三島町「西隆寺」 2020年 終戦の日

太平洋戦争南部戦線に従軍した前住が、戦地で斃れた同僚を鎮魂するために建立したといわれる「乙女三十三観音」と、“第二次世界大戰々歿者英霊碑”と刻印された「ますらおの塔」で不戦の誓いをするために、JR只見線を利用し三島町の「西隆寺」に向かった。

 

西隆(サイリュウ)寺は811(弘仁2)年に結ばれた法相宗の庵を起源とし、1596(慶長元)年に当地に遷されたという。境内に点在する 「乙女三十三観音」は、前住の二十二世・遠藤太禅(1913-1991)和尚が建立発願。白河市の十代姉妹に依頼し、約3年をかけ制作されたという。*参考:拙著「三島町「乙女三十三観音」2019年 紅葉」(2019年11月10日) 

この「乙女三十三観音」に囲まれるように建っているのが、石碑「ますらおの塔」。塔には、“第二次世界大戰々歿者英霊碑”として66名の名が刻まれている。

 

 

前住は、第二次世界大戦開戦前に召集され、開戦後は、船舶工兵の下士官として南支から転戦し、ビルマで5年間戦い終戦を迎え、当地で1年間の捕虜生活を送ったという。*参考:NHK「こころの時代 -宗教・人生- 「観音の風光」」(1983年11月6日放送)/(番組文字起こし) http://h-kishi.sakura.ne.jp/「私の山歩きと旅」、「こころの時代へようこそ

 

この前住のビルマ戦線での壮絶な体験と「乙女三十三観音」建立発願に至った経緯が、紀野一義氏の著書に掲載されている。*出処:「 名僧列伝(二)」(紀野一義 著、講談社学術文庫) 

(引用)ジャングルを抜け出た者だけが助かるといわれたそのジャングルを遂に抜け出た時、師は思わずうしろを振り返った。そこには力尽きた戦友たちが思い思いの方向に向かって仆れ伏し、すでに死骸となっていた。(中略)三十三体の鎮魂の観音像を彫ってもらい、それを、広い境内を戦場に見立て、戦友の仆れ伏した場所に一体ずつ安置することによって、誰にも弔われなかった戦友の魂を鎮め、...(以下、省略) *出処:「 名僧列伝(二)」(紀野一義 著、講談社学術文庫) 文庫版まえがきより

 

前住の戦友達の名が刻まれた「ますらおの塔」が、戦友達を鎮魂するために彫られた「乙女三十三観音」に囲まれているという構図は、意味深いと私は感じている。

 

今日は、75回目の終戦の日。戦線を拡大し敗戦への道を突き進んだ日本の過ちを反省し、不戦の誓いを新たにするため「西隆寺」を訪れる事にした。  

*参考: 

・福島県:JR只見線 福島県情報ポータルサイト

・NHK:新日本風土記「動画で見るニッポンみちしる~JR只見線」 

・産経新聞:「【美しきにっぽん】幾山河 川霧を越えてゆく JR只見線」(2019年7月3日) 

・拙著:「次はいつ乗る?只見線」カテゴリ ー只見線の夏

 

 


 

 

只見町の「奥会津ただみの森キャンプ場」で3泊4日を過ごし、只見から代行バスに乗って会津川口に移動。

   

代行バスを降り、駅舎を通り抜けると、ホームには列車が待機していた。 輪行バッグを抱え、後部車両の乗り込んだ。

12:31、会津若松行きのキハE120形2両編成が会津川口を出発。

 

林道の上井草橋を潜ると、左側の車窓から、只見川(上田ダム湖)に突き出た大志集落が見えた。

  

 

 

会津中川を出て、「第四只見川橋梁」を渡った。*以下、各橋梁のリンク先は土木学会附属土木図書館デジタルアーカイブス歴史的鋼橋集覧

 

 

会津水沼を出て、細越拱橋(めがね橋、8連コンクリート橋)を渡った。

  

 只見川を見ると、渡し船が乗客を乗せて運行していた。

 

後方(只見川上流)に目を遣ると、微かに川霧が残っていたので、そこまで行くのだろうかと思った。

  

 

 

早戸を出て、早戸トンネルと滝原トンネルを潜り抜けると「第三只見川橋梁」を渡った。

 

車窓全体に人工物が入り込まない風景は、“観光鉄道「山の只見線」”を謳うに相応しい、と私は思っている。 

 

 

 

会津宮下を出ると「第二只見川橋梁」を渡った。

 

 

 

 

 

13:03、会津西方に到着。列車を見送った。

 

待合室に入ると“Youはどこから?”ボードが置かれていたが、訪れた客が貼るシールは3枚だけだった。

 

うち1枚は日本人によるもの。駅は「第一只見川橋梁ビューポイント」の最寄りだが、大半の客は手前の会津宮下駅を利用するため、もともと利用者は多くないが、ここまで落ち込む事は無い。新型コロナウィルスの影響は深刻だと、ここでも思った。

  

 

 

自転車を組み立て、移動を開始。

 

ホームの出入口には、只見線活性化対策協議会の「キハちゃん」が描かれた幟がはためいていた。*参考:会津坂下町「只見線応援キャラクター誕生!!」(2015年3月13日)

 

 

国道400号を進み、近道になる法面の坂を上ってゆく。「西隆寺」に行く前に、14時に閉まってしまう食堂で昼食を摂る事した。ちなみに、降雪期、この道は除雪されていない。

 

自転車を進めてゆくと、前方の木立の中にその店が見えた。

 

「どんぐり」に到着。会津地鶏料理と地元のそば粉を使った十割蕎麦が食べられる。

  

ログハウス風の外観をそのままに、椅子とテーブルを含めた内装にも木材を使った、雰囲気のよい店だった。

 

メニューを見ると、今月1日から11月8日まで行われている「第8回三島町会津地鶏キャンペーン」のチラシが目を引いた。料理は店に来る前から決めていて、会津地鶏の「もも肉塩焼き定食」を注文した。

 

 

注文を受けると、御主人が焼き始め、奥様と思わる方が盛り付けをされた。

10分とかからず、料理が運ばれてきた。ごはんの盛りは良く、おしんこと煮物の小皿も付き、ボリュームがあった。

肝心の会津地鶏のもも肉の塩焼きは、小ぶりだが、弾力と旨味が続く、食べ応えのある逸品だった。 

 

「どんぐり」の周辺には、三島町の産業・文化施設が集中している。

隣りには三島町生活工芸館伝統工芸品「奥会津編み細工」の技術継承と普及の拠点となっている施設で、毎年6月に開かれ、多くの客が訪れる「ふるさと会津工人まつり」の会場でもある。今年は、新型コロナウィルスの影響で中止となってしまった。

  

「どんぐり」の向かいにあるのが、イベントホールやギャラリーがある三島町交流センター山びこ

  

「どんぐり」から国道400号線方面に向かうと、会津桐タンス株式会社がある。三島町特産の桐製品の、町内唯一の工場になっている。

  

そして、国道400号線に入り、西方地区方面に向かって行くと、会津地鶏みしまやの鶏舎が並んでいる。 *参考:素材広場「会津地鶏みしまやさんインタビュー

 

 

 

 

 

西方地区の住宅街を進んで行くと、「西隆寺」の入口が現れた。

   

14:02、路地を進んで行くと、まもなく「西隆寺」に到着。5台の乗用車が停まっていた。

   

自転車を停めて、石段を上り、境内に入った。

 

そして、まっすぐ、左手にある「ますらおの塔」に向かった。

 

第二次世界大戰々歿者英霊、66名の名が刻まれている。私は頭をたれ黙とう。戦没者の英霊に不戦を誓った。

 

この「ますらおの塔」を取り囲むように置かれているのが、「乙女三十三観音」。

 

前住の遠藤太禅和尚が、共に行軍した同僚が斃れた場所に見立て、置いたという。

 

穏やか思案し、あるいは微笑んでいるでろう彼女達の表情を見ると、戦地に散った彼等の魂は鎮められているのではないかと思ってしまう。

 

木々の間、奥まった場所に置かれた彼女達を見ると、当時の戦地の惨状を想像せずにはいられなかった。

 

 

山門前に置かれた乙女たちは、寺を訪れた者を出迎えるように正面を向いている。

 

彼女達の前に立てられていた御札は、新しくなっていて、前住が詠まれた詩が全文書かれていた。

 

御札の詩は、前住の著作「観世音 声を限りに」(昭和53年刊、羽賀製本所製本)に、「乙女三十三観音」の写真とともに載せられている。

 

 

 

前住の墓にも、お参りをしたいと思い、寺の中に声を掛け尋ねると、2ヵ所あるという。1つは歴代住職の墓、もう1つは遠藤家の墓ということだった。

 

まずは、寺の裏、岩倉山登山口の脇の高台にある歴代住職の墓に向かった。

 

前住は二十二世。この墓石の前で、お参りをした。

  

 

続いて、境内にある遠藤家の墓。前住が、“一目惚れ”し、これを彫った鈴木姉妹に「乙女三十三観音」を依頼したと言われる「乙女かんのん」の脇、奥まったところにあった。

梵字だけが刻印された質素な墓石に向かって、冥福を祈り、不戦を誓った。 

 

「西隆寺」は会津西方から歩いてこられる場所にある。一人でも多くの方が訪れ、「乙女三十三観音」の表情を見て、「ますらおの塔」に刻まれた66の名を一人一人追い、前住・遠藤太禅和尚の想いに心を寄せて欲しいと思った。 

  

 

「西隆寺」を後にして、宮下地区に向かう。


西方地区には、他にも産業・文化施設がある。

旧西方小学校を利用した施設「森の校舎カタクリ」。児童・生徒達の合宿での利用を期待しているが、個人利用も可能になっている。

 

地元の建設会社の森林事業部が運営する「森のしごと舎」。貴重な木材の一枚板のテーブルなど、木材加工品の販売や木工教室などを行っている。

 

 

国道400号線を下り、会津西方駅前を通り過ぎると、まもなく「第二只見川橋梁」の撮影スポットが現れる。福島県の予算で木々を伐採し、新たに作られた場所だが、現在は福島県の事業で歩道設置工事が行われていた。おそらく、舗装され、安全柵が設けられるのだろうと思った。

 

国道400号を少し下った場所から「第二只見川橋梁」を見る。見晴らしの良い上路トラス橋だ。

  

 

さらに国道400号線を進むと、宮下温泉「栄光館」のそば、大谷川が只見川に注ぎこむ場所の色合いに目が留まった。

 

濁った只見川に、綺麗な大谷川の水が注ぎ込むが、ほぼ直角に交わるため境が直線だった。双方の流勢が均衡しているのだろうか、河口や川底の形状が影響しているのだろうか、この状態が続いている事を不思議に思った。

  

 

三島大橋を渡り、宮下地区に入り「みやしたアーチ3橋(兄)弟」ビューポイントに行く。真ん中が長男になっている只見線の大谷川橋梁になるが、それぞれ両端を枝葉の緑に覆われ、列車や車が通っていないと不思議な光景だ、と思った。

  

 

県道237号線に戻り、宮下地区の市街地を進むと、役場前の赤城清水が利用可能になっていた。ペットボトルに冷たい水を入れさせていただく。

  

 

このあと富岡まで帰るため、近くの店で夕食を補給してから、会津宮下駅に向かった。

  

 

15:59、会津若松行きの列車に乗り込み、会津宮下を出発した。 

車内は混んでいて、座る事ができなかった。ツアー客も含まれていたようで、3割ほどの客が途中の会津柳津で降り、その後に座席を利用することができた。

 

 

会津西方を過ぎ、名入トンネルを抜けると「第一只見川橋梁」を渡った。

  

  

 

列車は奥会津を快調に走り、七折峠を下り、会津盆地に入っていった。会津若松方面は厚い雲に覆われ、「磐梯山」も見えなかった。

   

西部山麓上には、一部青空も見え、「明神ヶ岳」を始めとする山々の稜線を見る事ができた。

 

 

 

17:18、会津若松に到着。「西隆寺」の訪問も含め、3泊4日の只見線沿線での旅が無事に終わった。

この後、磐越西線、磐越東線、常磐線と乗り継ぎ富岡に帰った。

   

 

今週の日曜日に秋田に向けて出発してから、「リゾートしらかみ」号に乗車し、福島に戻り只見線に乗って「奥会津ただみの森キャンプ場」を訪れ、只見町名物「マトン・ラム肉」を食べ、魚沼市「権現堂山登山」に臨み、そして三島町「西隆寺」訪問と、1週間に及ぶ旅を無事に終える事ができた。

予定を詰め込み、ゆったりと体を休める事はできなかったが、只見線に関する知見を深められ充実したお盆休暇を過ごす事ができた。

 

今回の経験をこのような形で伝える事で、多くの方の只見線への関心が高まり、乗客や沿線への観光客の増加につながれば良いと思う。 


  

(了)

 

 

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*参考: 

・福島県 生活環境部 只見線再開準備室只見線の復旧・復興に関する取組みについて

・東日本旅客鉄道株式会社:「只見線について」(PDF)(2013年5月22日)/「只見線(会津川口~只見間)の鉄道復旧に関する基本合意書及び覚書」の締結について(PDF)(2017年6月19日)

  

【只見線への寄付案内】

 福島県はJR只見線全線復旧後の「上下分離」経営での維持費や集客・地域振興策の実施費用として寄付を募集中(クレジット可)。 

①福島県ホームページ:只見線復旧復興基金寄附金・只見線応援団加入申し込みの方法 *現在は只見線ポータルサイト「只見線応援団」URL:https://tadami-line.jp/support/

 

②福島県:企業版ふるさと納税

URL:https://www.pref.fukushima.lg.jp/sec/16005g/kigyou-furusato-zei.html

[寄付金の使途]

(引用)寄附金は、只見線を活用した体験型ツアーや周遊ルートの整備、只見線関連コンテンツの充実化等に活用させていただきます。 沿線地域における日本一の秘境路線と言われる観光資源を活用し、更なる利用者の拡大と認知度向上を図ります。

 

以上、よろしくお願い申し上げます。

次はいつ乗る? 只見線

東日本大震災が発生した2011年の「平成23年7月新潟福島豪雨」被害で一部不通となっていたJR只見線は、会津川口~只見間を上下分離(官有民営)とし、2022年10月1日(土)に、約11年2か月振りに復旧(全線運転再開)しました。 このブログでは、“観光鉄道「山の只見線」”を目指す、只見線の車窓からの風景や沿線の見どころを中心に、乗車記や「会津百名山」山行記、利活事業に対する私見等を掲載します。

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