魚沼市「“越後のミケランジェロ”作品群(西福寺・永林寺)」 2022年 夏

51年目の誕生日を迎えたJR只見線。今日は、会津若松駅から小出駅まで全線に乗車し、魚沼市内の二つの古刹を訪れ、“越後のミケランジェロ”と呼ばれた江戸末期の彫工・石川雲蝶の作品を見て回った。

 

 

JR只見線は、国鉄時代の1971(昭和46)年8月29日に、福島県と新潟県の県境にある六十里越を“只見中線”(只見~大白川)が貫き、先行開業していた会津若松~只見間(会津線只見方)と大白川~小出間(只見線)を結び付け、会津若松~小出間が一本につながったことで開業した。下掲記事:福島民報 1971年8月30日付け紙面

 

去年は、節目の“全線開業50周年”ということで、沿線自治体の広報や各メディアで事前に案内がなされ、当日は只見駅で記念式典が開かれ、JR東日本は臨時列車「只見海里号」を運行させるなど大いに盛り上がった。私は、只見町を訪れ、旧田子倉駅付近を走行する「只見海里号」を撮影し、記念式典後に駅前で開催されたイベントに訪れた。*参考:拙著「只見線全線開通50周年 「只見海里」号運行」(2022年8月29日)  

しかし、今年只見線51回目の開業記念日にはイベントなどの開催情報は無かった。来たる10月1日の全線復旧(再開通)を控え、JR東日本や沿線自治体はそちらに“全力投球”するのだろうと思った。

 

そこで、私は全線開業の記念日に、代行バス区間(会津川口~只見)を含めた全線に乗車しようと計画した。そして、終点の小出駅(新潟県魚沼市)周辺を散策しようと考え、魚沼市の観光情報を見る中で目に付いたのが、“越後のミケランジェロ”だった。


“越後のミケランジェロ”とは、江戸後期の彫工、石川雲蝶。

彼は1814(文化11)年)に江戸で生まれ、江戸彫石川流の技術を習得し、越後・三条の金物商人に出会い当地に招かれたという。そして、三条や長岡、魚沼各地の仏閣を中心に彫刻や絵画など多数の作品を残し、1883(明治16)年に三条で亡くなった。享年70歳。*参考:三条市公式観光サイト「幕末の名匠 石川雲蝶(いしかわうんちょう)

只見線の終点である小出駅の周辺には、この石川雲蝶の作品を数多く蔵する古刹がある。駅から直線距離でそれぞれ、南4.4kmに位置する「赤城山 西福寺」と、北西2.4kmに位置する「針倉山 永林寺」だ。


今日の予定は、以下の通り。

・会津若松駅から只見線の始発列車に乗り、代行バス乗車を経て、只見駅から再び列車に乗って小出駅に向かう

・小出駅到着後、輪行した自転車で「赤城山 西福寺」と「針倉山 永林寺」を巡る

・小出駅に近い「見晴らしの湯 こまみ」に立ち寄る

・長岡駅で途中下車し、長岡藩家老・河井継之助(只見町塩沢地区で没)の墓参りをする

・新潟駅前から高速バスに乗り会津若松駅前に移動し、磐越西線を利用し自宅のある郡山に戻る

 

ここしばらくは、県内は雲が多い日が続いたが、今日の予報は、新潟県魚沼地方も含め晴れだった。只見線の車窓からの景色と、青空の下で気持ちよくサイクリングできることに期待し、魚沼市に向かった。

*参考: 

・福島県・東日本旅客鉄道株式会社 仙台支社:「只見線全線運転再開について」(PDF)(2022年5月18日)

・(公社)新潟県観光協会:にいがた観光ナビ「JR只見線

・(一社) 魚沼市観光協会:秘境を行く! JR只見線

・魚沼市 だんだんど~も只見線沿線元気会議:Facebook (URL: https://www.facebook.com/dandandomotadamisen )

・BSN新潟放送公式チャンネル:【そらなび ~にいがたドローン紀行~】「第73回「只見線(魚沼市)」2020年2月29日放送」

・拙著:「次はいつ乗る?只見線」カテゴリ   ー只見線全線乗車ー / ー只見線の夏

 

 


 

 

平成23年7月新潟福島豪雨」被害で区間運休(会津川口~只見間)となっているJR只見線は、約1か月後の10月1日(土)に11年2か月振りに復旧し、全線再開通する。それに関連する記事が、地元紙に登場する頻度が増え、先週の土曜日には福島民報が「つながったレール」という特集記事を掲載し、一面で再架橋された「第七只見川橋梁」が朝日を受けた様子、第一社会面では只見駅で列車を見送る観光案内所スタッフの姿をそれぞれ大きく載せていた。*下掲記事:福島民報 2022年8月22日付け 

 

この「つながったレール」は連載記事のようで、昨日の紙面には会津百名山で只見四名山の「蒲生岳」を背景に試運転するキハE120形2両編成の写真が載っていた。*下掲記事:福島民報 2022年8月28日付け

「上下分離(公有民営)方式」で復旧するこの運休区間は福島県が保有し、公費で設備保守費と運行費を賄うことになり、只見線は福島県民にとって“Myレール”となる。これらメディアの情報や報道によって全線再開通の機運が高まり、一人でも多くの県民が只見線に関心を持ち、会津地方のみならず、中通りや浜通りの住民が当地を訪れ乗車して欲しいと思った。*参考:国土交通省「JR只見線(只見~会津川口)の鉄道事業許可 ~豪雨被害からの運転再開に向けて、運行と施設保有を分離します~」(令和3年11月29日)

 

 

 

 

今朝、只見線の始発列車に乗るために宿泊した駅前の宿を出て、会津若松駅に向かった。上空には厚い雲が広がっていたが、天気予報通り、一部青空が見えていた。 

 

輪行バッグを抱え駅舎に入ると、改札前に只見線に関する案内が置かれていた。只見~大白川間で『トンネルの健全性を確保する「設備強化・修繕工事」』を行うため、一部列車に運休があり代替輸送は行わないという。

今日29日も工事実施日で、小出13時15分発の只見行きが大白川止まりとなっていた。実は、当初予定では往復で只見線全線に乗車しようとしていたが、この工事のため新潟経由で郡山に戻る経路に変更した。

 

この只見線の案内の手前には、今月3日の大雨で区間運休になっている磐越西線に関する情報も掲示されていた。高校の二学期開始に合わせて代行バスの本数を増やしたり、一日一往復だけではあるが新津~山都間の列車が追加されるという。

ただ、旅行者にとっては使い勝手は悪く、新潟(新津駅)を11時43分発の列車に乗らなければ、当日中に郡山に着けないというダイヤになっている。このため、今日は新潟駅前から高速バスを利用し会津若松駅前に行くという手段をとらざるを得なかった。

 

 

有人改札で「青春18きっぷ」に日付印を入れてもらい、連絡橋を渡り只見線のホームに向かう。列車(キハE120形2両編成)は既に入線していて、そのとなりにはキハ110形の回送列車が停まっていた。右(東)の空には雲が掛かり、会津百名山18座「磐梯山」は全く見えなかった。

6:03、会津川口行きの始発列車が会津若松を発車。私が乗り込んだ後部車両は私の他5名の客で、先頭は1名だった。

 


 

 

列車は市街地の七日町西若松を経て、大川(阿賀川)を渡った。会津盆地は全体が鼠色の雲に覆われていた。

 

上流側に目を向けると、会津百名山36座「大戸山」の山塊も雲に覆われていた。

 

ただ、会津本郷を出発し会津美里町に入ると、左側の車窓から会津百名山61座で伊佐須美神社の最終山岳遷座地「明神ヶ岳」(1,074m)と、その左(南)には会津百名山33座で同じく第二遷座地「博士山」(1,481.9m)の山塊の稜線がくっきりと見えた。*参考:伊佐須美神社「由緒と社格」URL:https://isasumi.or.jp/outline.html

 

 

列車は、会津高田を出発した直後に、大カーブで進路を西から真北に変えた。

 

線路の両側に広がる田園の緑稲は実り、首を垂れていた。

 

 

根岸新鶴を経て会津坂下町に入り若宮を出ると、東に「磐梯山」(1,816.2m)の山稜がうっすらと見えた。

 

会津坂下に到着すると、会津若松行き列車とのすれ違いのため、しばらく止まった。平日ということもあり、反対側のホームには多くの高校生が居た。只見線の収支を押し上げている光景だ。

 

 

会津坂下を出発すると、同じ車両に乗っていた客が、窓を開けて大型マイクを外に向けていた。いわゆる“音鉄”の方だった。“七折登坂”するために変化する列車のディーゼルエンジンの音を拾っているのだろうと思った。

 

列車は、ディーゼルエンジンを豪快に蒸かしながら、七折峠に向かって登坂を始めた。

 

登坂途上の塔寺、登坂を終えた後の会津坂本を経て、列車は柳津町に入った。車窓からまだ見えないが、ここから先、只見線に沿い交わる只見川の周辺は「越後三山只見国定公園」になり、県境の六十里越トンネルを抜けた直後まで続く事になる。*参考:福島県 自然保護課「新しい越後三山只見国定公園が誕生しました」/環境省「越後三山只見国定公園(福島県地域)の 公園区域及び公園計画の変更に関する概要」(PDF) 

  

会津柳津を出発すると“Myビューポイント”を通過したが、会津百名山86座「飯谷山」は、雲にすっぽりと覆われていた。

 

 

 

 

郷戸を出た列車は、滝谷出発直後に三島町に入り、会津桧原を経て「第一只見川橋梁」を渡った。*以下、各橋梁のリンク先は土木学会附属土木図書館デジタルアーカイブス歴史的鋼橋集覧1873-1960

只見川は濁っておらず濃緑だったが水面には波が立ち、上空は雲に覆われていたため壮大な水鏡は見られなかった。*只見川は、東北電力㈱柳津発電所・ダムのダム湖になっている 

 

反対側の座席に移動し、上流側の駒啼瀬の渓谷を見た。夏の早朝に見られる確率が高いと言われる川霧は、まったく出ていなかった。残念。

 

 

 

名入トンネルを抜けた列車は会津西方に停車し、出発直後に「第二只見川橋梁」を渡った。上流側に見えるはずの会津百名山82座「三坂山」も、すっぽりと雲に覆われていた。 

 

反対側の座席に移動し、下流側を見る。濃緑の只見川と両河岸の木々がスゥーっと延びていた。

 

 

 

列車は会津宮下に到着し、会津若松行きの列車を待ち、すれ違いを行った。


 

会津宮下出発後、列車は東北電力㈱宮下発電所と宮下ダムの脇を駆け抜けた。宮下ダムはゲートを開放していなかった。

 

宮下ダム湖の水面には波が立っていたが、こちらも濃緑で風景全体に落ち着きを与えていた。

 

 

列車はまもなく「第三只見川橋梁」を渡った。下流側の山腹には国道252号線の高清水スノーシェッドが一部見え、監視窓のようだった。

 

ここでも反対側の座席に移動し、上流側を見た。水面の波は大きく、水鏡は見られず、この渓谷にも川霧は発生していなかった。

 

 

 

列車が滝原と早戸の両トンネルを抜け早戸に着くと、金山町の方に向かって青空が広がっていた。そして只見川(宮下ダム湖)の水面は水鏡になっていて、早戸を出発した列車が金山町に入り細越拱橋(8連コンクリート・アーチ曲線橋)を渡る時、美しい景色を見せてくれた。

 

 

会津水沼を出発し「第四只見川橋梁」を渡る際も、橋付近の川面には水鏡が出ていて、綺麗に周囲の風景を映し込んでいた。 

この付近の只見川は、東北電力㈱上田発電所・上田ダムの直下で水床までが浅く、波立っている時が多く、水鏡を見られる確率は低くなっている。今日は幸運だったと思った。 

 

 

国道252号線と交差した後、列車は只見川、そしてまもなく上田ダム湖と変わった只見川の脇を通った。ダム湖の左岸には600m級の低山が連なり、一部岩がむき出しになった山肌は、奥会津の山岳風景を象徴していて見応えがあった。*参考:国土交通省 国土地理院「アバランチシュート

ただ、只見線の車内からは木々や電線・電柱が邪魔してゆっくりと見る事はできない。“観光鉄道「山の只見線」”の質を高めるためにも、この付近で枝木の伐採や電柱・電線の地中化など、福島県が進める「只見線利活用」の景観創出事業で拓いて欲しいと思う。

 

 

会津中川を出てまもなく、振り返ると周囲の風景を一体化した「東北電力奥会津水力館 みお里」が見えた。電力会社のPR館とは思えない秀逸なデザインだ、と改めて思った。

 

 

 

列車は前方に上井草橋が見える頃に減速し、終点に向かってゆく。

 

ここで振り返り、風景を眺めた。只見川(上田ダム湖)に突き出た大志集落や、新潟県(阿賀町)との県境の連なる1,000m級の山々、そして山肌のアバランチシュートが水鏡に映り込み、美しい風景を創っていた。晴れの日、空気の冴えた中を走る始発列車の乗客が得られるご褒美だ。


 

8:06、現在の終点・会津川口に到着。取り換えられた真新しい駅名標の、白地に緑のラインが風景に映えていた。

 

県立川口高校の生徒の他、観光客など10名ほどが降り駅舎に向かった。中には、会津若松駅から乗車していた、旅行していると思われる高齢のご夫婦の姿もあった。

 

会津若松駅のホームでは気に留めなかったが、列車には去年から貼られている“おかげさまで只見線開通50周年”ステッカーがそのままだった。10月1日には再開通を祝うものに替えられるのだろうかと思った。

 

会津川口から先、只見までは不通区間になっている。10月1日以降は、この始発列車が小出まで直通することになっている(小出10時41分着)。

 

 

 

輪行バッグを抱え駅舎に入り外を見ると、駅頭に代行バスが付けられていた。写真を数枚撮った後、乗り込んだ。

8:15、只見行きの代行バスが発車し、国道252号線を南西に進んだ。車内には私の他8名の客が乗っていた。例の高齢のご夫婦も乗車されていた。


 

代行バスが西谷地区の坂を越えると、右手に「第五只見川橋梁」が見えた。「平成23年7月新潟福島豪雨」では会津川口寄りの橋桁一間のみが流出し、復旧工事では河岸の形状を変え二間の橋桁が架けられた。既存のトラス鋼材は、一部錆びついていたため、塗装し直されるかと思ったが、そこまでは費用を掛けられなかったようだ。 


代行バスは、“本名”、“会津越川”、“会津横田”、“会津大塩”、“会津塩沢”の各駅付近のバス停で停発車を繰り返した。“会津大塩”駅となる大塩体育館で一人を下ろした以外、客の乗降は無かった。


会津塩沢”駅を出発後に、会津百名山83座「蒲生岳」(828m)を背景に「第八只見川橋梁」を眺めた。ここは豪雨で橋梁の流出は免れたが、前後の路盤の洗堀などがあり、今後の豪雨に備えた“被害予防”工事も施したため、復旧工事が最大の費用が掛かったと言われている。

 

 

 

 

9:05、“会津蒲生”、代行バス運行で設けられた叶津バス停を経て、只見に到着。強い陽射しがあったが、空気は少しひんやりし、気持ち良い気候だった。

 

駅頭には、“おかえり。”という只見線全線運転再開を知らせる大きなポスターが掲示されていた。

 

そして、その隣にはカウントダウンボードが置かれ、JR只見線全線運転再開までの日数である、33が表示されていた。

 

 

駅周辺では、只見線全線運転再開に関連した工事が行われていた。駅頭の舗装や区画線表示工は終了しているようで、駅舎の南側では平屋のユニットハウスが並び、敷地の整備工事が進められていた。

 

ユニットハウスの内部には椅子や机が見え、壁には只見線をモチーフにした絵や、只見町のマスコット「ブナりん」、そして只見ユネスコエコパークのイラストが描かれた大きなポスターが貼られ、観光案内所である只見インフォーメーションセンターの表示があった。

 

この工事は、只見線の全線運転再開に合わせて只見町が進める「只見駅前賑わい創出事業」で、オープンテラスや駐車場の整備、駅舎内に“只見線ギャラリー(仮称)”を設けるという。*下掲記事:福島民友新聞 2022年1月7日付け

 

この施設が、駅を中心とした滞在型観光を創出し、観光客の満足を高めて欲しいと思った。

 

 

駅周辺を見て回り駅舎に入ると、まもなく小出方面から列車がやってきた。ホームにつながる長い連絡道を歩くと、5名の降車客とすれ違った。

 

ホームに上り、会津川口方面を眺める。既に一日数往復試運転が行われている事もあり、レールの表面は一部が光っていた。 

 

 

折返し小出行きとなる列車は、キハ110形の2両編成だった。

9:30、小出行きの下り列車が只見を出発。私のが乗り込んだ後部車両には他4名の客の姿があった。

 


列車が上町トンネルと4基のスノーシェッドを抜けると、前方に電源開発㈱只見ダムのゲートと、その奥に電源開発㈱田子倉ダムの躯体が見えた。

 

 

田子倉トンネル(3,712m)を抜けると、田子倉ダム湖を見通せる明り区間になり、田子倉駅跡を通過した後に振り返って“只見沢入江”から湖の中心部を眺めた。

田子倉ダム湖とその周辺は、只見ユネスコエコパークの緩衝地域 (B)で、『生態系の価値を損ねない形での活動を奨励』等の規制がかけられている貴重なエリアとなっている。*出処:只見ユネスコエコパーク「土地管理(ゾーニング)区分」URL:http://tadami-br.jp/  / 参考:文部科学省「生物圏保存地域(ユネスコエコパーク)

この田子倉駅跡前後の明り区間は、“観光鉄道「山の只見線」”の重要コンテンツとして、車窓からの景観創出や徐行運転などを行って欲しいと思っている。*参考:拙著「只見町「田子倉駅」跡 2017年 秋」(2017年10月14日)

 

反対側の座席に移動すると、会津百名山29座「浅草岳」(1,585.4m)が綺麗に見えた。ただ、平日ということもあって、このレールの直ぐ脇にある、田子倉登山口の駐車場にもなっている広大な空地には登山者の車は見られなかった。

現在、只見町と、4年後に国道289号線八十里越区間の開通で結ばれる事になる新潟県三条市、そして登山アプリ「YAMAP」の3者で「八十里越七名山山巡りキャンペーン(2022年7月23日〜10月31日)が行われいてる。只見町ではこの「浅草岳」や「蒲生岳」を含む「只見四名山」が対象になっている。*参考:只見インフォメーションセンター「三条・只見の山を巡ってオリジナルピンバッジを手に入れよう」URL:https://www.tadami-net.com/topics/20220731/16715

 

 

9:40、列車は“会越国界”の六十里越トンネル(6,359m)に入った。

 

 

 

 

 

 

7分ほどで六十里越トンネルを抜け、新潟県魚沼市に入った。上空は変わらなぬ青空が広がっていた。

 

列車はトンネルを抜けた直後から末沢川を渡り、この川が破間川に合流するまで16回渡河することになる。

川の水は少なく、清流という感じではなかった。また、列車は通常のスピードで走っているので、交差する渓谷を見過ごす事も多かった。

この区間は、福島県側のダム湖が連続する風景とは一転するため、“観光鉄道「山の只見線」”の多様な山間の風景を乗客に楽しんでもらうためにも、特に紅葉期は徐行運転して欲しいと私は思っている。小出から只見に向かう場合は上り勾配で、列車の出力の問題があるかと思うが、JR東日本には福島県と新潟県の意見を聞き検討して欲しい。




曲線の第五平石川橋梁を渡り、列車は減速した。

“平石川”は、かつて破間(あぶるま)川が黒又川に合流するまでの名称だったが、現在では守門岳(1,537.3m)の北東にある源流から魚野川に合流するまで破間川に統一されている。そのため、“平石川”という川は現在では無く、只見線の橋梁名や水力発電の取水ダムの名に残っている。

 

9:58、新潟県側の最初の駅となる大白川に到着。客の乗降は無かった。

只見からの所用時間は28分。只見~大白川間は20.8kmで、JR北海道を除くJR管内で二番目の駅間距離になっている。

  

大白川を出ると、列車は小出まで7つの橋で破間川を渡河することになる。

 

田んぼは、柿ノ木駅跡付近で現れ始め、入広瀬を過ぎるとその数を増やしてゆく。緑稲の実りは、会津側より少しだけ進んでいるような具合だった。

 

 

上条越後須原魚沼田中を経て、列車は少しずつ乗客を増やした。越後広瀬を出ると、奥行きが広くなった田園越しに、「越後三山」の「越後駒ヶ岳」(2,002.7m)、「八海山」(1,778m)の稜線が見えた。

「越後三山」は「越後三山只見国定公園」の中にあり、この国定公園の中に奥会津地域の只見線沿線と重なる只見川流域が昨年編入された。“越後三山”は只見線に縁ある山々となっている。*参考:福島県「越後三山只見国定公園」/ 拙著「「只見柳津県立自然公園」国定公園に編入へ」(2021年6月29日)

 

 

列車は第一破間川橋梁を渡り、藪神を経て魚野川橋梁を渡りながら減速した。

 

 

 

10:41、只見線の終点となる小出に到着。おそらく最後になるであろう、代行バスを使用した全線乗車を無事に終えた。

 

ホームからは、“権現堂山”(「下権現堂山」(896.7m)、「上権現堂山」(997.7m))の稜線が綺麗に見えた。*参考:拙著「魚沼市「権現堂山」登山 2020年 盛夏」(2020年8月13日)

 

そして、上越線の浦佐方面には「越後駒ヶ岳」の三角の稜線が際立って見えた。

  

 

輪行バッグを抱え、連絡橋を渡り駅舎に入る。只見線全線運転再開に関する目立った案内等は無く、駅舎を出ると、ホームと隔てるフェンスに取り付けてある幟のうち一つが、それだった。小出~大白川間開通80年という幟もあった。でも、なぜか下部を縛られ全体が見えなかったが、三本とも「だんだんど~も只見線沿線元気会議」の名が入っていた。*参考:だんだんど~も只見線沿線元気会議Facebook URL: https://ja-ks.facebook.com/dandandomotadamisen/

 

先月28日にJR東日本が発表した「「佐渡島の金山」「みなとまち新潟」 佐渡市・新潟市 秋の観光キャンペーン」の案内には、臨時列車として新潟駅を起・終点とし、再開通区間(会津川口~只見)を走行する「Shu*Kura」号と「海里」号が運行予定だった。

しかし、今月3日の大雨で磐越西線の喜多方~山都間に架かる濁川橋梁が流出したため、これら臨時列車は運行中止になってしまった事もあり、JR東日本・新潟支社にとっては只見線の全線運転再開は大きなイベントではないのかもしれないと思った。*只見線は会津川口~只見間が仙台支社管轄、大白川~小出が新潟支社管轄に分かれている。*上図出処:佐渡市・新潟市・東日本旅客鉄道株式会社新潟支社・(一社)佐渡観光交流機構・(公財)新潟観光コンベンション協会「「佐渡島の金山」「みなとまち新潟」 佐渡市・新潟市 秋の観光キャンペーン」(2022年7月28日)

 

 

 

11:00、輪行バッグから取り出した自転車を組み立て、小出駅前を出発し、まずは南の大浦地区に向かった。

県道372号(五箇小出)線を進み、序盤こそ上り坂があったが、あとは平坦な道を気持ちよく自転車で進んだ。


県道232号(浦佐小出)線に入り、福山橋で魚野川を渡った。下流を眺めると、“権現堂山”の稜線がここでも綺麗に見えた。

 

 

 

 

11:22、国道17号線を横切り、浦佐バイパスをアンダーパスし、市道の緩やかな坂を上って行くと「赤城山 西福寺」に到着。小出駅から5.3kmを22分で走破した。

「赤城山 西福寺」は曹洞宗の寺院で、1534(天文3)年に芳室祖春(ほうしつそしゅん)和尚によって開山(同年、織田信長が生まれている)。市道に面した第一山門(赤門)前には、右に「火除地蔵」(石像)、左に「禁葷酒の戒壇石」が建っていて、案内板を見ると、どちらも石川雲蝶作だった。

 

第一山門を潜り抜け第二山門(白門)の前に立つと、左奥に、巨大な屋根が見え、異様だった。

 

第二山門をくぐり、右に目を向けると、石像に向かい振りかぶる像があった。

 

“越後のミケランジェロ”こと石川雲蝶(1814-1883)の銅像だった。2011(平成23)年に石川雲蝶生誕200年の記念事業として建立され、この姿は、開山堂内にある「鬼退治の仁王尊」を製作中の姿という。

銅像の脇にある石碑には石川雲蝶の紹介文が刻まれていた。

越後の名匠
    今、この地に甦る
 石川雲蝶 源正照
 本名安兵衛。文化十一年(一八一四)江戸雑司ヶ谷に生まれる。二十歳代で江戸彫刻石川流の奥義を極め、幕府御用勤彫工として苗字帯刀を許される。
 三十歳になった頃、越後の金物商内山又蔵の依頼を受け三条へ入る。その後、酒井家の婿養子となり越後人となる。
 三十九歳の時、当寺二十三世蟠谷大龍和尚の命を受け、約六年間の開山堂荘厳の制作に携わる。開山堂の大作を機にあまた依頼がかかり、雲蝶は越後の名匠となってゆく。
 各地で制作活動に打ち込んだ後三条に戻り、明治十六年(一八八三)享年七十歳で生涯を閉じる。
 雲蝶が、仏の教えを尊び探求心旺盛な努力家であったことは、越後に残された数々の傑作から見て取れる。
 この像は、雲蝶が当時開山堂にある仁王像を彫り上げている場面を再現したものである。

 

この石川雲蝶像を背に左には、雲蝶が制作に携わった(大浦)開山堂が建っていた。

石碑の通り、当寺の蟠谷大龍(ばんおくだいりゅう)和尚の発願により、当寺開山・芳室祖春和尚と曹洞宗開祖・道元禅師を祀るため1857(安政4)年に建立。建築様式は『鎌倉時代禅宗仏殿構造、屋根は茅葺き二重層、 上層部入母屋造り、総欅五間四方、唐破風向拝』。*出処:赤城山 西福寺「西福寺と開山堂 -西福寺の歴史-」URL:https://www.saifukuji-k.com/about.html

 

向拝も石川雲蝶の彫刻が施され、中央には彼が得意としていたという烏天狗が彫られていた。目にはギヤマンが埋め込まれているという。

 

開山堂は巨大な大屋根によって覆われていた。鞘堂と呼ばれるもので、魚沼地方の豪雪から開山堂を守るために、1999(平成11)年に完成したという。

 

鞘堂ができるまでは、『寺村の若い衆が命綱を取って高い開山堂の屋根に上り、一冬に何度となく雪下ろしをしていた』という。*出処:赤城山 西福寺「西福寺と開山堂 -開山堂の今昔-」URL:https://www.saifukuji-k.com/about.html

 

 

開山堂の内部を観るために、受付となる庫裏に向かった。


拝観料は500円。驚いた事に、通常は寺内は撮影禁止だが、先月11日から来月末までの期間限定で写真撮影を許可しているという。

 

本堂に入り、大縁廊下を進む。

この大縁廊下には、石川雲蝶が仕事の合間に施したという埋め木が50箇所ほどあると言われ、小槌やひょうたん、花瓶に活けられた水仙が見られるという。私は、残念ながら埋め木の事を西福寺を後にしてから知ったため、見る事はできなかった。


本堂の広間では、西福寺にある石川雲蝶の作品群の説明をするVTRが上映され、都度多くの方が見入っていた。 

 

 

大縁廊下を越え、開山堂に続く渡り廊下を進んだ。外観から想像できないほどキレイな空間だった。

 

 まもなく開山堂に入る。頭上には“新潟県重要文化財指定 越後日光開山堂”の木板が掲げらていた。

 

開山堂に足を踏み入れる。こちらは年季の入った廊下や欄干がピカピカに磨き上げられていた。

 

そして、急な階段の手前、右上に目を向け驚愕した。『なんだこれはッ‼』とつぶやき、しばし呆然と立ち尽くした。

 

“石川雲蝶終生の大作”と言われる、「道元禅師猛虎調伏之図」。三間四方の吊り天井に彫られた、複雑な文様と鮮やかな色合い、そして彫刻ということでその立体感に圧倒された。

 

この「道元禅師猛虎調伏之図」は、道元禅師が中国(宋)で修業中の話をもとに作成されたという。道元禅師が天童山へ行脚の途中、山中で虎に襲われそうになり、手にしていた柱杖を虎に投げつけ禅師は岩の上で座禅に入られると、柱杖が龍に姿を変え虎を追い払い禅師の身を守った、というのが話の内容だ。

 

道元禅師は、岩の上で座禅を組み、穏やかな表情をされている。後ろで猿が『何だろう⁉』という表情で禅師を見つめていた。

 

柱杖から姿を変えた龍は、黒い雲の中から現れ、鋭い眼光を一直線に、射貫くように向け虎に迫ろうとしている。透かし彫りの立体感で、龍の姿に圧倒された。


 

そして虎は、まさに尻尾を巻いて逃げ、奥歯を噛みしめ苦々しい表情で振り返っている。虎の悔しさが、伝わってきて、唸ってしまった。後ろ足のそばには、驚いて逃げる亀の姿があった。

 

「道元禅師猛虎調伏の図」は主人公の三者(道元禅師、龍、虎)以外に、猿や亀などの小動物が彫られていて、石川雲蝶の発想の豊かさや、それらを表現できる技術力の高さが伺い知れた。

滝には二匹の鯉が飛び跳ね、松の幹のそばには小鳥の姿あった。 

 

鷲は羽や毛並みが細やかに表現され、隅にありながら手抜きされていなかった。

ちなみに、龍、虎、そしてこの鷲の目には、当時貴重だったギヤマンが嵌め込まれているという。


「道元禅師猛虎調伏之図」は透かし彫りの手法が用いられ、岩絵の具で彩られているが、驚く事に石川雲蝶が完成させた当時のままだという。

 

 

天井にばかり目がいってしまったが、開山堂の正面の壇には、開山・芳室祖春和尚と開祖・道元禅師を中心に歴代の西福寺の住職が祀られていた。

 

この壇と天井の間の欄間にも、石川雲蝶の彫刻があった。正面の“道元禅師一夜碧巌”には唸ってしまった。道元禅師が中国(宋)の修行を終え帰国する前夜、碧巌録という御経を見つけ、日本に持ち帰りたいと急ぎ写経している、という作品。

なんと遠近法によって、立体的に彫られていたのだ。横から見るとその立体感が良く分かり、感動した。また、一息つく道元禅師の遠くを見るような表情と、老人に姿を変え写経を手伝う白山権現様の姿の対比がコミカルで、笑みがこぼれた。*白山権現は、道元禅師が帰国後に開山した永平寺の鎮守社となっている。(参考:福井神社庁「白山神社」URL:https://www.jinja-fukui.jp/detail/index.php?ID=20160115_162710)

 

“道元禅師一夜碧巌”の左隣は、禅師が修行中に山中で腹痛を起こし、そこへお稲荷様が現れ薬を授けてくれるという作品だった。

禅師のお腹を抱えて苦しむ御姿と、薬を受けようとするお供の木下道正氏の格好、そして狐を二匹伴い現れたお稲荷様の表情に、それぞれ特徴があり見入った。


 

関山堂の天井と欄間の彫刻は見ごたえがあり、見上げながらの鑑賞は大変だが、いつまでも見続けていたいと思わせる魅力があった。 

 

関山堂の階段の脇には、仁王像が置かれていた。鬼退治の躍動し迫力ある様は、見たことのないものだった。この仁王像は、かつて第二山門(白門)にあったという。


 

石川雲蝶は彫刻だけでなく絵も描いていて、法堂手前の襖には「孔雀遊戯之図」があった。彼が48歳(1861(文久元)年)の作品だという。

 

仏教の教えを説いた絵で、孔雀の羽の複雑さと細やかさに驚いた。

 

雲龍の間には、「三顧の礼」と「崖上猛虎」があった。

 

「崖上猛虎」の虎は、墨の濃淡で描かれて、石川雲蝶の多才さに感心した。

 

「赤城山 西福寺」の石川雲蝶の作品、特に開山堂の「道元禅師猛虎調伏の図」は驚愕の素晴らしさだった。雲蝶の作品は他にもあると言われるが、“終生の大作”という言葉が納得できる見ごたえがあった。只見線沿線に、このような突き抜けた文化財がある事を知り、有意義な訪問になった。

 

 

12:18、「赤城山 西福寺」を後にして、北の根小屋地区に向かった。国道17号線に入り、コンビニの手前で側道を進んだ。 

 

田んぼの間の道を、前方に“権現堂山”を見ながら自転車を漕いだ。

 

県道532号(虫野小出停車場)線に入り、左側に小出スキー場を見ながら小出の市街地を進んだ。

 

佐梨橋を渡り、県道50号(小出奥只見)線を進み市街地を抜けた。県道553号(広神小出)線から県道458号(下倉小出)線に入り、只見線の魚野川橋梁の第1桁を潜った。

国道17号線を分岐したあと、道は平坦だったが、唯一ここから破間川を渡るまでに小さなアップダウンがあった。 

 

 

破間川を渡り、突き当たった国道17号線に再び入り長岡方面に進むと、目的地である「永林寺」への案内板が見えた。

 

国道を700mほど進み、右折し県道230号(滝之又堀之内)線に入り、1kmほどの場所に「永林寺」への入口を示す立て看板があった。

  

 

 

 

12:44、看板通りに右折し田んぼの間を進み、「針倉山 永林寺」に到着。「赤城山 西福寺」から8.4kmを、26分で駆け抜けた。

「針倉山 永林寺」も曹洞宗の寺院で、林泉庵第四世・竹岩全虎和尚により「西福寺」と同時期の室町時代後期に開山され、江戸時代は徳川家一門の香華所として使用されるなどし、三葉葵の紋章を許されたという。*出処:魚沼市観光協会「永林寺」URL:https://www.iine-uonuma.jp/cultural/temple/temple10/


 

本堂への参道の入口には、“狸和尚”の阿吽像が置かれていた。

 

そして、参道の脇には、“彫工 石川匠雲蝶”と彫られた石碑があった。石川雲蝶の120回忌を顕彰して、本人自筆の揮毫を拡大し刻み建立されたという。

石川雲蝶は、1852(嘉永5)年に「永林寺」本堂の再建を始める頃、当時の円応弁成(えんのうべんしょう)和尚と出会い意気投合、その後大賭博をしたという。その賭けとは『(雲蝶の本拠とする三条の)本成寺の完成後、雲蝶が勝ったら金銭の支払を成し、弁成和尚が勝ったら永林寺本堂一杯の力作を手間暇を惜しまず製作する』というもので、和尚が勝ち、雲蝶は1855(安政2)年から1867(慶応3)年まで13年間「永林寺」に滞在し、100点もの彫工・絵画を残したという。*出処:針倉山 永林寺「石川雲蝶

 

 

 

庫裏に移動し、本堂内を見る事にした。

 

拝観料は「西福寺」と同じく500円だったが、こちらは館内撮影禁止だった。

 

 

玄関で声を掛け、拝観料を支払い、拝観ガイドをいただいた。表紙は、石川雲蝶の代表作の本堂の欄間に彫られた「天女」で、笛にしなやかな指を添える天女だった。

  

拝観ガイドを開くと、寺の由緒や石川雲蝶についての文があり、本堂と位牌の間にある彼の彫刻・絵画の配置図が載っていた。

 

本堂に入ると、廊下や柱は光沢を放ち、畳も綺麗で、塵一つ無いという感じだった。

配置図を見ながら、一つずつ見て回った。

まず、本堂正面の欄間に施された「雲水龍」の色鮮やかさと立体感には驚いた。荒ぶる波を躍動する龍は、これが元々は木だったのかと思わずにはいられない凄みを感じた。

 

本堂では「永林寺 図録」が販売されていた。御布施箱に500円を入れて、手にした。

 

「永林寺 図録」はA6判で、写真と説明書きが半々という構成だった。

 

「天女」の写真は5ページにわたって載せられていた。


「天女」は魚沼市観光協会のパンフレット「石川雲蝶」の表紙を飾り、内部でも大きく載っていた。

*参考:魚沼市観光協会「日本のミケランジェロ 石川雲蝶を探求する」URL:https://www.iine-uonuma.jp/osusume/4009/ / 新潟県 魚沼地域振興局「【魚沼】雲蝶だより「石川雲蝶生誕200周年記念 第6号」を発行しました」URL:https://www.pref.niigata.lg.jp/sec/uonuma_kikaku/1356812733083.html

 

「永林寺」の石川雲蝶作品群も、素晴らしかった。「道元禅師猛虎調伏之図」ほどの迫力があるものはなかったが、「天女」の“赤”と「雲水龍」の“青”の鮮明さと、双方の細やかな文様と優しくも強くも感じさせる曲線には感動した。今まで石川雲蝶を知らなかった事をもったいなかったと思うと同時に、只見線が全通し50年、会津と越後の交流がありながら、会津側(福島県側)に石川雲蝶という人物が浸透してこなかった現状に残念な思いをした。

 

 

13:24、「永林寺」を後にして、サイクリングの汗をながすため温泉に向かった。少し進むと、「中ノ岳」(2,085.1m)を中央に、「越後三山」が見えた。

 

国道17号線から県道458号(下倉小出)線に入り、四日町橋で破間川を渡る。ここでも、前方に「越後三山」の稜線が見えた。

魚沼市の旧小出町、旧堀之内町、旧広神村などの住民にとって、南に目を向けると飛び込んでくる「越後三山」は“わが山”であり、出身者にとっては“望郷の山”であろうと思った。

 

 

上越線を越え、小出スキー場に向かう坂を上る。旧小出町の市街地が一望できた。

 

昨年12月に雪山に囲まれた市街地を見た時は、山肌の荒々しさと街並みの対比が際立ち、美しいと思った。

  

 

 

13:58、坂を上り「見晴らしの湯 こまみ」に到着。車寄せを覆った屋根天井には、色とりどりの傘が吊るされていた。

受付で『会員ですか?』と聞かれたので、『いいえ』と答えると紙を渡された。玄関前のテーブルで住所・氏名・連絡先を書いた後、再び受付に提出し入浴料600円を支払った。

 

長い廊下を渡り、男湯の脱衣所に入る。浴室にも誰もおらず、ガラス張りの開放的な空間が広がっていた。


脱衣し浴室に入り、洗体し湯に浸かった。少しぬるめだったが、青空の下、自転車を長躯漕ぎ火照った体にはちょうどよかった。

露天風呂もあり、眼前には「越後三山」が見え、「越後駒ヶ岳」の三角の稜線が目立っていた。ここ「こまみ」とは、“駒見”である事が分かった。

 

山々を眺めながら、身体をほぐしながら、ゆっくりと浸かった。

【見晴らしの湯 こまみ】
泉温::37.8℃(気温9℃/貯湯槽で測定) 
泉質:ナトリウム・カルシウム-塩化物・硫酸塩温泉(低張性中性温泉)
pH:7.3
湧出量::45L/分(動力揚湯/貯湯槽入り口のメーター読み値)
源泉名:青島源泉

 

 

14:38、「見晴らしの湯 こまみ」を後にして、小出駅に向かった。途中、小出スキー場の脇を通った。

 

昨年末、ここから先除雪されておらず、「見晴らしの湯 こまみ」に行くことを断念したことを思い返した。道はあるが除雪はされず、という“雪国あるある”を福島県人ながら不覚にもやってしまっていた。

 

 

 

 

15:57、駅に到着し、自転車を輪行バッグに入れホームで上越線の列車を待ち、長岡行きの列車に乗車し小出を後にした。

 

只見線の終点・小出駅の周辺にある「西福寺」「永林寺」などを自転車で巡る旅を無事に終えた。

小出駅周辺は、破間川による扇状地や魚野川の谷底平野ということでほとんど道は平坦で、自転車での移動は快適だった。現在、小出駅周辺にレンタルサイクルのサービスを提供している場所は無いが、二次交通として自転車は適していると感じた。

 

ただ、残念な事に、只見線乗車と魅力的な石川雲蝶作品群の鑑賞を組み合わせる事は、全線復旧の10月1日以降の予定ダイヤでは多くの旅行者に勧められない。

10月1日からの予定ダイヤでは、以下の観光客が想定される。

・会津若松市民を中心とする、只見線沿線住人:始発の下り列車(会津若松6時8分発~小出10時41分)に乗って小出駅に到着し“作品鑑賞”。帰りは、13時12分か16時12分発の只見線の列車に乗車。

・新潟市方面や首都圏の方々:会津地方観光の翌日に、始発の下り列車に乗って小出駅に到着し“作品鑑賞”。帰りは、長岡駅や浦佐駅から新幹線に乗車。

・新潟市方面や首都圏の方々:新幹線に乗って浦佐駅や長岡駅で乗り換え、小出駅に降り立ち“作品鑑賞”後に、13時12分か16時12分発の只見線の列車に乗車。

 

現状では、福島県の人口集積帯である中通りから日帰りで“只見線+石川雲蝶作品群鑑賞”、会津地方に宿泊し朝9時前後に宿を出て“只見線+石川雲蝶作品群鑑賞”、という旅行ができない。

只見線のダイヤは“生活鉄道”、高校生を中心とする通学ダイヤのままなので、観光客の対象や行動が制限されてしまっている。

運休区間を持つ福島県は、“観光鉄道「山の只見線」”として公費投入(上下分離方式)で復旧させるが、JRと協議し、列車の増便まで踏み込まないとならない、と私は考えている。観光客増加の“社会実験”として、土日祝日限定で公費補助し観光客向けのダイヤにして欲しい。

 

小出駅を中心とする新潟県魚沼市の只見線沿線には、石川雲蝶作品群の他にも魅力的な場所がある。福島県と新潟県の沿線自治体が協業し、集客やリピーターの定着が実現するような行政施策や民間団体の活動によって、“観光鉄道「山の只見線」”が確立して欲しい。

  


長岡で下車後、墓参りをするため北に1kmほど離れた「光輝山 栄涼寺」に向かった。

 

本堂の脇を抜け、奥に向かい、ひときわ高い石塔の前で立ち止まり、参拝した。

 

幕末の長岡藩士で、家老と軍事総督であった河井継之助の墓だ。二度目の墓参りとなった。

河井継之助は、今年、ようやく公開になった映画「峠 -最後のサムライ-」の主人公。司馬遼太郎氏原作(小説「峠」)を読み、私は2008年4月に長岡を訪れ、初めてここに来た。*参考:映画「峠 -最後のサムライ-」URL:https://touge-movie.com/

河井継之助は戊辰役・北越戦争で負った左膝の傷が原因で、再起を喫して目指した(会津)若松城に向かう途中、塩沢村(現 只見町塩沢地区)で亡くなった。この地が沿線であったため、墓参り後に只見線に乗車した。*参考:拙著「全線乗車(小出⇒会津若松) 2008年 早春」(2008年4月10日)


 

長岡から信越線の列車に乗って、新潟に向かい下車。高架化が終了した駅舎を出ると、解体された万代口駅舎跡の空間が広がっていた。ここに整備される万代広場は2025年度中の完成を見込んでいるという。*参考:新潟市「新潟駅駅前広場整備事業」 

 

本来ならば、当日中に新潟から磐越西線経由で郡山に帰る事ができる。新津駅発の最終列車は17時37分で、会津若松駅で乗り換えて、郡山駅には21時24分着、というダイヤだ。

しかし、冒頭に記したように磐越西線は現在福島県内の山都~喜多方間が運休となっていた。

 

また、代行バス(主に野沢~会津若松間の設定)は新潟方面からの直通者を考慮しないダイヤになっているため、現在は、新津11時34分発の野沢行きに乗車しないと当日中には郡山に戻る事ができなかった。

今回は、18時50分に新潟駅前を出発する高速バスに乗り、会津若松駅前に行くことにした。

 

 

 

20:38、定刻より少し早く、高速バスは会津若松駅前に到着。

 

輪行バッグを抱え改札を通ると、脇に「ぽぽべぇ」が立っていた。

21:01、磐越西線の郡山行きが会津若松を出発。

 

 

22:13、列車は順調に進み、郡山に到着。無事に、只見線全線乗車と魚沼市の“越後のミケランジェロ”作品群巡りの旅が終わった。

 

代行バスに乗って、只見線を全線乗車するのは今回が最後になる予定だ。約11年間、只見線を一本につないでくれた代行バスの役割は大きかったと改めて思った。

 

一本につながっていた地方のローカル鉄道が分断され、不都合を感じるのは旅行者だけかもしれないが、100kmを超える山間の鉄路は人間の精神衛生上残されてもよいのでは、とふと思った。のどかな景色を眺めながら3~5時間ゆっくりと列車に乗る事で、精神がリセットされ、良い影響を与えるのではないかと考えたからだ。

只見線は全線運転再開すると135.2kmを最長5時間かけて走行することになる。福島県が中心となって進める「只見線の利活用」で、都会の喧騒で疲れ切った方々を誘い列車に乗ってリフレッシュしてもらう、という企画はどうだろう。福島県には検討してもらいたい。

 

 

(了)

 


・  ・  ・  ・  ・

*参考:

・福島県:只見線ポータルサイト/「只見線の復旧・復興に関する取組みについて

・福島県 :只見線管理事務所(会津若松駅構内)

・東日本旅客鉄道株式会社:「只見線について」(PDF)(2013年5月22日) /「只見線(会津川口~只見間)の鉄道復旧に関する基本合意書及び覚書」の締結について(PDF)(2017年6月19日) / 「只見線(会津川口~只見間)復旧工事の完了時期について」(PDF)(2020年8月26日)

・NHK:新日本風土記「動画で見るニッポンみちしる~JR只見線

・産経新聞:「【美しきにっぽん】幾山河 川霧を越えてゆく JR只見線」(2019年7月3日)

・福島県:平成31年度 包括外部監査報告書「復興事業に係る事務の執行について」(PDF)(令和2年3月) p140 生活環境部 生活交通課 只見線利活用プロジェクト推進事業

 

【只見線への寄付案内】

福島県はJR只見線全線復旧後の「上下分離」経営での維持費や集客・地域振興策の実施費用として寄付を募集中(クレジット可)。

 ①福島県ホームページ:只見線復旧復興基金寄附金・只見線応援団加入申し込みの方法 *現在は只見線ポータルサイト「只見線応援団」URL:https://tadami-line.jp/support/

 

②福島県:企業版ふるさと納税

URL:https://www.pref.fukushima.lg.jp/sec/16005g/kigyou-furusato-zei.html

[寄付金の使途]

(引用)寄附金は、只見線を活用した体験型ツアーや周遊ルートの整備、只見線関連コンテンツの充実化等に活用させていただきます。 沿線地域における日本一の秘境路線と言われる観光資源を活用し、更なる利用者の拡大と認知度向上を図ります。

 

以上、宜しくお願い申し上げます。

次はいつ乗る? 只見線

東日本大震災が発生した2011年の「平成23年7月新潟福島豪雨」被害で一部不通となっていたJR只見線は、会津川口~只見間を上下分離(官有民営)とし、2022年10月1日(土)に、約11年2か月振りに復旧(全線運転再開)しました。 このブログでは、“観光鉄道「山の只見線」”を目指す、只見線の車窓からの風景や沿線の見どころを中心に、乗車記や「会津百名山」山行記、利活事業に対する私見等を掲載します。

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