只見町「八十里越」 2018年 紅葉

戊辰役・北越戦争で左膝に銃撃を受け重傷を負った長岡藩家老で軍事総督の河井継之助が、会津藩に退却した際に使ったされる街道「八十里越」の一部を歩いてみようと、JR只見線を利用し只見町に向かった。

「八十里越」は会津(南山御蔵入領)・叶津村(現 福島県只見町)と越後・吉ヶ平村(現 新潟県三条市)を結んでいた街道。

 *下図出処:福島県南会津建設事務所「南会津の街道」(PDF)

「八十里越」は会越(会津と越後)の交易に使われ、1843(天保14)年に塩の輸送を目的に改修され馬も通れるようになったと言われている(古道)。その後、1881(明治14)年に「中道」、1994(明治27)年に「新道」が開削され、通行量の増大に対応してきた。

 *下図出処:福島民報 2014年3月22日付記事 『「八十里越」再び』より抜粋

「八十里越」について、只見町「広報ただみ」(2017年9月号)の国道289号線「八十里越」の特集記事には、以下のように記載されている。

(引用)八十里越は8里(32km)ほどの山道で、福島県では最も長い峠道となっており、平成8年11月1日には文化庁から「歴史の道百選」に選定されました。八十里越は1里が10里とも思えるほど険しい道であったため、その名が付けられたといわれています。新潟県との交易にとって重要な峠であり、幕末から戊辰戦争時にかけて越後長岡藩の家老・河井継之助が越えた峠としても知られています。


また、現在「国道289号八十里越」の建設が進み(2023年度完成見込み)、“八十里越”という言葉は複数の道を指している。簡単にまとめると以下の通り。

  • 河井継之助一行が歩いた道 → 八十里越 古道
  • “八十里越を歩く”イベント → 八十里越 新道
  • 点線国道(一部区間、車両通行不可) → 国道289号線 
  • 工事中 →  (バイパス)国道289号八十里越

国土地理院の電子地形図(https://dkgd.gsi.go.jp)では、吉ヶ平を道中に持つ県道183号線(新潟県)が御所平で国道289号線に接続し叶津まで続く「新道」全体を見ることができる。

今日歩いたのは、江戸期から明治初期まで使われ、河井継之助一行が通った「八十里越 古道」。只見線の最寄は会津蒲生駅だが、現在運休区間を走る代行バスが設けている「叶津」バス停で下車した。

代行バスを降りた後は、輪行した自転車で「八十里越 古道」入口まで行き、現在一人で歩く事ができる“古道区間”の「山神の杉」までを往復した。

「山神の杉」から先、「沼の平」までは「古道」が歩ける状態で現存していて、ガイド同行で歩くことができる。

「沼の平」から先、「新道」との分岐点である県境の木ノ根峠(八十里峠、845m)までは“幻の道”と呼ばれていて、1992(平成4)年に“発見”され、現在只見町が“復活”に向けて調査を継続している。

 

私は昨年6月25日に浅草岳登山で、この「古道」を歩いていたが、当時「八十里越」の一部であることを知らなかった。今日は、河井継之助が戸板を使った特製担架に載せられて通った事を想像しながら、取り囲む木々が色づいた道を歩いた。

 


磐越西線の始発列車に乗るために郡山駅に向かう。駅前大通りから見る駅上空の空は明るんできていた。

駅に到着し、駅頭で自転車を畳み輪行バッグに入れる。切符を買い自動改札機を通って1番線に行き、出発を待つ列車に乗り込む。

5:55、会津若松行きの列車が出発。

切符は休日ということで「小さな旅ホリデーパス」を使った。

 

磐梯熱海を過ぎたあたりから雲が多くなり、沼上トンネルを抜け会津に入ると濃い雲となり薄暗くなった。猪苗代を過ぎて見えるはずの磐梯山は裾野からすっぽりと雲に覆われ、全く見えなかった。

天気予報が快晴だっただけに、心配になった。

 

7:09、会津若松に到着。改札を抜け表に出て駅舎を見る。上空はいくぶん明るいが、一面に雲が広がっていた。

駅構内の売店で昼食を購入し、改札を通り連絡橋を使い只見線のホームに向かう。

列車は既に入線していたが、先頭はラッピング車両だった。いつもは会津宮下ですれ違っていたので珍しいと思った。

 

7:37、会津川口行きの列車が出発。

車内は全てのBOX席に1人2人と座り、いつもの休日よりは多い乗客の姿があった。先頭のラッピング車両には中華圏の観光客グループが乗り込み、賑やかだった。只見線沿線の紅葉が最盛期を迎え、もう少し混むかと思ったが、朝が早いためか思いの外少ないと思った。 

 

列車は七日町西若松で部活で通学する高校生を乗せ、大川(阿賀川)を渡り、会津平野の田園地帯に入って行く。この時は青空が見えたが、進行方向には厚い雲が広がっていた。

会津本郷から会津高田に着く頃には青空は見えなくなり、根岸新鶴若宮と鼠色の雲の下に広がる刈田の間を列車を進んで行く。

会津坂下で高校生を降ろし、列車のすれ違いを行ってから出発。列車は徐々にディーゼルエンジンの出力を上げ、七折峠に向かって行く。

車内の様子。私の乗る二両目は、空いたBOX席も見られ、『只見線一番の紅葉時にこの乗車人数とは...』と残念な気持ちになった。

  

塔寺を経て会津坂本を過ぎて柳津町に入ると、青空が少しづつ見え始め、会津柳津は青空の下だった。

この紅葉時には観光バスを降りた多くのツアー客が乗り込む駅だが、今日はホームにその姿が無かった。これまた残念だった。

郷戸手前の“Myビューポイント”では前方の山の上空には青空が見られ、奥会津は天気予報通り晴れだろうと思った。

滝谷を出発した直後に滝谷川橋梁を渡り三島町に入る。渓谷は綺麗に色づいていた。

 *以下、各橋梁のリンク先は土木学会附属土木図書館(http://www.jsce.or.jp/library/archives/index.html)「歴史的鋼橋集覧

 

会津桧原を経て桧の原トンネルを通過中に列車が減速。抜けた直後に「第一只見川橋梁」を渡る。

快晴の下 陽射しが強いせいか、私のカメラではうまく撮れなかったが、壮観な眺めだった。

 

会津西方を出発直後に「第二只見川橋梁」を渡る。


列車は減速して「アーチ3“橋”弟」の長男・大谷川橋梁を、次男・宮下橋を見下ろしながら渡る。

 

会津宮下を出て国道252号線架道橋を潜ってまもなく、東北電力㈱宮下発電所と宮下ダムの脇を駆け抜ける。ダムは放流していた。

宮下ダム湖(只見川)対岸も綺麗に色づいていた。この時間は陽射しによる陰陽が美しい。

 

わずかな時間、宮下ダム湖と別れた後、「第三只見川橋梁」を渡る。列車は右(北)の河岸とほぼ正対するため、圧巻の紅葉景観が目に飛び込んできた。陽射しによる陰陽のあり、感動的な光景だった。

また、列車はここでも減速してくれたため、じっくりと堪能できた。今日の「第一」と「第三」での減速サービスは、紅葉の色づきに合わせて制度化して欲しいと思う。

 

早戸に到着。陽が隠れて鮮やかさが失われたが、只見川上下流の木々は見頃になっていた。

 

早戸を出て金山町に入り、左に緩やかに曲がりながら細越拱橋(めがね橋)を渡る。

 

会津水沼を経て「第四只見川橋梁」を渡る。

下路式トラス橋のため鋼材が視界悪くしているが、東北電力㈱上田発電所・上田ダムの直下ということで只見川に浅瀬が見られる貴重な景観が見られる、また右手(左岸)には500~700m級の低山が連なり、雪崩路(アバランチシュート)を持つ山肌に木々の色づきが重なることで今までとは違った風景を車窓から楽しむ事ができる。

 

並行する国道252号線との間には電線が続き、景観を損ねていると思っている。

現在、国道の拡張工事をしているようなので、同時に電柱を無くし地中化や“地面化”を行い、景観創出事業として欲しい。

 

会津中川を出て、大志(オオシ)集落を抜けると列車は減速し、町道の上井草橋を潜る。

只見川(上田ダム湖)の貯水量は十分で、水面は穏やかだった。

 

9:39、終点の会津川口に到着。乗客の大半は観光客だったようで、皆カメラを構え、写真を撮っていた。

中華圏のグループは線路内に入って記念撮影をしようとして駅係員に注意されていた。

注意書きの看板は設置されているのだが、漢字とひらがなで書かれているため伝わらないのだろう。只見線をインバウント向けてアピールしている現状を考えれば多言語看板は必須だ。沿線自治体関係者はJRに協力を依頼して欲しい。

 

会津川口駅の遠景。上田ダムの貯水量が多いと見応えのある“駅の風景”となる。

 

 

30分ほどすると青空が出てきたため、再びホームに入らさせていただき、写真を撮る。

ダム湖の水鏡は鮮やかさを増し、見応えがあった。

 

会津川口から先は運休区間。2021年度に10年ぶりに列車が走る予定だ。

転写台の周りには二台の除雪車が置かれていた。冬の訪れを感じる。

 

駅構内の椅子に座って待っていると、只見方面から運休区間を走る代行バスがやってきた。

10名超える客が降りた。大半は紅葉を見るために乗車した観光客だろうと思った。

10:25、只見行きの代行バスは私を含め5名の乗客を乗せて出発し、国道252号線を進んで行く。

 

まもなく右手(北側)に会津若松側の橋桁が一部流出した「第五只見川橋梁」が見える。再架橋などの復旧工事は来年度に本格化する。

 

本名となっているバス停(以下同じ)を経て東北電力㈱本名発電所・本名ダムの天端(本名橋)を渡ると、眼下に「第六只見川橋梁」が架かっていた空間が見える。

会津若松側の橋脚があった河岸付近は、ダム放流に対応するための導流壁が建設されている。

 

会津越川会津横田を経て、国道の二本木橋上から只見川上流方向に解体工事中の「第七只見川橋梁」が見える。

「第六」「第七」ともに架橋を含めた本格的な復旧工事は2020年度の予定となっている。

 

会津大塩を経て、滝トンネルを抜けて只見町に入り、会津塩沢を過ぎてまもなく寄岩橋上から「第八只見川橋梁」と蒲生岳(828m、只見四名山)を見る。

「第八」は一見無傷のように見えるが、総額約81億円の1/3にせまる約25億円もの費用をかけて復旧される。

 

 

11:10、叶津(カノウヅ)のバス停で降りる。ここに只見線の駅は無いが、代行バスは停まる。

さっそく、自転車を組み立て、出発する。

叶津地区には只見線最長の橋梁「叶津川橋梁」(372m)がある。半径250mで緩やかに大きく曲がっている美しい鉄道橋だ。

そして、この叶津は“街道の合流点”でもある。「八十里越」が沼田街道((会津)若松~上野・沼田)に繋がり、叶津(口留)番所がある。街道は現在、それぞれ国道289号線、国道252号線の一部になっている。

 *参考:只見川電源流域振興協議会:奥会津 歳時記郷「叶津番所

 

T字路の隅には「国道289号八十里越地点開発促進期成同盟」が立てた“つなげよう 海から洋へ  国道289号八十里越20.8キロの早期開通を”と書かれた看板があった。

 *参考:越後ジャーナル「八十里越地点開発促進期成同盟」(2010年2月24日)

 

 

自転車にまたがり、移動を開始する。前方には冠雪した浅草岳(1585m、只見四名山)が見えた。

入叶津集落を経て、20分ほどで行き止まりとなる。

これより先は工事区間となる。ゲートの前には多くの看板が設置されていた。

国道289号線は日本“海”に面した新潟市と太平“洋”に面したいわき市を結ぶ一般国道で、“点線国道”とも呼ばれ、「八十里越」区間が車両通行不能の“点線”区間の未成線となっている。“つなげよう 海から洋へ”は日本と太平をつなげる意図がある。

「八十里越」区間は“バイパス”が計画され、現在は降雪期に中断しながら、福島県(7.8km)、国(11.8km)、新潟県(1.2km)が分担して、2023年度の全通を目指して工事が進められている。

 *参考

  ・只見町「広報ただみ」(2017年9月、p2-5)(PDF)

  ・三条市:国道289八十里越

  ・国土交通省 北陸地方整備局「国道289号 八十里越 再評価資料」(平成23年3月)(PDF)

 

 

道を少し引き返し、「浅草岳入叶津登山口」に着く。駐車場スペースには10台ほどの自動車が置かれていた。冠雪が気になるが、今日は登山日和で頂上からの眺めは最高だろうと思った。

ここは「八十里越 古道」の入口になっている。只見町が設置した「戊辰戦争 史跡めぐり」の案内標柱の裏に、次の文章が書かれていた。

この道は慶応4年(1868)、長岡藩士とその家族、そして河井継之助が越えてきた峠道である。ここから沼ノ平にいたる登山道は、天保14年(1843)に開削された八十里越・古道をそのまま利用している。

 

さっそく自転車を置き、「山神の杉」目指して歩き出した。

 

 


45分で「山神の杉」に到着。「浅草岳登山道」と「沼の平」への道との分岐となっている。

実は、私は「八十里越 古道」が平石山(1035m)の尾根にある「沼の平」分岐まで続いていると思い登山と続けてしまった。往復1時間30分を浪費してしまった。

*以下の写真は往路と復路で撮った写真が混じることになり、2時間前後の時間差がある

 

「山神の杉」は二本の杉が立ち並んでいるが、河井継之助一行がここを通った時、この杉はあったのだろうか。

この「沼の平」に向かっている道が「八十里越 古道」だが、単独歩行は禁止で、地元ガイドの同行が必要になっている。

 

 

 

この「山神の杉」から、「沼の平」を経て「八十里越 古道」をやってきた河井継之助一行がたどったであろう視点で、彼の終焉の地である旧塩沢村に向かう。

彼らは旧暦8月5日(新暦9月20日)にここを通過した。

ここから下り坂が続く。道幅は狭い。

一旦、ブナ林を進む。歩きやすい。

ブナの葉は色づいていた。河井継之助一行は旧暦8月に通ったため、まだ緑の葉であっただろう。

再び、低木の中を進む。ブナの生えてない場所は、雪崩が頻発する場所だと言う。

道は凹凸や溝ができ歩きづらかった。当時はどうだったのだろうと思う。

 

歩き始めて10分もせずに「栃の木清水」に到着。清水は道に広がり流れ、ぬかるみを作っていた。

この清水が当時からあったのであれば、一行は必ずこの清水を飲んだことだろう。

 

「栃の木清水」を過ぎると、ブナ林が続く。道は幅が広く、足元も平たんで歩きやすかった。

道には大きな石が見られ、表面には苔が見られた。

 

つづら折りの下り坂に入り、通過した道を見上げると、加工された石が積み上げられて土留めの役割を果たしていた。「旧八十里跡」の標杭が置かれていた。

これが継之助一行が通った当時のままの姿だとすれば、良好な保存状態だと思った。

下掲する新聞記事の「沼の平」以後の遺構とともに、国指定史跡認定を受け、後世に残して欲しい。

 

さらに下ると、つづら折りの北端から叶津川が見えた。ここが「叶津川眺め」だ。

川は整備されコンクリート製の構造物が見えるが、この眺めの構図は当時と変わらないだろう。

 

つづら折りが終わると開けた場所から見える、叶津川対岸の山が一気に近づいて見えるようになった。

道から振り返ると、平石山(1035m)の尾根が見える。

砂防ダムが築かれた沢(平石沢?)を渡る。

この後、緩やかにアップダウンする道を進み、下りの傾斜が急になるところで前方が開けた。

「山神の杉」から約30分で「八十里越 古道」入口に到着。「古道」はここで終わる。

 

ここからは自電車に乗り、国道289号線上を移動する。調べたが、国道が街道「八十里越」と同じ道程であるかは分からなかった。

清流の音を聞きながら、叶津川沿いを進む。

 

入叶津集落を過ぎて、叶津川を渡った後は田んぼの間を通る。

 

もう一度叶津川を渡り、ほぼ直線の道をしばらく進むと沼田街道(現国道252号線)にぶつかる。

T字路の南側に叶津(口留)番所跡がある。河井継之助一行も立ち寄った。

彼らは、ここを右に行き旧只見村にあった「目明し清吉」の屋敷に向かい7日間滞在する。

そこで河井継之助は、将軍侍医を務め軍医として会津藩に派遣されていた松本良順から傷の治療を受けた。そして、河井は松本の勧めに従い、旧暦8月12日に若松城下に向けて出発する。

 *参考:

 ・只見町「河井継之助逗留地跡

 ・会津若松市「松本良順

 

 

叶津のT字路を左折し、河井継之助一行が7日後に歩いた道を進む。

沼田街道(現 国道252号線)を北東に進む。半里(1.96km)ほど進むと、前方に蒲生岳(828m)が現れる。

 

さらに、蒲生岳の麓から1里(3.93km)ほど進むと、河井継之助の終焉地である塩沢地区(旧塩沢村)に着く。彼は村医・矢沢宗益宅に滞在し治療を受ける。

しかし、4日後、1868年(慶応4)年8月16日に彼は息を引き取り、その敷地内で荼毘に付されている。現在その場所は電源開発㈱滝ダムが作り出した湖に沈んでいる。

 

彼が最期を過ごした矢沢宅は、高台に建てられた「河井継之助記念館」内に一部が展示されている。

今日は時間がなく入館できなかったが、館内のホールに“終焉の間”が置かれ、彼の関連資料もあわせて展示されている。入口正面には軍艦服姿の河井継之助像がある。

 

彼の墓は、記念館から北に300m離れた医王寺にある。荼毘後の遺骨は(会津)若松の建福寺に送られたが、拾い残された細かい骨を村人が集めてここに埋葬した。

西軍(新政府軍)に暴かれぬよう、墓は祠のように質素に作り、文字も刻まなかったという。

この墓は、1937(昭和12)年に補修された後に1978(昭和53)年に新潟県長岡市の篤志家により再補修されたもの。ここでは、毎年命日の8月16日(旧暦)に墓前祭が行われている。

 

墓石のある場所からは只見川(滝ダム湖)が見える。当時、村人は彼が亡くなった場所(矢沢邸)が見えるようにと配慮したのであろうか。

ちなみに河井継之助の遺骨は、1870(明治3)年10月7日に(会津)若松の建福寺から長岡の栄凉寺に移葬されている。現在、建福寺の墓があった場所は“一時埋葬地”として碑が立っている。

 

河井継之助の「八十里越」を含む退却行の様子や、それに至る戊辰役・北越戦争の様子は福島県只見町と新潟県長岡市の「河井継之助記念館」のホームページなどに詳しい。

 *参考

 ・只見町「広報ただみ」(2018年8月号):「戊辰150年」只見と戊辰戦争(PDF)

 ・会津ただみ振興公社:河井継之助記念館「河井継之助について」

 ・越後長岡「河井継之助記念館」:【稲川通信14】河井継之助記の墓

 ・新潟テレビ21:「峠」王プロジェクト2018「越後と北越戊辰戦争」

   

 

 

河井継之助が最期に通った「八十里越 古道」は、福島県と新潟県との交流の歴史や、鉄道と道路整備による“道の変遷”などを学べる教育的価値が高く、またトレッキングなどのネイチャーアクティビティも楽しめ、多様な客を引き付ける文化財だと思う。

只見町は「八十里越 古道」の調査・補修のため予算を付け、“ロングトレイルコース”としての整備や“国指定史跡”を目指しているようだ。

 *記事出処:福島民報 2014年3月22日付け紙面より

この記事にあるように、平成26年度予算で「300万円(八十里古道調査事業)」を計上し、平成28年度予算で「421万円(同)」、平成29年度予算「1,604万円(同)」、そして今年度予算で「1,721万円(八十里越調査事業)」と着実に事業を積み重ねている。*予算額は只見町「広報ただみ」の各年4月号から引用

 

今回、現在の進捗を確認できなかったが、近い将来「八十里越 古道」が歩けるようになれば、只見線沿線の新たな観光資源として加わる事になるだろう。“完成”が楽しみだ。

 

最後に八十里越 古道」について、“発見”された当時(1992(平成4)年)の記事を掲載したい。

 *記事出処:福島民報 1992年6月20日付け紙面より

記事の内容は以下の通り。

・記福島民報(1992年6月20日)
「幻の古道「八十里越」見つけた!!」
『只見町教委 石橋、堀跡を確認』
 江戸時代まで会津と越後を結ぶ重要な道路だった「八十里越」の古道が、只見町教委の調査で見つかり、歴史の道として現代のよみがえる。
 古道には戊辰戦争で長岡藩の河井継之助らが会津藩に落ちのびた際に通行するなどの歴史的なエピソードがある。明治27年に新道がつくられてから、その存在は忘れ去られて“幻の道”といわれていた。今回の調査では、立派な石橋や塀などが見つかったほか、場所によっては道幅が4㍍近くもある立派な街道だったことも分かった。只見町教委では「歴史の道として復元、遊歩道にすることなどを検討したい」と喜んでいる。
『歴史の道 現代によみがえる』
 町教委は町史編さんのため数年前から古道調査を行っており、昨年は3回も現地に入ったが見つからなかった。今回の調査は先月末、町教委の飯塚恒夫教育長をはじめ、田島建設事務所、新潟県・長岡国道事務所の職員、さらに地元のお年寄りら14人で行った。
 只見町の浅草岳登山口を出発、約2時間で長岡藩軍資金埋蔵伝説がある沼ノ平地区に到着。沼ノ平まではかつての古道とほぼ同じルートで登山道が整備されているが、そこから先の道はない。調査団は土砂や木の葉に埋もれた道を探しながら、進むことになった。
 道案内役は地元の吉田貞夫さん(75)=同町叶津=と長谷部一三さん(68)=同=の二人が買って出た。二人は祖父母などから聞いた記録をたよりに道らしいものを探しながら山中を歩いた。その結果、猿崖地区まで進むと石橋と思われる石積みが見つかった。高さ約2㍍、長さ4㍍でしっかりした石組みだった。近くに約3㍍にわたって幅90㌢ほどの用水堀の跡も残っていた。

『長岡藩士が会津藩に敗走 町が遊歩道検討へ』

 標高千㍍以上ある県境の尾根まではかなり険しい山道。参加した長岡市の郷土史家で八十里越を研究している尾身栄一さんは「会津へ敗走する長岡藩士たちが、あまりの難所にたまりかねて持ってきた大砲などを沼に沈めたーという話もうなずける」と感想を語った。調査団は午後4時には新潟県入広瀬村に到着、幻とされた古道約十㌔の踏査に成功した。

 町教委の新国勇さん(34)は「道は所々で崩れたりしており、推測した区間もあるがほぼ全容が分かった。長い間の夢がかなってうれしい」と話している。町教委では調査記録を報告書としてまとめ、後世に伝える。

 八十里越新道は昭和45年、289号国道に昇格。改良計画が打ち出され平成2年に県境トンネルなどの建設が決定。本県側では叶津第一トンネルの工事などが進められている。しかし全線開通までには15年以上もかかる見通し。飯塚町教育長は「新道改修に合わせて歴史の道として復元、整備が実現するよう努力したい」と話している。

 

「八十里越 古道」をたどる旅の記録は以上で終わり。


以下、只見線の運休区間の現在の様子を記す。

 

叶津川橋梁からたどってゆく。

 

八木沢集落の法面崩落箇所には、復旧工事のヤードがあった。

安全掲示板には「只見線災害復旧工事(1工区)」と書かれていた。只見線が本当に復旧されるのだということを、実感できた。

この狭い区間だけでも、6か所の工事があるようだ。

 

このヤードから1.7kmほど進むと会津蒲生駅。蒲生岳の麓にあり、登山道の入口側の直近にある。

 

3kmほど進み、国道の寄岩橋上から「第八只見川橋梁」を見る。

午前中に見た時とは違い、強い西日が只見川(滝ダム湖)左岸の木々を煌びやかに照らしていた。紅葉時は、陽の当たり具合で見え方が変わる。2021年度の復旧後、列車に乗ってここを時間差で往復するだけでも価値があるのではないだろうか。

 

「第八橋梁」の会津川口側の直近には「寄岩ヤード」が設置されていた。

このヤードは只見線の路盤に直結していて、「第八橋梁」に向かって鉄板が敷かれていた。

 

「寄岩ヤード」から北東に40mほどの場所に会津塩沢駅がある。

この駅は前述した只見町「河井継之助記念館」の最寄りだが、約600mも離れている。

肝心の記念館前には一面ホームを設置できるだけのスペースがある。“一駅10億円”と言われる請願駅も、この場所ならばグッと予算は抑えられるのではないだろうか。

私は只見線の復旧を機に会津塩沢駅を移転すべきだと思う。記念館や河井継之助の墓、「第八橋梁 十島ビューポイント」へのアクセスが格段に向上するだけではない。

駅移転で駅舎設置が考えられる場所からの眺望が良いからだ。

これならば、列車の本数が少ない只見線の長い待ち時間も苦にはならならず、観光客の滞在時間が延びると思う。そうすれば、現在冬季休業中の記念館の通年営業や軽食・土産物の提供等、新たな経済効果をもたらす可能性がある。

「只見線利活用事業」を先導する福島県が中心となり、只見町とJR東日本の協力を得て、“会津塩沢駅の移転”を検討して欲しいと思う。

 

 

会津塩沢駅を出ると只見線ー国道252号線ー只見川(滝ダム湖)がしばらく並行する。

その後、只見線は滝トンネル(1,615m)を潜り抜けて金山町に入ってゆくが、国道を進むと只見町ー金山町の境界となる只子沢を渡る。私はこの沢の雰囲気が好きで、トレッキングの好適地なのではないだろうかと思っている。

只見線の滝トンネルは、この只子沢の1kmほど上流部の下を貫いている。

「田子倉発電所建設用専用鉄道工事誌」によると沢床からトンネル工事の地表面下施工面までは14.5mで、トンネルの頂上部までは8.55mだという。

 

只子沢から4kmほど進むと、会津大塩駅に到着。

ここから1kmほどの会津若松寄りに只見線復旧工事2工区のヤードがあった。今年6月15日に復旧工事起工式が行われた場所だ。

ここは「第七橋梁」解体・架橋工事の基地となっているようだった。

 

町道の四季彩橋上から「第七只見川橋梁」があった空間を見る。

会津若松寄り(右側)の橋脚と橋桁が撤去されていた。一年前の写真と比べてみる。

この「第七橋梁」は開放的な上路式から、鋼材が列車を囲う下路式に変更される。

豪雨による水位上昇で橋に被害が出ないようにするための変更だが、車窓からの風景は一変する。今からでも設計変更できないかと思ってしまう。 *「第六橋梁」も同じ。

 

只見川の右岸に渡り町道を進むと、連絡道が整備された作業場があった。

撤去された橋桁が横たわっていた。

  

 

「第七橋梁」から1kmほど進むと、会津横田駅に着く。横田鉱山が操業されていたため、駅周辺は広く、待避線もある。

 

会津横田駅から3.2km先に、会津越川駅がある。


ここで、振り返ると茜色の空に浅草岳の頂上付近の稜線が見えた。沿線や駅周辺のこの紅葉時の様子を見たいと、日没までに会津川口駅に着きたかったが、無理だった。「八十里越 古道」の分岐点を間違っていたのが悔やまれた。

 

 

橋立地区を通過。前方に「民宿 橋立」が見える。その後ろには只見線が通るが、私はこの場所に新駅・会津橋立を作って欲しいと思っている。

 

 

狭く真っ暗な本名スノーシェッドの中を恐怖を感じながら、必死にペダルをこいだ。

その後、直角に左折し、東北電力㈱本名発電所・本名ダムの天端(本名橋)を「第六只見川橋梁」のあった薄暗い空間を見下ろしながら進む。 

 

会津越川駅から6.4km離れた本名駅に到着。復旧区間で一番“まちなか”にあり、周辺に住宅が多い。

 

 

国道に戻り、すでに陽が落ちた暗闇の中を進む。

暗闇に浮かぶ「第五只見川橋梁」を左手に見ながら、西谷の坂を最後の力を振り絞って上る。

 

17:19、会津川口に到着。叶津から26.7kmを2時間17分で走行した。

体力が残っていれば、玉梨温泉「せせらぎ荘」に行こうと思ったが、疲労困憊で断念した。

かつて会津川口駅の近くには共同浴場「玉縄の湯」があったが、只見線運休区間と同じく「平成23年7月新潟福島豪雨」で被害を受け閉鎖に追い込まれた。泉源は枯渇していないと聞いているので、是非復活して欲しいと、この時心から思った。

 

駅前の売店で夕食を入手し、ベンチに座って食べて、列車の発車時刻を待った。

 

19時前に会津若松からやってきた列車が入線し、私は輪行バッグを抱え乗り込む。

19:09、会津若松行きの最終列車が出発。暗闇の中、快調に進んでゆく。

 

20:58、会津若松に定刻に到着。すぐに、連絡橋を渡り、郡山行きに乗り換えた。

 

磐越西線の郡山行きの列車は、下り列車が上戸付近で鹿と接触したあおりを受け大幅に遅れる。

 

22:48、30分以上遅れて郡山に到着。その後、無事に帰宅した。

 

 

只見線を使い「八十里越 古道」の一部を歩く旅は、事前の調査不足で大幅に時間をロスしてしまったが、紅葉が見頃で満足できるものになった。

 

「八十里越 古道」は是非復活させて欲しい道だ。司馬遼太郎の「峠」を読んでから河井継之助のファンになっていることもあるが、今日現地を訪れた事でその思いを強くした。

「八十里越 古道」が復活すれば、只見線を使った旅程として、只見駅(もしくは会津蒲生駅)から大麻平に移動し、「新道」を歩き、木ノ根峠(八十里峠)から「古道」に入り、入叶津目指して歩くコースが考えられる。もちろん、二次交通を考えなければならないが、「八十里越 古道」は素晴らしいトレッキングコースとなり、沿線の観光資源に新たな目玉が加わる事になる。


 

只見線が復旧し全線“再”開通するのは2021年度で、2020年には河井継之助を主人公にした映画も公開予定となっていて、国内外の目が只見線や只見町に注がれる事になる。

 *記事出処:福島民報 2018年9月26日付け紙面より

この機を逃すことなく、多くの人が只見線に乗り只見町を訪れトレッキングを楽しめるよう、「八十里越 古道」の調査・補修が進む事を大いに期待したい。

(了)

 

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*参考リンク:福島県 「只見線の復旧・復興に関する取組みについて」/「JR只見線 福島県情報ポータルサイト

*参考リンク:政府 インターネットテレビ「見どころたくさん 福島に来てくなんしょ!」(2017年1月26日)

 

【只見線への寄付案内】

福島県はJR只見線全線復旧後の「上下分離」経営での維持費や集客・地域振興策の実施費用として寄付を募集中(クレジット可)。

・福島県ホームページ:只見線復旧復興基金寄附金・只見線応援団加入申し込みの方法

 

寄付金の使途は以下の通り。

・お寄せいただいた寄附金は、福島県、会津17市町村や新潟県などで 組織する「福島県JR只見線復興推進会議」で協議の上、只見線の復 旧や利活用促進のため使われます。(「只見線復旧復興基金寄附金募集」チラシより)

・ 寄附金は、只見線を活用した体験型ツアーや周遊ルートの整備、 只見線関連コンテンツの充実化等に活用させていただきます。 日本一と言われるロケーションだけに頼らない観光振興を推進し、 新たな観光収入の増加を図ります。 (「JR只見線企業版ふるさと納税(地方創生応援税制)の御案内」より)

よろしくお願い申し上げます。


次はいつ乗る? 只見線

東日本大震災が発生した2011年の「平成23年7月新潟福島豪雨」被害で一部不通となっているJR只見線は、2017年6月19日に福島県とJR間で「復旧基本合意書」が交わされ、2018年6月15日の復旧工事起工式を経て、2021年度中の全線再開通に向けて工事が本格化しました。ブログでは車窓の風景や沿線の見どころを伝える「乗車記」等を掲載します。

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