紅葉の見ごろを迎えた「田子倉ダム」周辺を自転車で散策しようと、JR只見線を利用し只見町に向かった。
今回の旅では、現地を巡り只見線を全通させた“恩人”となる「田子倉ダム」が、2021(平成33)年度の再開通(全線復旧)に向けて、人を呼び込む核、“スター”に得ないかを考えたかった。なお「田子倉ダム」は「田子倉発電所」の貯水池となって、双方とも電源開発㈱(http://www.jpower.co.jp)の所有となっている。 *参考:電気事業連合会 「貯水池式水力発電」
私は福島にUターンし、只見線に頻繁に乗車するようになったが、当初は「田子倉ダム・発電所」の存在を重要視していなかった。しかし、只見線全通で「田子倉」が果たした役割や、第一~第八の只見川橋梁の景観を引き立てる只見川の雄大な流れや“湖水鏡(水鏡)”の美しさを見るにつれ、「田子倉ダム・発電所」の重要性を実感するようになった。
只見線は「田子倉ダム・発電所」建設がなければ全通しなかった鉄路だ。
1922(大正11)年4月11日に公布・施行された「改正鉄道敷設法」に現在の只見線が「福島県柳津ヨリ只見ヲ経て新潟県小出ニ至ル鉄道...」として記載された。 *参考:Wikipedia 「鉄道敷設法別表一覧 第29号」
しかし、太平洋戦争と国鉄の財務状況・路線の収支見込から会津宮下駅(現三島町、1941(昭和16)年開業)から先、大白川駅(新潟県・現魚沼市、1942(昭和17)年開業)までの開通の見込みが立っていなかった。
だが戦後、復興による電力重要の高まりから只見川を含む阿賀野川水系の水資源に注目が集まり状況が一変。
現在の9電力会社の前身である日本発送電㈱が1947(昭和22)年5月に「只見川上流調査所」を開所。国土総合開発法の成立を背景に1951(昭和26)年12月「只見特定地域総合開発計画」が発表された後、様々な政治的問題を乗り越え、解散した日本発送電㈱から事業を引き継いだ形となった電源開発㈱が1953(昭和28)年11月に田子倉発電所・ダム建設を着工した。
この電源開発の盛り上がりの中、地元では「鉄道只見線全通促進地元民大会」が開かれるなど電源開発に鉄道敷設を抱き合わせる運動が展開され、結果1955(昭和30)年4月に戦時中に中断していた会津宮下~会津川口間の鉄道敷設工事が再開され、翌年9月に開業した。
電源開発㈱はこの会津川口延伸工事と平行するように、田子倉ダム・発電所の建築資材の運搬方法を試算・検討。結果『会津川口からは鉄道輸送』と決定し、「田子倉発電所建設用専用鉄道」線(会津川口~宮渕間、32.3km)の敷設工事を国鉄に委託し1956(昭和31)年5月に着手した。敷設を了承した閣議では、田子倉発電所・ダムの竣工後に「専用鉄道」を国鉄に編入するという条件が付けられた。
そして、「専用鉄道」は1957(昭和32)年に完成。
資材の運搬が順調に進み、先に着工していた奥只見発電所・ダムより先に完成することになった。鉄道の威力が発揮されたと言われている。
「田子倉ダム・発電所」本体が竣工(1959年3月)したのち、電源開発㈱と国鉄との折衝を経て、「専用鉄道」は1962年3月に国鉄に編入され、翌年8月に営業線として会津川口~只見間が延伸開業した。
→残る区間は只見~大白川間の「六十里越」のみとなり、稀代の政治家・田中角栄の政治力で着工、1971(昭和46)年8月29日に会津若松~小出間は只見線として全線開業に至る。*参考:Wikipedia「只見特定地域総合開発計画」「田子倉ダム」/一城楓汰著「只見線敷設の歴史」(彩風社)
このように、只見線は「田子倉ダム・発電所」の建設の歴史とともに延伸され、全通することができた。 電源開発㈱田子倉ダム・発電所は只見線全通の“恩人”であり、只見線沿線の水資源や自然美、人間と自然との共存の象徴であり源でもある、と私は思っている。
今日、電源開発㈱田子倉ダム・発電所周辺を自転車で巡り、只見線全線復旧後を考えた。
*参考:
・福島県:只見線ポータルサイト
・東日本旅客鉄道株式会社:「只見線について」(PDF)(2013年5月22日)/「只見線(会津川口~只見間)の鉄道復旧に関する基本合意書及び覚書」の締結について(PDF)(2017年6月19日)
・NHK:新日本風土記「動画で見るニッポンみちしる~JR只見線」
・拙著:「次はいつ乗る?只見線」カテゴリ ー只見線の秋ー
昨夜、遅番勤務を終え、磐越西線の最終列車に乗るため急いで郡山駅に向かう。日中の只見町滞在を長くするため、前日に会津若松で宿泊する事にした。
今朝の会津若松駅。濃い霧に包まれていた。天気予報ではこれから晴れるというが...。
自転車を折り畳み、輪行バッグに入れ、自動改札を通り只見線のホームに向かった。連絡橋からホームを見ると、会津川口行きの列車が入線していた。
6:00、ディーゼルエンジンを蒸かした列車は定刻に出発。車内は県立川口高校の生徒の他、一般客の姿も多くあった。
列車は七日町、西若松で乗降を行い、大川(阿賀川)を渡る。ここは一層濃い霧に包まれ、川の流れが海岸線に打ち付ける波のように見えた。
会津平野の中、会津本郷、会津高田、根岸、新鶴、若宮で停発車を繰り返し、会津坂下に到着。反対側のホームは若松方面に向かう多くの乗客がいた。9割方は高校生だった。ローカル線を支える生徒の姿。この時間、全国で見られる光景だろうと思った。
乗客が降りても、私の乗るBOX席主体の車内の様子はさほど変わらなかった。1本後の列車(会津若松発7時37分)が当駅で9割方の乗客(9割が高校生)を降ろす様子が脳裏に焼き付いていたため、拍子抜けだった。しかし、考えてみれば紅葉のこの時期は只見線の稼ぎ時。乗客が多いのは当然だとすぐに思い直した。
会津坂下を出発すると、塔寺、会津坂本、会津柳津、郷戸、滝谷と続き、会津桧原を出ると“橋梁区間”となる。
桧の原トンネルを抜けると「第一只見川橋梁」で東北電力㈱柳津発電所の柳津ダム湖(只見川)を渡る。*以下、各橋梁のリンク先は土木学会附属土木図書館(http://www.jsce.or.jp/library/archives/index.html)「歴史的鋼橋集覧」
乗客の大半は車窓に顔を向け、カメラのシャッターを切る方も多かった。
会津宮下手前では、“アーチ3橋(兄)弟”の長男「大谷川橋梁」を渡り、次男の「宮下橋」を見下ろす。
会津宮下を出てまもなく、東北電力㈱宮下発電所の宮下ダムの側を通過。珍しく放流していた。
列車は宮下ダム湖(只見川)の直側を駆け抜ける。
一瞬、只見川と離れた後「第三只見川橋梁」を渡る。
早戸を出ると、“めがね橋”を渡った。曲線が美しい。
不動沢トンネルを抜けた直後に振り向き、社を撮影。趣きがある。
会津水沼を出て「第四只見川橋梁」を渡った。下路式曲弦ワーレントラス橋のため、鋼材が視界に入ってしまう。
「木冷(モクレイ)沢橋梁」を渡り、眼下に木(杢)冷沢の渓谷を見る。初めて車内から見る事ができた。
“大蛇伝説”のある木(杢)冷沢は、太郎布(タラブ)高原の堤(池)を源流に持つ短い沢だが、野趣味ある滝もあると聞き、トレッキング道を整備すればおもしろいと思っている。*参考:奥会津書房 奥会津に棲む神々「静寂を縫う 「蛇の化身」」(2000年11月16日)
右側の車窓からは東北電力㈱上田発電所の上田ダムが見え、対岸の山肌の上部を覆う雲の形状や、全体の色合いに感心した。
会津中川を出ると、次は終点。減速し上井草橋を潜った列車は、只見川(上田ダム湖)沿いのホームにゆっくりと入って行く。
8:01、会津川口に到着。駅周辺は色づき、見頃を迎えていた。降車客は県立川口高校の生徒を中心に20名程度だった。
この先、会津川口~只見間(27.6km)が「田子倉発電所建設用専用鉄道」として電源開発㈱が敷設した一部区間であり、奇しくも「平成23年7月新潟・福島豪雨」被害で運休に追い込まれた区間である。*参考:福島県「平成23年7月新潟・福島豪雨による 被害状況(第1報)」(PDF)/東日本旅客鉄道㈱「只見線について」(2014年8月、PDF)
陽射しが弱いせいか、只見川の水鏡は濃緑だったが、ホームからは映し出された“逆さ紅葉”をなんとか見る事ができた。
線路を渡り駅舎に入り、待合スペースの椅子に座る。しばらくすると、只見行きの代行バスが駅頭に到着した。
本名(駅付近のバス停)を出ると東北電力㈱本名発電所の本名ダムの天端上(本名橋)を走る。左に大半が流出した「第六只見川橋梁」を見下ろした。
新聞報道の通り、復旧工事が始められ、橋脚が足場とネットで覆われていた。いよいよ全線復旧に向けて動きだした。
代行バスは国道252号線を快調に走り、只見線の駅(会津越川、会津横田、会津大塩)付近に設けられたバス停に停車してゆく。
会津塩沢(のバス停)を出て只見川に架かる寄岩橋を渡った。
橋上から「第八只見川橋梁」を見る。一見無傷だが、路盤や橋桁などの修復・補修箇所は多く、復旧費用の大半がここに使われる事になっている。
9:05、定刻に只見に到着。しばらくして、9時15分に小出からやってきた、新潟支社色(青)のキハ48形が入線した。
代行バスに乗っていた3名の方も乗り込んだが、他20名程の乗客が次々にホームに現れた。列車の前では記念撮影をする乗客の姿が。明るく楽しい笑い声が聞こえてきた。
宮道踏切で列車を見送った後、駅頭に戻り準備をした。
輪行バッグから折り畳み自転車を取り出し組み立てて、さっそく出発した。
再び宮道踏切を渡り、瀧神社の前を通り過ぎ、稲刈りが終わった田んぼの中を進み只見スキー場の前に出る。今年は12月23日にオープン予定だという。
国道252号線に入り、緩やかな坂を登ってゆく。まもなく前方が大きく開け、ロックフィルの電源開発㈱只見ダム・発電所がみえてきた。刈り込まれた芝がキレイだ。
「只見ダム」は、これから向かう上流約3km先にある「田子倉ダム」の逆調整池となっている。
以前、田子倉ダム・発電所の逆調整池は、さらに下流の電源開発㈱滝ダム・発電所が担っていたが、只見町の市街地が中間にあり、田子倉ダムからの放流の影響を及ぼさないために、市街地の手前のこの位置に1989(平成元)年に設置されたという。同時に発電も行われた。
只見ダムの工事で、ダム湖の右岸に付け替えられたという国道252号線を進む。
見上げると、色づいた低木の中に顔を思わせる奇岩があった。
さらに進むと。崖の下に、草に覆われたコンクリート土台を見つけた。位置から察するに「田子倉発電所建設用専用鉄道」で使われていたものに違いない、と思った。
直後に「万代橋」復旧工事現場の前に着く。トラス橋は運び出されたようだ。
さらに国道を進むと、前方に「田子倉ダム」の巨体が見えてきた。
国道の急カーブ。真っすぐ進むと「田子倉発電所」構内に入る。
59年前、ダムが築かれる前は険しい山が屹立する渓谷だった。ダムは景観を一変させてしまうと思った。
カーブを右に大きく曲がり、登坂を開始。後方からやってくる自動車やバイクに気を付け、紅葉を見ながら進んだ。
ヘアピンカーブ越しに「田子倉ダム」の躯体を見る。だいぶ登ってきたが、疲れは感じなかった。
左奥の小戸沢の谷も、綺麗に色づいていた。
「万代橋」復旧工事現場を俯瞰する。どんな橋が掛けられるか楽しみだ。
4箇所のヘアピンカーブを経て、田子倉第1トンネルを抜けた。
10:28、「田子倉ダム」に到着。写真を撮りながら、只見駅を出発して約1時間かかった。
長さ462m、天端幅9mの巨大な躯体。右側に最大5億トンの水があり、左側は145m下に発電所の放水口がある。人工物の極みだと思う。
天端の洪水吐上に設置してあるブルーのクレーンより先は通行止めとなっている。
ダム躯体の体積は1,949,500㎥。宮ケ瀬ダム(神奈川県)に次ぐ国内二位の大きさで、東京ドームの1.6杯分のコンクリートの塊だ。
ダム下にある「田子倉発電所」は建設当時は国内一位の発電容量を誇っていたが、現在は奥只見発電所に次いで2位となっている。
天端から52m下に取水口があり、ダムに埋め込まれた水圧鉄管を通って4基の水車を回している。水車は2004(平成16)年から順次更新され、5年前に全ての作業を終え、最大出力が2万kw増強されたという。
天端から只見町の中心部方面を見る。発電所の先には只見ダム湖があり、さらに奥には“会津のマッターホルン”「蒲生岳」のトンガリ頭がキレイに見えた。
ダムの右岸の山肌は見事に色づいていた。
天端から田子倉(ダム)湖を見る。入り組んだ湖岸線と荒々しい山肌が湖に映えて美しい。
この「田子倉ダム」から南西に広がるエリアは「越後三山只見国定公園」に指定されていて、さらに只見町全域と桧枝岐村の一部は「只見ユネスコエコパーク」に登録されている。また、田子倉ダム湖は一般財団法人「水源地環境センター」が選ぶ「ダム湖百選」に選ばれており、福島県内では他に二箇所(奥只見、羽鳥)が挙げられている。
パノラマ撮影すると、一様ではない湖岸線と稜線の様子がよく分かる。
北西に目を向けると、南岳(1354m)-鬼が面(1465m)-北岳(1472m)-貉沢カッチ(1452m)の稜線がはっきりと見えた。
南西に目を向けると、“寝観音”として只見町民に親しまれている猿倉山(1455m)と横山(1416m)の稜線もはっきりと見えた。確かに、観音様の横顔に見える。
しばらく湖面を見ていると、遊覧船「ブルーレイク」号が視界に入ってきた。今日は気持ち良い“クルージング”になっているだろう、と思った。
遊覧船は滑るように湖上を走り、ダム堤の前でカーブを描き桟橋に入っていった。
乗客が降りると、次の客がぞろぞろと乗り込み、15分後にはまた湖の奥に向かっていった。
今月11日には奥会津五町村活性化協議会による「只見線乗車体験(田子倉ダム遊覧船と温泉湯ら里でのんびり)」が予定され、25名がこのブルーレイクに乗船することになっている。天候に恵まれると良いと思った。
天端の入口脇にはレストランとと売店が入った「田子倉レイクビュー」がある。2年前に改修されたばかりだ。
他、天端付近には駐車場や3階建屋の屋上展望所もある。
「田子倉ダム」から北西に2分程歩くと、「田子倉ダム」建設で水没した田子倉集落から遷された若宮八幡神社が国道脇にあった。
遷座した際に載せられた思われるコンクリートの土台を持つ小さな社で、前足を垂直に伸ばした狛犬が置かれていた。1902(明治35)年作のようだった。
向拝柱の上部には、木製の狛犬(?)が置かれていた。左の像と右の像に大きな違いは見られず。この彫像には、どんな意味があるのだろうかと思った。
社の前には「田子倉の碑」があり、裏面には移転者50名の氏名が刻印されていた。
表の碑文を以下に抜粋する。
田子倉の碑
この湖の底に私たちのふるさと田子倉がある。総面積1万6千ヘクタールの広大な土地に、50世帯・290人が住んでいたが、昭和20年4月6日、田子倉ダムの湛水によって、宅地・水田・畑の全面積と、原野・山林を含めておよそ1千ヘクタールが水没した。
(中略)
第二次世界大戦後、荒廃した日本経済復興のため只見川電源開発は国策として決定され、田子倉ダムの建設はその中心としてとりあげられた。私たちはこの国家的要請にしたがい、全戸移転のやむなきにいたり、それぞれの地に第二の故郷を求めて四散した。
(後略)
昭和48年11月3日
田子倉移転者一同
雅舟 皆川政一郎書
若宮八幡神社を後にし、国道252号線を新潟方面に進んだ。下平トンネルを抜けて田子倉スノーシェッドを出ると左に下る道があった。
この道を下ると、ボートの係留所が見えてきた。
ドイツ車が一台停めてあった。誰かが湖上に出ているのだろう。桟橋には、他2艘のボートが係留されていたが、使用感があった。
道は湖面の下まで続いていたので、カヌーなども利用できる環境だと思った。湖上に出る場合の使用要件などあるだろうが、田子倉ダム湖が見るだけではない楽しみを創り出せる事ができると分かった。
道の途中から、先ほど訪れた若宮八幡神社を眺めると、周囲は綺麗に色づいていた。
11:54、「田子倉ダム・発電所」上部の散策を終えた。
国道を引き返し、自転車で快調に下った。最も急なヘアピンカーブの先には、宮渕沢に造られた鋼製スリットダム(鋼製透過型砂防えん堤)が見えた。特異な形状で、コンクリート面が際立つ砂防ダムに見慣れていると違和感があった。
12:08、坂を下りきり只見ダム湖沿いを走った。途中で自転車を停め、湖畔に下りる。キレイに草が刈られ、気持ち良い空間になっていた。
上流(田子倉ダム)側も同様。万代橋が復旧すればダム湖の一周が可能だ。
この空間をウォーキング・ランニングコースとして開放すれば、集客が期待できるだろう。もちろん、只見ダムは「田子倉ダム」の逆調整池になっているので、「田子倉ダム」の放流などで水位が上昇する場合などはすぐに閉鎖すれば良い。このロケーションは活かされるべきだと思った。
再び自転車に乗り、只見ダム天端の近くにある「電源開発㈱ 只見展示館」を訪れた。入館は無料。私の他に客はおらず、ゆっくりと見て回った。
目についたのは、二つの水車の縮尺模型。まずは「田子倉発電所・ダム」の立軸単輪単流渦巻フランシス水車(三菱重工業㈱、昭和33年製)の模型(1/20)。
最高有効落差118.2m、最低有効落差67mで、回転速度は167rpmという。重量が730tというから、容易には想像できない。あの巨大なダムの下に、この巨大な水車が4基もあると思うと、只見の水資源の偉大さが一層実感できた。
その「田子倉ダム・発電所」の逆調整池でありながら発電も行う「只見ダム・発電所」には発電機が内蔵された横軸円筒カプラン水車(㈱日立製作所、平成元年7月運転開始)が設置されている。その模型(1/30)も展示されていた。
このバルブ水車は世界最大の発電容量も持つと言われている。 *参考:日立評論「世界最大容量バルブ水車発電機」(1988年8月、PDF)
他、館内には「田子倉ダム・発電所」に関する写真が多く掲示されていた。
「湖底に没した田子倉集落」(昭和29年8月)や「第一湛水によるダム越流開始」(昭和34年4月)など興味を引く写真があったが、中でも「ダムコンクリート打設(上流より望む)」(昭和33年8月)は、ダムの構造や建設現場の前に広がる“宮渕銀座”の様子がよく分かった。
15分ほど館内を見学し、受付で「只見ダム」のダムカードを頂く。初めて手にした。
「只見展示館」を後にして、只見ダムの天端を渡り、湖の右岸に向かった。
電源開発㈱只見発電所の周辺の様子。こちら側も芝がキレイだった。
この建屋の地下で世界最大容量のバルブ水車が稼働している。
只見ダム湖を覗くと、巨大な鯉が三匹、優雅に泳いでいた。
右岸の道を、上流方向に進んだ。
まもなく万代橋復旧工事現場に到着。より間近で見る事ができた。
この現場のすぐそばに林道小戸沢線の入口があり、ゲートが下りていた。自動車の立ち入りを制限しているようだった。
ゲート脇を抜け、先に進む。熊沢と思われる流れが、道を横断していた。橋を作らず、鉄板の上を流れさせている。雪解けの際は、道を塞ぐほどの激流となるのだろうか。
しばらく進むと、安全掲示板があり、多数の工事票が掲げられていた。前方では重機が動いていた。
工事名は「只見発電所 小戸沢堆積物処理」。発注者は電源開発㈱東日本支店 田子倉電力所で施工者は㈱JPハイテック田子倉事業所。工事目的は「只見調整池上流に堆積し、流水の疎外となる恐れのある土砂を掘削・湖外搬出すること」とあり、小戸沢と只見川の合流点に溜まった土砂を縦60m横20mの範囲で、深さ1.2m掘削するという。
只見線を部分運休に追い込んだ「平成23年7月新潟・福島豪雨」で、只見川の各ダムの堆積土砂が被害を大きくしたと言われている。堆積土砂の除去・浚渫の様子は只見線の列車内からも見られるほど一般化している。堆積土砂で激流を生み出す大放流が行われないよう、ダム本来の機能が果たせるように作業を行って欲しいと思った。
小戸沢を渡り「田子倉ダム・発電所」に近づく。
渡った橋は、かなり年季が入っていた。ダム建設当時のものだろうか。
ここに来た目的は、この只見川右岸から「田子倉ダム・発電所」に行ける道はまだ残っているかを確かめるため。
道が分岐していたが、おそらく左に進むとダムの天端に行けるのだろうと思った。
左を見上げると、ダム建設で使われたと思われるコンクリートの構造物や、上方に続く道路につけられた低い縁石が見えた。
電源開発のパンフレットを見ると右岸をクネクネと上り、「田子倉ダム」の天端につながる建設用道路の跡が確認できた。*下図、★印が上掲の分岐点で、赤線が建設用道路跡。筆者加筆。
私はこの建設用道路跡をトレッキングとサイクリングのコースにできないかと思う。左岸の「田子倉ダム・発電所」につながる国道252号線は歩道が無く、大型車両も頻繁に通行するため自転車でも恐怖を感じることがある。歩道もなく路側帯の狭い。建設用道路跡を利用可能にすることで、只見駅に近い只見ダム湖を一周できるばかりか、足を延ばせば国内屈指の巨大ダムに行く事ができる。これは、国内無二の観光コンテンツとなり得ると思う。
電源開発㈱、只見町、福島県など関係者間での難しい調整が必要かもしれないが、放っておく手はない。只見線全線復旧に合わせて検討されている復興(集客)策の一つとして俎上に載せて欲しい。
右折して、坂を登ってゆく。
前方が開け、「旅行村」が見えた。敷地内の各建物は、緩やかな斜面に建てられていた。
只見ダムの湛水で湖底に沈んだ石伏集落から移築され、“ふるさと交流体験施設”として利用されている旧目黒家住宅。
「只見そば道場」なる、ユニークな屋根を持つ建物。
テニスコート(4面)もあった。
小ぶりのコテージも立ち並んでいた。
国土地理院地図を見ると、敷地内には528mを頂点とする山を周回する“トレッキングコース”もあるようだ。更に、敷地の東側には新田沢が流れている。現地の状況は分からないが、“沢遊び”できる可能性もある。「只見町青少年旅行村いこいの森」は立地といいい既存施設といい、少し手を加えれば新たな集客を期待できるのではないだろうかと思った。
実はこの施設、只見町と北西辺を接する新潟県三条市に本社があるアウトドアメーカー「スノーピーク」が町と連携し、リニューアルされるという地元紙(福島民報)の報道(2017年10月日16日付)があった。
世界的な企業との協業は、必ず良い結果を産むだろう。「只見町青少年旅行村いこいの森」はそれが実現可能だと思える立地で、施設を持つと感じた。
東側の出口となる、やや急で長い坂を下ると、遠く蒲生岳が見え、手前に「只見町ブナセンター」の銀屋根が輝いていた。ブナセンターでは只見の自然環境とそこで営まれた人間生活の形態が学べ、「只見ユネスコエコパーク」の概要を知る事ができる。「旅行村」の付加価値を高めるだろう。
「旅行村」に続く歩道となる階段には、水が流れていた。湧き水か沢水だろうが、この“水資源”も活かせるのではないかと思った。
只見川に架かる町下橋から、旅行村がある場所を眺めた。施設は高台にあり、計画的な伐採・枝打ちをすれば景観も確保できるようだと感じた。
只見駅から「旅行村」まで約2km。自転車ならば15分とかからないだろう。このロケーションは素晴らしいと思った。連携事業の今後に期待し、注目してゆきたい。
これで「田子倉ダム」下流域の散策を終え、全ての予定を終えた。
13:21、国道252号線に戻り、次は只見線の不通区間を行けるところまでと思い自転車を進めた。乗車予定の只見線の列車は15時27分発(会津川口)。残り2時間は厳しいだろうか...、と思いながら自転車をこいだ。
只見高校付近を通り過ぎ、只見線に目を向けると、法面崩落箇所が見えた。
路盤も崩れ、レールが浮いていた。
さらにその先でも、崩落箇所があった。破壊された橋梁の架け替えや補修以外にも多くの復旧箇所がある事が実感された。
国道を進むと「叶津川橋梁」が現れた。
曲線美と、河原に建つ素朴な橋脚。只見線最長のこの橋が好きな鉄道ファンも多い。
国道を進み、また「叶津川橋梁」下を潜った際に橋桁を見上げると、排水管に下に大きなハチの巣があった。復旧工事の際は気を付けて欲しいと思った。
13:43、会津蒲生駅に到着。「蒲生岳」の直下にある、登山拠点となり得る駅だ。
只見寄りに見えるのは552mの“無名山”。
国道に戻り、先を急いだ。
宮原集落を過ぎ、蒲生橋で只見川を渡ると間もなく滝発電所寄岩泊地新設工事現場に到着。
田んぼ道に入り、全体を見る。ここは対岸に架かる「第八只見川橋梁」から丸見えの場所にある。
以前はなかったコンクリートの構造物が造られていた。おそらく浚渫船のドッグだろう。まさかここまで本格的な施設になっているとは思わなかった。
国道に戻り、寄岩橋上から“只見線(第八只見川橋梁)・蒲生岳・只見川”の3点セットを見てみる。泊地は隠れて見えなかった。
たが、橋を渡りたもとから確認すると、しっかりと見えた。
“ドッグ”を含む寄岩泊地は、只見線の車中からはっきりと見えるだろう。残念だが、浚渫は只見川の各ダムが規定の貯水量を確保するために欠かせない。
浚渫施設は、只見線の景観にとっては必要悪だが、只見線の存在には絶対必要なものだ。ただ一点、このコンクリート製の構造物の外観を景観に配慮したものにして欲しいと思った。
14:01、会津塩沢駅に到着。
草に覆われていた。立地と相まって寂しさを感じた。
国道に戻り、600mほど先にある「河井継之助記念館」前に行く。私が考える“会津塩沢駅 移転地”だ。
擁壁上の道と同じ高さに駅舎を設ければ、電線の見えない広がりある景観を楽しむ事ができる。
「河井継之助記念館」もすぐ後ろだ。
最高のロケーション。是非、会津塩沢駅の移転を検討してもらいたい。
国道に戻り、また自転車を進めた。
まもなく、只見川が電源開発㈱滝ダムに向かう蛇行部から、重機の音が響き渡っていた。
土砂がうずたかく積まれていた。浚渫土砂だろう。浚渫工事の必要性を再認識するとともに、その手間と労力の大きさを思った。
只子沢渓谷は綺麗に色づいていた。
この先、約1kmの上流部の下を只見線の滝トンネル(1,615m)が貫いている。「田子倉発電所建設用専用鉄道工事誌」によると沢床からトンネル工事の地表面下施工面までは14.5mで、トンネルの頂上部までは8.55mだという。
この沢もトレッキングの好適地ではないだろうか。“金山・只見町境、大沼・南会津郡境を歩く”などという企画で、只見線・滝トンネルの直上まで歩くというのも面白いと思った。
町境を過ぎ、国道の滝トンネルを抜け、先を急いだ。
滝名子の坂を登り、町道へ右折。まもなく、駅が見えてきた。
14:32、会津大塩駅に到着。錆つた駅標に切ない思いをしたが、駅周辺は草刈がなされており、周辺住民の駅への愛着が感じられ、心が温まった。
駅を出て、只見川に向かうと、町営野球場跡ではグラウンドゴルフを楽しむ人たちの姿があった。全面芝の全16ホールのグラウンドゴルフ場の整備は進んでいるのだろうか。今年度着工予定となっていたが...。
このすぐそばに、主要部が流出した只見線の「第七只見川橋梁」がある。ここは本名ダムの湛水量によって水鏡など只見川の表情が変わる。今日は、水鏡は現れてはいなかったが、色付いた左岸の紅葉が綺麗に見えた。
町道に架かる四季彩橋を渡り左折、先に進んだ。途中、振り返り「第七只見川橋梁」が架かっていた場所を眺めた。この時期、列車は紅葉の中を走る事になる。復旧後が楽しみだと思った。
さらに町道を進み、鉱山第二踏切を渡ると駅が見えた。
14:42、会津横田駅に到着。ここも周囲の草刈が行われていた。
保線用のスノーシェッド付近では、地元・金山町の建設会社による測量作業が行われていた。
復旧に向けた工事の一環だろうと思った。
ここから先、会津越川駅、本名駅と経て会津川口駅となるが、12.6kmを44分で走り抜く体力は残されていなかった。“不通区間走行”をあきらめ、国道沿いのスーパー「ヒロセ」で昼食を購入。そして、店の向かいにあるバス停で、代行バスを待った。
15:03、輪行バッグに収納した自転車を抱え、定刻通りにやってきた代行バスに乗り込む。車内は結構混んでいた。
15:22、会津川口に到着。さっそく、駅舎を抜けホームに向かい、停車中の列車に乗り込んだ。
15:27、県立川口高校の生徒を中心に、複数の観光客を乗せ、列車はディーゼルエンジンの重い音を響かせ出発した。
復路、空は雲が多く光量は期待できなかったが、所々で綺麗な紅葉を見る事ができた。
生徒以外の乗客の大半は車窓から外を眺め続け、日が暮れるまでこの姿が間断的に見られた。
車内で、車掌から切符を購入した。会津横田~会津若松間(73.2km)が1,490円。会津若松~郡山間(64.6km)は「Wきっぷ」を使い930円(通常料金1,140円)となる。
やはり、平日でも使える“只見線フリー切符”が欲しい。中通りから3,000円程度の料金設定ならば集客策の一つとなるだろう。平日に観光客を呼び込む工夫も必要だ。
列車は順調に進み、会津坂下で二つの県立高校の生徒を多く乗せ、社内は喧騒に包まれた。
若宮を過ぎ、西部山麓に目を遣ると、綺麗な夕焼けが見えた。雨水がたまった田にも映り込み、幻想的な光景だった。
17:19、列車は無事に終点の会津若松に到着。只見線の旅が終わった。
その後、会津若松から磐越西線の、郡山行きの列車に乗り換え、定刻を15分程遅れて郡山に到着。自転車を再び組み立てて、帰路に就いた。
今回の旅では、「田子倉ダム」に埋もれた観光資源を多く見る事ができた。また、只見線を全通に導いた“恩人”である「田子倉ダム」は、2021年度に全線復旧となる只見線を“国内屈指の観光鉄路”にする中心的なコンテンツになると実感した。今後も機会を設けて「田子倉ダム」を訪れ、その観光力を私なりに考えたいと思う。
(了)
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*参考:
・福島県 生活環境部 只見線再開準備室: 「只見線の復旧・復興に関する取組みについて」
【只見線への寄付案内】
福島県はJR只見線全線復旧後の「上下分離」経営での維持費や集客・地域振興策の実施費用として寄付を募集中(クレジット可)。
①福島県ホームページ:只見線復旧復興基金寄附金・只見線応援団加入申し込みの方法 *現在は只見線ポータルサイト「只見線応援団」URL:https://tadami-line.jp/support/
②福島県:企業版ふるさと納税
URL:https://www.pref.fukushima.lg.jp/sec/16005g/kigyou-furusato-zei.html
[寄付金の使途]
(引用)寄附金は、只見線を活用した体験型ツアーや周遊ルートの整備、只見線関連コンテンツの充実化等に活用させていただきます。 沿線地域における日本一の秘境路線と言われる観光資源を活用し、更なる利用者の拡大と認知度向上を図ります。
以上、よろしくお願い申し上げます。
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