乗り初め(全線乗車 小出⇒会津若松) 2018年 冬

2018年、JR只見線の乗り初(そ)めは、小出から会津若松まで全線乗車する事にした。

*参考:

・福島県:只見線ポータルサイト

・NHK:新日本風土記「動画で見るニッポンみちしる~JR只見線」 

・東日本旅客鉄道株式会社:「只見線について」(PDF)(2013年5月22日) /「只見線(会津川口~只見間)の鉄道復旧に関する基本合意書及び覚書」の締結について(PDF)(2017年6月19日)

・拙著:「次はいつ乗る?只見線」カテゴリ ー只見線の冬ー / ー只見線全線乗車

 

 


  

  

昨日、夜勤明けの後に仮眠を取り、郡山駅に向かった。

 

14:53、磐越西線の列車が郡山を出発し、その後、会津若松新津で乗換え。20時17分に、只見線に所縁のある新潟県長岡市長岡に到着。2008(平成20)年4月9日以来、約10年ぶり二度目の訪問だ。

駅構内の通路には、大きな横断幕が掲げられていた。

今年は「戊辰役150年」だが、「長岡開府400年」でもあるようだ。駅前のアーケードには「長岡開府400年」を知らせる小さなフラッグも掲げられていた。

 

駅西口周辺を散策し、夕食を摂る店を探索。新天街のアーケードで、いい感じの居酒屋を見つけた。その名も「長岡藩」。

暖簾をくぐり、引き戸を開けて、カウンター席に座る。店内には4人の先客。女将と料理人の男性の2人で切り盛りしている店だった。

 

生ビールから入り、名物「栃尾の厚揚げ」などを肴に地酒「朝日山」と「米百俵」をぬる燗でいただいた。

全ての料理がおいしく、地酒との相性も良く、杯は進み、四合も呑んだ。厚揚げの大根おろしの粗さと、自家製おしんこの柚子の香りは特に印象に残り、素晴らしい時間を過ごさせてもらった。

旅先で駅前をふらつき、気に行った店に入り、それが当たる。鉄道旅の楽しみの一つ。今年は幸先が良いと思った。

 

 

今朝は早く起きて、まずは「河井継之助邸趾」(河井継之助記念館)に立ち寄った。

10年前は「河井継之助記念館」に入り資料を見学した。当時、読了した司馬遼太郎の「峠」の背景を知る事となり、河井継之助への愛着が増した事を思い出した。

河井継之助は長岡藩家老・軍監で、戊辰役北越戦争で新政府軍相手に健闘するが重傷を負い、長岡城が再陥落すると、奥羽越列藩同盟の中心となる会津藩を頼ろうと逃れた。しかし、越後から会津に通ずる「八十里越」を抜けた後、滞在した塩沢村(現只見町塩沢地区)の村医宅で亡くなった。この村医宅の一部を移築し展示している「河井継之助記念館」が只見線の会津塩沢駅の近くにある。

河井継之助の墓は長岡市内の英凉寺にあるが、荼毘に付され後に住民が細骨を集めて埋葬した只見町塩沢地区の医王寺にもある。また、会津若松市内の建福寺には、鶴ヶ城を眺められる場所に「一時埋葬地」があり、現在碑が建っている。

  

河井継之助の生家から南へ500mほど進むと、彼が守った牧野家7万4千石の居城・長岡城趾がある。本丸は長岡駅付近で、二の丸跡には碑が建っていた。

長岡城は戊辰役北越戦争で焼失し、二の丸跡は長岡市庁舎になっている。

河井継之助は新政府軍に奪われた長岡城を有名な「八丁沖渡沼奇襲」で奪還するが、その戦闘中に左膝に銃撃を受け重傷を負う。指揮官が負傷してしまった長岡藩軍は、四日後に再び新政府軍に長岡城を奪われ撤退を決断。担架に載せられた河井継之助を含む、千人を越えたと言われる長岡藩兵と一部住民は「八十里越」経由で会津若松城下を目指したという。

河井継之助関連の史跡の見学を終え、長岡駅に向かった。 

 

6:33、上越線の上り列車に乗車し、長岡を出発。 

  

7:09、小出に到着。只見線の終点で、新潟県側の端の駅だ。 

この小出駅について。

私は只見線の列車が新幹線駅である浦佐まで直通運転できるうよう、上越線接続の改良工事をすべきだと思っている。現状、長岡方面は上越線と只見線はつながっていて、小出駅でスイッチバッグすることになり、紅葉時などには長岡~只見間で臨時列車が運行されている。

浦佐駅から、直接只見線に乗り入れるための工事をするとなれば、上越線へのポイント新設など巨費が必要になる。まずは、長岡からの直通列車を、定期運行にして実績を積んでから検討するのが現実的かもしれないが、東京圏からの観光客を只見線に導き入れるベストな方法として、関係者間で研究・検討して欲しい。

  

連絡橋を渡り只見線のホームに向かうと、列車は入線していた。

車両は只見線縁結びラッピング車とJR東日本新潟支社色(青)のキハ48形2両編成。

ラッピング車は『小出「 こい(恋)で 」 と会津 「 あい(愛)づ 」』をかけ、沿線の結びつきを強め活性して欲しいとの願いがあるという。イラストは県境にそびえる浅草岳や長岡の花火、只見の自然と縁結びの「三石神社」などが一筆書きで描かれており、軍監・河井継之助の姿もあった。

  

7:58、只見行きの列車は小出を定刻に出発。私の乗る先頭車両は他2名の乗客だった。   

 

列車は魚野川を渡り、雪原の中を進んだ。青空も少し見えた。

  

藪神を過ぎて、反対側の車窓から前方を眺む。空は明るく、天気はもつだろうと思った。

  

越後広瀬魚沼田中を過ぎ、大倉沢橋梁を渡る。破間川は藪神ダム湖となり、表面には薄い氷が見られた。

 

列車は越後須原を過ぎ、上条が近付いてきた。先頭車両から駅の様子を眺めた。

上条を出た後は、列車は右に大きく半円を描くようにカーブし、南南東に進路を変えた。 

 

入広瀬を出ると、並行する道路の除雪面は1mを越えていた。

  

進路が東に変わり、破間川と国道252号線と交差しながら進んでゆく。柿ノ木スノーシェッドの赤が、雪の中で映えていた。

 

8:44、新潟県側の最後の駅となる、大白川に停車。

次駅・只見までは20.8kmもある。この駅間は在来線で全国7位、本州に限れば山田線(岩手県)上米内~区界間の25.7kmに次ぐ第2位。ちなみに在来線の全国1位は石北本線(北海道)の上川~白滝間の37.3kmとなっている。

 

大白川を出ると、只見線は破間川と別れ、末沢川沿いを駆けた。山裾との距離が近づき、雪は一層深くなった。

   

只見線とほぼ平行して走る国道252号線の茂尻橋には、2mほどの積雪があり、欄干を越えていた。

国道252号線は、国内屈指の積雪量を記録する「六十里越」の付近、民家の無い魚沼市大白川地区末沢(大白川駅東)~只見町石伏地区(田子倉ダム下)間が冬期閉鎖され、除雪されないためだ。

  

雪曇りの空に朧げな陽の光が差し、眼下の渓谷を幻想的に照らしていた。美しかった。

大白川から県境にある「六十里越トンネル」に入るまでは民家が無く、『なぜここに鉄道が敷かれたのか?』と思わずにはいられないが、時代が進んだ現在は、観光という面で大きな価値を持つ事になった。特に雪を見た事の無い方々にとっては、ディーゼル音を聞きながら、コトコトと揺られ眺めるこの光景は感動ものだろうと思った。

  

 

線路脇の雪が迫り、新潟県側の景色の見納めが近付いた。

    

8:54、列車は只見線最大の難所で最後に工事を終えた(1970(昭和45)年9月)、「六十里越トンネル」(6,359m)に入った。

トンネル内でも登坂が続き、登坂途上で新潟県から福島県に入るが、車内から県境を判別できる目印は確認できない。

 

  

後半すこし下り、約9分かけて「六十里越トンネル」を駆け抜けた。   

トンネルを出て福島県只見町に入り、直後に只見沢を渡る。その直後に国道252号線沿いにある、雪に埋もれた無料休憩所が見えた。

   

列車は国道252号線の短いトンネルを潜り、スノーシェッドに入り田子倉駅跡(2013(平成25)年3月16日廃止)を通過した。 

この駅は国道252号線沿いにあるが、降雪期は道路は閉ざされ、2mを越える積雪が駅舎を取り囲んでいる。私は、この稀有なロケーションを活かさない手はない、と思っている。登山シーズンでは浅草岳の入口となり、目の前には田子倉ダム湖が広がり、カヌーやカヤックなどの発着点ともなり得る。

只見線の集客に田子倉駅の復活は欠かせない。観光地として定着するまで5年程度の時間とお金をかけて、民ーJR-官の三者が協力して田子倉駅をネイチャーアクティビティの拠点として復活させて欲しい。

  

田子倉駅跡を覆うスノーシェッドを出ると余韻沢橋梁を渡り、田子倉ダム湖を見通せる貴重な明かり区間を進み、直後に「田子倉トンネル」(3,712m)に入った。

  

「田子倉トンネル」を抜けると、列車は第一・第二赤沢トンネル、3つのスノーシェッド、上町トンネルを潜り抜けた。すると視界が一気に開け、只見町の中心部が現れた。

 

 

9:15、定刻に終着の只見に到着。周囲は1mほどの雪に覆われていた。

ここから先は「平成23年7月新潟福島豪雨」被害に遭った不通区間。除雪車が折り返した先は手つかずで、県立只見高校に向かって綺麗な雪原となっていた。

小出からの乗客は10名にも届かなかったが、駅舎からホームに向かう多くの人の姿があった。

私が乗ってきた列車は、折り返し小出行となる(9時30分発)。

観光客と思われる方々が、列車を背景に写真を撮ったり、にこやかに会話を楽しみながら2両編成の車両に乗り込んでいった。三連休の最終日、積もり始めた只見町が魅力を高める時期にこれほどの観光客の姿を見られた事に嬉しくなった。集客に知恵を絞っている関係者の尽力に頭が下がる思いだった。

 

私は、ホームの喧騒を背に駅舎に向かった。駅舎の屋根には、ぶ厚い雪が載っていた。

石油ストーブで温められた待合所を抜け、駅舎を表から見る。駅前駐車場は、完璧に除雪され、アスファルト面が見えていた。

  

駅周辺を歩き、駅舎の小出寄りにある宮前踏切に行ってみる。前方に見える瀧神社まで踏み固められた“通路”ができていた。初詣は地元の神社で済ませていたが、只見線の活況を願いお参りする事にした。

宮道踏切を渡る際に、出発間近の列車を正面から撮った。

  

9:30、小出行きの列車が出発。JR職員2名の他、駅舎からは只見町観光まちづくり協会のスタッフ4名がはっぴを着て現れた。そして、スタッフ達は列車に向かって手を振り見送っていた。

只見駅発着の全ての列車に対して行われている“儀式”だという。地元の温かさ感じる。観光客の多くがこの光景を忘れず、再び只見の地を踏んでくれるだろうと思った。 

 

瀧神社に進み、二つの鳥居に頭を付けぬよう本殿に進み、お詣りをした。

その後、只見スキー場の様子を見るため、来た道を引き返した。雪が無ければここから農道を通ってゆく事ができるが、除雪されていないため迂回することになる。

 

国道252号線に出で魚沼方面に向けて歩く。市役所側の歩道までも除雪されて、歩き易かった。

15分ほどで只見スキー場に到着。

駐車場は満車で、ゲレンデには多くの人影があった。

只見線を利用し、このスキー場を訪れる人は少ないかもしれないが、只見線にとっては貴重な観光コンテンツだと思う。次の列車までの2時間程度、雪遊びができる仕掛けをすればコト消費を促せ、レストランもあるので集客を見込めると、私は思っている。

只見スキー場を後にして、只見ダムに向けて再び歩き出した。 

市街地を過ぎると、国道252号線上から消雪パイプが無くなり、ゆるく圧雪、かるく凍結していた。私は車道を足元と車に注意しながら、緩やかな坂を上った。  

  

只見スキー場を出発してから、約20分で只見ダムに到着。

ダム湖は美しい水鏡となり、周囲の山々をくっきりと映し出していた。

遠方には田子倉ダムの巨大な躯体が見え、その上方には“寝観音”こと猿倉山(1,455m)と横山(1,416m)が、雪曇りの空に山容を現わしていた。

この只見ダムから田子倉ダムを見通す景色は、国内唯一のものだと私は思っている。

国内第三位の巨大ダムと、直下に広がる逆調整池としてのダム湖の組み合わせは国内には無いだろう。この静寂に包まれた冬の景色も素晴らしいが、この場所は新緑や盛夏、そして紅葉の時期と四季折々に壮大な自然美を見せてくれる。

残念ながら近くにあるレストランを併設した売店は冬期休業で、コーヒーなどを飲み景色を愛でながら時間を過ごす事はできない。

この景観を年間を通して楽しめる場所を創る事は、只見線にとって重要だと私は思っていたが、冬のこの景色を見て、その思いをさらに強くした。

予定通り、只見スキー場と只見ダムの見学を終え、湯に浸かってから会津若松に向かおうと思い、町営「ひとっぷろ まち湯」を目指して、国道を引き返した。

 

約30分後に到着。しかし、浴室のオープンは12時30分だった。しばし唖然とした。9時には開いているだろうと勝手に思い、営業時間を調べていなかった。 

玄関前で私に開始時間を告げたスタッフが、屋根の雪下ろしをしている姿をしばらく眺め、「まち湯」を後にし、駅に向かい代行バスを待つことにした。 

 

11:25、駅頭に付けられた代行バスに乗り込み、定刻に只見を出発した。いつもの女性ドライバーが運転していた。


代行バスは国道252号線を進んだ。 

叶津川橋梁の下を通り、長岡藩家老・河井継之助の一行が会津若松城下への逃避行の際に立ち寄ったであろう叶津番所の脇を通り過ぎた。そして、堅盤橋から叶津川を眺めた。

河井継之助は戸板で作られた担架で、長岡から栃尾を経て「八十里越」を通り叶津から只見に入り、五十嵐清吉宅で傷の手当てを受けたという。

河井継之助は、「八十里越」で有名な句を詠んでいる。

 〽 八十里 腰抜け武士の 越す峠

叶津到着が旧暦8月5日(新暦9月19日)だから景色が違うが、山の稜線は同じだろう。河井継之助は会津藩領に入り、うっすらと色づき始めたであろう山々に何を思ったのであろうか、と思った。 

  

代行バスは“会津蒲生”で一人を乗せ、国道を進んだ。

   

蒲生橋で只見川を渡り、寄岩橋で再び渡河し、只見線の「第八只見川橋梁」の全体を眺めた。

寄岩橋上は沿線屈指の撮影ポイントとなっていることもあり、“只見線ー蒲生岳ー只見川”の三点セットが綺麗に見えた。*以下、各橋梁のリンク先は土木学会附属土木図書館(http://www.jsce.or.jp/library/archives/index.html)「歴史的鋼橋集覧

この「第八橋梁」は不渡河橋で、只見線を部分運休に追い込んだ「平成23年7月新潟・福島豪雨」で分断されることなかったが「橋桁冠水、流木堆積、橋脚洗掘、盛土崩壊、路盤沈下、土留壁変状、土砂流入、土砂堆積等」(JR東日本 2013年5月22日(PDF))の被害が出て、長大橋梁のため復旧費用も"被害4橋"の中で最大となっている。

 

次駅・“会津塩沢”は塩沢簡易郵便局前となっていて、河井継之助記念館の最寄りだ。記念館は駅から直線で600m程先の、国道252号線の脇の小高い場所にある。

内部には河井継之助が息を引き取った塩沢村医・矢沢宗益邸の一部が移築され展示されている。

管理の問題からか冬期は休業していて、4月下旬に再オープンだという。除雪や暖房費などのコストが掛かるだろうが、通年集客の可能性を探り、会津塩沢駅の記念館前への移築と合わせ冬期の営業を検討してもらいたい、と私は思っている。

  

国道を更に進み、振り返ると旧塩沢村の全体が見えた。只見川は電源開発㈱滝ダム・発電所の建設で滝ダム湖となり、村の一部は沈んだ。矢沢邸もその中にあった。

長岡藩の家老まで務め、長岡藩(牧野家)の存続を願い奔走した河井継之助はここで没した。武家に生まれ、参勤先の江戸と長岡以外で生涯を終えるなど思いもしなかったであろう。私はこの景色を見るたび、河井継之助に思いを馳せ、武士・家老・軍監としての彼の決断と行動に感服している。

  

代行バスは只子沢を渡り金山町に入り、"会津大塩"で1人の乗客を降ろした。 

乗客が私1人となった代行バスは、国道の二本木橋を渡る。上流に目を凝らすと、流出した只見線の「第七只見川橋梁」が見えた。

奥は被害を免れた町道の四季彩橋。中路式ローゼ橋のため橋桁は豪雨による激流が当たらず、橋は無事だった。只見線の復旧工事では「第七橋梁」も上路式から下路式に変更されるようだ。見晴らしの良さは失われるが、豪雨対策上必要でやむを得ない、と思うようになった。

 

代行バスは順調に進んだ。 

会津横田”、“会津越川”、湯倉入口*と過ぎ、本名スノーシェッドを潜り抜け直角にカーブし、東北電力㈱本名発電所・ダムの天端を渡った。下流には流出した「第六只見川橋梁」と只見川護岸工事の様子が見えた。 *湯倉入口は駅ではなく、代行バスのために設けられた停留所

天端を過ぎると、国道は再び直角にカーブし、下ってゆく。途中、国道252号線本名バイパスの本名トンネル(1,429m)工事現場が見えた。

老朽化した本名スノーシェッドとダム天端前後の直角カーブを回避するため作られている。供用開始は来年度(2018(平成30)年度)中だという。

 

"本名"を過ぎ、川口への登坂途上で只見線の「第五只見川橋梁」が見えた。会津若松側の一部橋桁が流失している。

下流の東北電力㈱上田発電所・ダムの貯水量で景観が左右されるが、今日は川幅一杯に水が張り、水鏡も現れていた。

 

 

12:15、代行バスの終着・会津川口に到着。代行バスを降り駅舎に入ると、売店の前には『Youはどこから?』ボードがあった。

前回(昨年12月30日)から増えていたが、北欧ノルウェー(Norway)から1月3日やってきた女性が居る事に驚いた。北極圏、白夜の下で暮らす彼女は、只見線沿線の雪景色をどのように見たのだろうと思った。 

  

引き戸を開け、駅舎からホームに向かう。列車は、静かにディーゼル音を響かせていた。

ホームに立ち、只見方面を眺めた。除雪車が通った跡があったが、野尻川橋梁から先は鉄路が埋まっていた。

12:32、会津若松行きのキハ40形2両編成は、ディーゼルエンジンを蒸かして会津川口を出発した。

 

列車は、しばらく只見川(上田ダム湖)の右岸縁を駆けた。すると、前方に只見線に突き出た大志集落が見えた。

只見川に差された赤く小さな旗は浚渫場所を示すもの。「平成23年7月新潟・福島豪雨」で問題となったダムの浚渫土砂の撤去は、只見線にとって重要な事業になっている。

  

会津中川でカメラを抱えた複数の客が乗車し、その後しばらくすると列車は「第四只見川橋梁」を渡った。*以下、各橋梁のリンク先は土木学会附属土木図書館デジタルアーカイブス歴史的鋼橋集覧1873-1960

下路式(曲弦ワーレントラス橋)のため、鋼材が邪魔をして見晴らしは良くない。復旧の際「第六」と「第七」は同じような下路式に変更となる。

   

会津水沼を出てしばらくすると、右に緩やかにカーブしている細越拱橋(めがね橋)を渡った。このコンクリート8連橋からの眺めは開放的で、上り下りとも車窓からの風景は良い。

  

三島町に入り、早戸に停車。東北電力㈱宮下発電所の調整池である宮下ダムの影響で、只見川は大河を思わせるゆったりとした流れとなり、特異な山間の景色を作っている。

   

早戸を出て、早戸・滝原の両トンネルを抜け「第三只見川橋梁」を渡った。雪の量が少なく、木々の綿帽子も消え、只見川の水鏡も現れていない為、物足りさを感じたものの、この瞬間一点ものの景観と思うと見入ってしまった。

その後、列車は宮下ダム湖(只見川)の右岸の際を駆けた。

  

会津宮下を出てしばらくすると、「第二只見川橋梁」を渡った。

   

会津西方を過ぎ、名入トンネルを抜けた直後に「第一只見川橋梁」を渡った。7kmほど下流にある東北電力㈱柳津発電所・ダムで只見川はダム湖となっている。

三島町の町木となっている桐の花色(薄紫)と同じアーチを持つこの橋は只見線の象徴であり、多くのメディアに取り上げられているが、車中から見る景色も良い。

北(上流)は日向倉山(605m)を背後に雄大な光景が広がり、南は駒啼瀬の険しい渓谷が見られる。どちらも甲乙付け難い、只見線を代表する車窓の風景だ。*参考:三島町観光協会「名物」

  

列車は会津桧原滝原郷戸で乗降客が居ないなか停発車を繰り返した。会津柳津で乗客があり、車内は少し賑わった。

  

会津坂本を過ぎると、左の車窓から「大日岳」(2,128m、新潟県)を最高峰とする飯豊連峰が見えた。

  

この後列車は七折峠に入り、緩やかな上り坂を進み、塔寺の手前で下り坂を進んだ。 

しばらくすると、左の車窓から会津盆地を途切れ途切れに見下ろす事になり、杉第二踏切を過ぎたあたりで、七折峠を下りきった。そして、雪原となった田んぼの先、住宅地の向こうには「磐梯山」が見え始めた。

 

会津坂下では、会津川口以降で最も多い乗降客があり、下り列車とすれ違ってから発車した。そして、列車は、若宮新鶴根岸と真っさらな積雪の中を進んだ。

前方の峰をよく見ると、風車が回っていた。「背炙山」(836m)尾根部にある風力発電所「会津若松ウィンドファーム」だ。

   

会津高田を過ぎると、「磐梯山」がはっきり見えてきた。

   

列車は会津本郷を出て、阿賀川(大川、新潟県に入ると阿賀野川と名前が変わる)を渡河し、西若松で会津鉄道(旧国鉄会津線)に合流し、七日町を経て終点に向かった。

 

 

14:23、会津若松に到着。

小出を出発して6時間21分掛かった。只見での2時間10分の待ち時間を差し引くと4時間11分。鉄路の距離が135.2kmだから、単純計算で列車は時速32.3km/hでのんびり走った事になる(代行バスは考慮しない)。

部分運休前は小出5時30分発(始発) 、会津若松10時13分着というダイヤ設定で、4時間43分の所要時間だった(最短の列車だと4時間1分)。

 

只見線の全線再開(復旧)に向けてはダイヤの検討が必要だと私は思っている。3本だった小出~会津若松間の列車を5本にして、うち増設した2本は観光列車を走らせて欲しい。沿線の観光資源の豊富さを考えれば、その価値はあると思う。観光路線として、沿線自治体が一体化し、需要創造・喚起し乗客を増やし、全線運行の列車を上下5本を実現させて欲しい、と今回の旅で思った。 

 

連絡橋上から、乗ってきたキハ40形と「磐梯山」を眺めた。屋根やレール脇の雪は少なく、沿線との気候の差を感じた。

改札を抜け、駅舎を出て、赤瓦屋根を眺めた。

鶴ヶ城の赤瓦に倣った駅舎の屋根と白虎隊の像、そして『ならぬことは ならぬものです』と結ばれた「あいづっこ宣言」の看板を見て、会津若松の武家文化の厚みを感じた。只見線が、この文化の力を拝借できるのは心強いと思った。 

  

再び改札を通り、ホームで郡山行きの列車を待つ。向かい側のホームに続く通路の壁には「四季島」のポスターが貼ってあった。

JR東日本のクルーズトレイン「TRAIN SUITE四季島」は、冬に会津若松を訪れる事は無いが、春~秋1泊2日コースには市内観光が組み込まれている。会津若松は「四季島」の県内唯一の滞在地であるため、ポスターが多く張られ、更新もされている。只見線はこの「四季島」の力を利用できる環境にもあると、改めて思った。

  

15:05、磐越西線の上り列車は、会津若松を出発。

列車は、三連休の最終日、郡山から新幹線を乗り継ぎ首都圏に帰る方が多い時間帯にもかかわらず、平日と同じ2両編成のワンマンカーだった。乗車率は100%を越え、磐梯町、猪苗代では多くのスキー客を乗せ、車内は埼京線も思わせる混雑ぶりとなった。

せっかく喧騒を離れ観光にやってきたのに、最後はこれでは会津観光のイメージダウンになってしまう。JR東日本には時機に応じた車両編成と指定席の設定を行って欲しいと思った。

 

   

16:19過ぎ、無事に郡山に到着。外は小雨が降っていた。


今年は何度、只見線に乗れるだろうか。まだ行きたい場所があり、訪れたい季節もある。時間を作り、乗車したいと思った。

 

  

(了)

 

 

・ ・ ・ ・ ・ 

*参考:

・福島県 生活環境部 只見線再開準備室只見線の復旧・復興に関する取組みについて

 

【只見線への寄付案内】

福島県はJR只見線全線復旧後の「上下分離」経営での維持費や集客・地域振興策の実施費用として寄付を募集中(クレジット可)。

①福島県ホームページ:只見線復旧復興基金寄附金・只見線応援団加入申し込みの方法 *現在は只見線ポータルサイト「只見線応援団」URL:https://tadami-line.jp/support/

 

②福島県:企業版ふるさと納税

URL:https://www.pref.fukushima.lg.jp/sec/16005g/kigyou-furusato-zei.html

[寄付金の使途]

(引用)寄附金は、只見線を活用した体験型ツアーや周遊ルートの整備、只見線関連コンテンツの充実化等に活用させていただきます。 沿線地域における日本一の秘境路線と言われる観光資源を活用し、更なる利用者の拡大と認知度向上を図ります。


以上、よろしくお願い申し上げます。


次はいつ乗る? 只見線

東日本大震災が発生した2011年の「平成23年7月新潟福島豪雨」被害で一部不通となっていたJR只見線は、会津川口~只見間を上下分離(官有民営)し、2022年10月1日(土)、約11年2か月振りに復旧(全線運転再開)しました。 このブログでは、車窓から見える風景写真を中心に掲載し、“観光鉄道「山の只見線」”を目指す只見線の乗車記や「会津百名山」等の山行記、利活用事業に対する私見等を記します。

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