会津坂下町「束松峠」/「洲走の湯」 2021年 秋

JR只見線の会津坂本駅で下車し、会津百名山「鳥屋山」に登った後、旧越後街道の「束松峠」を通り会津坂下町に入り、一軒家の日帰り温泉「洲走の湯」で汗を流す計画を立てた。

 

「束松峠」は旧束松村地区にあり、ピークの標高は466.1m。そこを東西に貫いていた旧越後街道は、現在、会津坂下町束松地区と西会津町束松地区を横断する形になっている。

越後街道は、新発田藩と村上藩の参勤交代や会津と越後の交易に使われた“幹線道”だったため、「束松峠」経由の越後街道は大いに賑わったという。しかし、越後街道(「束松峠」経由)は明治初期に福島県令・三島通庸(任期:1882-1883)による会津三方道路整備で、南にある「藤峠」経由に変わり、そのまま国道49号線になった(現在の国道は藤トンネルで藤峠を越えている)。「束松峠」峠道の“間の宿”だった天屋・本名の住民は「藤峠」に流れてしまった往来を取り戻そうと、自らの手で“束松洞門”を掘削し貫通させ、一定の人の流れを戻すことに成功したが、「束松峠」に賑わいは戻る事なく廃れていったという。

越後街道と束松峠
 越後街道は、会津五街道の一つで、若松札の辻から越後新発田に至る行程二十三里余(約92km)の道です。中世以前は束松峠の北、勝負沢峠、塩峯峠を越え野沢に通じていましたが、慶長十六年(1611)の会津大地震によってこの道は不通となり、以後束松峠経由になったと言われています。明治十五年(1882)、会津三方道路の建設が始まり、越後街道が藤峠経由になると、それまで荷物の輸送や旅籠として生計を立てていた人たちは、再びかつての賑わいを取り戻そうと峠に洞門を彫り、馬車の通行を可能なものとしましたが、完成後僅か十年にして不通となってしまいました。
 しかし、束松峠は軽沢の集落を抱えた高寺地区の生活道路として、また、街道の近道として、戦後になるまで通行する人は絶えませんでしたが、昭和三十五年、高寺地区が会津坂下町に編入され、軽沢の集落は西会津町に入ると、峠にあった二件の茶屋も相次いで天屋・本名に下り、束松峠は街道としての役割を終えることになりました。
 その後しばらく忘れられていた街道でしたが、昭和60年に地元有志の人たち による保存活動が始まり、往時を偲ぶことが出来る街道が丹念に整備され、近年はウォーキングブームや歴史ブームもあいまって、多くの人が訪れています。
*出処:福島県会津若松建設事務所「束松地区地域づくり懇談会」 第1号 (平成21年11月13日開催)
URL:https://www.pref.fukushima.lg.jp/uploaded/attachment/32636.pdf


*下図出処:福島県会津若松建設事務所『歩く県道・束松峠(越後街道)』地域づくりニュース(令和2年 vol.1)


“束松”とは、峠に地表から複数の枝が生え、“束ねたような”形状を持つ特殊なアカマツがある事に因る。現在は、旧街道から離れた場所に曾孫束松がある。*参考:会津坂下町 観光スポット文化編「旧越後街道と天屋の束松」/福島県会津若松建設事務所「ふるさと回廊 名木<天屋の束松>

 

会津藩の地誌「會津風土記」(会津松平家初代・保科正之が寛文年間(1661~72) に山崎闇斎に命じて編修させた)を,第7代藩主・松平容衆が1803(享和3) 年に増補改訂させ、1809(文化6)年に編纂が完了した「新編會津風土記」(全120巻)に、「束松峠」の記述がある。

野澤組中十五箇村 ○天屋村 ○山川 ○束松峠
村端より西に登る越後街道の峠なり、道をかぎりて本名・天屋兩村の界とす(南は本名村 北は天屋村)、坂の中程に一里塚あり、麓より登ること十八町十間餘にして頂に至る、寛永中加藤家府城修造の時安座村の肝煎二瓶七左衛門と云者初て此道を開き、大材を運送せしが漸々に開けて終に往還となれり、昔此峠の頂に三株の松あり、相拘束するが如し、これを束松と云、此の松既に枯てより、道の東二町計に二株の松生ず、枝葉喬聳して箒をたてるが如し、先に枯し三株の松に似たるにより子束松と云いしが、寶暦の頃叉枯ぬ、これにより東北の方に叉一株の松生ずその枝皆空に向ふ、側より見るに杉に似たり、これを孫束松と云、尋常の松に比すれば景観殊に美なり、そのかみ北条時頼此村を通し時
 陸奥の滿田の山の束松千代の齢を家つとにせん
と詠ぜしとて今に土人の口碑に傳ふ、寛政四年片門・本名の兩村よりこの頂に茶店二軒を構ふ、この所より東に望めば諸山遠空に連り、高低濃淡一ならず、屏障の如く 列し、沃野中に開けて千村萬落府城の四面に星羅し、近き麓には坂下組高寺山南北に綿延し、牛澤組の山に續き、一帯の蒼翠殊にうるわしく見ゆ、此山に産する早百合草味殊に美なり、叉桔梗多し、
*出処:新編會津風土記 巻之九十五「陸奥國河沼郡之七」(国立国会図書館デジタルライブラリ「大日本地誌体系 第33巻」p316 URL:https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1179220)

  

現在、「束松峠」の旧越後街道(3.6㎞)区間は、県道341号(別舟渡)線の一部となっていて、バイパス整備も途中まで進んだ。しかし、バイパス工事は中断され、現在は“歩く県道”として整備中で、会津坂下町や西会津町でウォーキングイベントが開催されている。*参考:福島県会津若松建設事務所「検討会や懇親会、ワークショップ関係」束松地区地域づくり懇談会 URL:https://www.pref.fukushima.lg.jp/sec/41340a/www-wakamatsu-kensetsu11.html

 

 

 

他方「洲走の湯」は旧洲走村にある日帰り温泉施設(休憩も可)で、嘉永年間(1848~1855年)に開湯され160年の歴史があるといわれている。現在は四代目が“湯守”をされている。

温泉はアルカリ泉で、源泉は20℃ということで加温されているが、掛け流しになっている。トロトロした湯は肌にとどまる時間が長いのか、特に皮膚病に効果があると言われている。さらに、特筆すべきは、「洲走の湯」には水道が通っておらず、蛇口から温泉が出ている。飲湯でき、ペットボトルに入れて、持ち帰る方も居るという。*参考:会津坂下町「ばんげびよりvol.2(2017年6月)」そうだ、会津坂下町の秘湯に行こう! 津尻温泉「滝の湯 」/洲走温泉「洲走の湯」URL:https://www.town.aizubange.fukushima.jp/soshiki/2/6497.html

 

ちなみに、洲走村については、前述の「新編會津風土記」には次のように記述されている。

野澤組中十五箇村 ○洲走村
府城の西北に當り行程四里三十町、家敷十二軒、東西四十間南北一町十間、東は只見川に近く三方に山廻れり、東四十間坂下組船渡村に界ひ只見川を限とす 其村は辰巳に當り十三町、西六町二十間杉山村の界に至る、其村まで十町、南四町片門村の界に至る、其村は巳午に當り、九町十間、北十四町二間羽賀村の界に至る、其村まで十八町四十間餘、
*出処:新編會津風土記 巻之九十五「陸奥國河沼郡之七」(国立国会図書館デジタルライブラリ「大日本地誌体系 第33巻」p322 URL:https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1179220)

  


今回の旅は、「束松峠」を自転車を押して踏破できるか、峠越えに時間が掛かり「洲走の湯」に浸かる時間があるのかなどの不安があったが、天気が良い事もあり楽観し、「鳥屋山」登頂後に現地を訪れた。


*参考:

・福島県:只見線ポータルサイト

・東日本旅客鉄道株式会社:「只見線(会津川口~只見間)復旧工事の完了時期について」(PDF)(2020年8月26日)

・拙著:「次はいつ乗る?只見線」カテゴリ ー只見線沿線の“山”(登山/トレッキング)ー / ー只見線の秋

 

 


 

 

昨夜は金山町の「民宿 朝日屋」に泊まり、今朝は会津川口から只見線の列車に乗って移動した。 

 

早朝で空気が澄んでいて、青空も見えていたため、只見川(3つのダム湖)の水鏡は冴え、車窓から美しい景色を見続けることができた。



 

 

 

8:04、西会津町にある一等三角点峰「鳥屋山」に登るため、最寄りの会津坂本で降りた。

 

  

9:44、軽沢登山口から「鳥屋山」に登り、山頂に到着。

   

   

 

 

 

10:11、「鳥屋山」を下山し、県道341号(別舟渡)線を北東に向かって「束松峠」を目指した。

 

5分ほどで軽沢集落が見え、通過した。


「束松峠」軽沢口を見過ごしてしまい、そのまま進み磐越自動車のガード下を通過。

 

工事が中断された県道のバイパスとの分岐に到着。

 

県道341号(別舟渡)線の道名標は、会津坂下方面に正対していた。

 

バイパスは幅広く、傾斜は緩やかに造成されていた。

  

磐越自動車道の束松トンネルの上の通り、右に目を向けると、鳥屋山に続く山肌に穿かれたトンネルが見えた。

  

鳥屋山トンネルで、長さは2,600mにもなるという。

 

  

バイパスは一部狭隘部があり、また広くなったところに、“この先行きどまりです”という案内板が立っていた。

  

 

 

 少し進むと、再び狭隘部になり、前方、左側のガードレールが切れた所に標杭が立っていた。


近付いてみると、刈り払いされた空間が急な角度で下っていて、標杭には“旧越後街道 ←束松峠 軽沢→”と書かれていた。

 

バイパスを挟んで向かい側の、急坂の側道したにも同じような標杭が立っていた。

  

書かれていた文字は同じだった。バイパスができる前は両側の道は繋がっていたはずで、現場の状況からどのような道筋だったか、興味がわいた。

   

さっそく、急坂側道に取付き、旧越後街道に入り「束松峠」を目指した。自転車は早々に抱え、息を切らしながら上った。

 

 

急坂を上りきると、車が通れるような幅の空間になった。形状も自然で、ここからが旧越後街道で、先ほどの急坂はバイパス工事で造られたものだろう、と思った。

 

旧越後街道を進む。江戸期に参勤交代でも使われたという、会津と新潟を結ぶ街道の往時を想像した。

 

峠道は、上空が開け陽当りが良い場所は、下草が生い茂っていた。ウォーキングイベント開催前に刈り払いなどの整備がなされているのだろうと思った。

   

 

 坂の傾斜がきつくなり、ヘアピンカーブの突端に、倒れ掛かった標杭が見えた。

 

“戊辰戦争 塹壕 束松峠を護る会”と書かれていた。

  

 

 まもなく、上り坂が終わり、峠道は平坦になった。

 

すると、左側に“にしあいづ観光交流協会”が設置した旧越後街道の標杭が立っていた。この辺りは西会津町会津坂下町の境界付近なので、町境を示すもののようだった。

  

 

 峠道を進むと、まもなく前方が開け、東屋も見えてきた。

 

10:47、「束松峠」の峠の茶屋跡地に到着。

  

ここに会津藩士・秋月悌次郎が詠んだ、“会津人三絶句”の一つと言われている「北越潜行」の石歌碑がある。

 

峠からは、勝負沢峠-高寺山(401.5m)-鐘撞堂峠-七折峠の低い峰が横たわり、若松城下は見えない。彼は城下の方角を見据え、戊辰役・会津戦争で砲弾を受け無残な姿になってしまった天守閣を想像しながら、詠んだのだろうかと思った。

有故潜行北越帰途所得 会津 秋月胤永
(故有りて 北越に潜行す 帰途得る所)

行無輿兮帰無家
(行くに輿無く 帰るに家無し)
國破孤城乱雀鴉
(國破れて 孤城雀鴉乱る)
治不奏功戦無略
(治は功を奏せず 戦は略無し)
微臣有罪復何嗟
(微臣罪あり 復た何をか嗟かん)
聞説天皇元聖明
(聞くならく 天皇元より聖明)
我公貫日発至誠
(我が公貫 日至誠に発す)
恩賜赦書応非遠
(恩賜の赦書は 応に遠きに非ざるべし)
幾度額手望京城
(幾度か手を額にして 京城を望む)
思之思之夕達晨
(之を思い之を思うて 夕晨に達す)
憂満胸臆涙沾巾
(憂は胸臆に満ちて 涙は巾を沾す)
風淅瀝兮雲惨澹
(風は淅瀝として 雲は惨澹たり)
何地置君又置親
(何れの地に君を置き 又親を置かん)

  

 

ゆっくりと風景を見ていたかったが、時間がないため、すぐに峠の茶屋跡を後にした。

 

振り返って峠の茶屋跡を見ると、よく整備されて、良い場所だと思った。次はウォーキングイベントで訪れたいと思った。

 

 

旧越後街道を、自転車を押しながら進んだ。

急な下り坂に差し掛かり、地面を見ると、丸太が斜めに敷かれていた。県の“歩く県道”の道普請事業のものだった。

 

“丸太階段”を下ると「子束松跡」の看板が立っていた。峠の名の由来となった束松の二代目が、ここにあったということだが、その面影は何も残っていなかった。振り返って、写真を撮った。

 

 峠道は整備され、歩きやすかった。当時もこの道幅だったら、貨車も通る事ができたと思った。

 

 

10:56、分岐になる。

 

近付いて案内板を見てみると、直進すると新道、左に曲がると古道(旧越後路)と示されていた。

 

 左に曲がり、前方を見ると、案内板が立っていた。

 

近付いてみると、「束松洞門」のものだった。

「束松洞門」は、越後街道がここより南にある藤峠経由に変わったことに危機感を頂いた、間の宿となっていた天屋と本名の住民が、束松峠側の利便性を高めるために穿いたトンネルだ。

 

 

「束松洞門」の案内板を背にすると、正面に“旧越後路”が延びていた。緩やかな上り坂を自転車を押して進んだ。

  

坂を上りきると、木漏れ陽が苔むした街道を照らし、美しい景観を創っていた。

  

 

視線を上に向け、緑のトンネルをゆっくりと歩いて進むと、前方が明るくなった。

 

木々が開け、まず高圧電線塔が目に入り、続いて、その手前のこんもりとした土の塊が目を引いた。

 

一里塚だった。左(北)側が男塚。

 

街道を挟んで向かい側の右(南)側が女塚だった。

  

 

 一里塚を後にすると、芝生が敷き詰められた木製階段があった。

 

階段を下りきり振り返ってみると、よく整備されている事が分かった。“歩く県道”の道普請によるものだと思った。

   

ただ、ここから先は、今までの街道と雰囲気が異なり、道幅が狭くなった。

  

狭隘部を少し進むと道が斜めになり、『道を間違ったか⁉』などと見当違いな考えも浮かんでしまった。

 

この“斜め道”を終え、平場が見えてくると、端に案内板が立っていた。どうやら、あの狭く斜めになった区間は、地滑りにより街道が崩落したという。

   

1925(大正14)年2月14日の夜、上部で約90m、長さ約320m、下部で約180mという大規模な地滑りで、「本名八百刈の地滑り」と呼ばれているという。

 

 

崩落区間の後は、街道に相応しい状態に戻った。

 

 

しばらく進むと、左端に標杭が立っていて、表に回り文字を見ると“越後街道石畳跡”と書かれていた。

 

 

さらに自転車押しながら歩き進むと、前方に標杭など杭が立ち並び、道がふさがれていた。

 

表に回ると、“車両通行止め”の表示とともに、“旧越後街道入口”と“旧越後路/新道”と書かれた案内になっていた。

    

 

車両が通れる新道を挟んで、向かいには車両通行禁止の案内とともに越後街道が続いていた。自転車を押して、先に進んだ。

 

緩やかで短い坂を越えると徐々に前方が開け、芝生敷きの広い空間になった。

  

車両進入禁止等の標杭の間を抜け、さらに先に進むと、右側に複数の案内板があった。

  

「束松峠」の案内図などが立っていた。

  

また、その奥には とともに「天屋の束松」の説明文が記されていた。

 

 

肝心の束松(曾孫束松)は、この案内板群から右に入る道を進むとあるが、今日は時間が押しているため、見る事を断念した。国立研究法人森林研究整備機構森林総合研究所のWebサイトに「天屋の束松 里帰り」というページがあり、「曾孫束松」が掲載されていた。

 

案内板群付近からの南東方向の眺め。只見川の谷底平野の向こうに、会津盆地の西部山麓の低い稜線が連なっていた。 

    

 

案内板群を離れ、先に進む。山王神社の前で振り返って見ると、県道341号(別舟渡)線のバイパス工事が途中まで行われたようで、両側に側溝が設置され、路床が30㎝ほど低くなっていた。 

 

山王神社の前には、峠の六地蔵があった。明治の初めころまで、ここに茶屋(地蔵の茶屋)があったという。

   

少し進むと、路面に水が浮き、ぬかるんでいた。水はけが悪い区間のようだった。

   

さらに街道を進むと、まもなく前方に舗装道と集落が見えてきた。会津坂下町束松地区だ。

 

 

舗装道に下りて、振り返ってる。街道入口の右側には、標杭が立っていたが、文字は読めなかった。

    

少し下って太い道に出て、振り返ると“束松峠 ↑徒歩 ←車”という案内があった。

  

  

自転車にまたがって集落間を進んだ。越後街道を挟んで右(南)が本名地区で左(北)が天屋地区で、かつては街道の間の宿(あいのしゅく)として賑わったという。

 

  

11:25、さらに進み、県道151号(山都柳津)線との分岐に到着。振り返って集落を眺めた。(会津)若松城下からやってきた一行が、束松峠越えをする際に間の宿として利用したという当時の様子を思い浮かべた。

  

無事に、旧越後街道を使い「束松峠」を越える事ができた。

“歩く県道”の道普請や、地元の方々による整備(刈り払い、草刈り等)のおかげで歩き易く、自転車を押しても負担は無かった。「束松峠」で開催されているウォーキング(トレッキング)イベントは、老若男女問わず参加できるだろうと、容易に想像できた。また、軽沢口が西会津町、天屋・本名口が会津坂下町と、両端の自治体が違うが、西会津町にしあいづ観光交流協会主催のイベントでは軽沢から歩き出し天屋・本名からバスで戻るとなっていたので、“通し”歩きも可能になっている。

 

只見線を利用した場合、今回の順路とは逆なるが、自転車無しで次のようなトレッキングが可能だ。

会津坂本駅で下車し天屋・本名口まで歩く(4km)
→「束松峠」→軽沢口から国道49号線に行き(1.4km)
→西会津町町民バス・軽沢入口停留所で「野沢坂下線」のバスに乗る
→坂下南小停留所でバスを下車
→会津坂下駅まで歩く(300m)

*参考:西会津町「西会津町民バス


また、会津坂下駅から天屋・本名口そばの天屋停留所まで路線バス(坂下‐杉山線)があるので、それを利用することも可能だ。*参考:会津乗合自動車㈱「時刻表」坂下‐杉山線 URL:https://www.aizubus.com/rosen/pdf/20211101/03_sugiyama.pdf?20211122


「束松峠」は二次交通があるので、“観光鉄道「山の只見線」”の山岳アクティビティの手軽なコンテンツになり得るだろう。是非、多くの方にこの峠道を歩き、主要街道であった往時を偲び、峠からの景色を見ながら秋月悌次郎の無念にも思いを寄せて欲しいと思う。

  

 

 

11:30、旧越後街道「束松峠」を後にして、「洲走の湯」に向かう。県道151号(山都柳津)線を北に進んだ。

  

杉山地区に入り、「洲走の湯」の案内板が見えたので、右折。

 

道は田圃の間に延びていて、その先は不明だった」

 

坂を下ってゆくと、前方が開け、右側に建物が見えてきた。  

 

路地を右に曲がり、進んでゆくと小高い山の麓に2棟並んでいた。

 

 

11:35、「洲走の湯」に到着。

 

建物は、昔の旅館といった外観で趣きがあった。以前は宿泊もできたが、現在は個室での休憩が可能だという。

引き戸を開けて中に入ると、締め切った居間のすりガラス越しに3名ほどの人影が見え、ごめんくださいと声をかけると、戸が開きご主人が出てこられた。挨拶を交わし、入湯料400円を支払い、浴室に向かった。

 

色々と物が置かれていたが、廊下は広々とし、床はピカピカだった。

 

脱衣所は、明るく、かなり広かった。洗面台もあった。

 

浴室に入ると、新鮮なお湯のにおいがした。浴槽は大人4人ならばゆったりと入られるような広さだった。洗い場は4つあり、石鹸などが置かれていたが、シャンプーやボディソープなどは持ち込んだ方が良いと思った。

体を洗い、湯船に入った。湯は加温した源泉をかけ流ししていて、適温だったが、何より感触に驚いた。お湯にヌメリがあり、しかも粘土が高い。湯の中で体をごかすと、今まで体感した事の無い抵抗だった。   

今朝、列車を一本間違えた事を後悔するほど、良い湯だった。長く浸かっていたかったが、10分たたずに上がった。

急ぎ服を着て、後ろ髪引かれる思いで、ご主人と女将さんにお礼を言って「洲走の湯」を出た。

 

帰る際、ご主人からA3の上を手渡された。見ると、「洲走の湯」の訪問記だった。 

 

11:58、急ぎ自転車を走らせ、洲走集落に向かう道に出て、反対側に進んだ。「洲走の湯」を見ると、事前の情報通り、絵にかいたような一軒家だった。

現在、「洲走の湯」は宿泊はできないということなので、周辺にキャンプ場でもできれば良いと思った。只見線・会津坂本駅からは、東北電力㈱片門発電所・ダムの天端を経由すれば徒歩でも40分(4㎞)ほどで着くことができ、近くには只見川も流れ野球ができるグラウンドもある。温泉が素晴らしいので、工夫次第ではユニークな集客施設になるのではないかと思った。

  

  

「洲走の湯」の後は、昼食。県道341号(別舟渡)線にぶつかり左折し、勝負沢峠-高寺山-鐘撞堂峠の稜線を見ながら、東に向かった。

 

片門小学校跡の前を通り、片門橋上で只見川の下流側を見る。只見川のダムは片門ダムが最後で、川はこのあと阿賀川に合流し、阿賀(野)川にある計6つのダムを経て日本海に注ぐ。

  

只見川を渡ると、鐘撞堂峠が近付いていた。

  

鐘撞堂峠の道は、改良工事で九十九折りが解消されたというが、その分距離が伸び、そこそこの傾斜の坂が続いた。「洲走の湯」に入り汗を流したが、汗を垂らしながら、自転車を進めた。

   

鐘撞堂峠を越え、坂を下って気多宮で国道49号線に入り、会津坂下町の市街地の方に少し進んだ。


12:28、広い駐車場を持つ伊藤食堂に到着。しかし、車は一台も停まっておらず、店の中も暗かった。入口に向かい、張り紙を見ると、日曜日は定休日だった。また、事前調査が抜け、やらかしてしまった。

気を取り直して、会津坂下名物の馬刺しを食べようと、「坂下ドライブイン」に向かう事にした。



国道49号線の緩やかな下り坂を進むと、前方に会津平野と「磐梯山」が見えてきた。

   

10分ほどで、「堀商店/坂下ドライブイン」に到着。

 

入り口に回ると、多くの客が居て、待っているようだった。私の前には8組の客がいるようで、20分ほど経っても動きが無かったので、結局馬刺しもあきらめる事になった。

  

 

 

結果、近くの弁当屋に立ち寄り、会津坂下駅前の公園で昼食を摂る事にした。

  

弁当はマグロのフライにした。今回は、野良猫に邪魔されずに、ゆっくりと食べる事ができた。


駅前の春日八郎像は、マスクをしていなかった。

 

また、駅前には新しい案内板「会津坂下町観光マップ」が立てられていた。なかなか見やすいと思った。

   

 

 

13:40、昼食を終え駅舎からホームに向かうと、上り列車が入線。輪行バッグを抱え乗り込んだが、車内は混んでいた。 

13:47、下り列車とのすれ違いを行い、会津若松行きの列車が会津坂下を出発。

 

切符は、今朝会津若松駅で塔寺~会津若松間を買ってしまっていた。会津坂下~会津若松間の料金は420円だ。

  

 

列車は若松を過ぎて会津美里町に入り、新鶴根岸会津高田を経て、会津本郷手前で会津若松市に入った。

 

大川(阿賀川)を渡ると、上流に会津百名山「大戸岳」(1,415.9m)の山塊が見えた。会津若松市内の最高峰で、どっしりとした山容は魅力がある。只見線の最寄り駅(会津本郷)から登山口は遠く、登山はあきらめていたが、この車窓からの景色を見ているうちに『登りたい、登らなければ』と思うようになった。

 

 

  

14:21、市街地の西若松七日町を経て、終点の会津若松に到着。 

 

今日は、会津若松駅前からいわき駅直行の高速バスに乗るため、駅舎を出た。

 

 

 

 

 

 18:29、いわきで高速バスからJR常磐線に乗り換え、無事に富岡に到着。

  

今回は、一等三角点峰「鳥屋山」登頂後に、「束松峠」を歩き会津の歴史を再確認し、「洲走の湯」に浸かり、生まれて初めての泉質に驚愕し、充実した旅となった。

只見線沿線には、「会津百名山」の他にもトレッキング好適地があり、“観光鉄道「山の只見線」”のコンテンツはまだまだありそうだと思う。今後も、地図を見て、現地を訪れ、地元の方の話を聞き、探し体験してゆきたいと思う。


 

(了)

 


・  ・  ・  ・  ・

*参考:

・NHK:新日本風土記「動画で見るニッポンみちしる~JR只見線

・産経新聞:「【美しきにっぽん】幾山河 川霧を越えてゆく JR只見線」(2019年7月3日)

・福島県 生活環境部 只見線再開準備室:「只見線の復旧・復興に関する取組みについて

・東日本旅客鉄道株式会社:「只見線について」(PDF) (2013年5月22日)/「只見線(会津川口~只見間)の鉄道復旧に関する基本合意書及び覚書」の締結について(PDF)(2017年6月19日)

  

【只見線への寄付案内】

福島県はJR只見線全線復旧後の「上下分離」経営での維持費や集客・地域振興策の実施費用として寄付を募集中(クレジット可)。

①福島県ホームページ:只見線復旧復興基金寄附金・只見線応援団加入申し込みの方法 *只見線ポータルサイト「只見線応援団」URL:https://tadami-line.jp/support/


②福島県:企業版ふるさと納税

URL:https://www.pref.fukushima.lg.jp/sec/16005g/kigyou-furusato-zei.html

[寄付金の使途]

(引用)寄附金は、只見線を活用した体験型ツアーや周遊ルートの整備、只見線関連コンテンツの充実化等に活用させていただきます。 沿線地域における日本一の秘境路線と言われる観光資源を活用し、更なる利用者の拡大と認知度向上を図ります。

 

 以上、宜しくお願い申し上げます。

次はいつ乗る? 只見線

東日本大震災が発生した2011年の「平成23年7月新潟福島豪雨」被害で一部不通となっていたJR只見線は、会津川口~只見間を上下分離(官有民営)とし、2022年10月1日(土)に、約11年2か月振りに復旧(全線運転再開)しました。 このブログでは、“観光鉄道「山の只見線」”を目指す、只見線の車窓からの風景や沿線の見どころを中心に、乗車記や「会津百名山」山行記、利活事業に対する私見等を掲載します。

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