会津若松市「白孔雀食堂」 2022年 冬

「会津ソースカツ丼」の老舗、元祖“デカ盛り”の店「白孔雀食堂」に行くため、三島町からJR只見線の列車に乗って会津若松市に向かった。

 

『会津の人間が「カツ丼」と聞くと、ほかほかのごはんの上にサクサクキャベツを敷き、揚げたてのカツをオリジナルソースで絡めた『ソースカツ丼』を頭に思い浮かべ...』(出処:伝統会津ソースカツ丼の会HP)と言われるように、ソースカツ丼は会津地方では“カツ丼”として親しまれ、提供する店も多い。昨年11月に昭和村の「やまか食堂」で食べたソースカツ丼も、まさに「会津ソースカツ丼」だった。

 

ただ、柳津町のソースカツ丼は、千切りキャベツと揚げたてカツの間に、ふわふわの卵焼きが置かれ、ソースは上からかけられている。「柳津ソースカツ丼」として、独立した存在になっている。



 

ソースカツ丼の起源は古く、「會津物語」というサイトには8つもの説が載せられていた。会津地方のソースカツ丼は、「若松食堂」から広まったとされている。*「會津物語」(一社 ニッポニア・ニッポン) URL: https://nipponianippon.or.jp/

[説1]「ヨーロッパ軒」(新宿区)発祥説 1917(大正6)年頃 
[説2]「早稲田高等学院生」考案説 1921(大正10)年
[説3]「和風レストラン松竹」(岩手県一関市)発祥説 1920(大正9)年
[説4]「ヨーロッパ軒」(福井市 *新宿区から移転)発祥説 1924(大正13)年
[説5]「志多美屋本店」(群馬県桐生市)発祥説 大正末期
[説6]「若松食堂」(会津若松市)発祥説 1930(昭和5)年
[説7]「西洋亭」(群馬県前橋市、1915(大正4)年創業)発祥説
[説8] 長野県駒ケ根市、恵那市 発祥説 昭和初期

 

「会津ソースカツ丼」は、『同じくソースカツ丼で有名な駒ケ根や福井と比べるとソースの粘度が高く、2つの地域がウスター系のソースであるのに対して、こちらは中濃系のソースが使われているイメージ』で、『会津のソースカツ丼は東日本を代表するソースカツ丼』とも言われている。*出処:日本食文化観光推進機構「地域の宝を探す旅 食文化を旅する」URL: https://www.gastronomy.town/)


 

「会津ソースカツ丼」は、店ごとにソースの味やカツの厚さや大きさが違うが、今日訪れた「白孔雀食堂」(創業1945(昭和20)年)は、カツが丼からはみ出る“デカ盛り”の元祖と言われ、長く会津若松市民や観光客の目を楽しませ、胃袋を満たしてきた。 

今回は、「サイノカミ」を見学し宿泊した三島町から移動し会津若松市に入り、この「白孔雀食堂」を訪れた。

*参考:

・福島県:只見線ポータルサイト

・東日本旅客鉄道株式会社:「只見線(会津川口~只見間)復旧工事の完了時期について」(PDF)(2020年8月26日)

・産経新聞:「【美しきにっぽん】幾山河 川霧を越えてゆく JR只見線」(2019年7月3日)

・拙著:「次はいつ乗る?只見線」カテゴリ ー只見線沿線の食と酒ー / ー只見線の冬

 

 


 

 

昨日は三島町大登地区で、「サイノカミ」の御神木切り出しから夜の火送りまで見て、「宮下温泉 ふるさと荘」に泊まった。

 

今朝起きて、部屋の窓から外を見る。上空に雲は少なく、今日は晴れるような空模様だった。 

 

朝風呂に浸かり、荷物をまとめて部屋を出る。チェックインの際に説明があった通り、部屋の鍵を白いポストに入れてチェックアウトした。

   

玄関を出て、目の前の通る国道400号を渡り、只見川を見下ろした。水面は濃紺色で、水鏡が冴え、空の様子を綺麗に映していた。

 

只見川の上流側に目を移し、町道の三島大橋越しに、洞厳山(1,012.9m)の山塊と、右奥に会津百名山「高森山」山頂(1,099.7m)を眺めた。


 

 

「第二只見川橋梁」を渡る只見線の列車を撮影するために、国道400号線を北東に向かった。まもなく、前方に2台の車と、2人の姿が見えた。

 

2人とも三脚を立て、カメラを向けアングルを探っていた。

 

私は、この2人のレンズに入らぬよう、国道をさらに進み撮る場所を探した。国道の先にも“撮る人”が居たので、その間ぐらいの場所を撮影場所にした。

 

カメラをズームにして、只見川の下流方面にある「第一只見川ビューポイント」の最上部・Dポイントを見ると、“撮る人”が10人ほど居た。

 

 

7:28、かすかに列車がレールを進む音がして、まもなく会津川口行きのキハE120形2両編成が「第二只見川橋梁」を渡った。列車が橋の中間に差し掛かったところで、シャッターを切った。*以下、各橋梁のリンク先は土木学会附属土木図書館デジタルアーカイブス歴史的鋼橋集覧1873-1960

 

 

 

撮影を終えると、この列車が会津宮下駅ですれ違いを行う会津若松行きに乗るために、急ぎ会津西方駅に向かった。

 

ホームを歩いていると、まもなく列車が姿を現した。

7:39、会津若松行きが会津西方を出発。

  

 

列車は出発後に、名入トンネルを抜けると「第一只見川橋梁」を渡った。上流側の駒啼瀬渓谷は、積雪した斜面と木々のモザイクと上空の千切れ雲が、只見川の水鏡に映り込み、なかなか良い眺めだった。

 

反対側の席に移動し下流側を眺める。こちらは陽がまだ低いため川面は暗く、只見川の蛇行部の先にある日向倉山(605.4m)と杉峠(441m)などが照らされ綺麗に浮かび上がっていた。

 

  

会津桧原を出ると、滝谷川橋梁を渡り柳津町に入る。渓谷の木々の綿帽子は少なかったが、まずまずの眺めだった。

   

滝谷から郷戸を経て、“Myビューポイント”で会津百名山「飯谷山」(783m)を眺めた。

  

会津柳津を出て、会津坂下町に入った直後に会津坂本に停車。その後列車は七折峠に向かう。登坂途上、木々が開けた“坂本の眺め”から見下ろすと、集落の先に地面を覆う白い雲のような塊が見られた。

 

登坂を終え下りに入り、塔寺を出た先で、開けた場所から会津盆地を見ろした。

 

 

 

七折峠を抜けた列車は、会津盆地に入ってゆく。陽光を浴びた雪原が眩しかった。街並みの先にある「磐梯山」は、周辺が暗く良く見えなかった。

 

 

列車は会津坂下若宮を経て会津美里町に入り、新鶴を出発。西部山麓に連なる会津百名山「明神ヶ岳」(1,074m)は少し雲が掛かっていたが、南北に延びる田園の雪原は無垢の美しさだった。

 

反対側の座席の窓からは、雪原にうっすらと霧が漂う良い風景が見えた。

 

根岸を出ると、列車は会津高田手前で進路を真南から東に変えた。車窓から北側を見ると、一面が霧に覆われ、幻想的な光景だった。

 

 

会津本郷から会津若松市に入り、大川橋梁を渡る。上流側には会津百名山で市内最高峰の「大戸岳」(1,415.9m)が見えた。今年中に登りたいと思っている。

 

 

 

 

 

8:50、西若松に到着。「白孔雀食堂」の開店(11時)まで時間があるので、ここで降りて、鶴ヶ城に立ち寄る事にした。

 

改札を抜けると、掲示板に“津波注意報発令による仙台支社管内の運転の見通し”という案内書が張り出されてあった。三陸や宮城沖の地震ではなく、南国トンガの海底火山の噴火による津波に対する警報が出ていたという。

 

駅舎を抜け、前方、東の方には会津百名山「奴田山(青木山)」(723.3m)の稜線が見えた。

 

その左側(北)には、会津ウィンドファームの風車が見えた。*参考:コスモエコパワー㈱「会津若松ウィンドファーム」/会津地域産業観光ガイド「会津若松ウィンドファーム

 

 

 

西若松駅から鶴ヶ城の南側に延びる道を進み、20分ほどで鶴ヶ城入口に到着。

 

 

圧雪された道を進み、廊下橋を渡り本丸に入りしばらく歩くと、鶴ヶ城の天守閣が見えた。

 

正面に行き、真下から見上げると、載った雪が屋根瓦を際立たせ、迫力があった。

 

本丸内のマツには、雪吊りがされていた。今冬は、大いに役に立っているのだろうと思った。

  

城内には、思いのほか人が多く、そのほとんどがカメラやスマートフォンを天守閣に向けていた。いつも思うが、只見線の起点である会津若松市にこのように存在感があり、重厚な歴史背景をもった建築物があることはありがたい、と改めて思った。

30分ほど見学して、鶴ヶ城本丸を後にした。

 

 

城郭を出て椿坂を下ろうとすると、建物の間から会津百名山で会津を代表する山である「磐梯山」(1,816.2m)が見えた。

  

城の堀は、ほとんど凍っていた。

 

一部、流水がある場所は水面が見え、そこにオオバン(大鷭)が浮かんでいた。特殊な体毛に覆われているとはいえ、冷たい水の上で平然としている水鳥は、神々しかった。

  

 

 

北出丸口を出て、市街地の中心部に向かうと、除雪作業が行われていた。路側帯辺りの雪を取り除いているようだった。今年は雪が多く、道路管理者である行政は人繰り予算繰りで大変だろうと思った。

 

路地に入ると、アスファルト面は見えず、堅く圧雪されていた。

 

 


 

  

11:00、市立図書館などで時間をつぶし、開店直後の「白孔雀食堂」に1番乗りで入った。

 

扉を開けると、元気な声に迎え入れられ、スタッフから検温と手の消毒を促された後、券売機での前払い制であることの説明を受けた。メニューはソースカツ丼のみで、カツの枚数を選ぶようになっていた。

店内には、大テーブルが2、小テーブルが2、座敷にテーブルが1、がそれぞれ配置されていた。私は、奥の大テーブルに座った。

  

新型コロナウィルス対策で、テーブル席にはアクリル板が載せられ、おしぼりも除菌タイプのウェットティッシュを渡された。

 

店内の壁には色紙や、ご主人がプロレスファンなのか、それ関連のポスターなどが、一面に貼られたいた。そして、壁の真ん中あたりに“名物カツ丼 通な食べ方”という案内が掛けられていた。

 

 

 

注文してから、8分で“普通盛り”となるソースカツ丼カツ2枚が運ばれてきた。どんぶりからはみ出たこのソースカツ丼は、テレビやネットなどで何度も見ていたが、目の当たりにすると迫力が違った。

 

ソースも、テーブルに垂れるほど、たっぷり絡められていて、照りと香りが胃袋を刺激した。

 

どんぶりを横から見ると、「白孔雀食堂」のカツの“大きさ”が良く分かった。カツは薄く、豚肉を叩いて引き延ば大きくしているのだろうと思い、食感や歯ごたえが気になった。

食べてみる。

驚いた。『薄くてどうだろう??』という心配は杞憂で、肉は柔らかくすぐに嚙み切れるが、肉感はしっかり残っていて、食べ応えがあった。

ソースがたっぷり絡まった衣は、薄い肉を邪魔しないほどの微妙な厚みながら、サクサクしていた。ソースは、見た目や量からイメージするほどには、しつこくなく程よい甘辛さだった。

このソースカツは見た目の迫力から一転、上品な味でとても旨かった。

 

ゴハンは言うに及ばず旨く、千切りキャベツとソースカツを一緒に頬張ると、幸せな気分になった。

「白孔雀食堂」のソースカツ丼(カツ2枚)は、見た目のユニークさと旨さで、“名物”に違わぬ逸品だった。

 

店には、私がいる間に2組が入り、そのうち1人が特盛(カツ3枚)を注文していた。どんな形で給仕されるか見ていると、さすがに丼にフタは載せず、カツが真上に突き出た状態で客の前に出されていた。すごい光景だった。

20分ほどで完食し、「白孔雀食堂」を後にした。 

 

 

 

帰りは高速バス(いわき行き)の高速バスに乗るので、バス停のある神明通りに向かった。

 

神明通りには、3代目となるアーケードがあり、側面が会津木綿の文様が施されていた。

この後、いわきで常磐線に乗り換え、富岡に帰り旅を終えた。


 

(了)

 


・  ・  ・  ・  ・  

*参考:

・福島県 生活環境部 只見線再開準備室「只見線の復旧・復興に関する取組みについて」 

・NHK:新日本風土記「動画で見るニッポンみちしる~JR只見線

・東日本旅客鉄道株式会社:「只見線について」(PDF)(2013年5月22日)/「只見線(会津川口~只見間)の鉄道復旧に関する基本合意書及び覚書」の締結について(PDF)(2017年6月19日)

・福島県:平成31年度 包括外部監査報告書「復興事業に係る事務の執行について」(PDF) (令和2年3月) p140 生活環境部 生活交通課 只見線利活用プロジェクト推進事業

 

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②福島県:企業版ふるさと納税

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(引用)寄附金は、只見線を活用した体験型ツアーや周遊ルートの整備、只見線関連コンテンツの充実化等に活用させていただきます。 沿線地域における日本一の秘境路線と言われる観光資源を活用し、更なる利用者の拡大と認知度向上を図ります。

 

以上、宜しくお願い申し上げます。

次はいつ乗る? 只見線

東日本大震災が発生した2011年の「平成23年7月新潟福島豪雨」被害で一部不通となっていたJR只見線は、会津川口~只見間を上下分離(官有民営)とし、2022年10月1日(土)に、約11年2か月振りに復旧(全線運転再開)しました。 このブログでは、“観光鉄道「山の只見線」”を目指す、只見線の車窓からの風景や沿線の見どころを中心に、乗車記や「会津百名山」山行記、利活事業に対する私見等を掲載します。

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