今から約40年前、十代の石工師姉妹によって彫られ始めたという「乙女三十三観音」を見るために、三島町西方地区ある西隆寺を訪れた。
西隆(サイリュウ)寺は811(弘仁2)年に結ばれた法相宗の庵を起源とし、1596(慶長元)年に当地に遷されたという。現在の宗派は曹洞宗、山号は宝澤(ホウタク)山。
「乙女三十三観音」は二十二世・遠藤太禅(1913-1991)和尚が建立発願。当時19歳と17歳の鈴木姉妹に依頼し、約3年をかけ制作されたという。現在も白河市双石(クラベイシ)には鈴木石材加工という店がある。
山門の前には、御詠歌が刻まれた石碑が置かれ、鈴木姉妹の名もあった。
西方観音霊場
三十三めぐり巡りて観音乃
み名を呼ぶなり声を限りに
昭和五十二年 秋彼岸建立
彫刻師 白河市双石
鈴木マリ子 二十二才
妹 るり子 二十才
西隆二十二世 太禅 代
西隆寺「乙女三十三観音」は2016(平成28)年度に「日本遺産」として認定された、「会津の三十三観音めぐり~巡礼を通して観た往時の会津の文化~」の構成文化財の一つになっている。*参考:極上の会津プロジェクト協議会 日本遺産 会津三十観音巡り「西隆寺乙女三十三観音」
ちなみに“三十三”という数字は、三十三の姿に身を変えて衆生を救うといわれる観音信仰に由り、平安時代には三十三観音巡りが始まったと言われている。
今日は、只見線を走る列車の写真を撮る事から始め、以下の旅程を組んだ。
・「第三只見川橋梁」を渡る列車を撮る
・「第一左靭橋梁」を渡る列車を撮る
・道の駅「尾瀬街道みしま宿」に行き、展望所から「第一只見川橋梁」を渡る列車を撮る
・西隆寺に行き「乙女三十三観音」を見る
・三島町観光交流館「からんころん」で「みやした蕎麦と豆腐の会」がふるまう手打ちそばを食べる
・12:59会津宮下発の列車に乗り、富岡に帰る
各地への移動は、昨日と同じく、自転車を利用した。
*参考:
・福島県:JR只見線 福島県情報ポータルサイト
・東日本旅客鉄道株式会社:「只見線について」 (2013年5月22日)
・NHK:新日本風土記「動画で見るニッポンみちしる~JR只見線」
・産経新聞:「【美しきにっぽん】幾山河 川霧を越えてゆく JR只見線」(2019年7月3日)
・拙著:「次はいつ乗る?只見線」カテゴリ ー只見線の秋ー
昨夜泊まったのは、宮下地区にあるゲストハウス「ソコカシコ」。長野県諏訪市出身で、9年前に町生活工芸館の木工指導員として移住してきたオーナーが、2017年6月に古民家をリノベーションしてオープンさせた。
この周辺は、昨年、国重要文化財の指定を受けた出土品が発掘された「荒屋敷遺跡」ということで、この建物は遺跡の上に建っているという。*参考:文部科学省文化庁 文化財オンライン「福島県荒屋敷遺跡出土品」
内装は、美大卒でアート活動をしてきたオーナーのセンスが感じられ、洒落た装飾品が室内を華やかにしていた。
部屋は相部屋で、てっきり、二段ベットと思ったが、8畳ほどの和室に二つの布団が並べられていた。衝立も無く、ちょっと驚いたが、『これもゲストハウス』と受け入れた。ちなみに、もう一人の客は、青年男子で、幸運にもイビキをかく方ではなかった。
食に関するスペース。
毎週木金土曜日には宴会営業(居酒屋、要予約)されているということで、この日もフリースペースでは賑やかな宴が行われていた。
水回りも清潔感があり、快適だった。女性も大きな不満は感じないだろうと思った。
通信環境は、1Fに置かれた市販ルーターにアクセスする方式で、無料でWi-Fiが利用できた。2Fでもサクサク通信可能で、パソコン作業は問題なかった。
三島町には宮下温泉と早戸温泉に温泉旅館があり、早戸温泉には「つるの湯」に自炊設備完備の湯治宿泊所、また近くには一棟貸切の素泊まり宿「一棟貸ヴィレッヂ ほんそん棟・かわべり棟」がある。
只見線の利用者を増やすには、宿の多様性が必要だが、このゲストハウス「ソコカシコ」はその役割を果たしていると思う。あとは高価格帯の宿泊施設になるが、曲り家の空き家をリノベーションするなどして只見線沿線に適宜設置される事が現状では良いのではないかと、私は考えている。駅近くに温泉を持つ、三島町は適地ではないだろうか。
今朝は、まず金山町にある「第三只見川橋梁」の撮影スポットに行き、上り列車を撮った。
県道237号(小栗山宮下)線を自転車で進み、20分ほどで当地に到着。現場には4人の“撮り鉄”諸氏が先乗りしていた。皆、車移動で会津ナンバーの1台を除き、全て県外ナンバーだった。
7:27、構図を探りながら列車を待っていると、会津若松行きの列車が「第三只見川橋梁」を渡り、シャッターを押した。
いつもの事ながら、先客の頭越しにシャッターを切るしかなく苦労したが、朝日の陰陽と漂う雲が、冴えた空気ではっきりと見えたキハ40形と一緒に映り込み、そこそこ満足ゆく一枚になった。
次は、会津宮下駅ですれ違いを行う下り列車を「第一左靭橋梁」で撮るために、急いで来た道を引き返した。
界橋を渡り、再び三島町に入ると、「第三只見川橋梁」を別の角度から捉える事ができる場所に3人の“撮り鉄”諸氏が居た。車は2台あり、ともに県外ナンバーだった。
7:37、「第一左靭橋梁」を通過する会津川口行きの列車を撮った。
陽は未だ低く陰っていたが、宮下ダム湖の青緑の水鏡には波紋が無く綺麗だったこともあり、ここでも、まずまずの一枚を撮る事ができた。ここには3人二組の“撮り鉄”諸氏が居て、どちらも県外ナンバーの車で来ているようだった。
東北電力㈱宮下発電所に向かい、慰霊碑に手を合わせた後、宮下ダムも撮った。
続いて向かったのが、道の駅「尾瀬街道みしま宿」。県道237号線から国道252号線に入り、後方から来る車に気を付けながら自転車を進めた。
道の駅には多くの車が停まり、ちょうど会津若松駅前からやってきた「奥会津ぶらり旅」只見川線のバスが停車していた。
車は県外ナンバーが半数以上で、観光客は聞こえてくる言葉から、約半数がインバウンドで、そのほとんどがアジア系だと思われた。
私は、自転車を停め、「第一只見川ビューポイント(展望台)」に向かった。私の前を行くグループもアジア系だった。
8:46、最上部にあるDポイントに到着。カメラ持つ人であふれていた。
列車が来るまでの間、先乗りし三脚を構えた日本人の“撮り鉄”諸氏が、インバウンドの方に『そこっ、手が入る(手を)伸ばさないで』『頭が入るから、そこに立たないで』などと言っている場面が何度も繰り返された。日本語が分かる方も多く、素直に位置を変えていた。
私は、紅葉と桜の時期など、酷く混雑する撮影場所は予約制で有料にすべきだと考えている。旅行者、特にインバウンドが良い撮影場所を確保できる機会が必要だと思うからだ。また、現在、公費投入し復旧工事が進み、市町村・県税で運行が維持される只見線の現状を考え合わせても、撮影場所の予約制・有料化は早急に検討すべきだと、私は思っている。
9:05、会津川口行きの列車が「第一只見川橋梁」を渡り始めた。この瞬間から10秒ほど、話し声よりもシャッター音が大きく聞こえた。私も腕をのばし、シャッターを切った。
今年の紅葉は赤が出ていないようで、陽も雲に遮られ届かず、彩り不足は感じたが、構図がオーソドックスで良いものを撮る事ができた。
続いて、この列車が会津宮下駅ですれ違いを行う上り列車を撮るために、Cポイントに下ってゆく。
Cポイントにも多くの観光客が居た。
9:17、会津若松行きの列車が「第一只見川橋梁」を渡り始めた。ここでも、言葉は途切れ、シャッター音が周囲に響いた。
列車の撮影を終え、最後はBポイントに向かった。列車は通過したが、ここにも多くの観光客が残り、列車の撮影について批評しあっていた。
Bポイントから見える「第一只見川橋梁」。
「第一只見川ビューポイント」を後にして、道の駅の眼下に見える歳時記橋で「第二只見川橋梁」を撮影した。
只見線の橋梁の撮影を終え、西隆寺に移動。
町道を通り、北側から西方地区のメイン通り、旧国道400号線に入ると、まもなく西隆寺を示す看板が現れた。
9:54、西隆寺に到着。駐車場には多くの車があったが、軽トラが多く、違和感があった。
自転車を停めて、参道を上り始めると、境内から聞こえてくる人の声や物音も墓参りや観光目的のものとは思えず、なんだろうと思った。
山門を潜り、作業着や長靴を履いた大勢の男衆を見て、石像を取り囲む三本の木組を確認し、何事かが分かった。
今日は雪囲いの日だったのだ。
お目当ての「乙女三十三観音」は全て囲われ、他大半の石像も木の間から見るしかない状態だった。
『よりによって...』と落胆しながら、観音様を見ていると、作業中の方が寄ってこられ『観音様、見に来たんですか?』と尋ねられ、これを機に色々話をさせてもらった。
聞けば、この作業は西方地区の互助会の作業で、今年は例年より早くここ(西隆寺)の雪囲いをすることになったのだという。この辺りで根雪になるのは12月の後半で、雪が降り始めてから行う時もあったが、今年は(理由は分からないが)特に早いと言われた。
私は、これも貴重な機会と思い、雪囲いされた「乙女三十三観音」を撮って回ろうと思い、カメラを構えていると、先ほど話をしていただいた方が、皆で一服していた本堂前から私の方に来られた。
そして、寺から振舞われたおでんを持ってこられ『ここのおでんは旨いから、食べて』と勧められた。私はありがたく頂戴し、本堂の前に移動し、別の方とも話をしながらいただいた。よく味のしみたおでんで、とても美味しかった。
休憩は20分ほどで終わり、互助会の方々は、他所で作業があるようで移動してしまった。私は、少し本堂を見て回った。
立派な造りで、西方地区のみならず広範に多くの檀家を抱えているのだろうと思った。
ここの秘仏「木造聖徳太子立像」は、起源となる庵に奉られたものだと言われ、町指定の重要文化財になっているという。*参考:三島町交流センター やまびこ「木造聖徳太子立像」
「乙女三十三観音」は、山門から本堂に続く参道の南側、こんもりとした盛土の周りに点在している。
この盛土の上に置かれているのが「ますらおの塔」。第二次世界大戦々没者の英霊、66名の名が刻まれていた。
「乙女三十三観音」を建立された遠藤太禅師も帝国陸軍に召集され、南方での激戦を生き延び生還された方だ。師は1938(昭和13)年に中国・南寧に派遣され、第二次世界大戦が始まると南支から南進、第一線で船舶工兵の下士官として転戦し、ビルマで5年間戦い終戦を迎え、当地で1年間の捕虜生活を送ったという。*参考:NHK「こころの時代 -宗教・人生-「観音の風光」」(1983年11月6日放送)/(番組文字起こし)URL: http://h-kishi.sakura.ne.jp/「私の山歩きと旅」、「こころの時代へようこそ」URL: http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-145.htm
この「ますらおの塔」の設置趣旨は不明だが、宗教家として死線を超えてきた師が、仲間を弔うために建てられたのだろうと思った。
そして、その周りに点在する「乙女三十三観音」。不思議な事に、彼女達の配置や位置は不規則で、1番、2番、3番・・・と順番に見て回ることは、難しくなっている。
この疑問に答えてくれる記述があった。以下、引用させていただく。
(抜粋引用)ジャングルを抜け出た者だけが助かるといわれたそのジャングルを遂に抜け出た時、師は思わずうしろを振り返った。そこには力尽きた戦友たちが思い思いの方向に向かって仆れ伏し、すでに死骸となっていた。(中略)三十三体の鎮魂の観音像を彫ってもらい、それを、広い境内を戦場に見立て、戦友の仆れ伏した場所に一体ずつ安置することによって、誰にも弔われなかった戦友の魂を鎮め、...(以下、省略) *出処:「名僧列伝(二)」(紀野一義 著、講談社学術文庫) 文庫版まえがきより
壮絶な背景だ。異国の地で、無念の死を遂げた同胞の亡骸に重ねるように観音様を置いた師の姿を思い描くと、胸が押し潰された。ただ、不規則に点在する彼女達の表情を見入ると、成仏を願い鎮魂の祈った師の想いは同胞に届いたのではないだろうかとも感じた。
師は1946(昭和21)年に帰還された後、『ずぅーっと観音像を造りたい、造りたいと思っていた』そうだが、なかなかその機会に恵まれなかったという。
時は流れ、あるテレビ番組で見た「乙女かん音」像を気に入り、“是非、これを彫った方に三十三観音を彫って欲しい”とお思いになったという。
そして、希望通り「乙女かん音」像の作者である、白河市に住む鈴木姉妹に制作を依頼し、師の長年の願いは叶えられた。「乙女かん音」像も譲り受け、境内に置かれた。
乙女かん音
丸い両手を合わせ/あお向いたあどけなさ/私にもこんな日があったっけ//風の声も花の歌声も/小鳥の語る旅の話も/素直にきけた日/そっと拝めば/昔の日に帰してくれる/汚れ知らぬ乙女かんのん/乙女姉妹にきざまれて...(以下、略)
鈴木姉妹は、「十番 微笑かんのん」までは師匠である父親の指導を受けながら作成。不幸にも父親が亡くなられた後は、姉妹だけで彫り続け、約3年かけて“三十三観音”を作り上げたという。
このように様々な逸話を持つ「乙女三十三観音」には、全てに師が付けた名がある。師は、彼女達が作られる前から観音様の名を考えていたらしく、彫られた像を見てから名を選び、さらには、その観音様に詩を詠われたという。
以下、観音様の舟形光背に刻まれた番号順に、遠藤太禅師が付けられた名とともに掲載する。また、観音様の前に立てられていた御札に書かれている詩の一部を載せたいと思う。
一番:哀切かんのん
人生に三十三の難処があるとか/だれでも苦悩の路を通る/哀しいことだけど/人となるための定めなのか/泣いて叫んで救いを求めると/哀切の声で...(以下、略)
二番:不滅かんのん
はかりしれぬ愛と/はかりしれぬ悲しみと/永遠に待ちつづけ給う/大慈悲の観音菩薩/あなたに願えば/死なぬ命を与えて下さるとか...(以下、略)
三番:母心かんのん
ひとりぼっちで/母の部屋に坐ると/山寺の秋の寂しさ骨身にしみる/十年の長いとし月/母をひとりにさせて/戦場をかけめぐった私/独りぼっちの母は...(以下、略)
四番:一路かんのん
哀しい時はかなしみにひたり/苦しい時はくるしみにひたる/なまじ/のがれんともがくより/素直にうけたなら/二重の苦悩は受けまいもの...(以下、略)
五番:落陽かんのん
いたく母に叱られた幼い日/かんしゃくを起こして/父の大切な湯呑みを割った/黒ずんだ荒れた掌で/黙って破片をかき集めている母/破片の上にポロポロと/涙を落とすのを見た...(以下、略)
六番:碧玉かんのん
晩秋の林を朱にそめて/いちばん美しい光を投げて/さよならしている夕陽/母は私の頭をなでながら/林の中から美しい女の子が来て/小さな手を開くと/すきとおる碧い小石がひとつ...(以下、略)
七番:合掌かんのん
かんのんさまの前で/かんのんさまを見ています/かんのんさまに見られています/合掌して見あげると/合掌して見てくださる...(以下、略)
八番:恋慕かんのん
風の吹きすさぶ荒野をさまよい/冷雨にぬれてたどる疎林の路/樹の下に休み/傷だらけの脚をもんで/ひたすらにあなたを呼ぶ/これから/どれだけ歩いたなら/あなたにめぐり逢えるのか...(以下、略)
九番:妻子かんのん
三十三に身を変えて/すべての人を救うとか/昨日出会った人も/今お茶のみしている隣りの人も/観音さまじゃないかしら/あの人もこの人も/私の妻だって/観音さまじゃないかしら...(以下、略)
十番:微笑かんのん
どんな苦悩も除いてあげると/あなたは誓ってくれました/この世に苦しみある限り/どこにでも居られると/あなたにめぐり逢いたいと/昨日も今日も歩き続けて...(以下、略)
十一番:野分かんのん
子供たちが帰ったら/観音さまは花でいっぱい/椿の葉に小菊の菓子/コスモスの頚飾り/花の靴はまっかなケイトウ/子供と遊ぶ観音さん...(以下、略)
十二番:旅路かんのん
一日雨にぬれて/いろり火に暖められ/熱いお粥と人の情に泣きました/今宵足をいため/樹の下で休みます...(以下、略)
十三番:越路かんのん
風が吹くとその声のかなしさに/雨が降ると一緒に泣けて/独り山路を超え札処へ参るのです/歩きつかれたら/樹の下でやすみ/月が出たら/光の中で眠ります...(以下、略)
十四番:せせらぎ観音
歩きつかれたら/岩かげの樹の下で休みます/清冽な清水が湧き/かわきをうるおしてくれます/心の耳をすますと/清水は私の中を流れています/妙なるせせらぎを立てて...(以下、略)
十五番:つぼみ観音
固いつぼみの蓮華をもって/いわたるように/何もいわず笑み給う/悲しみに耐えて/いまにも泣き出しそうに/謎のように示されるつぼみ/教えて下さい...(以下、略)
十六番:蜻蛉かんのん
片頬に手を当てて/頚をかしげて居られる/蜻蛉がとまり/胡蝶がヒラヒラ舞っても/一点を見つめたまま/静寂に耐えられる/世間の音をききもらすまいと...(以下、略)
十七番:桃花かんのん
春はいつ来るのやら/野も山も深い雪/ひなの祭りに/子供達のために飾った人形/寒さにふるえています/おだいりさまは息子/お妃さまは嫁さん...(以下、略)
十八番:つる草かんのん
思い通りにゆかぬ時/坐って待つことを/教えてくれた妙観世音/ひざの上に青苔がはえ/つる草のかんむりに/白蝶がとまって羽を動かす...(以下、略)
十九番:龍髪かんのん
小さな指をからませて/あす来てネとささやいた少女/緑の丘の杏の花が/龍髪にホロホロと散っていた/その夜わたしは/あわただしい出撃命令を受けた...(以下、略)
二十番:子恩かんのん
私がわたしになる為に/私に与えられた子供達/片身のせまい思いをさせまいと/無気力でしょぼくれ姿/正体もなくへべれけの姿/いやしげな姿も見せたくないと...(以下、略)
二十一番:姿見かんのん
毎朝み姿に向う/晴れの日は輝かしい微笑/雲りの日は悲しげなお顔/日毎に違う不思議さ/今日晴れて微笑の観音に向かうと/暗いまなざしで...(以下、略)
二十二番:スミレ観音
銃弾が土砂をはね/炸裂した砲弾は大地をゆする/水びたしの壕の中から/暗い雨空を見上げるとき/壕のふちにしがみ付いた白いスミレ/わずかの根を雨足に叩かれ...(以下、略)
二十三番:呼声かんのん
毎日のあわただしさは/あてなしの放浪の旅路/その果てに何かあると信じて/ひたむきに歩くだけ/ああ、少し休ませて下さい。/私を呼ぶ声が風の中から聴こえるから...(以下、略)
二十四番:野花かんのん
観音さまと名を呼べば/ホトホトと暖かく/今日も亦野に花を探し/おひざに供えて見上げる/慟哭寸前のほほえみは/私を何故か哀しませる...(以下、略)
二十五番:秋風かんのん
心がすり切れ/失意の谷にずりおちいかりに身を裂く/己れを失った時の哀れさを/私はいちばんよく知っている/自らを虐げてつかれはて/やっと気付いてあなたを呼ぶ/魂にあなたの声をきくと...(以下、略)
二十六番:胡蝶かんのん
花と胡蝶の語らいが/はっきり聴こえた日/風と小川のコーラスが/すばらしいと驚いた日/ゲンゲ草の原っぱで/蒼い空を見上げて/だまっていつまでも居た日...(以下、略)
二十七番:妙音かんのん
合掌し/ただに祈る/何も求めず/見上ぐれば微笑し給う/おろかにも祈りコトバ知らず/ひたすらに/大いなる胸に抱かるを願う...(以下、略)
二十八番:法乳かんのん
むら雲の如き煩悩/おどろおどろに慾念/われ生きてあれば/群がりおこるもろもろの/清からぬ思い/自虐の果てなすすべもなく/つかれ果てたる旅路に...(以下、略)
二十九番:縁生かんのん
たった一度の出会いを/大事にしよう/逢った時が別れと知れば/出会いの不思議を大事に思う/縁なければ/永遠に逢い得ぬものを...(以下、略)
三十番:流水かんのん
失意にあえぎ/すべのての光を失い/生きる力をすりへらして/さまよいつづけた果て/はるかにあなたを見て/胸をうたれたのです...(以下、略)
三十一番:麗光かんのん
白い蝶がヒラヒラ私を誘います/甘い香りのレンゲ草の原っぱに/みつばちたちのコーラス/あおい空どこまでも/ポッカリ浮かぶ一ちぎれの雲...(以下、略)
三十二番:一輪かんのん
世界の中で/一人しかいない私が/たった一つのいのちで/一回きりの人生を/今歩んでいることを知った時/烈しい驚きと畏れで/オロオロし...(以下、略)
三十三番:うず潮かんのん
めぐり来て/ただにひれ伏す/われは今/観音を見たり/巨なる樹よりも高く/うず潮の海よりも深く/わが胸に/高なる血潮/その中に...(以下、略)
前回訪問時は、全ての観音様の前には、それぞれの名と詩が記された手書きの御札が立てられていた。
しかし、今回は雪囲いされたことで、全て抜かれ、本堂の廊下に積み上げられていた。
雪が融ければ、また御札は立てられ、観音様と一緒に見る事ができると思うので、是非、多くの方に見てもらいたいと思う。
また、御札の詩は遠藤太禅の著作「観世音 声を限りに」(昭和53年刊、羽賀製本所製本)で「乙女三十三観音」の写真と一緒に読むことができるので、図書館などで手に取って欲しい。
西隆寺「乙女三十三観音」は、可愛らしい観音様のその表情に癒され心が和む場という印象があったが、今回の訪問で、戦没者の鎮魂の場でもある事を知った。
様々な無念を抱え、戦地に散った先人の御霊が、乙女の姿をした観音様によって鎮められ救われているのではないだろうか。太禅師の願いは叶い、今は、多くの戦友に囲まれ、心安らかにおられるのではないだろうか。
是非、多くの方に西隆寺「乙女三十三観音」を訪れて欲しいと思った。
私も再訪したい。都合が付けば、終戦の日に、美しい彼女達に祈りを捧げながら、太禅師を偲び、再び戦争を起こさない決意を新たにしたいと思う。
西隆寺を後にして、町の観光交流館「からんころん」に向かった。
西方地区は標高が高く、先に訪れた道の駅「尾瀬街道みしま宿」が、ほぼ正面の位置に見えた。
三島町内で伐採した木材を利用したテーブルやイスなどの木製製品の販売や、木工教室、栃の木の伐採の見学会などを企画している。
アートギャラリーとホールを持つ「三島町交流センター やまびこ」。
この交流センターの前にある食事処「ログハウス どんぐり」。メニューには会津地鶏の料理や蕎麦などがある。
これら施設から最寄りの会津西方駅までは国道400号線が通じている。斜面の木が“景観創出”で伐採されたのか、坂の途上から、駅を含め只見線のレールが見えた。
11:31、ゆっくりと自転車を進め、20分ほどで三島町観光交流館「からんころん」に到着。
自転車を停め、さっそく館内に入り、テーブルに着く。先客は2組6名。カウンターの上に掲げられた「蕎麦と豆腐の会」の木版には“新そば”の札が貼られていた。
もりそば(並)を注文すると、さほど時間がかからず運ばれてきた。
三島町産などのそば粉「会津のかおり」を使った十割蕎麦。香りが立ち、風味がよく、のど越しは最高だった。
「みやした蕎麦と豆腐の会」の手打ち蕎麦と手作り豆腐は毎月第2・4土日曜日に提供されているが、詳しくは「からんころん便り」に詳しい。
全ての予定を終え、会津宮下駅に向かう。自転車を折り畳み、輪行バッグに入れて列車を待つ事にした。
構内には“Youはどこから?”ボードがあり、台湾とタイからのインバウンドが圧倒的であることは一目瞭然だった。
下のフリースペースを見ると、ラグビーワールドカップ日本大会の影響か、スコットランドとニュージーランドから訪問もあったようだ。
窓口で、切符を購入。今日は、会津若松の手前の七日町で降りる。運賃は¥860。会津若松から郡山間は、昨日使った「Wきっぷ」のもう一片を使う。
列車の到着時間が近づいたためホームに入り、北側にある古い施設を眺めた。
転車台と給炭台だ。
会津宮下駅は、開業後しばらく(1941(昭和16)年~1956(昭和31)年 )只見線の終点だった事もあり駅施設が充実していた(当時は国鉄会津線)。私は、これら鉄道遺産を、只見線の利活用の為にリノベーションできないかと思っている。
12:58、会津若松行きの列車が入線。目の前を通り過ぎた車内の様子を見ると、2両編成の車両は、客であふれていた。
列車はすぐに会津宮下を出発。車内の混雑は、会津川口~会津柳津間を乗車して沿線の紅葉を見るツアー客だと思われた。この時期の土日休日、日中の上下線で見られる光景だ。
今回、いつもと違ったのは“みんなで応援 只見線”と背中に書かれた法被を着て、特産品を入れたカゴを持ったスタッフが車内を往復していた事。販売をしながら、橋梁に差し掛かると見どころを説明していた。
この取り組みは、福島県が中心となっている「只見線利活用策」の一環。法被を着て、社内販売と車窓からの風景を説明をしていたのは、昨年7月に福島県から“只見線地域コーディネーター”の委嘱を受けた酒井治子氏。以前は、只見町観光まちづくり協会の職員だった方だ。*参考:福島県 只見線ポータルサイト「只見線地域コーディネーター活動日記」/ 下掲記事:福島民報 2019年10月7日付け紙面
列車は会津宮下を出発して、直後に大谷橋梁を渡り、左右にアーチ橋を見る。
その後、「第二只見川橋梁」を渡る。車内から見ると、見頃はまだ先か、といった河岸の色付きだった。*以下、各橋梁のリンク先は土木学会附属土木図書館(http://www.jsce.or.jp/library/archives/index.html)「歴史的鋼橋集覧」
その他の乗客も、近くの窓に顔を寄せ歓声を上げながら、カメラやスマートフォンを構えて、何度もシャッターを切っていた。“只見線随一の景観ポイント”としてPRされ、おそらく旅行のパンフレットにも載っていたであろう風景を、列車の中から見て、皆はどう思ったのだろうか、と考えた。
会津桧原を経て、原谷トンネルを抜けると「滝谷川橋梁」を渡った。
この橋梁上、北に見える渓谷は、福島県側では貴重で、個人的には見どころだと思っていたが、酒井さんと車内放送のアナウンスは無かった。
直後に停車した滝谷の廃ホームのモミジ。今年の紅葉は“赤が今一つ”で、陽射しが強いこともあり鮮やかさには欠けたが、“紅一点”の存在感は健在だった。
この後、列車は、郷戸を経て、会津柳津に停車。予想通り、ツアー客は一気に降りた。酒井さんもここで降りた。いつも思う事だが、今回のツアーに参加した客が、只見線のリピーターとなり、個人旅行でも訪れて欲しい。
乗客は30人程が残り、静かになった車内にはディーゼルエンジンの音が際立つようになった。
列車が会津坂本、塔寺を経て七折峠を下り会津盆地に入ると、遠くに「磐梯山」が見えた。二日間滞在した奥会津の旅が終わったのだと実感した。
時代が変わる只中に居る事を感じ、只見線も、多くの人を惹きつけて乗せる“観光鉄道「山の只見線」”へと大変革を遂げる事を願った。その為に、私はできる事をしてゆきたいと、改めて思った。
(了)
*追記:2019年12月1日
資料を検索していたところ、今年4月の読売新聞・福島版に「只見線の車窓から」という特集連載があり、「西隆寺 乙女三十三観音」が取り上げられていた。記事には“1976年春、先代の住職の遠藤太禅さんに観音像の制作を依頼された。当時は21歳と18歳”とあり、制作期間は1年半だったという。私がが冒頭で記した、“当時19歳と17歳の鈴木姉妹に依頼し、約3年をかけ制作された”というのは、誤りかもしれない。*記事出処:読売新聞 2019年4月29日付け紙面
・ ・ ・ ・ ・ ・
*参考
・福島県 生活環境部 只見線再開準備室: 「只見線の復旧・復興に関する取組みについて」
・東日本旅客鉄道株式会社:「只見線(会津川口~只見間)の鉄道復旧に関する基本合意書及び覚書」の締結について(2017年6月19日)
【只見線への寄付案内】
福島県はJR只見線全線復旧後の「上下分離」経営での維持費や集客・地域振興策の実施費用として寄付を募集中(クレジット可)。
①福島県ホームページ:只見線復旧復興基金寄附金・只見線応援団加入申し込みの方法
*現在は只見線ポータルサイト「只見線応援団」URL:https://tadami-line.jp/support/
②福島県:企業版ふるさと納税
URL:https://www.pref.fukushima.lg.jp/sec/16005g/kigyou-furusato-zei.html
[寄付金の使途]
[奥会津の魅力を活かす!レールがつなぐ自然と食の満喫モデル構築事業]
(引用)寄附金は、只見線を活用した体験型ツアーや周遊ルートの整備、只見線関連コンテンツの充実化等に活用させていただきます。 沿線地域における日本一の秘境路線と言われる観光資源を活用し、更なる利用者の拡大と認知度向上を図ります。
以上、よろしくお願い申し上げます。
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