会津若松市「東山温泉」「ラーメン金ちゃん」 2024年 冬

今年最初のJR只見線乗車をした帰り、「奥羽三楽郷」の一つに数えられる「東山温泉」で温泉に浸かり、会津若松駅前の「ラーメン金ちゃん」で、好物の餃子を久しぶりに食べた。

*参考:

・NHK:新日本風土記「動画で見るニッポンみちしる~JR只見線」 *2008年放送

・産経新聞:「【美しきにっぽん】幾山河 川霧を越えてゆく JR只見線」(2019年7月3日)

・福島県 :只見線管理事務所(会津若松駅構内)

・拙著:「次はいつ乗る?只見線」カテゴリ -只見線の冬-

 

 


 

 

今朝、郡山から磐越西線で会津若松入りし、只見線の下り2番列車(7時41分発)に乗り金山町の会津川口到着。その後、駅前からレンタカーで「玉梨八町温泉」、「沼沢湖」を巡った。

金山町での予定を終え、レンタカーを返却。駅舎を抜けてホームに向かうと、往路で乗ってきたキハE120形+キハ110タラコカラーが、ディーゼルエンジンの低い音を響かせ待機していた。

12:29、会津若松行きの列車が会津川口を出発。今回は「鶴ヶ城」に立ち寄ってから「東山温泉」に向かうため、最寄りの西若松で下車する予定で切符を会津若松駅で購入しておいた。

 

林道の上井草橋を潜り抜けると、只見川に突き出た大志集落が見え始めた。

「岳山」(941.7m)を中心とする、稜線尾根の針葉樹が印象的な山塊が青空に浮び、それが小さく波打つ川面に映り込み、まずまずの景観だった。川では堆積土の浚渫船が浮かび、タグボートの荷台に川底からすくい上げた土砂を積んでいた。*只見川は東北電力㈱上田発電所・ダムのダム湖

 

大志集落の背後を駆け抜けると、前方に東北電力奥会津水力館「みお里」が見えてきた。

 

会津中川に停車。ホーム向かい側に建つ農業施設の壁には“JR只見線全線運転再開”の横断幕が掲げ続けられていて、その脇には町内統一デザイン・サイズの観光案内が設置されていた。

  

会津中川を出てまもなく、上田ダム湖が近付いてきた。対岸の雪食地形の荒々しい山肌と正対している景観区間だが、線路脇に木々が立ち並び一瞬しか見られず、国道252号線沿いに立ち・延びる電柱・電線が邪魔になっている。

この先には、線形改良工事の際に電柱・電線地中化の景観に対する効果を実感できる区間があり、上田ダム湖脇も同工事で電柱・電線地中化をして欲しかったと改めて思った。

 

 

列車は国道252号線跨線橋を潜った直後に、会津川口~会津若松間で唯一の下路式トラスが組み込まれた「第四只見川橋梁」を渡った。*以下、各橋梁のリンク先は土木学会附属土木図書館デジタルアーカイブス歴史的鋼橋検索

  

会津水沼に停車。ここで日本酒を呑む事にした。今回選んだ会津の地酒は、今年の干支(辰)にならい、「辰泉」(会津若松市)の「しぼりたて純米 うすにごり生」を選んだ。

開栓すると、微かに“ポンッ”という音がした。 瓶の中で発酵が止まない為に発生した炭酸ガスで、新鮮さに期待が持てた。 

お猪口に注ぐと、爽やかな香りが立った。新鮮な酒!、という強い印象を受けた旨い酒だった。だが、『この酒を呑みながら、車窓から陽光を受けた景色が見られるとは、最高だ』と思ったのもつかの間、二杯目を注ぎ瓶を戻そうとした時、瓶にお猪口がぶつかってしまった。お猪口は落下し見事に割れてしまい、床に酒がこぼれた。

この後、お猪口の残骸を片付け床を拭いて、「辰泉」を呑むのをあきらめて車窓の景色を見続けた。そして、『会津塗の新しい酒器を買おう』と七日町駅で下車することに決めた。

   

列車は8連コンクリートアーチの細越拱橋を渡り、金山町から三島町に入り早戸に停車。活火山・沼沢の東裾が、壁のように見えた。

  

早戸を出て早戸トンネルを抜け、滝原トンネルとの間の明り区間を通過。今日は陽が差し気温が上昇したこともあり、線路脇の木々の綿帽子はほとんど無くなっていた。

 

滝原トンネルを抜けた直後に、「第三只見川橋梁」を渡った。*只見川は東北電力㈱宮下発電所の調整池・宮下ダムのダム湖 

上流側に続いて下流側を見ると、雪融けが進んだ河岸の様子が見られた。

  

「第三只見川橋梁」の渡河後、只見川右岸の縁を駆けると、前方には宮下ダムが見えてきた。

  

会津宮下で4人の客を乗せて出ると、まもなく「第二只見川橋梁」を渡った。往路では逆光だった下流側の景色が、はっきりと見えた。*只見川は東北電力㈱柳津発電所・ダムのダム湖

自席に戻り、上流側を眺めた。「三坂山」(831.9m、会津百名山82座)は、往路と変わらず良く見えた。

  

会津西方を出ると名入トンネルを抜け、「第一只見川橋梁」を渡った。*只見川は柳津ダム湖

空いている反対側の座席に移動し、上流側を眺めた。そして、デジカメをズームして正面上方の送電鉄塔の下を見ると、10名を超える人影があった。ほとんどが“撮る人”で、順光の中で良い写真が撮れただろうかと思った。

 

  

只見川に架かる橋の走行は終わり、会津桧原を出て滝谷トンネルを抜けると滝谷川橋梁を渡り、柳津町に入った。

 

郷戸を出ると、緩やかな左カーブなり“Myビューポイント”を通過。スノーシェッドの手前で振り返り「飯谷山」(783m、同86座)を眺めた。

 

会津柳津では3人が乗り込んだ。JR東日本から柳津町に無償譲渡された駅舎では、改修工事が進められていた。

 

会津柳津を出た列車は、奥会津最後の田園の間を快調に駆けた。

  

会津坂下町に入った直後に会津坂本に停車。貨車駅舎に描かれ、陽光を浴びた「キハちゃん」が満面の笑顔で迎えてくれた。*参考:会津坂下町「只見線応援キャラクター誕生!!」(2015年3月13日) https://www.town.aizubange.fukushima.jp/soshiki/2/3337.html

  

 

列車が奥会津と会津平野を隔てる七折峠に入り、登坂を終えて塔寺を通過すると、木々の間に見える会津平野が徐々に目の高さに近づいてきた。

 

ディーゼルエンジンの出力を下げた列車が軽やかに七折峠を下り、左に緩やかに曲がりながら杉第二踏切を通過すると、会津平野に入った。前方には、会津坂下町の市街地越しに青空に浮んだ「磐梯山」(1,816.2m、同18座)が見え、無垢の雪原上に広がる光景は美しいと思った。

 

会津坂下では、小出行きの2番列車(会津若松13時5分発)とのすれ違いを行った。小出行きの2両編成の車内は、全てのBOX席に1人以上の客が残り、まずまずの混雑ぶりだった。

  

会津坂下を出た列車は、右に大きく曲がり、西部山地の東に広がる広大な田園の間を進んだ。若宮を出て会津美里町に入り、新鶴根岸を経ると、右の車窓からは西部山地から南に連なり会津平野を囲む山並みの稜線が、白みがかった青空に見えた。 

この後、列車は“高田 大カーブ”で進路を南から東に変え、会津高田を経て、会津本郷の手前で会津若松市に入った。 

 

 

 

14:12、大川(阿賀川)を渡り、市内の市街地を進んだ列車は西若松を経て七日町に停車。ワンマン運転のため私は1両目の前方扉に移動し、運転手に西若松行きの切符を見せて、運賃が変わらない事を確認し下車した。そしてホームの先の方に移動し、列車を見送った。列車越しに「磐梯山」が綺麗に見えた。

 

七日町駅舎は、2002(平成14)年に“大正浪漫調の洋館”に改修され、構内には駅カフェがあり、土産物も販売されている。*参考:七日町通りまちなみ協議会 URL: https://nanuka-machi.jp/

 

駅前を貫く七日町通りを市街地中心部に向かって歩いた。国道252号線ということで交通量は多いが、電柱・電線地中化などの歩道改良が行われたため幅が広く歩き易い。 

酒器を買おうと決めていた「関漆器店」には、すぐ到着した。

店内に入ると、様々な形や色合いの漆器が並び、酒器も豊富だった。その中から、倒れることにない桝にしようと思い、呑み切りができる五匁桝を購入し、「関漆器店」を後にした。

  

七日町通りから神明通り(国道121号線)に入り、神明通り商店街を覆うアーケードの下を歩いた。

アーケードを行き交う人は少なく、平日の水曜日ということもあって定休日の店舗もあったが、閉業してシャッターを下ろしている建物も少なくなく、会津若松市の中心部活性化も課題多しと感じた。

 

終点になり、アーケードの側面が陽光に照らされ会津木綿を模した柄が良く見えた。

 

 

「鶴ヶ城」には北出丸口から入った。天守閣は、雲一つない青空に白壁の城郭が映え、見応えがあった。

本丸に入り、南から天守閣を眺めた。

「鶴ヶ城」の象徴でもある赤瓦の色合いがはっきりしなかったので、鉄門を潜り西側に移動した。天守閣を見上げると、「鶴ヶ城」を無二の存在たらしめている赤瓦が良く見えた。

城内は、平日にもかかわらず、多くの観光客が出入りしていた。大半は中華系(おろらく台湾の方)で、インバウンド需要のありがたさを実感した。会津若松の観光需要の定着と観光産業の活性化は只見線にも大きな好影響をもたらすので、訪れた観光客が充実した楽しい旅をおくれるよう関係者には最善を尽くして欲しいと思った。

 


「鶴ヶ城」を後にし、バス停に移動。まちなか巡回バス「ハイカラさん」号に乗って、「東山温泉」に移動した。車両は青いボンネット型だった。

 

途中のバス停で地元の方の乗降を繰り返し、20分ほどで東山温泉駅(バス停)に到着。

「ハイカラさん」号は、建物内のロータリーをぐるっと回り、去っていった。 

 

東山温泉駅から歩いて、湯川(旧黒川)の上流方向に向かった。直後に、東山四大滝の一つ「向滝」が見られた。 

 

「東山温泉」について。

会津東山温泉観光協会公式WEBサイトより引用(URL: https://www.aizu-higashiyama.com/index.html)
会津の奥座敷・東山温泉は今から約千三百年前、名僧・行基によって発見されたと言われ、奥羽三楽郷に数えられる歴史ある温泉郷です。 人口十二万人の会津若松市の中心地から車でわずか10分程度の便利な場所にこれだけの規模と歴史、豊かな美しい自然を誇る温泉地は他に類を見ません。 竹久夢二や与謝野晶子などの墨客にもこよなく愛された湯の街でもあります。

*「奥羽三楽郷」:東山温泉、上山温泉(山形県上山市)、湯野浜温泉(山形県鶴岡市)


会津藩の地誌「會津風土記」(寛文年間(1661~72) に初代会津(松平家)藩主・保科正之が山崎闇斎に命じて編修)を,第7代藩主・松平容衆が1803(享和3) 年に増補改訂させ、1809(文化6)年に編纂が完了した「新編會津風土記」(全120巻)の湯本村の項に「温泉」の記述がある。

會津郡青木組中九箇村
●湯本村
此村温泉多く湧出る故名けしと云、府城の東に當り行程三十四町、家數二十三軒、東西一町三十間、南北二十五間、北は山に連り、南は黒川流れ岩山高く峙ち山水の景極て勝れたり、民家多くは山岩に倚り、二階或は三階の桟閣にて、黒川の北岸に相並び大抵家ごとに湯槽あり遠近より湯治の者常に群衆せり、....(以下、省略)
○山川 ○温泉
村中にあり湧所一ならず冷湯にて味淡く腫物金瘡打撲中風脚機氣瘡毒等によしと云、桶を地中に伏て民家に引く、叉村中に湯小屋一軒あり總湯と云、府より修補を加へ浴する者の價をとらず樵夫農民の往來する者多く集り浴す、性尤勝れたり、叉黒川の南岸より出る所あり猿湯と稍ふ、此に纔の瀧あり猿湯瀧と云、叉黒川の中流岩間より湧出る所あり、目を洗へば明ならしむとて目洗湯と云

*上図出処:国立国会図書館デジタルライブラリ「大日本地誌体系 第33巻」新編會津風土記 巻之三十三「陸奥國會津郡之七」 URL: https://dl.ndl.go.jp/pid/1179202/1/67


「東山温泉」は、幕末に京都守護職に就いた松平容保公が率いる会津藩の預かりとなった新選組の土方歳三が、戦傷の療養で使用したことで知られている。湯川沿いの足湯には土方歳三のパネル「東山温泉の歴史解説板」が掲げられ、そこには次のように記されている。

新選組副長
土方歳三
 慶応4年(1968)3月、下総流山(千葉県)で局長の近藤勇と別れた土方は、残った新選組隊士を率いて宇都宮の戦いに参戦するも、足を負傷してしまう。その後、4月下旬に若松城下に到着。市内七日町の清水屋旅館に投宿した。その間、天寧の湯(現在の東山温泉)に通い、療養につとめた。
 土方が利用していた東山温泉の湯治場には諸説がある。「きつねの湯」と称し、会津藩士の保養所だった現「向瀧」、また会津藩の共同湯があったとされる現「瀧の湯」、東山温泉で最も古い源泉「猿の湯」を有する現「不動滝旅館」の三館が挙げられる。しかし、この当時の土方に関する記録はほとんど残っていないため正確なところは不明だが、東山温泉を訪れていたことだけは確かである。


「東山温泉」の湯川の両岸をメインに旅館(ホテル)が立ち並ぶ様子を眺めながら、湯川沿い(黒川の小径)を、上流に向かって歩いた。

途中、“冬季休業”との案内が掲げられた足湯の前を通過。この足湯に浸かると、目の前には戊辰役・会津戦争の参戦していた新選組の土方歳三の壁画が見られる。*参考:くつろぎの宿 新滝「【猿の湯】土方歳三ゆかりの湯

 

「足湯」の正面には、「残念坂」が延びていた。この坂を上り、左に曲がると「羽黒山神社」の赤大鳥居があり、鳥居をくぐり県道325号(湯川大町)線を横断すると1,225段の石段を登り本殿に到達する。*参考:会津若松観光ビューロー「東山温泉街をぶらりぶらり」/ 拙著「会津若松市「羽黒山」「背炙山」登山 2021年 晩夏」(2021年9月22日)

「残念坂」には進まず、右に曲がり「からり妓の小径」を進んだ。店を開けていない射的場もあったが、その先には空き家のような店舗や建物が続いた。

 

「夜泣き地蔵」の祠の前を通過し、緩やかな坂の途上に東山温泉芸妓屋共同組合があった。“からり妓(こ)”とは、芸者が旅館に向かって歩くさまを表しているのだろうと考えた。

 

坂の終盤には、手塚治虫のキャラクターが描かれた新東山温泉街案内図が掲げられていた。手塚治虫は、1959(昭和34)年以降、三度湯治に訪れていたという。*参考:手塚治虫オフィシャルサイト WEBマガジン「虫ん坊」コラム「虫さんぽ」第11回:福島県会津若松(全編)・スリル博士と歩く初夏の会津

 

二又を右に進み「からり妓の小径」をさらに進むと、今回立ち寄り湯をする旅館が見えてきた。

「おやど東山」に到着。東山温泉駅から約700m、10分ほど掛かった。

玄関の引き戸を開けて、フロントに声を掛けると『日帰り入浴は17時までですがよろしいですか』と言われた。わかりました、と言い入湯料600円を支払い、案内された浴室に向かった。

 

大浴場は階下にあり、脱衣所に入ると他に入浴者の気配がなかった。浴室は湯川に面していて、男湯は広々とし開放的だった。*参考:おやど東山「温泉」 URL: http://aizu-yado.com/spa.html

無色透明・無臭のさっぱりとした湯は気持ちよく、最後まで誰も入ってこなかったこともあり、ゆったりと湯に浸かる事ができた。*参考:会津東山温泉観光協会「~會たい昔~ 会津東山温泉」日帰り温泉が楽しめる宿  

・源泉名:原瀧源泉
・泉質:ナトリウム・カルシウムー硫酸塩・塩化物温泉(硫酸塩水泉)
・知覚的試験:無色・透明・無臭・無味・気泡なし
・泉温:58.0℃
・湧出量:390L/min(動力揚湯)
・pH値:7.6
(令和元年10月 温泉分析書より)


フロントにお礼を言い、「おやど東山」を後にした。エントランスを出ると、目の前に民家があった。玄関脇の大理石に文字が刻まれていたので、見ると「花佳」という文字が。見覚えがあり、スマホで調べて見ると、芸者置屋だった。


東山温泉駅に向かって歩き出したが、往路で気になっていた建物を、改めて見ながら進んだ。

まずは、ナンバープレートが外された車が放置されている、営業はしていないであろう飲食店らしい店舗。

そして、県道325号線側に玄関のある、閉業した大規模ホテル、會津東山閣アネックスシンフォニーの裏面を見上げた。左には、同様に閉業したホテル玉屋も並んでいた。この場所からは見えなかったが、アネックスシンフォニーの、県道を挟んだ向かいにも閉業した會津東山閣キャニオンがある。

さらに道(からり妓の小径)を進むと、閉業した旅館新栄館も建っていた。

これら閉業した建物(廃墟)は、昼は景観を損ね、夜は無灯のためポッカりと穴が開いたような風景となり、営業中の旅館・ホテルが綺麗に外観を設えたり、照明を駆使し雰囲気を創り出しても、観光客の旅情を削ぐことになってしまうだろうと思った。

昨年2月、会津若松市温泉地域活性化検討会で、市内の「芦ノ牧温泉」(会津鉄道沿線)とともに「東山温泉」の“景観創造ビジョンアクションプラン”が示された。その中では、廃墟の解体も想定しているが、會津東山閣やアネックスシンフォニーは権利関係が複雑で“早期解体”とはならないようで、竹塀で囲うという案が示されている。*出処:会津若松市温泉地域活性化検討会 令和5年2月24日「会津若松市温泉地域景観創造ビジョンアクションプラン」(PDF)

いずれにしても、「東山温泉」の魅力を高め、リピーターや長期湯治者が増えるような景観向上などのエリアマネジメントを、行政と民間事業者が協業して進めて欲しいと思った。

 

 

10分ほどで東山温泉駅に到着し、会津若松行きのバスの到着時刻まで時間があるので、ストーブが焚いてある待合室のベンチに座った。湯温が高かったせいか、温泉に浸かった体は湯冷めしておらず、体のなかからポカポカで、心地よくバスを待つことができた。

17:40、定刻をわずかに遅れてまちなか周遊バスの「ハイカラさん」号が到着。1人降りるのを待って、乗車するとバスは出発した。次の旅館「瀧の湯」前にあるバス停では、おそらく台湾からの旅行者と思われる方々が降りた。インバウンドは、「東山温泉」街の重要な顧客になっているとを実感した。

 

今回、日帰り温泉の利用ではあったが、初めて「東山温泉」を訪れ、多様な宿で多くの客の宿泊が可能な「東山温泉」は、“観光鉄道「山の只見線」”の確立のためには大きな存在だと実感した。“只見線に乗ってから「東山温泉」で宿泊”、“「東山温泉」に泊まって翌日に只見線の旅”という需要に「東山温泉」は応えられると考えるからだ。国内屈指の歴史・観光都市である会津若松市と、観光客の嗜好に応えられるキャパシティーを持つ「東山温泉」が起点にあるおかげで、只見線はそれらを絡めた旅の提供ができる。

私は今まで、広く知れ渡っている「東山温泉」は只見線関連の観光・宿泊地として『あえて取り上げなくてもよいだろう』と思ってきた。しかし“観光鉄道「山の只見線」”の経済効果や沿線の宿泊施設事情を考えると、「東山温泉」は非常な重要な場所だと考えを改めるに至った。

今後、機会を作り宿泊や立ち寄り湯をして、只見線と「東山温泉」について考えを深めたいと思った。


 

「ハイカラさん」号は、20分ほどで会津若松駅前に到着。

さっそく、駅舎の直ぐ横に建つフジグランドホテルに向かった。

 

建物に入り、フロントでチェックインをする旅行者の列を横目に、「ラーメン金ちゃん」に到着。昨年は来られず、久しぶりの訪店になった。

店に入ると、カウンターのみの席には4人に先客がいた。

マスターが鉄道写真愛好家なのか、天井に近い壁には、只見線のみならず会津地方で撮られた鉄道写真を収めた額が掲げられていた。SLを撮ったものが一番多く、中には西会津町の如法寺(鳥追観音)に保存されている除雪車キ621ロータリー車の写真もあった。

 

注文を取りに来た女将に餃子2皿とビールを注文し、ラーメンを何にするかメニューを見ながら考えた。。

 

ビールを呑みながら待っていると、餃子が運ばれてきた。

久しぶりに見る、「金ちゃん」の餃子。胃袋が鳴った。

食べる。

キャベツのシャキシャキという歯ごたえとみずみずしさが先行し、肉の風味と旨味が追ってくる期待通りの旨さで、久しく食べていなかっただけに、格別だった。2皿10個の餃子は、あっというまに無くなってしまった。

 

餃子を全て食べ終え、〆のラーメンを食べた。選んだのは、醤油ラーメン。さっぱりとしたスープが、中太ちぢれ面に絡まり、こちらも変わらぬ旨さだった。


「ラーメン金ちゃん」での食事を終え、会津若松駅に向かった。

駅舎に入ると、正面に会津若松エリアプロジェクトのオリジナルキャラクターである「ぽぽべぇ」のパネルが、合格祈願の“ぽぽべぇ神社”に立っていた。“ガンバレ受験生!”と記されたボードには、合格祈願のメッセージが書かれた、絵馬を模した紙が貼られていた。

改札を通り、磐越西線の郡山行きの列車に乗った。

車内では、新しい酒器で「辰泉」を呑み直した。

七日町の「関漆器店」で手に入れた五匁桝には、赤べこが描かれた会津らしい酒器で、今回のように落としても割れないと思い購入した。

 

 

磐越西線の列車は順調に走り、定刻に郡山に到着した。駅西口のイルミネーションは、冴えた空気の中で綺麗に輝いていた。

 

2024年、最初の只見線の旅が終わった。

今年も、私選“只見線百山”の検証登山を中心に只見線を利用しながら、四季折々の車窓の風景や沿線の見どころ、食・酒を楽しみたいと思う。また、“観光鉄道「山の只見線」”には欠かせない只見線専用の観光列車の導入実現に向けて、個人的に知見も深めてゆきたいと思う。

 

 

(了)

 

 

・  ・  ・  ・  ・

*参考

・福島県:只見線ポータルサイト

・福島県・東日本旅客鉄道株式会社 仙台支社:「只見線全線運転再開について」(PDF)(2022年5月18日)

・福島県:平成31年度 包括外部監査報告書(PDF)(令和2年3月) 「復興事業に係る事務の執行について」 p140 生活環境部 生活交通課 只見線利活用プロジェクト推進事業

 

【只見線への寄付案内】

福島県はJR只見線全線復旧後の「上下分離」経営での維持費や集客・地域振興策の実施費用として寄付を募集中(クレジット可)。

①福島県ホームページ:只見線復旧復興基金寄附金・只見線応援団加入申し込みの方法

*現在は只見線ポータルサイト「只見線応援団」URL:https://tadami-line.jp/support/


②福島県:企業版ふるさと納税 URL:https://www.pref.fukushima.lg.jp/sec/16005g/kigyou-furusato-zei.html

[寄付金の使途]

 (引用)寄附金は、只見線を活用した体験型ツアーや周遊ルートの整備、只見線関連コンテンツの充実化等に活用させていただきます。 沿線地域における日本一の秘境路線と言われる観光資源を活用し、更なる利用者の拡大と認知度向上を図ります。


以上、宜しくお願い申し上げます。


次はいつ乗る? 只見線

東日本大震災が発生した2011年の「平成23年7月新潟福島豪雨」被害で一部不通となっていたJR只見線は、会津川口~只見間を上下分離(官有民営)とし、2022年10月1日(土)に、約11年2か月振りに復旧(全線運転再開)しました。 このブログでは、“観光鉄道「山の只見線」”を目指す、只見線の車窓からの風景や沿線の見どころを中心に、乗車記や「会津百名山」山行記、利活事業に対する私見等を掲載します。

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