリアフリーを含めたトイレは真ん中の2号車に置かれている。

  

車内では、東武鉄道の「TOBU Free Wi-Fi」が利用可能になっていて、トンネルの無い東武線内では快適にネットが利用できた。*参考:東武鉄道㈱「リバティについて」 

 

 

今回、切符は3社の鉄道会社を乗り継ぐも会津田島まで一枚で済み、料金は3,310円だった。また、乗車距離が190kmを越えるが、一般の券売機から購入することができた。

指定券はネットで購入し、発券しなかった。車掌にスマホの画面を見せるか、予約完了画面を印刷して提示することになっていた。

 

 

 

6:30、「リバティ けごん」1号+「リバティ 会津」101号が浅草を出発。直後に隅田川を渡ると、薄い雲越しの陽光で逆光になったが、東京スカイツリーが見えた。

隅田川両岸の桜は満開だった。

 

とうきょうスカイツリーでは複数の客が乗り込み、車両の独り占めは短時間で終わった。

 

「リバティ」号は北千住を出て、荒川を渡ると住宅地に架けられた高架線を進み、埼玉県に入っても高架を走り続けた。

北越谷を通過してまもなく高架線での走行は終わり、春日部を出ると田んぼが見え始めた。

 

 

東武動物公園を通過し伊勢崎線から日光線に入り、JR東北本線と交差し栗橋を通過してしばらくすると利根川を渡った。

渡河後には、広い田園が広がった。

 

 

板倉東洋大前で一時的に埼玉県から群馬県を走行した列車は、栃木県に入り栃木市内を進んだ。雨が強くなり、車窓一面を濡らした。

 

鹿沼市に入る頃には雨が上がり、新鹿沼を出てしばらくすると左前方に山々が見え始めた。

そして、黒川(利根川水系)が近付くと、只見線沿線では見慣れた、高圧送電線と鉄塔が現れた。

 

 

明神を通過しJR日光線と交差してまもなく、左車窓から遠くに、残雪の「男体山」(2,484.2m、日本百名山36座)と「女峰山」(2,463.7m)を主とする「日光(表)連山」が見え始めた。

 

 

8:13、列車は下今市に停車し、切り離し作業が行われた。

先頭3両「会津」号、後部3両「 けごん」号の分離だが、「リバティ」(500系車両)は併結運転を前提にして開発されたということで、作業員が介在することなく両号は自動的にスムーズに切り放された。「リバティ」最大の特徴を象徴する光景だった。

 

 

8:17、分離された「リバティ けごん」号を置いて、「リバティ 会津」号は先に下今市を出発。鬼怒川線に入り大谷川橋梁を渡った。両岸の木々の新芽の早緑と、上流側に見える「日光(表)連山」の残雪が一緒に見え、春をより実感した。

ちなみに、この橋梁は“だいやがわ”に架かる橋で、只見線・会津西方~会津宮下間の大谷川(おおたにかわ)に架かる大谷川橋梁とは、読みが違っている。*以下、各橋梁のリンク先は土木学会附属土木図書館デジタルアーカイブス「歴史的鋼橋検索」

 

次駅・新高徳の手前で、初めて鬼怒川を渡った。下流側に東京電力リニューアブルパワー㈱の道谷原発電所の取水堰があるため、只見線では見慣れたダム湖になっていた。


8:37、鬼怒川の左岸沿いを進んだ「リバティ 会津」号は、鬼怒川温泉に停車。向かい側のホームを見ると、「リバティ きぬ」114号(新藤原→浅草)が入線してきた。

 

鬼怒川温泉を出ると、鬼怒川沿いに立ち並ぶ旅館やホテルが見えてきた。

 ただ、列車の進む先には、全国の温泉街を悩ませている廃旅館・廃ホテルもあった。

レールのすぐ脇に立ち並ぶ廃墟は、せっかくの旅情に冷や水を浴びせ、訪問意欲を削ぐと実感した。

只見線の起点である会津若松市の東山温泉と芦ノ牧温泉でも廃旅館・廃ホテルに悩まされ対策が進むが、同様の問題で悩む地域が連携し、観光客の安全・安心を確保し観光地の景観創造のための官民協業の仕組みを構築し対応を進めて欲しいと思った。*参考:拙著「会津若松市「東山温泉」「ラーメン金ちゃん」2024年 冬」(2024年1月17日)


 

8:46、「リバティ 会津」号は新藤原に停車。東武鉄道(鬼怒川線)と野岩鉄道(会津鬼怒川線)の分界駅ということで、乗務員の交換が行われた。

野岩鉄道の“前身”とも言える「国鉄野岩線」は、国鉄日光線今市駅(旧下国)から、建設が決まっていた国鉄会津線の田島駅(旧代国)に向けて計画された路線で、①温泉浴客と日光遊覧者の利便性向上と沿線開発、②宇都宮~会津若松間の短絡鉄路形成、③中央縦貫路線による他路線の輸送量分散と関東から奥羽への交通便益の創出、を目的とされた。建設改正鉄道敷設法の説明書には、以下のように記載されている。*出処:国立国会図書館「鉄道敷設法豫予定線路説明」URL: https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1916482

「鉄道敷設法豫定線路説明」(p41) (大正9年12月)より引用
33 今市 田島 間
本線路ハ日光線今市驛ヨリ岩代、下野ノ交通要路たる會津街道に傍フテ既定線若松、田島間線路ノ終點田島に至ル此ノ延長四十一哩ナリ 沿道ハ無盡ノ林産物ヲ包藏シ叉礦石、石材ニ富ムト共二温泉到ル處ニ湧出シ藤原、川治、湯ノ上、芦ノ牧、小谷等其名アリ 本線ノ敷設ハ温泉浴客、日光遊覧者ノ來往ニ便シ沿道の開發ニ貢件獻スルノミナラス若松、宇都宮間ニ於テ既定線ニ比シ二十二哩ノ捷徑トナリ米澤、喜多方間ノ線路ト相俟チテ中央縦貫線路を形成シ既成線ニ激增スル輸送ヲ調節スルト共ニ關東、奥羽ノ交通上ニ稗益スルコト多大ナリ
     高徳 矢板 間
(省略)

 

「国鉄野岩線」は、国鉄会津線(田島方)が延伸され設置された会津滝ノ原駅(現 会津高原尾瀬口駅)から1966(昭和41)年5月に着工された。しかし、国鉄の赤字が進む中で、下野川治駅(現 川治温泉駅)までで工事はストップしてしまう。そこで、福島県と栃木県、そして東武鉄道を主株主とする第三セクター・野岩鉄道株式会社が設立(1981(昭和56)年)されることとなり、下野川治駅~新藤原間の工事が着工された。そして1986(昭和61)年10月9日、ついに野岩鉄道㈱会津鬼怒川線として開業し「国鉄野岩線」が目指した形になった。*下図出処:野岩鉄道株式会社 沿線ガイド「野岩鉄道の旅」(PDF) URL: http://www.yagan.co.jp/uppdffiles/202403yagan_tabi.pdf *一部抜粋

ちなみに、会津鬼怒川線は第三セクターの鉄路ながら、全区間電化され開業した全国でも珍しい路線になっている。これは、運賃収入の大半を見込む首都圏からの観光客の利便性を図ろうと、東武鉄道から直通運転が必要だったためと言われている。*参考:野岩鉄道株式会社「沿革」/ 福島県「野岩鉄道会津鬼怒川線のページ」/ 第三セクター鉄道等協議会「野岩鉄道

 

新藤原を出て、龍王峡を通過し「小網トンネル」(2,668m)を抜けると、栃木県営川治第二発電所の取水堰となる小網ダムが見え、まもなく川治温泉に停車した。

野岩鉄道会津鬼怒川線は高速運転が可能な高規格路線として建設されたため、明り区間はほとんどが踏切を必要としない高架と橋梁(64箇所)で、トンネルが18箇所と直線区間が多くなっている。車窓から高架の擁壁が見える様に、首都圏と会津の高速移動を実現させたいとする当時の関係者の思いを想像した。


 

川治温泉を出て、川治湯本手前で第一鬼怒川橋梁を渡ると、眼下に栃木県営川治第一発電所(調整池は五十里ダム湖)が見え、上流には川治ダム(堤高140m、国土交通省)の躯体の一部が覗いていた。

  

川治湯本を通過した列車は野岩鉄道・会津鬼怒川線最長の「葛老山トンネル」(4,250m)に入り、トンネル内の湯西川温泉に停車。

そして、湯西川温泉を出ると、「湯西川橋梁」(240m)を渡った。

右(東側)に目を向けると、国道121号線五十里バイパスの赤夕大橋(259m、2003年供用)が見えた。

この二つの橋が渡ったのは、男鹿川に作られた国土交通省管理の五十里ダムの“二代目”「五十里(いかり)湖」。

五十里とは、只見町から新潟県(旧 越後国)延びる街道の険峻「六十里越」と「八十里越」の数値とは意味合いが違い、江戸から五十里(約200km)という距離を示している。

“初代”「五十里湖」は、自然災害で出現した。前述した「葛老山トンネル」の西側に山頂を持つ「葛老山(かろうやま)」(1,123.8m、栃木百名山24座)で天和日光地震(1683(天和3)年)による地滑りが発生し、男鹿川が現在の国道121号線海尻橋付近でせき止められ出現した“地滑りダム湖”が“初代”の「五十里湖」だ。

この“初代”の「五十里湖」は、会津藩の藩政に大きな影響を及ぼした。江戸期、この地(下野国塩谷郡)は幕府領南山御蔵入領で、会津藩が管理していた(幕末には会津藩領となる)。ここに、日光を経由して江戸に向かう「会津西街道」(下野街道)が通っていた。*下図出処:会津若松市HP/南会津郡役所HP / 参考:文化庁 文化遺産オンライン「下野街道

「会津西街道」は会津藩のみならず、米沢藩や新発田藩などが参勤交代でも往来した主要街道だったが、“初代”「五十里湖」の出現と街道の五十里宿の水没により通行不能になった。このため会津藩は代替街道として、「会津西街道」の東に「会津中街道」(那須越え)を開削したが、標高1,400m超の高所(大峠)を越える道であったため、往来は困難を極めたという。*この後「会津中街道」は大雨などが発生する度に状態が悪化し“脇街道”に編入され、代わって「白河街道」(会津東街道)が用いられた

会津藩は「五十里湖」に舟を浮かべ荷送を行い街道の分断を補い、同時に掘割工事を行い「五十里湖」の水の切り落としを試みるなどを行った。しかし、掘割は開通せず、舟運も荷量をさばけず、「会津西街道」は機能不全に陥った。

そして時は流れ天和日光地震から約40年後、1723(享保8)年8月に発生した大雨により“初代”「五十里湖」が決壊。この五十里湖洪水は下流域に甚大な被害をもたらしたが、「会津西街道」はこれを機に復旧することになったという。*参勤交代は「白河街道」が引き続き利用され、「会津西街道」は物流の重要路として、1884(明治17)年の福島県令・三島通庸による「会津三方道路」の建設まで賑わい続けた

*参考:水利科学研究所「水利科学」5巻6号(1962年2月) 「恐るべきダムの崩壊 -五十里洪水の例-」(荒川秀俊) URL: https://www.jstage.jst.go.jp/article/suirikagaku/5/6/5_180/_pdf/-char/ja / 公益社団法人日本地すべり学会関東支部 平成30年度シンポジウム 「地形・地質からみた関東の地すべり」概要集より 「空から見る関東地方の地すべり地形」(防災科学技術研究所 井口隆) URL: https://japan.landslide-soc.org/kanto_DL/H30_symposium.pdf

 

現在の“二代目”「五十里湖」をもたらしている五十里ダムは、この堰止め・決壊場所(海尻橋付近)から下流2kmほどの場所に建設(1956年)され、下流域の治水と水力発電を担っている。


中三依温泉の手前では、山間の集落が見えた。


上三依塩原温泉口に停車。「塩原温泉」は、国道400号線を東進し10kmほどの場所にある。

この後、「リバティ 会津」号は栃木県側最後の男鹿高原を通過した直後に「山王トンネル」(3,441m)に入った。

  


9:23、会津高原尾瀬口に停車。野岩鉄道会津鬼怒川線唯一の福島県の駅で、会津鉄道会津線との分界駅となっている。

向かい側のホームには、座席が特徴的が列車が停車していた。「やがぴぃカー」だった。

「やがぴぃカー」は、野岩鉄道㈱が既存車両(6050型)の観光列車化を目指しクラウドファンディングで改修費用が調達された。初期目標額の1,500万円に早々に達したために、2,300万円に目標金額が再設定され、これを期限までにクリアし改修が施された。*下掲記事:福島民報 2022年8月19日付け、同9月14日付け、同10月28日付け紙面

改修内容は①畳席の新設、②掘りごたつ席の新設、③前面展望画像表示モニタ付きの運転台席の新設、④多目的スペースの新設、⑤トイレの洋式化となっている。*下掲出処:野岩鉄道㈱「改修車両(やがぴぃカー)の運行を開始します」(令和6年1月11日) URL: http://www.yagan.co.jp/upimages/files/やがぴぃカー運転開始(確定)_merged.pdf

 

 

会津高原尾瀬口を出て七ヶ岳登山口付近で阿賀川(大川)が現れ、会津山村道場手前では山稜が特徴的な「七ヶ岳」(1,635.8m、会津百名山25座、うつくしま百名山、東北百名山)の山頂尾根が見えた。*参考:南会津町観光物産協会「七ヶ岳


会津荒海中荒井を通過し、建物が周囲に建物が増えてくると左側に阿賀川(大川)河川敷が見えてきた。

その奥の方には、“テーブルマウンテン”「舟鼻山」(1,223.5m、同51座)が確認できた。*参考:拙著「南会津町「舟鼻山」登山 2022年 春」(2022年4月30日)

 

 

9:40、「リバティ 会津」号は、終点・会津田島に到着。

3つの鉄道会社を跨ぎ190kmを駆け抜けた、シャンパンベージュの車体は陽光の下で輝いていた。

 

会津若松方面に向かう乗客は、向かい側の3-4番線ホームに停車している「リレー101号」(会津若松行き)に乗り換える事になる。降車した乗客の半数ほどが、会津若松方面にある構内踏切に向かっていった。

「リバティ 会津」号が停車する1-2番線ホームから3-4番線ホームへの移動は、跨線橋はあるものの、バリアフリーの構内踏切を渡るようになっている。

 

 

出発間近の「リレー101」号に乗り込み、中の様子を見てみた。「リバティ 会津」号からの乗り換え客の他、会津田島駅駅からの利用者も居て混雑していた。

「リバティ」号から、この車両(AT-550)に乗り継ぐと内装にギャップを感じた。会津若松駅に向かう観光客が、「リバティ」号から吊革のぶら下がったこの車両に乗り換えた場合、旅情が削がれるのではないかとも思った。

会津鉄道には、「AIZUマウントエクスプレス」として運用されてる車両(AT-700)があり、シートや照明など優等列車と遜色ない設えになっている。

東武鉄道の特急「スペーシア」号と“共通性”を持たせるためといわれているが、「リバティ」号の乗客も、このような内装、ホスピタリティを持つ乗って会津若松入りできれば、首都圏の観光客の満足度は高まり、旅行会社もツアーが組みやすいのではないかと思った。

この車両(AT-700)は1編成のみで現状“「リバティ」リレー号”には回せず、また会津鉄道も潤沢な資金を持ち合わせているわけではないので、今後の車両更新で、全ての車両を“観光客”向けにするのなどの方針を立て、東武浅草⇋会津若松の“観光導線”をより確かで質の高いものにしてゆくのが良いのではないだろうかと思った。もちろん、観光客が安心して乗り継げるよう指定席を用意するのは言うまでもない。



9:44、「リレー101」号が会津田島駅を出発し、会津若松駅に向かうその姿を見送った。

  

構内踏切を渡り、改札に向かった。駅舎の壁には、南会津町のキャラクター「んだべぇ」が描かれた地酒自動販売機「銘酒蔵」の案内板が掲げられていた。*参考:南会津町観光物産協会「んだべぇ

改札を抜けると、正面にはその「銘酒蔵」が置かれていた。

町内の四蔵元の定番酒の他、“今月のおすすめ”が、構内売店で入手する専用コインで呑めるようになっている。*参考:拙著「南会津町 “福島県内初”「地酒試飲自販機」2018年 初夏」(2018年5月22日)


会津田島駅から只見線・只見駅に向かう「自然首都・只見」号のバス停は、駅舎を背にして駅前ロータリーの南東に置かれていた。

便数は2。上下線とも2便で、「リバティ 会津」号の発着に沿ったダイヤになっている。*参考:只見町商工会「自然首都・只見号(只見駅⇔会津田島駅) バス時刻表(令和4年10月1日~)」(PDF)

 

バスの発車時刻まで時間があったので、駅周辺をぶらつき、最後は駅チカにある酒蔵「国権酒造」に隣接する売店で四号瓶の純米酒を購入した。

「国権酒造」は、地元紙が隔週で組んでいる特集「ふくしま酒探訪」で今年1月に取り上げられていた。私は「てふ」の純米生貯蔵酒を呑んでこの酒蔵を知り、何度となく「てふ」を呑んでいるが、今回は別の銘柄にした。*下掲記事:福島民報 2024年1月27日付け16面

(引用)
...(前略)南会津町の国権酒造が醸す「てふ」は、女性や若い世代から年配の左党まで幅広い層の心をつかむ。
 仕込み水は全国有数の豪雪地帯ならではの豊富な雪解け水。自社の井戸からくみ上げる。他の地域に比べてとても柔らかい軟水が、口当たりの優しい酒を生み出す。酒米は生産する酒の7割以上で南会津町産を使う。東京電力福島第1原発事故以降の本県農産物への復興支援の思いからだ。
(中略)
 柔らかな響きの「てふ」は。「蝶(ちょう)」の歴史的仮名遣い。ラベルには国蝶の「オオムラサキ」が舞う。派手過ぎず、繊細な印象が、新しい酒のイメージに合った。
(以下、省略)

 


「自然首都・只見」号の出発時刻が近付き、会津田島駅前のロータリーに行くと、まもなくバス停の前にワゴン車が停車した。只見町のタクシー会社のジャンボタクシー(定員9名)だ。

「自然首都・只見」号は、2015(平成27)年4月から同区間で運行を開始した予約制の「観光ツアーバス」が前身で、2019(平成31)年4月に予約不要・ジャンボタクシー常時運行という現在の形になった。


11:05、「自然首都・只見」号が会津田島駅前を出発。客は私以外に2人で、20代と40代と思われる男性だった。

 

「リバティ」号から乗り継ぐと、座席や頭上の窮屈さを感じるのは当然だったが、セダンタイプの車両よりは大型なので安定した走りで、各バス停での定時運行をしているため低速・一定速度だったので揺れも少なく、乗り心地は良かった。

ただ、「リバティ」号と只見線を繋ぐ、列車から列車への“シームレスな乗換”を可能にし、首都圏から只見線を利用した会津観光の導線を確かで質の高いものにするためには、座席や乗車空間の余裕は必要だと感じた。

会津田島⇋只見間を走る「自然首都・只見」号は、まだ広く周知されているとは言えず、Web上の乗換案内検索では表示されないサービス提供者もある。

まずは会津鉄道とJR、特に前者は会津田島~西若松間の乗客が後者に流れ収益の損失が発生してしまうが、両社は会津地域の広域観光や観光客の選択肢の拡大という目標で協力して欲しい。そこに、行政が仲立ちすることで「自然首都・只見」号の周知拡大・観光客導線としての定着を実現し、利用客のホスピタリティを高めた「自然首都・只見」号の専用車両を導入して欲しい、と思った。

  

12:24、途中バス停での乗降は無く、「自然首都・只見」号は客3人のまま、只見駅前に到着。走行距離55kmながら料金は1,500円と破格だ。

ジャンボタクシーから降りると、駅頭の“JR只見線全線運転再開”カウントボードは、555(日)を示していた。

 

只見線の会津若松行きの発車時刻は14時35分。時間に余裕があるので、昼食を摂ろうと駅から少し離れた「太郎鮨」に向かった。2度目の訪問だ。

暖簾をくぐり店に入りカウンターに座ると、昨春のセンバツ高校野球に21世紀枠で出場した県立只見高校の緑色の応援タオルとペナントが正面に飾られていた。

メニューを見て何を食べようか悩んだ。今回は寿司以外の料理にしようと思い、只見町名物の肉料理にした。

 

昼休みも終盤で、店内には他の客が居なかったこともあり、料理はまもなく運ばれてきた。選んだのは「マトン焼肉定食」。

羊肉は、県家畜保健衛生所(当時)の所長によって住民に食肉が推奨され、町内で進められていた電源開発㈱田子倉発電所建設の作業員に食べられることで需要が増して定着し、現在でも只見町では焼肉と言えばマトンやラムなどの羊肉を指すとも言われている。*参考:NHK 福島放送局 福島WEB特集「焼き肉と言えばマトン?!会津で徹底取材!」(2023年10月6日) URL: https://www.nhk.or.jp/fukushima/lreport/article/002/43/ (動画)「しらべてmeet! 只見でなぜ浸透?マトンの食文化」URL: https://www3.nhk.or.jp/lnews/fukushima/20231006/6050024179.html / 「広報ただみ」(2017年5月号、p13)  只見学「いま残しておきたい只見とっておきの話①ー只見でマトンが食べられるようになった理由(その一)ー」 只見町文化財調査委員会議長 飯塚恒夫 拙著「只見町「マトン・ラム焼肉」2020年 盛夏」(2020年8月12日)


マトン焼きは、玉ねぎとキャベツに醬油ベースのタレを絡めて炒めたもの。鉄皿はアツアツで、羊肉特有の臭みはなく、風味や食感にマトンの良さが現れ旨かった。

米は、只見の米で、なんと自家製米。豊富な雪解け水で育った米が、同じ只見の水で焚き上げられたと思うと期待は高まり、口に入れると期待以上の旨さだった。只見の米は、知る人ぞ知る上質な米だと、改めて思った。

只見駅近辺には、この「太郎寿司」の他和風レストラン「まほろば」という寿司や定食、酒のつまみなどのメニューな豊富な店がある。路線の中間駅にこのような飲食店があるのは、旅の可能性を広め、沿線での滞在時間拡大や宿泊機会の創出につながると、改めて思った。

  

「太郎寿司」での食後、国道252号線沿いのコンビニ「松屋」で買い物をして只見駅に戻った。

「只見線広場」越しに、南南西の山並みを見ると、猿倉山(1,455m)から横山(1,416.7m)の稜線に現れる“寝観音”様の御姿が確認できた。

 

列車の到着までまだ時間があったので、駅の裏手にある瀧神社に行った。

境内の桜は、小さなつぼみだった。

例年、ゴールデンウィークあたりに満開となる「瀧神社」境内の桜だが、今年はいつ頃満開を迎えるのだろうかと思った。

 

駅に戻り駅舎に入ると、入口脇に手書きの“只見線 春の臨時列車”という案内が貼りだされていた。温かみがあって、良いと思った。

この後、列車の入線時刻まで、構内の待合スペースの椅子に座り時間をつぶした。

 

 

 

14時15分を回り、ホームに向かった。長い連絡道を進み振り返ると、引き込み線には、今冬の役割を終えた除雪機が停車していた。

 

14:24、ホームに立ち列車の到着を待っていると、微かにレールを駆る音がして警笛が聞こえ、ヘッドライトを点けたキハ120形(旧国鉄色)が姿を現した。

そして列車が停車すると、10名ほどの乗降があり、10分の停車時間をいかして写真撮影をする乗車客が降り、ホームはしばし賑わった。

列車はキハE120形の2両編成で、乗り込むと双方とも混雑していた。

平日の月曜日だから座れるだろうと考えていたが、日中帯に小出~会津若松間の全線を乗り通せるこの列車は別格で、2022年10月1日の全線運転再開から人気は続いているようだった。

ただ。「リバティ」に首都圏から乗ってやってきて、肝心の只見線の列車で座れないのは論外だ。只見線には定期運行車両に指定席の導入が欠かせず、まずは休日から早急に実現させて欲しい、と思った。

 

14:25、会津若松行きの列車が只見を出発。私は、左右両方の車窓からの風景を見て撮りたいと思ったので、終点まで立って過ごすことにした。

  

 

出発後、しばらくして只見四名山「蒲生岳」(828m、会津百名山83座)が見えてきた。この場所からが、“会津のマッターホルン”の名に相応しい鋭角の稜線を見せてくれる。

この後、只見線最長の「叶津川橋梁」(372m)を渡った。*以下、各橋梁のリンク先は土木学会附属土木図書館デジタルアーカイブス歴史的鋼橋検索

叶津川は雪融け水で勢いがあり、川床の石に当たり真っ白な飛沫を見せていた。

左、上流側に目を向けると、冠雪した只見四名山の「浅草岳」(1,585.4m、同29座)が見えた。

  

八木沢集落を抜け、国道252号線八木沢スノーシェッドと並行する見晴らし区間となり、ダム湖ではない只見川を見収めた。

 

会津蒲生に停車。上下分離方式で只見~会津川口間の駅施設を保有する県が昨年9月に設置した、副駅名が記された駅名標を見た。

 

会津蒲生を出ると、右(西側)が蒲生原となり、ここでは、遠く「浅草岳」が見えた。

 

第八只見川橋梁」を渡った。不渡橋で、ダム湖となった只見川の左岸を駆けた。*ダム湖は電源開発㈱滝発電所・ダムのもの

 

会津塩沢に停車。ここでも“河井継之助終えんの地”と副駅名が記された駅名標を見た。

会津塩沢を出てまもなく、副駅名の“河井継之助終えんの地”を見下ろした。当地(村医・矢沢宗益宅)は滝ダム湖に沈んでいて、矢沢宅の終えんの間は、只見線を挟んだ只見川左岸の高台にある「河井継之助記念館」に移築されている。*参考:只見町「河井継之助記念館

 

 

 

滝トンネルを抜けて、只見町から金山町に入った列車は、会津大塩を経て「第七只見川橋梁」を渡った。*只見川は本名ダム湖

 

会津横田会津越川を経て橋立トンネルを抜けて、民宿「橋立」の駐車場の端に立つ、只見線(135.2km)中間点を示す看板(ここが、只見線の真ん中だ!)の前を通過。 

 

本名トンネルを抜けた直後に、「第六只見川橋梁」を渡った。上流側にある東北電力㈱本名発電所・ダムは、ゲート2門を開け、豪快に放流していた。

 

住宅地の中にある本名を出ると、「第五只見川橋梁」を渡った。*只見川は東北電力㈱上田発電所・ダムのダム湖

 

 

15:25、会津川口に停車。ここで、“10.1全線運転再開区間”の走行を終え、会津若松発・小出行きの2番列車と交換を行った。

まもなく小出行きが出発すると、ホームに降りた上り列車の客がカメラを構え見送っていた。

 

 

15:35、会津川口を出た列車が林道の上井草橋を潜り抜けると、只見川(上田ダム湖)に突き出た大志集落が見えてきた。この眺めは、“観光鉄道「山の只見線」”を感じられる代表的な車窓からの風景の一つだ。

 

 

会津中川を経て、国道252号線と交差直後に「第四只見川橋梁」を渡った。下路式トラス橋で、鋼材の間を進んだ。

鋼材の間から下流側を眺めると、只見川の水量は多く水紋が見られたことから、上流側1.5kmにある上田ダムでも放流が行われているのだと思った。*只見川は宮下ダム湖

  

 

渡河後に会津水沼に停車したのを機に、南会津町の「国権酒造」で手に入れて日本酒を呑む事にした。選んだのは純米酒「俺の出番」。

ラベルにはリアルな虎が描かれ、“辛口”と記されていた。

この純米酒「俺の出番」は寅年を控えた2021年12月に発売を開始したもので、昨秋のプロ野球・阪神タイガースのセリーグ制覇と日本一を機に注文が殺到し、一時品切れ状態になったという。*出処/下掲記事:福島民報 2023年11月15日付け社会面

純米酒「俺の出番」を呑む。

口に入れた瞬間に辛口と分かる程尖っていたが、吞み口は純米酒らしく、爽やかですっきりしていた。辛口が好きな方には、阪神ファンや野球ファンのみならず、ぜひ呑んで欲しい日本酒だと思った。

 

  

会津水沼を出た列車は、早戸手前で細越拱橋を渡り三島町に入り、早戸トンネルと滝原トンネルを続けて潜り抜けると、上路式トラス橋の「第三只見川橋梁」を渡った。

上流側を見ると、金山町と三島町の町境を流れる界の沢が、滝となって只見川に落ち込む白い筋が見られた。*只見川は宮下ダム湖

下流側、只見川左岸の木々にびっしり覆われた急斜面には、国道252号線の高清水スノーシェッド(631m)の一部が見えた。

 

渡河後、列車は東北電力㈱宮下発電所の調整池となる宮下ダムの直側を通過。ダムは洪水吐のゲート1門を開け、放流していた。上り列車の中から見られるダムは、宮下ダムが最後となった。

 

会津宮下を出ると「第二只見川橋梁」を渡った。この橋も開放的な上路式トラス橋で、下流側にはスゥーっと延びた只見川の先に歳時記橋が小さく見えた。*只見川は東北電力㈱柳津発電所・ダムのダム湖

上流側は、雲越しの西陽で逆光だったが、まだらに根雪を残した「三坂山」(831.9m、同82座)が見えた。

 

 

会津西方を出て名入トンネルを抜けると、「第一只見川橋梁」を渡った。*只見川は柳津ダム湖

カメラをズームにして、上流側情報の鉄塔下にある「第一只見川橋梁ビューポイント」を見ると、最上段のDポイントにカメラを構えた“撮る人”が一人居た。

下流側は、只見川の水鏡がくっきりと周囲の風景を映し込んでいた。この只見川(ダム湖)の水鏡(湖面鏡)は、“観光鉄道「山の只見線」”の景観の良さを高めているが、冴えていると曇り空の中ではより存在感が高まると思った。

  

“只見川八橋”を渡り終えた列車は、会津桧原を出て滝谷手前で柳津町に、郷戸会津柳津を経て会津坂本停車前に会津坂下町に入った。

会津坂本を出て七折峠の登坂を始めた列車が、塔寺手前で下り坂に入ると、木々の切れ間から会津平野が見えた。

 

左に大きく曲がり坂を下りきると、前方に田園が広がった。

  

会津坂下で県立会津農林高の生徒など多くの客を乗せた後、列車は右に大きく曲がり田園の間を南に駆けた。若宮手前で左に目を向けると「磐梯山」(1,816.2m、同18座)は山頂付近が雲に覆われていた。

 

会津美里町に入った列車が、新鶴根岸を経て会津高田手前の“高田 大カーブ”にさしかかる時に、右の車窓から西部山地の最高峰である「明神ヶ岳」(1,074m、同61座)がはっきり見え、その奥に聳える「博士山」(1,481.9m、同33座)は少し霞んで見えた。

 

 

 

17:24、会津本郷直前に会津若松市に入った列車は、西若松七日町を経て終点の会津若松に到着。多くの客が降りた。ちなみに、会津田島駅を出発した「リバティ 会津」101号の「リレー」101号(会津鉄道)は、10時51分に向かいの5番線に到着している。

 

磐越西線の列車に乗り換えるために跨線橋を渡る際、橋上から構内を見下ろした。右奥の「磐梯山」は、頂上付近を雲に隠していた。

この後、私は郡山行きの列車に乗り換え、帰途についた。


東京・浅草から東武特急「リバティ 会津」号に乗って、会津田島駅から「自然首都・只見」号に乗り換えて只見駅から会津若松駅まで只見線の乗車するという、約11時間の長旅が終わった。晴れ間は少なく、車窓からの陽光を浴びた景色を見ることができなかったが、東武鉄道、野岩鉄道、会津鉄道、「自然首都・只見」号、そして只見線線、それぞれの沿線風景は確認でき良い旅になった。

 

肝心の“首都圏の観光客が会津若松に訪れる際の導線”の確認だが、今回のルートとは逆、只見線の列車に乗ってから「リバティ」を利用するという、“会津地方や福島県内の観光を楽しんだ客が首都圏に帰る導線”の方が良いと感じた。

11時間の長旅になるので、前半に只見線乗車した後、只見町や南会津町で観光や温泉、飲食店などでリフレッシュし、優等列車である「リバティ」に乗車し帰途に就くという旅程の方が観光客に受け入れられると思ったからだ。同時に、只見線は通常運行列車が座席予約できないため始発の会津若松駅から乗るのが無難で、「リバティ」号は全席指定だからという理由もある。

 

東北新幹線(郡山駅)と上越新幹線(浦佐駅)に挟まれた只見線だが、「リバティ」号を使った首都圏の観光客の導線が加われば、福島県が中心となって進める「只見線利活用」に大きく資すると思う。

福島県は、“観光鉄道「山の只見線」”が、世界有数の人口集積地である首都圏で広く認知され定着するよう、只見線⇋「リバティ」号という導線にも目を向け、栃木県、JR東日本、会津鉄道、野岩鉄道、東武鉄道などの関係する機関と協業し、育てて欲しいと思った。


 

(了)

 

 

・  ・  ・  ・  ・

*参考:

・産経新聞:「【美しきにっぽん】幾山河 川霧を越えてゆく JR只見線」(2019年7月3日)

・NHK:新日本風土記「動画で見るニッポンみちしる~JR只見線」 *2008年放送

・福島県 :只見線管理事務所(会津若松駅構内)

・拙著:「次はいつ乗る?只見線」カテゴリ -只見線の春-

 

【只見線への寄付案内】

福島県はJR只見線全線復旧後の「上下分離」経営での維持費や集客・地域振興策の実施費用として寄付を募集中(クレジット可)。

 ①福島県ホームページ:只見線復旧復興基金寄附金・只見線応援団加入申し込みの方法 *現在は只見線ポータルサイト「只見線応援団」 URL:https://tadami-line.jp/support/

 

②福島県:企業版ふるさと納税

URL:https://www.pref.fukushima.lg.jp/sec/16005g/kigyou-furusato-zei.html

[寄付金の使途]

 (引用)寄附金は、只見線を活用した体験型ツアーや周遊ルートの整備、只見線関連コンテンツの充実化等に活用させていただきます。 沿線地域における日本一の秘境路線と言われる観光資源を活用し、更なる利用者の拡大と認知度向上を図ります。

  

以上、宜しくお願い申し上げます。

次はいつ乗る? 只見線

東日本大震災が発生した2011年の「平成23年7月新潟福島豪雨」被害で一部不通となっていたJR只見線は、会津川口~只見間を上下分離(官有民営)とし、2022年10月1日(土)に、約11年2か月振りに復旧(全線運転再開)しました。 このブログでは、“観光鉄道「山の只見線」”を目指す、只見線の車窓からの風景や沿線の見どころを中心に、乗車記や「会津百名山」山行記、利活事業に対する私見等を掲載します。

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