西会津町「百戸沼」「木地夜鷹山」登山 2021年 紅葉

観光鉄道「山の只見線」”沿線の「会津百名山」登山。今日は、会津西方駅から北に向かい、西会津町にある「木地夜鷹山」(859m)に登り、「百戸沼」(620m)周辺を散策した。


西会津町の山は、先日登った一等三角点峰「鳥屋山」に続いて2度目。町には只見線は通っておらず、阿賀川に沿ってJR磐越西線が敷設され4つの駅がある。只見線の会津坂本駅、会津西方駅からそれぞれ国道(49号線、400号)を通り、町境の山間の集落に行く事はできる。「鳥屋山」は最寄りが会津坂本駅になり、今回登る「木地夜鷹山」と「百戸沼」が会津西方駅となる。

「百戸沼」は、先日訪れた南会津町の「宮床湿原」と同じく、“山”ではないが、標高が高い場所(620m)にあるため「会津百名山」に選定されたようだ。「木地夜鷹山」の登山道から100mほど離れた場所に「百戸沼」があるため、双方をセットで登るのが定番になっているようだ。

 

「会津百名山」では「木地夜鷹山」は75座、「百戸沼」は94座とされ、「会津百名山ガイダンス」では、それぞれ次のように紹介されている。

木地夜鷹山 <きじよたかやま> 859メートル
昔、鉄砲が伝来する以前から鷹を使った狩りが盛んに行われていた。木地夜鷹山はそうした鷹狩りの山があったのかと興味が湧く。また、木地の名は「以前は木地師達が入っていたのではないか」に由来しているともいわれる。[登山難易度:上級]*出処:「会津百名山ガイダンス」(歴史春秋社) p160 

 

百戸沼 <ひゃっこぬま> 620メートル
耶麻郡西会津町長谷川の源流沿いにひっそりとたたずむ鉱山の歴史を秘めた沼。福島県保護地区になっている山中にはトガクシソウが咲く。[登山難易度:中級]*出処:「会津百名山ガイダンス」(歴史春秋社) p188

   

また、「新編會津風土記」(1809(文化6)年編纂完了)には、「木地夜鷹山」と「百戸沼」の記述は見当たらなかったが、野澤組黒澤村の項に、登山口に向かう途中にある大瀧地区、登山道に沿う長谷川、付近にあった鉱山(銅山)についての記述があった。

●黒澤村 端村 今和泉 新屋敷 落合 大瀧
府城の西に當り行程九里七町餘、家敷四軒、東西三十間南北一町、山中に住し
○大瀧
落合より申の方二十五町二十間餘にあり、家敷四軒、東西一町南北三十間、大瀧川に傍て、山中にあり、こゝより東二十間大瀧川に大なる瀑布あり、故に名くと云、又村南に木地小屋一軒あり、
○長谷川
源二つ、一は大瀧川と云村西の山中に出、端村大瀧の南をすぎ、山間を東流し十二丈餘の瀧となり又四丈計の瀧となる、因て大瀧の名あり、二十五町二十間餘流れて落合の西に至る、一は松手川と云、村より未の方松手沼を出、山間を東に流れ村南をすぎ北に折れ、端村今和泉新屋敷の西をすぎ落合の東を流れ北に至り、凡一里十八町流れて大瀧川合し、長谷川となり、北と流ること十二町、出原村の界に入る
○銅山
端村落合の西九町鈍子岩と云(礬の類を産す因てたうすと云べきをかく稱ふ) 山中に銅を産す、小屋一軒あり、又落合より丑の方十町三十間餘に鉛山あり、こゝにも小屋一軒あり、其餘銀及び銅鉛を産する山近邊に多し、今野澤本町武兵衛が家に慶長元和の頃金を採りし時の文章を藏む

*出処:新編會津風土記 巻之九十四「陸奥國河沼郡之七 野澤組 黒澤村」(国立国会図書館デジタルライブラリ「大日本地誌体系 第33巻」p305(コマ158) URL:https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1179220)

 

「木地夜鷹山」「百戸沼」の登山道は“一部不明瞭”となっているが、西会津町のNPO法人「西会津ぐるっと山ネットワーク」がトレッキングイベントなどを開催し、登山道にリボンテープを設置するなど、整備をしているという。*参考:NPO法人「西会津ぐるっと山ネットワーク」NISHIAIZU YAMA−NET URL:https://www.nishiaizu-yamanetwork.com/


 

現在、「只見線の利活用」事業の中で、西会津町と只見線は結び付けられていない。しかし、「木地夜鷹山」と「百戸沼」は魅力的で、“観光鉄道「山の只見線」”の山岳アクティビティとしての可能性を考えてみたいと、今回登る計画を立てた。

 

旅程は以下の通り。

・郡山から磐越西線の始発列車に乗り、会津若松で只見線の列車に乗り換え、会津西方に向かう

・会津西方到着後、輪行した自転車で「木地夜鷹山」「百戸沼」大滝登山口に向かう

・登山口から「木地夜鷹山」山頂に向かい、下山途中で「百戸沼」周辺を散策

・登山口に戻り、「第一只見川橋梁ビューポイント」に向かう

・「第一只見川橋梁ビューポイント」で上り列車を撮影し、今夜の宿である「旅館 栄光館」にチェックイン

 

只見線の最寄り(会津西方駅)から登山口まで、杉峠を越える片道13kmの自転車移動は楽ではないが、道々の集落や自然などの風景に期待し、現地に向かった。


 

  

今回は、富岡から郡山に移動し宿泊。久しぶりに、早朝の郡山駅西口を眺めた。

 

郡山-会津若松間の「Wきっぷ」を購入し、輪行バッグを抱え改札を通り1番線へ。磐越西線の始発列車の、最後尾に乗り込んだ。

5:55、会津若松行きの列車が郡山を出る。


 

 

沼上トンネルを抜け猪苗代町に入る。猪苗代を過ぎると会津百名山「磐梯山」(1,816.2m)全体が青空を背景にくっきりと浮かび上がり、山肌の色付きも見えた。

 

 

 

 

 

 

 

7:12、会津若松に到着。改札を抜け駅舎を眺めると、朝日を浴び駅舎の赤瓦を模した屋根材が綺麗に見えた。

上空の大部分は青空だったが、鼠色の雲も浮かんでいた。会津地方の天気予報は晴れだが、これから向かう奥会津地方の天気が気になった。 

 

 

買い物をして、改札を通り、連絡橋を渡り只見線のホームに向かった。橋上でこれから乗る列車を見下ろすと、北東の方向に「磐梯山」の山稜がうっすらと見えた。

階段を降りて、4番線に停車中のキハE120形2両編成の後部車両に乗り込んだ。

  

7:41、会津川口行きの列車が会津若松を出発。新型コロナウィルスによる緊急事態宣言が解除され、紅葉シーズンということか、車内に観光客と思われる方々の姿が多く見られた。会津西方までの運賃は860円。

 

列車は、七日町西若松で思いのほか多くの制服姿の生徒を乗せ、阿賀川(大川)を渡り、会津盆地の田園地帯に入っていった。上空には雲が掛かり、小さな雨粒も落ちてきた。天気は大丈夫だろうか、とここでも心配になった。

  

 

 

8:01、列車が会津本郷を経て会津美里町に入り会津高田に停車すると、制服姿の生徒達が降りた。どうやら県立大沼高校の生徒だった。 

土曜日になぜこれほどの生徒が登校するのだろうか、と思って大沼高校のホームページを見ると、今日は「大沼高等学校 創立百周年記念式典」が行われたという。午前中は最後の学校祭「蜂苑祭」の準備だったようだ。

福島県立大沼高校は、“創立101周年”となる来春から県立坂下高校と合併し「福島県立会津西陵高等学校」に生まれ変わる。校舎は大沼高校の現校舎を使用するということで、ここ会津高田駅を利用する生徒が増える事になる。若い力で地域を賑やかにし、新たな歴史を刻んでいってほしいと思った。

 

 

 

 

会津高田を出ると、列車は“右大カーブ”で進路を西から真北に変える。前方の灰色の雲が気になったが、広大な刈田と上空に広がった青空が良い光景だと思った。

 

  

 

 

列車は根岸から新鶴を経て、若宮から会津坂下町に入り、進路を再び西に変え会津坂下に停車。上りの会津若松行きとすれ違いを行った。

 

会津坂下を出ると、刈田に挟まれた短い平地を走り、一旦出力を下げたディーゼルエンジンを再び蒸かし、七折峠に向かって登坂を始めた。

登坂途上の塔寺で停発車し、第一花笠-第二花笠-元屋敷-大沢と続く四連トンネルで登坂と終え、列車のエンジン音は静かになり会津坂本に入っていった。

 

 

会津坂本を出ると奥会津地域の入口となる柳津町に入り、会津柳津に停車。観光客らしき方が降り、県立川口高校の生徒と思われる青年が乗り込んだ。

ちなみに、柳津町は西に細長く突き出た町域を持ち、今日これから通る国道400号線杉峠がある。

 

 

会津柳津を出発直後に柳津スキー場跡を眺めると、モザイクに色付いた山の頂だけが陽光に照らされていた。雲の動きによって一瞬現れたこの貴重な光景に、車窓から外を眺めている中で、“はっ”とする景色に出くわす事ができる列車旅の魅力を、改めて思った

 

郷戸の手前では、“Myビューポイント”で会津百名山「飯谷山」(783m)を眺めた。陽が差せば、色付いた山肌に綺麗に見られるところだったが、太陽は雲に覆われていた。

 

滝谷に停車すると、廃ホームに“早色付き”の一本もみじがあり、綺麗に赤と橙の濃淡を見せていた。

 

列車は、滝谷を出発直後に滝谷川橋梁を渡り三島町に入る。紅葉のピークはもう少し先のようだったが、只見線屈指の渓谷美は、まずまずの見ごたえだった。*以下、各橋梁のリンク先は土木学会附属土木図書館デジタルアーカイブス歴史的鋼橋集覧

  

  

会津桧原を出た列車は、桧の原トンネルを抜け「第一只見川橋梁」を渡った。東北電力㈱柳津発電所の柳津ダム湖の水鏡(湖面鏡)は波が立たず冴えていたが、陽光が少なく、映しこまれる周囲の風景はぼんやりしてしまっていた。 

 

反対側の座席に移動し、只見川の上流を眺めた。こちらは順光のためか、駒啼瀬の渓谷の色付きを見る事ができた。

この付近の紅葉のピークはまもなくのようだった。色付きの最盛期に太陽に照らされた美しい風景が、多くの乗客の目を楽しませてくれることを願った。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

9:03、会津西方に到着。私の他、一人が降りた。観光客か地元の方が区別がつかなった。

   

 

列車を見送り、輪行バッグから自転車を組み立てて、直ぐに会津西方駅を出発。


 

駅前を通る国道400号線を進み、今春にも訪れた桜並木に向かった。私の乗った列車が次駅の会津宮下駅ですれ違いを行った上り列車が、「第二只見川橋梁」を渡り会津西方駅に向かってくる様子を撮った。

 

会津西方駅を出た列車は、駒啼瀬渓谷周辺にある、歳時記橋(アーチ橋)、道の駅尾瀬街道みしま宿を背景に走り去った。


 

 

 

国道400号を、西会津町に向かって進む。バイパス区間ということで、広く傾斜が緩やかで小径の折り畳み自転車でも快適に進む事ができた。

 

前方に、「第一只見川橋梁」上から下流側に見えた日向倉山(605m)が見えた。これから通る杉峠は、この山の西側にある。

  

西方街道(野澤街道)の宿場だった西方地区を左に見ながら右に曲がり、バイパス区間から幅の狭い道に入った。

 

途中、未成バイパスの、色褪せた橋桁があった。これから向かう杉峠は交通の難所で、狭隘な道なため国道400号線バイパスの建設が進められたが、トンネル予定部の地質が脆く工事は中断され、そのまま建設は中止されてしまった。

 

 

 

 

9:31、三島町から柳津町に入る。前述した、西に突き出た町域だ。

 

鋭角に左折し、杉峠に向かう。峠は冬の降雪期は通行止めになる。バイパス建設の目的はこの冬期閉鎖もあった。

 

峠道はそれほどの傾斜ではないが、約2kmを上り続ける事になり、10近いヘアピンカーブがある。道幅も狭いので対向してくる自動車にも注意が必要だ。

 

峠のピークになり、ようやく登坂が終わった。前回(2017年8月)はここを下ったため気づかなかったが、自転車で上るにはキツイ峠だった。電動アシスト付き自転車でないと、一般の方は体力を消耗し、とても登山ではなくなってしまうと思った。

 

 

 

  

国道を下ってしばらくすると西会津町に入った。退避スペースに“西方街道 下谷路”と書かれた大きな標杭があった。


木々の間からは、大山祇神社御本社の背後に聳える台倉山(863.2m)が見えた。

 

 

 

 

10:00、快調に坂を下り、黒沢集落を抜け落合集落に到着。面倉川に架かる橋に看板らしきものが見えた。

 

正面に回り看板を見ると、「黒男山」「木地夜鷹山」「百戸沼」登山口と書かれていた。看板に従って国道から左折し、町道を進んだ。

 

 

 

 

10:15、大滝集落に到着。この頃には、太陽がほとんど陰ることが無くなり、陽射しが注いだ。天気は大丈夫だろう、とようやくホッとすることができた。

 

入口にある大滝不動堂に参拝。御堂をよくみると板壁が新しかった。

 

帰宅後に2017年8月の写真を見ると、明らかに変わっていた。

 

 

この御堂の前には、集落の名の由来になった大きな滝があり、周囲の木々が落葉していたこともあって、良く見ることができた。“大瀧”の名の通り、落差のある瀑布だった。できれば、下から見上げたいと思った。

 

 

 

 

人影のない集落を抜け、道は町道から林道大山美坂高原線に変わり、長谷川沿いに緩やかな坂道を進んだ。

 

 

 

 

10:24、林道大滝1号線との分岐に到着。

  

退避スペースには車が2台停まっていて、手前の看板には、「黒男山」「木地夜鷹山」「百戸沼」の登山口の位置が示されていた。

 

長谷川に架かる祝沢橋を渡り、会津百名山「黒男山」(980.4m)の登山口に行ってみると、熊の攻撃だろうか、登山口の看板は破壊されていた。

「黒男山」には、今年の春に美坂高原側から登っている。*参考:拙著「柳津町「黒男山」登山 2021年 春」(2021年4月18日)

 

 

 

 

分岐に戻り、林道大滝1号線を進む。林道はまもなく未舗装になった。

 

長谷川に架かる大岩橋から振り返ってスラブの灌木を見ると、陽光に照らされて綺麗だった。

 

途中、一人の登山者とすれ違った。

 

 

 

 

 

 

10:35、「木地夜鷹山」「百戸沼」の登山口に到着。会津西方駅から約1時間30分掛かった。やや広いスペースには、2台の車が停まっていた。

 

登山口に看板・案内板は無く、軽自動車ならば通れるような幅の道が先に続いていた。

 

 

 

  

10:50、自転車を隅に置き、準備をして登山を開始。

 

さっそく、登山道はぬかるみになり、100mほど続いた。ここは水はけがかなり悪い場所のようで、排水路か木道を設けるなどの道普請が必要だと思った。

 

ぬかるみを抜けると、笹竹と雑草が生い茂っていた。足元は固かったので、問題なく進めた。

 

見上げると、色付いた山々が陽光に照らされ、綺麗に見えた。

 

 

 

 

 

10:55、「木地夜鷹山」「百戸沼」登山に欠かせない“長谷川の渡渉”に入る。

 

他の方の山行録では『渡渉があるので長靴が無難』と書かれていたが、川床の石を利用すれば登山靴でも大丈夫ではと頭の片隅で思っていた。しかし、水深を目の当たりにして、『長靴が無難』とは言い過ぎではないと実感した。

 

今回、長靴での登山は不安があったので、登山靴にビニールカバーを付けて渡渉することにした。

 

 

第1回目の渡渉を無事に終え、長谷川左岸を進む。踏み跡ははっきりしていた。

  

長谷川が近づき、2回目の渡渉となる直前に、「黒沢越入口」と書かれた標杭が立っていた。


黒沢越とは、台倉山東側の鞍部を抜け、大山祇神社と御本社(奥宮)を結ぶ参道に繋がる峠道だ。*地図出処:国土地理院 地理院地図

 

峠道には踏み跡が見られ、木の枝にピンクのテープが多く取り付けられていた。

 

 

 

第2回の渡渉。浅瀬だったが、岩にはぬめりがあり、川床に足を付け慎重に進んだ。

 

長谷川右岸を進む。こちらも踏み跡鮮明だった。

 

長谷川が近づき、第3回目の渡渉を行う。

 

そして、直ぐに第4回目の渡渉で、長谷川右岸に渡る。

渡ってから気づいたが、右岸の先にはピンクテープがあり、倒木に気を付けながら右岸を進めば、この第3回と4回の渡渉は不要だったようだ。

 

 

第5回の渡渉(正式には第3回目)。水量が少ないようで、登山靴でも濡れずに越えられる幅と水深だった。

 

第6回の渡渉(正式には第4回目)。ここも、倒木を越えれば、川幅が狭く難なく通過できた。

 

第7回の渡渉(正式には第5回目)。ここは、さらに川幅が狭くなり、登山靴のビニールカバーと外して、軽々と超えた。

 

 

 

この先、登山道は長谷川左岸を高巻くようになった。

 

短い急坂を登った。

 

登山道の踏み跡は不明瞭になるこはなく、笹竹に覆われた場所も、地面を見ると安心できた。

 

開けた場所で、近づいた山肌を眺めた。

 

 

 

 

登山道は高度が増し、長谷川を見下ろすようになった。

 

ブナの間に延びる秋の登山道。気持ちよかった。

 

このブナ林に入ると、人の声が聞こえ、右に目を向けると、ご夫婦らしい二つの人影が見えた。キノコ採りでもしているのだろうか、と思った。

 

 

 

 

 

11:23、“沢越え”となった。目も眩むような高さではないが、足元が斜めになった急な崖を緩やかに下り、小さな沢を渡り、次は同じように対岸の崖を緩やかに登って行く。設置されたロープをしっかりつかみ、ゆっくりと進んだ。

  

無事に対岸に渡り、ヒモ場のロープをつかんで“沢越え”を終えた。雨の日など、斜面の土が濡れている場合、この“沢越え”は、滑落の危険がある、「木地夜鷹山」「百戸沼」登山道の要注意箇所だと思った。

 

 

“沢越え”後、また同じような場所が現れたが、ここは足元が平坦で、斜面も急ではなく問題なく進む事ができた。

 

 

 

 

 11:31、林を抜け、長谷川の支流・百戸沢に近づき、最後、第8回の渡渉(正式には第6回目)をする。

 

 

登山道に草が目立っていたが、踏み跡は鮮明で、迷う事は無かった。

 

 

登山道は徐々に高度を増し、再び林の中に延びていった。

 

涸れ沢を渡る。春先は雪解け水が流れるのだろうか、と思った。

 

少し進むと、熊鈴が鳴る音が聞こえ、前方に男性と女性、二人の登山者が見えた。

 

挨拶をして、二人を追い越し、先に進んだ。

 

 

まもなく、前方に奥行きのある空間が見えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

11:46、斜面を登りきると、前方に古びた看板があり、「百戸沼」の北側に到着した事が分かった。

 

看板は福島県が設置したもの。「木地夜鷹山 自然環境保全地域」と記されていた。この看板が「百戸沼」の入口になる、と多くの方の山行録に記されていた。

 

少し南に進み見下ろすと、木々の間から水面が見えた。ここから先には、「木地夜鷹山」登頂後に行く予定にしていた。

 

 

 

登山道に戻り、「木地夜鷹山」を目指す。先ほど追い抜いた二人のうち、ご婦人の方が先に進んでいた。どうやら、男性は先には進まず、「百戸沼」周辺で待つようだった。

 

斜面は急だったが、直登ではなく、九十九折りになっていた。先をご婦人が歩いていて安心だったが、踏み跡も鮮明で、ピンクリボンもあり、この時は大丈夫だろうと思っていたが...。

  

ご婦人は山慣れしているようでスピードがあり、見えなくなってしまった。私も負けじと、スタスタと歩みを進めた。

  

 

 

 

...しかし、いつの間にか踏み跡を見失ってしまった。ご婦人の姿も認められず、とりあえず、ブナ林の間にうっすらと見える尾根を目指して進んだ。

 

だが、尾根に登ると踏み跡どころか、薄い籔が広がっていた。

 

ここで、スマホを取り出してみる。au回線はアンテナが1本立ち、何とか地図アプリを見る事ができた。北に目を向け、登山道となるような平場を探した。

  

  

北北東に進み、小さな斜面を下ると、踏み跡を見つけた。「百戸沼」方面に目を向けると、踏み跡は続き、登山道と思われる空間もはっきりと分かった。これを見逃し、一時的とはいえ、ロストしてしまった事に、低山とは言え登山に油断禁物だと改めて思った。

 

 

振り返って、上り坂に続く踏み跡を進むと、ピンクテープも巻き付けられていた。本来の「木地夜鷹山」登山道に戻った事に、ようやく安心できた。

 

 

まもなく、より急な斜面に取付き登坂。籔の中に、不明瞭ながら踏み跡が延びていた。

 

新しい靴跡があった。登山口に向かう途中で、すれ違った方のものだろうか。

 

 

 

  

黙々と斜面を登って行くと、尾根が見えた。

 

12:23、尾根に立つ。完全に開けてはいなかったが、山稜に雲か雪か判別できない白いものを載せた飯豊連峰が枝木の間から見えた。

   

尾根に延びる踏み跡は、はっきりしていた。

   

 

 尾根を進み、大きな逆木を越えると、前方にこんもりとした山頂が見えた。

 

先に進むと灌木が途切れ、ザレ場になった。ここが「木地夜鷹山」であることが分かった。

 

ザレ場にはロープが垂らされていた。登りでは必要無いが、下りでは頼る事になるだろうと思った。

 

ザレ場の見晴らしは良く、台倉山、そして先週登った会津百名山「鳥屋山」(580.5m)が見えた。「鳥屋山」が、一等三角点になる事が分かるロケーションだった。 

 

 

ザレ場を過ぎ、灌木の間を進むと、前方に突き出た松が見えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

12:30、「木地夜鷹山」山頂に到着。一時、登山道をロストしたが、登山口から2時間40分で登頂できることができた。

 

山名標は、一本松に取り付けられていた。

 

山頂は、踏み固められた土間が尾根筋に沿っていた。思いのほか広く、驚いた。

 

登ってきた北東側には、図根点標石が倒れていた。

 

「木地夜鷹山」は三角点峰でないため、この倒れた図根点標石に触れ、登頂を祝った。

 

 

山頂からの眺望。「会津百名山」を確認できた。 

東側が最も開け、好天下、素晴らしい景色が広がっていた。台倉山から、右(南)には遠く「磐梯山」、手前に「飯谷山」、さらに南には「銀山峠」「高尾嶺」などが見えた。

 

会津盆地の存在も確認でき、会津若松市街地もうっすらと見えた。カメラをズームにすると、先月登った「羽黒山」と「背炙山」を背後に街並みが映った。

 

南には「黒男山」(980.4m)が、頂上付近だけ孤立峰のように突き出ていた。さらに南には、二王杉山(909m)に連なる稜線のむこうに、うっすらと「高森山」(1,099.7m)が見えた。

 

北には、色付いた日向倉山(774m)越しに、只見川が合流する阿賀川と上野尻地区があり、その西に「須刈岳」(438.4m)が見えた。正面奥に「高陽山」(1,126.5m)うっすらと見えたが、その背後に聳える「飯豊山」(2,105.2m)が連なる飯豊連峰は雲を被り確認できなかった。

 

 

そして、北からすこし西に目を向けると、「木地夜鷹山」山頂の象徴とも言うべき景色が、くっきりと見られた。

 

“キツネもどし”と呼ばれる、ヤセ尾根だ。

両側が切れ落ちたザレ場で、『キツネが(尾根が細すぎて)怖くて泣く泣く戻った』(会津百名山ガイドブック)という難所だ。「木地夜鷹山」から、夜鷹山(818)や「大倉山」(950.3m)へ縦走する場合に通るという。一見の価値のある景観で、紅葉の見ごろの晴れの日に見られる事ができて良かったと思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

12:47、山頂からの眺望を堪能し、下山を開始。「百戸沼」に向かった。

 

ザレ場から、下をのぞき込むと、かなり落ち込んでいるのが分かった。油断ならない危険個所であることを認識した。

 

 

 

 

 

 

踏み跡をだどり、順調に下って行くと、往路で迷い歩けなかった区間を通った。

 

やはり、踏み跡は明瞭で、ロストするような場所でないと思った。

 

ピンクテープも何箇所か、巻かれていて、良く見て歩けばこの正規のルートをたどることは難しくなかったことを思い知らされた。1,000m級で、登山道が整備された山でも、気を抜くと簡単に道に迷う事を肝に銘じた。

 

 

 

 

 

 

平坦な道から斜面になり、往路で通った道を足を滑らせぬようゆっくりと下り、平場に下り立った

  

13:10、「百戸沼」への分岐に到着。

 

はっきりとした踏み跡がないため、樹間から水面が見える場所を進んだ。

 

足元には、一面が苔むした大石が目立つようになった。

 

苔は成長し、近づくとジャングルのように見えた。

 

 

途中からオレンジテープが数か所に見られた。

 

先に進むと、密集した灌木が行く手を阻んだが、水面がすぐそこに見えたため、かき分けて進んだ。

 

 

 

 

13:14、会津百名山「百戸沼」に到着。 周囲の木々は紅葉の見ごろで、陽光に照らされて、眩しいほどだった。


水面はさざ波が立っていたが、色付いた木々を油絵のように映しこんでいた。

 

水は澄み、思いのほか、深くまで見える透明度だった。

 

河岸を見ると、水底に映えていたような植物があり、雪融け時期や梅雨時はもっと水深があると思えた。

 

 

百戸“沼”だが、沢が流れ込んでいた。

 

流れは弱かったが、沢幅から、そこそこの水量がある時があるのだろうと思った。

 

沢の斜面には、全体が苔に覆われた、顔を高さほどの灌木が多くあった。やはり、本体の「百戸沼」はもっと水深があり、面積も広いのだろうと思った。

「百戸沼」にはトクサも生えるといい、「会津百名山ガイダンス」には、次のような記述がある。

(引用)沼の水位が下ると泥地となった箇所に緑のじゅうたんのように密生するのはトクサである。砥草とも書かれる硅酸分の多い化石時代からの植物は、この沼の周辺に硅素を多く含有することを教えているかと再び鉱山の栄枯を思う。

 

 

「百戸沼」の名の由来は、沼の周囲に鉱夫の家が百戸あったことだが、今回訪れた際に周囲を散策し、その痕跡を探りたいと思っていた。しかし、灌木や籔が密集し、短時間で見て回るのは不可能だった。唯一、沼の西側に広大な平場があった。小さい家ならば30軒は立てられるであろう広さだった。おそらく、鉱山採掘の全盛期にはここに家々が立ち並んでいたのだろうと思った。

 

西会津町の「広報にしあいづ」には、2017(平成29)年5月から「にしあいづ物語100選」が掲載され、“その48”で「百戸沼」を取り上げている。そこには、次のような記述がなされいてる。

出処:西会津町「広報にしあいづ」No.750 令和3年4月号 URL:https://www.town.nishiaizu.fukushima.jp/uploaded/attachment/6117.pdf
(引用)慶長16年の大地震で山体が崩れて、木地夜鷹山の山中に百戸沼ができました。大地震前の天正6年(1578)に加賀茂助・彦助兄弟が黒男鉱山を開いて金や銅を採掘し、百戸沼周辺には鉱山で働く人たち、木地師、漆かき職人たちで山小屋が480棟あったとされています。現在も、当時の面影として広大な慶成屋敷、上の屋敷、槍つき、三貫目などの鉱山跡を見ることができます。

山小屋が480棟、ということで“百戸”ではないが、“百”を“非常に多く”と同義ととらえれば合点がゆく。また『当時の面影として広大な慶成屋敷、上の屋敷、槍つき、三貫目などの鉱山跡を見ることができます』と今年4月の広報に記述されているということは、これらの史跡が風化せず残っているはずだ。地図上にそれらの位置を示し、公開するだけでも登山者にはありがたいので、西会津町には作成してもらいたい。



標識のある場所も、斜めだが、表面は平らで、広かった。ここにも、家屋などの建造物があったのだろうと思った。

 

 

 

 

 

 

13:30、15分ほど滞在し「百戸沼」を後にした。

 

 

太陽は雲に隠れることはなく、山々を照らし続けた。気持ちよく、下山することができた。

 

5分ほどで沢の音が聞こえ、まもなく百戸沢が眼下に見えた。

 

 

ブナ林の中は、一段と気持ちよかった。 

 

頂上で眺望を満喫し、下山時は陽光に照らされた木々の中を歩く。登山の良さを実感する瞬間だ。

 

 

 

 

長谷川の渡渉を無難にこなし、ぬかるみを越えしばらく進むと、前方が開けた。

 

14:14、登山口に戻ってきた。自転車は無事そのままの姿で停まっていて、乗用車2台は無く静まりかえっていた。

陽は未だ高く、熊が徘徊する時刻でも無かったが、存在を気にしないわけにもゆかず、急ぎ自転車にまたがり登山口を後にした。 

 

 

5分ほどで、舗装された林道の分岐点に到着。

 

ここで、おにぎりを取り出し、遅い昼食を摂った。

日向で周囲を景色を見ながらおにぎりを食べていると、美坂高原の方から軽トラが1台やってきて停車し、高齢の男性が降りて話しかけてこられた。「木地夜鷹山」に登ってきた事を伝えると、『天気が良くて、(頂上から景色が)良く見えたべ』と言われた。こちらから、「百戸沼」に本当に百軒の家があったのですかと尋ねると、『昔は手掘りだから、人が多く必要だった』という旨の話をいただいた。

この後、大滝集落を通り抜ける時、この男性の軽トラックが停まっていた。どうやら、ここの住人の方のようだった。 

 

 

 

 

町道を下って行くと、「鈍子岩鉱山跡」の入口に立つ標杭があった。


前述した、西会津町の「広報にしあいづ」の「にしあいづ物語100選」には、この(黒沢)鈍子岩鉱山を支配し、会津藩の財政に貢献した坂内利三郎について取り上げている。

*出処:西会津町「広報にしあいづ」No.719 平成30年9月号 URL:https://www.town.nishiaizu.fukushima.jp/uploaded/attachment/6117.pdf

 

 

長谷川に架かる橋の銘鈑を見ると「金山橋」だった。この付近に多くの鉱山があった事を物語っていた。

 

 

 

  

国道に近づくと、角に放置された残骸に違和感がった。

 

帰宅してから、4年前の写真を見ると、赤屋根の住宅があった場所だった。空き家が放置され、自然崩壊したのだと思った。このような光景がこれから加速度的に増えてゆくだろうが、このような放置・崩落家屋の存在は、住み続ける住人の心を暗くし、訪れる人(観光客)が忌避する原因となる。国主体の対策が必要だと思う。

 

 

 

 

 

 

14:52、国道400号線に合流し登山口を示す案内板を見て、「木地夜鷹山」と「百戸沼」の登山を、怪我無くそして熊に遭遇せずに終える事ができたと安堵した。

 

「木地夜鷹山」と「百戸沼」は、それぞれ会津百名山の75座と94座で独立しているが、登山ルートをわずかに外れるだけで双方に行けることから、2座を同じ日に登る事は時間的にも体力的にも問題ないと感じた。

「木地夜鷹山」山頂に向かう途中、一時、踏み跡を見失った時には少し焦ったが、落葉した木々を通して山の稜線が見えたので、それほど焦らずに本来のルートに戻られて幸運だった。雨が降り、周囲を霧で覆われるような悪天候だったら、そのまま迷い続けた可能性もある。今後も1,000m級の低山であっても、気を付けようと思った。

 

 

「木地夜鷹山」は、山頂からの眺望が素晴らしく、“キツネもどし”は一見の価値がある風景だった。冠雪した飯豊連峰を見る事ができれば満点だったが、それが無くても、「会津百名山ガイドブック」に記述されている『会津の山の原点の風景』という表現に、偽りなかった。

「会津百名山ガイドブック」には“登山道無し”とあったが、地元(「西会津ぐるっと山ネットワーク」)の方の整備によるものか、この山の魅力が知れ渡っているのか、“登山道”といわるような踏み跡明瞭な区間が多く、足元をしっかり見てゆけば、山頂までたどり着けると思った。敢えて課題をあげれば、私が迷った、「百戸沼」分岐から斜面を登りきった林の中に、矢印付きの案内板の設置だろうか。

ヒモ場は“沢越え”に2箇所あったが、前述した通り、最初のヒモ場は最も危険な場所なので、斜面で足元が安定するよう平らな凹みを付ける事や、トラロープを少し太めのものに変えるなどの対策があれば、初心者でも安心して登る事ができると思った。ヒモ場は山頂手前のザレ場にもあったが、他は意外と不要だと思えるほど歩きやすいルートだったという印象を受けた。

山頂は踏み固められた土間が意外と広く、快適だった。木板の山名標も味があり、良かった。唯一、破損し倒れていた図根点標石は、更新するなどの対応が必要だと思った。 

 

 

「百戸沼」は、山間にある沼で人を寄せ付けない秘境感があり、紅葉の最盛期という事で、良い景色が見られてよかった。ここは沼だったが、登ってゆかないと見られない場所で、鉱山跡地という歴史と、ここに“百戸”ほどの家屋が点在していたことを考えると、無二の「会津百名山」だと思った。

現地を訪れて課題に思ったのが、福島県が設置している標識から、最短距離で沼岸に行ける導入路の整備。「木地夜鷹山」登山ルート分岐からの進入路が一定していないようで、かならず灌木や藪を越えてゆく必要があったため、沼の水面は見えていても、初心者の場合、行くのを躊躇してしまう可能性があると思ったからだ。また、導入路の整備と合わせて、「百戸沼」と書かれた標杭などの案内板と、当地の鉱山の歴史や“百戸沼”の謂れなどが記載された説明版の設置は必要だと思った。

今回、「百戸沼」周辺に“百戸”の家屋があったでろう場所は想像できたが、痕跡が見当たらず、実感が湧かなかった。もし、「広報にしあいづ」の記述の通り『広大な慶成屋敷、上の屋敷、槍つき、三貫目などの鉱山跡を見ることができ』るのであれば、登山の魅力が増し、多くの客を惹きつける事になるのではないだろうか。

 

 

只見線の会津西方駅、または会津宮下駅からの二次交通について。

今回は輪行し、会津西方駅から大滝登山口まで片道13kmを自転車で移動した。国道400号線の杉峠の登坂は傾斜があり長かったので、自転車を押すことになったが、それ以外は、私の小径の6段シフト折り畳み自転車でも苦は無かった。

現在、会津宮下駅には電動アシスト付きのレンタル自転車があるので、それを利用すれば杉峠越えも無難なのではないだろうか。会津宮下駅から大滝登山口までは15kmとなり、若干距離が延びるが、三島町の中心駅ということで施設も充実している。道中に日帰り温泉も複数あるので、登山客には良いと思う。

 

自動車の利用については、タクシーを呼ぶことは可能だが、隣町からやってくるので、送迎料などを考慮する必要がある。また、会津西方駅(宮下駅)は三島町で、登山口は西会津町にあるので“町民バス”のようなものは期待できないので、登山シーズンに「只見線利活用」事業で「木地夜鷹山」「百戸沼」の登山者を募り、一定数に達した日に乗り合いバス(ワゴン車)などを手配するのが現実的かもしれない。この手法は、只見線沿線の、駅から離れた他の「会津百名山」にも言えることで、“観光鉄道「山の只見線」”を実現し周知されるためには必要が事業だと思うので、「只見線ポータルサイト」に登山者用のページを作るなどして実現して欲しい。 

  

  

 

 

国道400号線の坂を上り、只見線の列車を撮るために、「第一只見川橋梁ビューポイント」を目指した。杉峠の手前で、いったん柳津町に入った。

 

杉峠を越え坂を下り、T字路を右に曲がり、柿平橋を渡って三島町に入った。

 

 

  

国道400号線のバイパスに入り「第一只見川橋梁ビューポイント」の方向を見ると、上空には青空が広がっていた。

 

 

バイパスから町道に入り、林の中を抜け、歳時記橋で只見川を渡る。駒啼瀬渓谷に西陽が当たっていた。

 

橋上から南に目を向け、道の駅「尾瀬街道みしま宿」と「第一只見川橋梁ビューポイント」がある林を見上げた。

 

橋を渡り、町道からショートカットとなる廃道を、自転車を抱えて進んだ。

 

 

 

 

15:45、道の駅「尾瀬街道みしま宿」に到着。

 

道の駅の端となる崖の上から、歳時記橋を見下ろした。駒仲瀬渓谷に掛けられたアーチ橋が西陽に照らされていた。

 


「第一只見川橋梁ビューポイント」に向かう。

 

目指すは、最上部のDポイント。急坂に設けられた階段を、息を切らしながら上った。

 

途中のCポイントにも“撮る人”の姿がった。

 

 

国道脇のAポイントから7分かけて、「第一只見川橋梁ビューポイント」のDポイントに到着。3名の先客がいた。

 

先客のうち2人がドローンを飛ばしていた。列車の撮影をするのだろうと思った。

私も撮影場所を決め、カメラを取り出し、構図を決めた。 

 

16:07、会津西方駅を出発した上り列車が、名入トンネルを抜け、静かに静かに「第一只見川橋梁」を渡り始めた。私は、列車が橋梁の中央部を通る時にシャッターを切った。

 

夏以外のこの時間帯は、太陽が西に傾き「第一只見川橋梁」は日陰に入ってしまう。紅葉期は、列車が点になってもよいので、広角に陽光を受けて輝く周囲の紅葉を取り入れた方が良いようだった。

 

「第一只見川橋梁」を含む、只見線内の橋梁16基と六十里越トンネルは、先々月に土木学会の土木遺産の認定を受けた。*参考:(公社)土木学会 推奨土木遺産「只見線鉄道施設群」/記事出処:福島民友新聞と福島民報の2021年9月29日付け紙面

 


 

 

「第一只見川橋梁ビューポイント」を後にして、今夜泊まる宿に向かった。途中、“アーチ3兄(橋)弟”の展望所に立ち寄った。 *参考:三島町観光協会(観光交流館からんころん)「『みやしたアーチ3橋(兄)弟』のビューポイント」(2013年6月16日)  

 

 

 

 

 

“アーチ3兄(橋)弟ビューポイント”前から200mほど進むと、宿が見えてきた。

 

坂を下り、宮下温泉「栄光館」に到着。日帰り入浴では何度も利用していたが、宿泊は初めてだ。

 

玄関を入ると、ロビーには只見線を走る列車を中心に、多くの写真が飾ってあった。

 

 

検温し、受付を済ますと2階の“きりの間”に案内された。部屋は8畳で、広縁には椅子とテーブルがあり、洗面台も置かれていた。

 

窓からは大谷川が見え、窓を閉めるとほどよく流音が聞こえた。

  

荷物を置いて、さっそく温泉に向かった。

   

  

 温泉は1階の北側。渡り廊下を渡り、別館に入る。

 

突き当りに男湯がある。何度も来ているので、迷うことはなかった。

 

浴室は広く、二面がガラス窓になっていて、大谷川や合流する只見川が見える。この時は暗く、外の様子が見られなかったが、以前見た景色を想像しながら、ゆっくりと湯に浸かった。

「旅館 栄光館」温泉概要
・源 泉:宮下温泉 第二源泉
・泉 温:60.9℃ 
・湧出量:126.9L/min 
・泉 質:ナトリウムー塩化物・硫酸塩・炭酸水素塩温泉 

 

  

  

夕食は19時からと指定された。1階の大広間に行くと、名札の置かれたテーブルに座った。

 

日本酒では“会津の地酒セット”があったが、今回はビールにした。

 

「栄光館」は養鶏場が地元にあるためか、会津地鶏を使った料理が出される。軽く火を入れたササミは、硬軟の歯ごたえが良く、鶏の旨味も感じられ旨かった。

 

生の鶏肉が野菜の上に載っていた。

 

どうすのかと思っていたら、給仕をしていた女将がやってきて、陶板鍋に野菜を敷き詰め、その上に鶏肉を置き蓋をした。『火が消える頃が食べごろです』と言われた通りに蓋を取ると、良い具合に蒸し焼きになっていた。

野菜の旨味が移り、ほどよい弾力の鶏肉になっていた。旨かった。

 

蒸器の蓋を取ると、白身魚と鶏肉の蒸し料理になっていた。同じ蒸しでも、鶏肉の味や食感は全く別物だった。全ての具材が、それぞれの旨味をまとい、かつ柔らかく、旨かった。

 

食事の途中では、会津の馬刺しが給仕された。サシの入っていない赤身で、大きかった。辛子味噌を醤油にといて食べた。柔らかく、風味もあり、旨かった。

 

ごはんは、会津産の新米。香りが良く、炊き具合も私好みのカタメだった。

 

天ぷらも出された。茶塩で食べたが、全てサクサクで旨かった。特に、イチジクは衣が甘みを引き立て、デザート感覚で良かった。

 

汁ものは、とろみのついたキノコ汁。風味良く、これだけで酒の肴になるような逸品だった。

料理はどれも素晴らしく、大満足の食事になった。会津地鶏に焼き物があれば最高だったが、それででも地元の逸品を堪能でき良かった。

  

食事を終えると、一休みしてから温泉に浸かった。誰も居ない風呂で、筋肉をほぐしながら、ゆっくりと過ごした。


 

明日は、旧新鶴村の最高峰、会津百名山「高尾嶺」に登る予定。「木地夜鷹山」より標高が高いが、何より登山道が無く、ネット上の山行記が少なくイメージが湧かない山だ。体調だけは万全にしたいと思い、早めに休むことにした。


 

(了)

 


・  ・  ・  ・  ・

*参考:

・福島県:只見線ポータルサイト

・東日本旅客鉄道株式会社:「只見線(会津川口~只見間)復旧工事の完了時期について」(PDF)(2020年8月26日)



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東日本大震災が発生した2011年の「平成23年7月新潟福島豪雨」被害で一部不通となっていたJR只見線は、会津川口~只見間を上下分離(官有民営)とし、2022年10月1日(土)に、約11年2か月振りに復旧(全線運転再開)しました。 このブログでは、“観光鉄道「山の只見線」”を目指す、只見線の車窓からの風景や沿線の見どころを中心に、乗車記や「会津百名山」山行記、利活事業に対する私見等を掲載します。

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