昭和村「からむし織の里フェア」 2018年 夏

上布の原料となる「からむし(苧麻)」の本州唯一の産地である大沼郡昭和村。そこで開催される「第33回 からむし織の里フェア」に参加するために、JR只見線と路線バスを利用し現地に向かった。

 

昭和村を訪れるのは、昨年「只見線体験乗車」で矢ノ原湿原を訪れて以来4度目となり、夏は初めてだ。 

3年前、毎年2月下旬に行われる「からむし織の里 雪まつり」に訪れた際に、この「フェア」の事を知り、機会があったら訪れたいと思っていた。*参考:拙著「昭和村「からむし織の里 雪まつり」 2015年 冬」 (2015年2月22日) 

「フェア」は「からむし織」の製造工程の大半を見学する事ができ、“織姫”(からむし織実習生)が製品(着物)を身に着けた姿も見られ、「からむし織」の全体を一日で知る事ができる貴重なイベントとなっている。今年、開催日に仕事の休みが取れ、ようやく参加できることができた。

 

「からむし織」は国の伝統工芸品に「奥会津昭和からむし織」として指定(2017年)された、歴史と地域住民の手による確かな技術を受け継ぐ地場産業だ。「からむし織」の指定より福島県の国指定伝統工芸品は5品となったが、なんと内4品が只見線沿線にある。

    

昭和村内に只見線は通らず、最寄の会津川口駅から約20km離れてはいるが、只見線の振興にも取り組む「只見川電源流域振興協議会」が使用している“奥会津”地域の中に含まれている。そして、只見線の“上下分離”経営では年間維持管理費を毎年負担する予定となっているため、村と只見線は無縁ではない。むしろ、昭和村の自然や産業などのコンテンツは魅力があり、今後只見線との関係は濃密になるのではないかと私は考えている。

特に“本州唯一”の原料の産地という文言を用いる事ができる「からむし織」は、只見線沿線の他3つの先頭に立てる訴求力の高い伝統工芸品ではないかと私は思っている。今回、現地を訪れ「からむし織」の工程を見聞し、その可能性を考えた。*参考:日本麻紡績協会「麻の基礎知識」ラミー(苧麻 )について

   

2008年4月10日に初めて乗車し、今回で只見線の利用が50回目となった。区切りの旅程は、只見線に乗車し会津川口駅まで行き、そこから路線バスに乗り「からむし織の里フェア」会場に向かう。帰りは輪行した自転車で会津川口駅に戻り、二次交通としての可能性を検証した。

*参考:

・福島県:只見線ポータルサイト

 ・NHK:新日本風土記「動画で見るニッポンみちしる~JR只見線

・東日本旅客鉄道株式会社:「只見線について」(PDF)(2013年5月22日)

・拙著:「次はいつ乗る?只見線」カテゴリ ー只見線沿線のイベントー / ー只見線の夏

 

 


  

  

会津川口駅から昭和村行きの路線バスに乗り継ぐため、会津若松駅から始発列車に乗る必要があり、前日に会津若松市に入って宿泊した。

 

今朝、早朝に宿を出て、駅に向かう前に立ち寄ったのが、大町通り(野口英世青春通り)に面し、先月17日に改装・開館した「福西本店」。

1914(大正3)年に完成し、店蔵、仏間蔵、炭蔵は珍しい黒漆喰の外壁で、会津若松市歴史的景観指定建造物の第一号に登録されている。

 

開館セレモニーの様子が地元紙(福島民報)に掲載されていて気になっていたが、電柱地中化されたレンガ通りに建物は映え、見事な景観だった。また一つ、会津若松に人を惹きつけ、滞在時間を延ばし回遊観光を誘起する施設が現れたと思った。次の機会、七日町通りから神明通り周辺、「福西本店」を含めた“歩いて楽しめるエリア”を散策したい。 *記事出処:福島民報 2018年6月18日付け紙面より

 

 

会津若松駅に到着。夏休みを迎えた土曜日ということもあり、早朝にも関わらず人の姿があちらこちらに見られた。

 

駅頭に移動し輪行バッグに折り畳んだ自転車を入れ、改札を通り連絡橋を渡った。只見線の始発列車は入線し、静かにディーゼルエンジンを蒸かしていた。右後方、「磐梯山」の容姿がうっすらと見えた。

6:00、会津川口行きのキハ40形2両編成が定刻に会津若松を出発。

 

  

七日町西若松と住宅街を走り抜け、大川(阿賀川)を渡る。

 

列車は会津平野の田園地帯に入り、会津本郷を出発直後に会津美里町に入り、会津高田を過ぎると北に進路を取りカタコトと進んでゆく。

 

根岸を出発したところで、隣りのBOX席に座っていた高校球児が二人、ぞれぞれ横になり、長閑な光景が見られた。始発のローカル線ならではのものか。

  

新鶴を経て、若宮から会津坂下町に入る。右に目を遣ると、湯川村まで続く田園は緑の絨毯と見紛うほど美しく広がっていた。

  

 

会津坂下で先ほどの球児をはじめ多くの乗客を降ろし、上り列車とすれ違いを行う。上りホームにも多くの高校の姿が見られた。只見線の大半の運賃収入を支える光景だ。

  

7分ほど停車し列車は出発。住宅地を抜け、ディーゼル音を一気に上げて七折峠の登坂を始める。

 

 

塔寺を出て、登坂を終えた頃に開ける“坂本の眺め”(自称)。飯豊連峰は見えなかった。夏のこの時期は気候や空気の関係で見る事はできないか。

列車は会津坂本を過ぎ柳津町となり「奥会津」地域に入って行く。

 

 

その後、会津柳津郷戸滝谷を経て、滝谷川橋梁を渡り三島町に入る。*以下、各橋梁のリンク先は土木学会附属土木図書館(http://www.jsce.or.jp/library/archives/index.html)「歴史的鋼橋集覧


 

 

会津桧原を出発し桧の原トンネルを抜けると、薄紫の鋼製アーチ橋である「第一只見川橋梁」を渡る。

 

正面を見ると、東北電力㈱柳津発電所の調整池である柳津ダム(只見川)上にうっすらと霧が掛かり、意外と“水鏡”も冴え、なかなかの風景を創り出していた。


 

 

会津西方を出るとまもなく「第二只見川橋梁」を渡る。

  

 

列車は減速しながら大谷川に架かるか“アーチ3橋(兄)弟”の長男である大谷川橋梁を渡り、眼下に次男・宮下橋を見ながら進む。

   

7:29、会津宮下に到着。ここでも会津若松行きとすれ違いを行う。

  

 

会津宮下を出発すると、列車は東北電力㈱宮下発電所の調整池である宮下ダム湖(只見川)を脇を沿うように駆け抜ける。

  

一瞬、只見川が視界から消えるが、「第三只見川橋梁」でみたび渡る。

  

車内の様子。

土曜日ということもあり、会津坂下で高校生を中心に大半の乗客を降ろしたが、私が乗る車両の客がゼロになる事はなく、6名の個人旅行者と思われる方が各BOX席を中心に乗り続けていた。

夏休みと「青春18きっぷ」の使用期間となるこの時期、只見線に乗る客は増える事が見込まれる。一人でも多くの方々が沿線に降り立ち、食事や買い物をして、できるだけ長く滞在して欲しいと思った。

 

  

滝原トンネルを抜けると“早戸俯瞰”と呼ばれる只見線の撮影点となる明かり区間を走り、列車は早戸トンネルに入る。 *下、写真は最後尾車両から撮影

  

早戸トンネルに直結したような早戸を出発すると金山町に入り、細越拱橋(めがね橋)を渡る。開放的な景色が広がった。

 

早戸から只見川が左側となるため、乗客の多くは左のBOX席に移動し、景色を眺めていた。

  

会津水沼に到着すると古びた枕木が積まれていた。コンクリート製への交換作業の基地となているようだ。

先月28日に国の運輸安全委員会が国土交通大臣に枕木の木製からコンクリート製への転換を促す提案書を提出した。全国で頻発する木製枕木劣化による脱線事故の対策のためだ。ただ、ここでの工事はそれ以前から始められており、安全対策に対するJR東日本の動きの早さが際立っている。 *参考:運輸安全委員会事務局「ダイジェスト28号」(平成30年6月28日発行)

 

 

会津水沼を出ると、まもなく「第四只見川橋梁」を渡った。下路式トラス橋のため、鋼材が視界に入り、開放感に欠ける。

ただ景色は、上田ダムから近いということもあり只見川の水深が浅く、今までとは違い水面に波が立ち趣きあるものとなり、車窓から目は離せない。

    

橋を渡り、国道252号線と平行する500mほどの区間は只見川を眼下に見る事になるが、電線地中化と木々の枝打ち・伐採が行われればもっと良い景色になるのに、と思ってしまう惜しい場所となっている。

東北電力㈱上田発電所と調整池の上田ダムを過ぎ、会津中川手前までの区間にも、“景観創出”をすれば、車窓からの楽しみが増す場所がある。復旧工事と並行して進められる福島県の「只見線利活用促進計画 重点プロジェクト」に入っている“奥会津景観整備”で、この区間の景観創出が為されることを期待したい。 *参考:拙著「復興推進会議検討会 “9つの重点プロジェクト”」(2017年12月28日)

   

 

列車は大志(オオシ)集落の中を通り抜けると減速し始め、只見川(上田ダム湖)上に巨大な偉容を映す上井草橋を見ながらゆっくりと進んだ。

 

 

 

8:01、終点の会津川口に到着。県立川口高校の生徒など15名程が降りる。観光客はホームの目の前に広がる只見川(上田ダム湖)に向けシャッターを切っていた。

 

ここから先、只見までが「平成23年7月新潟福島豪雨」被害による運休区間で、現在復旧工事が進められている。

  

駅構内に入り、金山町観光物産協会が運営する売店に設置されている“Youはどこから?”ボードを見る。

台湾からの観光客が群を抜いて多いが、よく見るとイングランドの欄に男性一人を示すシールが貼ってあった。過去の写真を見ると今年の5月22日には既に貼ってあった。ソロで訪れたのか、多国籍のグループで訪れたのか興味が湧いた。

 

 

駅舎を抜けると、駅頭には只見駅行きの代行バスが付けられていた。列車から降りた客が乗り込んでいた。

 

私はここから会津バスの路線バスに乗る。出発時間まで駅周辺を見てみた。すると駅の西側に真新しい建物があり、「みんなのトイレ」と看板が掲げられていた。

 

中に入ってみると、外観同様に木材を多用した内装で、駅構内のトイレより広々していて、男子トイレの便座は二つとも洋式で、内一つはウォシュレットや便座ヒーターまで付いていた。

インバウンド(外国人旅行者)にとってこのトイレはありがたいだろう。ただし、駅構内に目立つ案内は無く、せっかくの施設が活用されないのではないかと心配した。 →「みんなのトイレ」は今年3月24日から供用開始

  

この「みんなのトイレ」の隣に、入口の戸の内側がカーテンで閉じられた建物があった。薬局だったようだ。空き家だろうか、人気は無かった。仮に空き家ならば、この建物をリノベーションできないかと思った。

只見線の復旧後も会津川口駅は始発着の駅となり、昭和村の入口である事もあり、このような滞在施設が駅直近に必要だと私は思っている。特にインバウンドを意識した場合、2000円程度で雨風を凌げる宿泊場所は欠かせない。金山町には駅周辺の空き家の調査をして、家主の同意を得て、その可能性を探ってもらいたいと思った。

 

 

バスの出発時間が近づいたため、駅頭のバス停に移動。

 

昭和村(大芦地区)までの路線バスは1日3往復。3本とも会津若松からやってくる只見線の列車に連絡している(15~35分)。但し、中通りの郡山駅を始発(磐越西線5時55分)で出て、会津若松駅で乗り継いで会津川口駅に到着(9時39分)する列車に連絡するバスは、残念ながら無い。

   

 

 

出発時刻にバスがやってきた。

 

8:24、私を含め3人の乗客を乗せ、路線バスは出発。

      

バスは国道400号線を南東に、野尻川に沿って進んでゆく。途中、乗降客は無かった。

      

出発から30分とかからず、会場前のバス停(下佐倉)に到着。料金は1000円。

往復すると2000円となり、土日休日に郡山から只見まで往復可能な「小さな旅ホリデーパス」の料金(2670円)を考えると、かなり割高感がある。只見線利用の観光客を昭和村に誘うには、二次交通としての路線バスの価格設定も検証・検討が必要だろう。

現在の1000円という金額を考えると、只見線乗車とセットにした割引乗車券は会津バスも見通しの立たない投資となり抵抗があるだろう。まずは恒常的なツアーを企画し、只見線→昭和村という流れを作り、これが認知されることで個人客が増加する傾向が現れた段階で価格設定するというのはどうだろう。もちろん、只見線→昭和村→南会津町→会津鉄道というツアーの設定もありで、この場合は旅のプランの幅も広がり、観光客への訴求力も増すだろう。

昭和村には魅力的な観光コンテンツが多いだけに、『鉄道を使って昭和村に行けるのだ』という文化を創り、只見線の乗客が路線バスを二次交通として抵抗なく選択できるようになることを願う。

 

 

 

同じく降りた他2人の乗客と前後して、フェア会場となる「道の駅 からむし織の里」に向かった

 

開会式前ということで、スタッフ以外の人出は少なかった。

 

私は、会場には入らず建物手前にあった「世界の苧麻園」を見た。今まで存在に気付かず、初めて見る事になった。

スペースは広くないが、64種の苧麻が二列の区画に植えられていた。茎高は一様でなく、葉や茎がそれぞれ違い、各地の苧麻を楽しく見比べることができた。

    

昭和村のからむしは、実際と同じように垣囲いされていた。“見学会”でじっくり見る事ができるので、写真撮影だけにした。

 

沖縄県(石垣島)のからむしもあった。国内二箇所のからむし(苧麻)生産地のもう一方だ。原料は1.5mほどに成長したものを使用するという。

 

福島県在来のからむしは、雑草にしか見えなかった。何が“お宝”になるかわからない。

 

この茎でも、質の上下はあるものの、糸となる繊維は採れるのだろう。自然の奥深さとそれを利用してきた人類の知恵に感嘆した。

   

次は「からむし工芸博物館」に入った。今日、入場は無料だった。

 

入口の正面には国指定「伝統工芸品」決定を知らせるコーナーがあった。

受付に行くと、係員からDVDの鑑賞を勧められ、一人で5分程度のからむし織の概要がまとめられた映像を見た。この映像を見るのは2度目だが、「からむし織」の知識が増えているので、また違ったように見えた。

  

その後は、順を追って展示物を見ていった。

 

各地の乾燥からむしの展示。触れる事ができた。

 

それぞれ太さやコシの違いはあったが、昭和村産は柔らかさと光沢が勝っているという印象を受けた。 

 

この昭和村産のからむしが「小千谷縮」になる。上布というだけあって、触り心地が良く、『良い生地だなぁ』と感心した。

  

次に目を引いたのは、「昭和村の風土と暮らし」というジオラマ。以前の訪問で見たという記憶がない。今回は、からむし織への関心が高まっていたため、見入ってしまった。

 

これから参加する見学会でのイメージが湧いた。模型の素晴らしさを思った。

 

今回は見られない、冬場の「雪晒し」もあった。

 

実際にはこのようになる。

「雪晒し」についても、「からむし工芸博物館」のホームページに詳しい。以下引用する。

(引用)根雪が堅雪となる頃、晴れた日を選んで雪原に水で濡らした布を並べ、雪晒しを数日間行います。これは不純物を取り除き、しなやかに軽く、そして白くする作業です。

   

 

 

「からむし工芸博物館」の見学を終え、向かいにある「織姫交流館」に移動し、「からむし織」の室内工程の実演を見学した。

   

まずは「糸づくり」の「苧績(おう)み」と呼ばれる作業。「からむし引き」によって取り出され乾燥した繊維を細かく裂き、糸を繋いでゆく。

繊維の一本一本を指で裂いて繋ぐという、“神業”というべき熟練の技だ。植物が上布の糸に昇華する瞬間に、私は感心すると同時に感動した。ちなみに、 帯一本分の糸を作る(苧積み)には2ヶ月程かかかるという。

  

次は、「糸作り」の次の工程となる「撚りかけ」。おぼけ(苧桶)と呼ばれる丸ワッパ(今回はプラスチック製のたらい)にためられた糸を取り出し、湿らせてから糸車で撚りをかけてゆく。

この撚りで、糸は丈夫になり、「糸づくり」は終わる。

  

最後は「織り」。地機による手織りにより、糸が反物に仕上がってゆく。

からむしから紡ぎ出された糸は繊細であるため、織りには高度な技術が必要とされるという。

昭和村では、着尺(反物)、帯、小物等が生産されていて、染め工程や着物の生産は「越後上布・小千谷縮」の産地である新潟に委託している。

  

 

製品も展示されていたが、撮影するのを忘れてしまった。*以下、以前に撮影した写真

 

染められた着尺や、絵付けされた着物は新潟で染められ、加工されたものだという。

 

小物も型が必要なものは、現在、昭和村では作る事ができないという事だった。

   

 

 

10時を回り、特設ステージでは開会式が行われた。村長や商工会長など村関係者の他、近隣自治体の首長の姿もあり、姉妹都市・草加市の市長も祝辞を述べていた。

 

開会式の中で、特に私の目を引いたのが、昭和村のマスコット「からむん」。

この炎天下の中、身動き一つせず屹立するその姿と中に居るスタッフに頭が下がった。容姿は愛らしいが、仕事に忠実な、根性のあるゆるキャラだと思った。

   

 


「からむし畑・かすみ草畑見学ツアー」の時間が近づいたため、バスに向かう。スタッフが二分割されたマグネットを側面に貼っていた。

10:30過ぎにバスは出発し、国道400号に入り、喰丸郵便局を右折し国道401号線を南会津町南郷地区方面に向け進んだ。 

  

途中、今年7回目を迎える「奥会津ロックフェスティバル」の会場となる奥会津昭和の森キャンプ場の入口に停車。何事かと思ったら、同乗していた村職員が『ここに戊辰戦争で亡くなった会津藩士の墓があります』と説明した。*右側、「会津藩戦士二人之墓」と刻印されていた。

戊辰役・会津戦争では奥会津も戦地となり、ここ昭和村も「矢ノ原湿原」と「大芦」で戦闘が繰り広げられた。「戊辰150周年」となる今年は、このような戦地を訪れる人が増えているようだ。ここで停車することを決めたスタッフに感謝するともに、是非、観光客が昭和村まで足を伸ばして欲しいと思った。 *参考:JR東日本「トランヴェール 2017年11月号」/会津若松市「戊辰150周年記念事業」/拙著:「新幹線の中の只見線 2017年11月」(2017年11月25日) 

  

 

 

約10分で、からむし生産の盛んな大芦地区(旧大芦村)に到着。バスを降りて、皆で畑に向かった。

 

からむし畑は萱垣で囲われていた。

 

からむし畑がこの状態になるまでには、3つの段階がある。 

*以下引用:昭和村「からむし織について ~からむしの基礎知識~

「植付」
からむしは、雪がとけ5月中旬頃からむしの根を植えますが、 1年目は雑草を取り除く程度で、2年目以降にからむし焼をおこない、3年目から収穫ができるようになります。

「からむし焼き」
からむし焼きは、旧暦4月の中の日(5月21日の小満の日)を目安に行っています。これは、からむしの発芽がばらばらなので、先に出た芽を焼くとともに根に刺激を与えて一斉に発芽させるために行います。
また、害虫の駆除や焼いた灰を肥料にする意味もあります。からむしの栽培が最も盛んだった大正以前には、村中で火がつけられ、夕空をこがして壮観だったようです。

 *写真出処:只見川電源流域振興協議会「奥会津だより

 

「垣結い」
からむし焼き・施肥を終えた後、からむし畑の周囲に杭を立て、棒ガヤ(カヤ)で垣を作ります。 これは風で倒れたり、擦れ合うのを防ぐためと、獣の侵入を防ぐために行われます。 こうして囲われたからむしは静かに成長していきます。

   

以上の作業を経た畑の前に着くと、実演のために「垣結い」が一部取り払われた場所で、二人の説明員が出迎えてくれた。

舟木由貴子さん(からむし生産技術保存協会、織姫10期生)と皆川吉三さん(同、大芦地区の生産農家)だ。

 

見学者全員が揃ったところで、舟木さんの進行で説明が始まった。

  

まずは「刈り取り」の実演。刈り取りは一本ずつカマを使って行う。からむしの刈り取り時期は、7月20日前後からお盆まで。この時期に収穫すると、品質の良い繊維が取れるという。

 

地上から20~30cmのところを刈るという。根元は茶色くなり固いためだ。

 

一見、全て同じように見えるが、からむしには大人子供の区別があるという。大人は「親苧(おやそ)」と呼ばれ、節が多く葉が根元の方まである。子供は「かげ苧(かげそ)」で、茎は細く節はほとんど無く、上部にわずかに葉を持つ。

「越後上布」や「小千谷縮」の原料となる最上級品は「かげ苧」から取り出され、「親苧」は着物買いの小物(帽子やバッグなど)の材料となるという。

 

「刈り取り」は、「親苧」と「かげ苧」を区別しながら行われる。出荷時の品質にも影響するため、刈り取りとは言え、区分しながら一定の速度で行い、更に「引き」の際に表皮と繊維を分け易いように切り口を斜めにする。経験と技術が必要な作業だ。

  

刈り取られたからむしは、茎から葉が落とされ束ねられる。

  

そして、尺棒と言われる定規で一定の長さに切り揃えられる。 

・「かげ苧」は1.15m(3尺8寸)

・「親苧」は1.27m(4尺2寸)

 

年季の入った尺棒。右先端に段があり、低い方が「かげ苧」の丈になる。

 

切り揃えられたからむしの束を間近で見る。一方の切り口が斜めになっている事が確認できた。流れるような作業の中でのこの仕上がり。匠の技だ。

   

「刈り取り」が終わると「浸水」となる。皮を剥ぎやすくするため、数時間から一晩ほど清水に浸す。この工程は見学ツアーに入っていなかった。

 

からむしの生産は、この大芦地区が盛んで、周囲を見渡すと青いネットで「垣結い」された畑が見られた。

今回見学した畑は1a(100㎡)で、ここから800匁(約3kg)収穫できるという。200匁で一反(着物一着分)なので、品質を問わなければ、1aの畑から四反を作る事ができる事になる。

 

 

  

畑での見学はここで終わり。次の工程を見るために、国道の反対側にある作業所に徒歩で移動した。

作業所に到着すると、二人の女性が並んで「からむし引き」を行っていた。

皆川さんの奥様・アサノさんと“織姫研修生”だ。

  

「からむし引き」は「からむし剥ぎ」を経た表皮を、苧引き具で外皮を引いて除き、繊維を取り出す作業。力加減が難しく、二人の差(経験の差)は歴然だった。

 

アサノさんは、リズムよく迷いない手さばきで苧引き具を動かしていた。

 

引き終えた繊維は何とも言えない光沢があった。この光沢をキラといい、熟練者ほど美しいキラが出せるという。

  

引き出された繊維は「乾燥」の工程に進む。二日ほど陰干しして乾かし、100匁(約375g)にまとめられ、出荷用は日にあてないよう保管される。

 

前後したが、この「からむし引き」の前に行われる「からむし剥ぎ」が畑から戻ってきた皆川さんによって実演された。

清水に浸したからむしを、一本ずつ皮を二枚になるように剥ぐ。 

 

その後、剥いだ皮を一握りくらいに束ねて、からむしから出る青水(青汁)を流し、皮を乾燥させない為に清水に再び浸す。この工程を経たからむしの表皮が「からむし引き」される。

  

 

これら作業は男女で役割分担されているという。

畑の作業から「からむし剥ぎ」までが男性で、「からむし引き」から織姫交流館で見た「苧績み」「撚りかけ」「からむし織」が女性の作業ということだ。もちろん「織姫・彦星実習生」は全て行っている。*参考:東北経済産業局「みちのくの匠」 奥会津昭和からむし織の製法や工程について

 

 

以上、畑から糸になるまでの工程の大半となる見学ツアーは終わった。

福島県、会津地方の村で600年にわたり受け継がれてきた「からむし織」の一連の作業を見て、『残すべき』ものである事を確信し、『人を惹きつける』ものである事を再確認した。

 

からむし畑の次は、昭和村の“稼ぎ頭”であるカスミソウの畑に移動した。*参考:昭和村「日本一のかすみ草の産地」URL:https://www.vill.showa.fukushima.jp/introduction/367/

国道から北西に延びる細い道に入り、バスは坂を上ってゆく。そして、一転、下り坂となり、平坦な場所に出ると、左に矢ノ原湿原が見えた。

前回は紅葉の全盛期に訪れたが、深い緑に囲まれた湿原も良かった。 *参考:拙著「昭和村「矢ノ原湿原」2017年 紅葉」(2017年10月21日) 

ここは高い位置あるため軽量のロードバイク以外、自転車での移動は難しい。輪行できるロードバイクを手に入れる事ができたら、「駒止湿原」も含め、夏の湿原巡りをしたいと思った。

 

 

  

バスが、矢ノ原湿原の駐車場に到着。ここで降りて近接するハウスに移動する。昭和村のカスミソウは露地ではなくハウス栽培だという。

ハウスはそれぞれ違う生育度で、丈も葉ぶりも違っていた。ちなみに、このハウスは雪の降る前に解体して、雪融け後に再度組み立てるという。豪雪地帯ならではの手間だ。

 

これから花を咲かせ出荷となるカスミソウが並ぶハウスの前で、生産農家の方から説明を受けた。

昭和村のカスミソウは、夏秋季の国内シェアNo1で、仙台から沖縄まで広範に出荷されている。「雪室」を経たカスミソウは日持ちがするため人気で、この時期に東京の店頭に並ぶ6割が昭和村産だということだ。私が東京に居た時、知らずに昭和村産のカスミソウを手に取っていたかもしれない。

生産者は農協(JA会津よつば)に「かすみ草部会」を作って、加入者はお隣の柳津町や三島町を含め71軒だという。昨年は358.9万本を出荷し、売上は4.1億円に達したという。

 

畑の見学を終えると、作業小屋で、カスミソウのおすそわけがあった。

「からむし畑・かすみ草畑見学ツアー」は、これで全ての予定が終わった。

  

 

12時前にフェア会場に戻ると、来場者は増えていた。

まもなく今期の“織姫”による「からむし織着物ショー」が始まった。

 

一人一人壇上に上がり、司会から着物の説明があり、最後は4人全員がステージに並んだ。

 

続いて、撮影会となる。特設テントの裏に移動した。

  

涼やかな空気が着物を纏った“織姫”を包んでいた。「からむし織」の力に感動する。

 

進行役の指示で、皆後ろを向く。帯の特徴が分かり、華やぐとともに一層凉を感じた。

  

場所を移動し、日なたで撮影する。「からむし織」の着物は、強い陽射しをやんわり反射し、周囲を颯爽とした雰囲気に変えていた。「からむし織」は夏の和装の極みという印象を受けた。

「からむし」は中空の繊維構造を持ち、水分の吸収・放出が早く、着ると涼しく感じるというが、見ている方も涼しさを感じる「からむし織」の能力の高さに感嘆した。もっと広く知られ、多くの人に手に取って欲しい工芸品だ。 *参考:「広報しょうわ 2018年6月号」(PDF) URL:https://www.vill.showa.fukushima.jp/uploads/2021/03/201806.pdf

     

これで、「からむし織の里フェア」で見学を予定していたのイベントは終わった。

とても充実した時間だった。また来たいと思うし、「からむし織」の工程の大半が見られる貴重なこの「フェア」に一人でも多くの方に足を運んでもらいたいと思った。 

*参考Web:㈱良品計画「ローカルニッポン」からむし織の里/福島県大沼郡昭和村 / ㈱Wasei「灯台もと暮らし」【福島県昭和村】だいじなのは、ここでの「いとなみ」が変わらずに巡っていくこと。からむし布のこれからを探りながら。/ mima㈱「大人すはだ」 シルクを超える繊維? 福島県昭和村のからむし作りの流れ(2015年9月16日)

   

 

 

会場から、輪行してきた自転車を使い「道の駅 からむし織の里」を後にした。

まずは、国道400号線に入り、会場から東に約2kmの位置にある旧喰丸小に向かった。

 

緩やかな上り坂を5分程進むと、左手に真新しい看板が見えた。

    

12:28、旧喰丸小学校に到着。3度目の訪問となる。

今年の4月にリノベーション(改修)が終了し、交流・観光拠点施設「喰丸小」としてオープンした。屋根が葺き替えられ、窓枠などが新調されていたが、雰囲気は失われていなかった。

 

地元紙でも取り上げられたいた。*出処:福島民報 2018年4月26日付け紙面より

  

正面に近づきよく見ると、校名板が無くなっていた。

今日ここでは「喰丸小芸術祭」が開かれて、入口の支柱には幟が付けられ、来場者の靴が玄関に並んでいた。

   

脇の建物はCafeに生まれ変わっていた。蕎麦カフェ「SCHOLA」という。「SCHOLA」はラテン語で“学校”という意味。

    

「喰丸小」の象徴である大銀杏の根元にはタープが設置され、「奥会津ロックフェスティバル」(来月25日)のウェルカムパネルがあり、来場者の“一筆”を促していた。

リノベーションされた「旧喰丸小」の外観の確認を終えた。次回は内覧し、隣のカフェを利用したい。

     

12:33、「旧喰丸小」を後にして、約23km先の会津川口駅に戻る事にした。

昭和村と只見線の最寄り駅・会津川口間の標高差は約330m。大半が下り坂となる道の様子を確認しながら、昭和村から只見線の会津川口駅まで自転車の二次交通としての可能性を考えようと思った。

   

国道400号線を北西に進んだ。昭和村のメインストリートは緩やかに下っていた。

   

途中、国道沿いに「奥会津」のモニュメントを見る。

“歳時記の郷”とは、「只見川電源流域振興協議会」が使用している「奥会津」の枕詞で、只見線関連でも“歳時記の郷”はよく見かける。  

  

三島町に抜ける林道入間方・不動沢線の入口近くにある「酒井とうふや」を過ぎ、野尻川の河段段丘に広がる緑稲の田を見ながら進むと、左の低山の斜面に村営スキー場跡が見えた。

   

また少し進み昭和温泉「しらかば荘」の前を通り過ぎた。先ほどのスキー場跡はここから近い。温泉宿泊施設と廃スキー場を組み合わせ、賑わいを創出できないかと考えた。

  

野尻地区に入り野尻川沿いを進むと、鮎釣り人の姿があった。

   

 

13:04、三連の松山スノーシェッドが現れた。ここを抜けると松山地区になる。

会津川口駅までは、八町ロックシェッドを含め、このようなシェッドが11基ある。

   

松山地区の五十嵐商店前にあった自動販売機でスポーツドリンクを補充し、直線を進むと間もなく、良い雰囲気の場所に着いた。

野尻川の川床が見え、前方にはアバランチシュート(雪崩路)を持つ低山を眺められる。ここにエイドステーションを設ければ、良いアクセントになる。水量・水勢が安定していれば川遊びという付加価値も付けられるだろう、と考えた。

  

緩やかな下り坂は続き、野尻川も渓谷美を増してゆく。

 

野尻2号橋から上流を眺めた。


    

 

 

13:20、昭和村から金山町に入る。

   

廃墟となった地元建設会社の資材置き場の脇を通り過ぎると小綱木橋を渡る。橋上から乞食岩を眺めた。

この景勝地と使われなくなった資材置き場。サイクリストだけではなくドライバーも利用できるような空間に生まれ変わらせる可能性を感じた。

   

718mの玉梨スノーシェッドを抜けると玉梨地区に入った。青ばととうふで有名な「玉梨とうふ茶屋」の前を通り過ぎる。

次に訪れる際は、「玉梨とうふ茶屋」と「酒井とうふや」の豆腐を肴に、花泉などの地酒を味わいたいと思った。

   

 

 

13:35、野尻川沿いに「せせらぎ荘」が見えた。

 

国道を左折し朱色に塗られた弁天橋を渡り現地に向かう。

   

13:39、金山町温泉保養施設「せせらぎ荘」到着。予定より30分早く、疲労を感じず着く事ができた。急いだわけではなく、下り坂の効果を実感した。「せせらぎ荘」は2年前(2016年9月25日)に改修されている。

  

玄関に入ると、元気で爽やかな女性従業員の出迎えを受け、一般料金の500円を支払い館内に入った。すぐに男湯に移動。更衣室も広く、清潔感があった。物品の一部は県産材利用され「平成28年度森林観光交付金事業」(PDF)に採択されている。

   

温泉は二種類。低温の炭酸温泉(大黒湯)と高温の赤茶の温泉(玉梨温泉)だ。

玉梨温泉は、只見線沿線にある「大塩温泉 共同浴場」に近い湯質と感じた。温度が高いため、長くは浸かれなかった。

天然サイダー温泉”こと大黒湯は、圧巻だった。浸かると、まもなく体が炭酸のつぶつぶに覆われ、感動した。湯温は低い為、長めに浸かる事ができたが、体がジンジンと温まってゆくのが実感でき、また感動した。大黒湯は眼で、耳で(炭酸がはじける微音)楽しめ、全身が温められる稀有な温泉だ。是非、多くの人に浸かって欲しい。

◆玉梨温泉
泉質:ナトリウム-炭酸水素塩・塩化物・硫酸塩温泉
源泉:45.9℃
◆大黒湯(天然炭酸温泉)
泉質:含二酸化炭素-ナトリウム-炭酸水素塩・塩化物・硫酸塩温泉
源泉:36.8℃

  

14:31、温泉にゆっくり浸かり、休憩所で汗を引かせてから「せせらぎ荘」を後にした。

  

国道を進むと、まもなく坂井集落の坂になった。傾斜はきつく、私は自転車を押した。

結局、昭和村からの道で、この登り坂が一番の難所だった。道のりの大半は、私の小径折り畳み自転車でも負担無く、快適に移動できることが分かった。

   

 

 

“坂井の坂”の頂点からの下り坂を気持ちよく下り、住宅地に入りしばらく進むと前方に只見川が見え、駅に通じる最後の下り坂になった。

  

14:56、会津川口駅に到着。途中「せせらぎ荘」に滞在(52分)し、23kmを2時間24分で走り抜けることができた。


私は、今回の旅を通して「会津川口駅→(車:路線バスや送迎バス)→昭和村観光→(レンタル自転車:ロードバイクorマウンテンバイク)→会津川口駅」という二次交通の形がベストだと思った。会津川口駅から昭和村の中心部までの約20kmを自転車で行くのは無理ではないが、慣れていないと疲れだけが残り、自転車に乗っただけで終わってしまう可能性があるからだ。

往路に車(路線バスなど)を利用すれば、自転車に慣れていない観光客も過度な疲労を感じず、復路で昭和村観光と野尻川沿いの自然美をサイクリングで楽しむ事ができるのではないだろうか。何より、途中に昭和温泉、玉梨温泉、八町温泉があり、「せせらぎ荘」では“天然サイダー温泉”という貴重な温泉に浸かる事ができる。

この場合、レンタル自転車の移動(会津川口駅→昭和村)が発生し、金山町と昭和村、自治体を越えた連携が欠かせなくなる。観光客に自治体の境界線は関係無い、ということを考慮すれば、只見線を核に人の流れを創造し定着されるという目標を共有し、金山町と昭和村は、まずは事務担当者レベルで話し合い、施策(レンタル自転車の移動(共同運営))へとつなげて欲しい。会津川口駅~昭和村間にその二次交通を設ける価値はある、と私は思っている。

   

 

 

会津川口駅到着後、駅頭で自転車を折り畳み、輪行バッグに入れ、駅前の売店で買い物をした。

その後、構内を通りホームに向かい、入線していた会津若松行きのキハ40形2両編成に乗り込んだ。

 

ホームには、小さな「キハ40形」がプランターとしてあったが、改めてこの角度から見ると、只見川を背景に雰囲気があり良いと思った。

   

15:27、只見駅からやってきた代行バスから多くの客が乗り込み、列車は定刻に会津川口を出発。車内は、全てのBOXが占められ、混雑した。

只見川越しに大志集落を見ながら、左に大きくカーブし帰路の列車旅が始まった。 

 

席は往路とは逆側、進行方向の右側に座り、各橋梁からの景色を見ようと思った。

   

会津中川を過ぎ「第四只見川橋梁」を渡った。

   

会津水沼を経て、細腰拱橋(めがね橋)を渡った。

   

三島町に入り、早戸に停車する前、車窓から豊富な水を湛え、活火山・沼沢の外輪山に向かって曲線を描いている只見川が見えた。

    

早戸を出発し早戸トンネル、滝谷トンネルを抜けると「第三只見川橋梁」を渡った。

  

会津宮下で複数の客を乗せ、「第二只見川橋梁」を渡った。

橋梁では唯一電線が並行して架かっている。山間にスゥーっと延びた只見川を臨む車窓からの景観を損ねないためにも、架線に工夫をしてもらいたいと思う。

 

会津西方を経て名入トンネルを抜けると、直後に「第一只見川橋梁」を渡った。

これで只見川の橋梁区間は終わり、列車は会津桧原を経て柳津町に入り、順調に進んだ。

 

  

七折峠を越え、会津平野を進み会津坂下町から会津美里町に入ると、西部山麓との間に広がる田園を眺めつづけた。こちら側の田んぼの風景も良いと思った。

  

 

17:19、列車は定刻をわずかに遅れ、終点の会津若松に到着。私は磐越西線の列車に乗り換え、郡山に戻った。

    

 

 

無事に郡山に到着し駅舎を抜けると、土曜日の夕方ということもあって、駅前は多くの人の姿があり、賑わっていた。

   

 

夏の昭和村の旅が、無事に終わった。

全国的な暑さは奥会津も例外ではなく、強い陽射しと熱波を浴びながらの旅となった。だが、「からむし織」の実工程などを見る事ができ、「からむし織」の可能性を痛感できた実り多い旅だった。  

只見線の最寄り駅から車で30分程、サイクリングでも訪れる事ができる昭和村の「からむし織」は認知度が上がれば、観光客を呼び込み滞在時間の増大に大きく寄与すると私は思った。

 

しかし、福島県で二番目に少ない人口1200人ほどの主要街道から離れた村は、この貴重な工芸品とそれを取り巻く文化と人の交流を守り、後世に伝えてゆくためには単独では限界があると思った。会津地方や福島県などの、広域行政機関の関わりが必須だ。

只見線の一部経営に携わる福島県と復旧費用と年間維持費を搬出する会津17市町村は、この「からむし織」の価値を高め、国内問わず国外へ周知させ、「からむし織」に関わる人口を増やして欲しいと思う。「からむし織」はそれに耐え得るだけの魅力と訴求力がある。

 

「からむし織」への関心が高まり、現地を訪れたい観光客が増えれば、只見線を使った導線の認知も上がり乗客増につながる、と私は今回の旅を通して確信した。 

  

  

【「からむし織」についての私見】

(1)着物までの一貫生産で、顧客と直接結び付く

からむしの生産が始まった中世から、昭和村(旧野尻・大芦村)は新潟県(旧越後国)の「越後上布」や「小千谷縮」の原料供給地だった。1975(昭和50)年に小物の製作を始めるが、現在でも着物などの製作は「越後上布」「小千谷縮」の産地である新潟県の業者に依頼しているという。昭和村にインフラ(工具)や技術(者)が無いためだ。帽子など型を必要とする小物も同じだという。生地の「染め」に至っては、染め師が一人しかおらず、昭和村から染めの依頼をしても「越後上布」「小千谷縮」が優先されてしまっている。

「からむし織」を専業として生計を立てられる産業に育てるためには、この「越後上布」「小千谷縮」の産地と協業し、「からむし織」の需要を喚起し受注を増やす方法も考えられるが、県を跨ぐ連携となり、売上の分配など越えるべき課題は多く深いと思われる。

さらに、製品を受け取る顧客と結びつかないと、生産者のモチベーション向上の契機が失われ、値付け・価格交渉などと言った利益に関わる部分での主体性が失われ、自立産業として成り立たないだろう。

私は、昭和村で着物までを一貫して生産できる体制を目指すべきだと思う。現在㈱奥会津昭和村振興公社が中心となり、“一貫生産”の道を進んでいるというが、広く知れ渡ってはいないと思う。『展示品があるので、昭和村で全てできるのでは?』と勘違いしている方も多いのではないだろうか。

「からむし織一貫生産」体制の構築に向けて、現在の昭和村の能力(からむし反物生産可能数量、現在制作可能な品物、からむし織への関与人口など)を可視化し、一貫生産に向けて必要な能力を挙げ、達成までのロードマップを作製するべきだと思う。

そして、このロードマップを元に、昭和村は予算化し、補助金や交付金の申請に奔走し、一般寄付やクラウドファンディング受け入れ、資金を得て実現してゆく。

着物までの一貫生産で、顧客と直接結び付くという理念の下、ロードマップで周知し、多くの人を巻き込みながら、自立産業に育てて欲しいと思う。

 

(2)富裕層をつかむ

「からむし織」の着物は高い。絵付けが入った着物は300万円もするという。この着物を作るために糸作りに2年かけ、仕上げるまでに人手をかけると、割りに合わないのが現状だという。

この課題を克服するためには、受注を一定程度確保し、インフラを整え人員を確保するという生産体制を築き上げなければなならないが、時間が掛かってしまう。

私が知った昭和村の現状では、購買力のある富裕層をつかむ事が良いと思う。

土からからむしを育て糸を作り着物を織る、という昭和村の「からむし織」に理解を示し魅力を感じ、それだけの金額を支払える富裕層相手に、昭和村品質を落とすことなく製作する。

この富裕層は国内に留まらず、例えば灼熱の太陽が照り付ける中東の石油資産家など、「からむし織」の特性を発揮できる海外も対象となる。この場合、商社の繊維部門に話をもってゆき、販路を探るという方法が挙げられる。

このように富裕層に「からむし織」ファンを作り上げられれば、昭和村の「からむし織」産業を計画的に自立産業への育て上げられるのではないだろうか。

 

(3)人材育成

現在、「からむし織実習生(織姫)」の中には、修了後も昭和村に残り、「からむし織研修生」として生活している方も多いという。彼女達は公社から出るの給与(10万円程?)とアルバイトをしながら生活をしているという

これでは生活が不安定で、将来にわたって「からむし織」に対する熱意とヤル気が維持できず、人材は離散(転居)してしまう。

“卵が先か鶏が先か”の議論になるが、人材は宝。まずは、現在定住している実習修了生が「からむし織」に集中し、自立して生活できるような給与体制が必要だ。

では、その原資だが、私は「スポンサー制度」を提案したい。「からむし織」産業全体を、織姫(彦星)その人本人を、それぞれ応援したいという企業や個人がそれぞれに寄付する。寄付を受けた側はユニフォームにその企業名などを入れたり、企業などが運営するSNSに求められる現地・現場情報をアップするなどする。また、返礼や“スポンサー優待”などと称して、定期的に村に招待しもてなす。産業全体や個人(織姫・彦星)の技量や情報発信力を上げる事でスポンサー料が上がり、インセンティブにもなる。

「スポンサー制度」の下、自立できる給与体系が確立されれば、“彦星”(男性のからむし織実習生)の応募も増え、男性女性の分業で成り立っている昭和村のからむし生産が存続可能になるだろう。

 

[県立川口高校に伝統工芸科を新設を!]

人材育成について、もう一つの提案。

知識・技術をスポンジのように吸収する若年層が「からむし織」に興味を持つのであれば、知識・技術伝承の機会を持てる場で大いに学んで、その道を進んで欲しいと思う。

私は金山町の只見線会津川口駅徒歩圏にある福島県立川口高校がその場として適していると思う。専門性を出せる高等学校であり、同じ伝統工芸品である「奥会津編み組細工」の産地である三島町と昭和村の結節点で、地理的に合理性があり、更に川口高校は学区外入学を認めていて、県内外から伝統工芸品に関心のある生徒を集める事ができるなど、理由は多々ある。私が参考にしたのは、2002(平成14)年に道立高校分校から独立した北海道おといねっぷ美術工芸高校(音威子府村立)だ。

現在、川口高校は定員40名の1学級だが、昨年までは2学級80名の募集をしていた。“伝統工芸科”を新設する施設のキャパシティは問題ない。学生寮も二つあり、遠方からの入学者も問題ない。

昨年の入試で川口高校は大きく定員割れを起こし、特例で分校化を免れ、1学級制で存続を認められた。

しかし、川口高校は自然豊かな環境で勉学に集中でき、伝統工芸というその地に根差した知識・技術を継承する機会を得る事になるのであれば、子ども達にとって大きなインセンティブとなり、入学者は増えるのではないだろうか。

金山町にとっては、別自治体の産業を支える人材を育てる事になるが、卒業後も町に定住したいと思わせる施策の実施や、昭和村や三島町と連携し“伝統工芸・地域活性化基金”といった共通の財布を作り、卒業生の活躍が行政資金の一部に役立てられるような体制を構築することでメリットはあるのではないか。

 

さらに、伝統工芸品は只見線繋がりで、会津美里町(会津本郷焼)、会津若松市(会津塗)とあるので、さらなる連携が期待でき、規模の拡大で訴求力・広報力は増すことで、多様なリターンを得る事ができると私は考える。この広範な連携ができれば、只見線の列車内で高校生達がそれぞれに学ぶ伝統工芸品について自由闊達に話し合うという光景が生まれるかもしれない。只見線の新しく、活気をもたらす“名物”となるだろう。

 

人材を生む場所に情報とカネが集まり、更に人を惹きつける。高齢化率が福島県ワーストの金山町(以下、昭和村、三島町と続く)にとって若い人材が集う場所の創出は町民皆が賛同する施策だと思う。是非、金山町には県立川口高校に伝統工芸科を新設すべく、町内で検討を重ね、昭和村や三島町と協業体制を作り、福島県に掛け合い、必要経費の寄付を募るなど行動を起こして欲しいと思う。*参考:福島県「福島県の高齢者の数」 URL:https://www.pref.fukushima.lg.jp/sec/11045b/16903.html

  


【昭和村「からむし」関連年表】

 *出処:昭和村 からむし工芸博物館「バーチャルからむし工芸博物館」URL:https://www.vill.showa.fukushima.jp/karamushiorinosato/musium/

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「魏志倭人伝」(280~297年間)

“禾稲・紵麻を植え、蚕桑緝積して、細紵縑緜を出す”

(稲や紵麻(苧麻・からむし)を植え、養蚕を行っている)

「日本書紀」(720年)持統天皇7年3月の条

“天の下をして、桑・紵・梨・栗・蕪菁等の草木を勧め植ゑしむ”

(*紵(からむし)などの栽培が奨励)

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“蘆名”時代(1189~1589年間)

現在の昭和村でのからむし生産が始まる

“上杉”時代(1598~1601年間)

からむし生産が確立される

 

以後、「会津青苧」として越後(新潟県)に出荷され「越後上布」や「小千谷縮」の原料となる

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第二次世界大戦時(1939~1945年間)

食料増産のため、からむし畑が転作され、からむしの生産が萎縮してゆく

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1950(昭和25)年

この頃、からむし生産復活の機運が生まれる。

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1971(昭和46)年

苧麻生産の伝承技術保存のために「昭和村農業協同組合からむし生産部会(五十嵐初喜部会長)」(現在の昭和村からむし生産技術保存協会)が設立。

1974(昭和49)年

福島県の委託を受け、からむし織りの試作品を作り求評会が開かれる

1975(昭和50)年

からむしを原料とした織物づくりを進めることにより、過疎対策として伝統産業の振興と就労の場の創出を目的とする「からむし再興」を小林蔵田村長(当時)が決定する。織物に加え小物生産なども始まる。

*産業規模:生産者65名、栽培面積227a、生産量455kg、販売額5,031,530円

1981(昭和56)年

農協に工芸課が創設され、からむし事業を担当することになり、「からむし織技術保存会」が設立される。

*産業規模:生産者36名、栽培面積80a、生産量90kg、販売額1,569,075円

1983(昭和58)年

「昭和村のからむし生産用具とその製品371点」が、福島県の有形民俗文化財の指定を受ける。「からむし開館」落成。

1984(昭和59)年

栽培から糸づくり、いざり機(地機)での織まで一貫した作業の技術保存を目的に「青苧栽培からむし織保存会」が発足。

1986(昭和61)年

第1回「からむしフェア」開催。

1988(昭和63)年

昭和村生活文化研究会が「からむし生産技術」の研究を開始。

1989(平成元)年

「昭和村のからむし織り」が福島県の重要無形文化財に指定され、同時にからむし織技術保存会が、同保持団体として認定を受ける。

1990(平成2)年2月

昭和村からむし生産技術保存協会」が発足し、同年、からむしの生産が「福島県選定保存技術」に指定。

1991(平成3)年

「からむし(苧麻)生産・苧引き」が「国選定保存技術」に認定され、「昭和村からむし生産技術保存協会」が保持団体として認定される。

1994(平成6)年

織姫体験生事業」が開始され、「からむし織関連技術保持者」を村が認定する。

1996(平成8)年

環境庁「日本の音風景1 0 0 選」にからむし織のはた音が認定

1997(平成9)年

㈱奥会津昭和村振興公社(第三セクター)が発足。

からむし織姫事業などにより優良自治体として国土庁長官賞を受賞。

福島県農業試験場がからむしの組織培養苗試作。

2000(平成12)年

国土庁の「多様な主体の参加と連携による活力 ある地域づくり」モデル事業に採択。

2001(平成13)年

からむし織の里整備事業による「からむし工芸博物館」「織姫交流館」落成。

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2014(平成26)年

「「からむし生産」伝承とからむし織姫」が手作り郷土賞(国土交通省)を受賞。

2017(平成29)年

「奥会津昭和からむし織」が伝統工芸品(経済産業省)に指定される。


  

(了)

  

 

・ ・ ・ ・ ・ ・

*参考:

・福島県 生活環境部 只見線再開準備室: 「只見線の復旧・復興に関する取組みについて

・東日本旅客鉄道株式会社:「只見線(会津川口~只見間)の鉄道復旧に関する基本合意書及び覚書」の締結について(PDF)(2017年6月19日)

  

【只見線への寄付案内】

福島県はJR只見線全線復旧後の「上下分離」経営での維持費や集客・地域振興策の実施費用として寄付を募集中(クレジット可)。

①福島県ホームページ:只見線復旧復興基金寄附金・只見線応援団加入申し込みの方法 *現在は只見線ポータルサイト「只見線応援団」URL:https://tadami-line.jp/support/

 

②福島県:企業版ふるさと納税

URL:https://www.pref.fukushima.lg.jp/sec/16005g/kigyou-furusato-zei.html

[寄付金の使途]

(引用)寄附金は、只見線を活用した体験型ツアーや周遊ルートの整備、只見線関連コンテンツの充実化等に活用させていただきます。 沿線地域における日本一の秘境路線と言われる観光資源を活用し、更なる利用者の拡大と認知度向上を図ります。

  

以上、よろしくお願い申し上げます。

次はいつ乗る? 只見線

東日本大震災が発生した2011年の「平成23年7月新潟福島豪雨」被害で一部不通となっていたJR只見線は、会津川口~只見間を上下分離(官有民営)とし、2022年10月1日(土)に、約11年2か月振りに復旧(全線運転再開)しました。 このブログでは、“観光鉄道「山の只見線」”を目指す、只見線の車窓からの風景や沿線の見どころを中心に、乗車記や「会津百名山」山行記、利活事業に対する私見等を掲載します。

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