柳津町「博士山」登山 2020年 春

『“会津”地名発祥の由来と創始を共にして』いるとの由緒がある、会津総鎮守「伊佐須美神社」が一時期遷座したとの伝承をもつ「博士山」(1,482m)。第55回山開き登山開かれるはずだった今日、この“神話の山”に登るために、JR只見線を利用し柳津町に向かった。

   

記紀には、第10代の崇神天皇(参考:宮内庁「天皇系図」)の世に、全国を教化するために四道将軍を派遣した記されており、「古事記」には北陸道を進んだ大毘古命(大彦命)と東海道を進んだ建沼河別命(武渟川別)の親子が出会った場所が相津(あいづ)と記され、会津の名の由来とされている。

この大毘古命と建沼河別命の親子が相津(会津)の地で、国家鎮守の神として伊弉諾尊と伊弉冉尊を祀ったのが天津嶽(御神楽岳(新潟県阿賀町))で、ここが「伊佐須美神社」の創建の地とされている。

そして、この二祭神(伊弉諾尊と伊弉冉尊)が、天津嶽から次に遷移された場所が、今回登った「博士山」(1,482m)に西接する「社峰」(1,442m)と言われている。

  

二祭神は、その後「博士山」から「波佐間山(明神ヶ岳)」に遷移し、第29代・欽明天皇の世に、高田南原を経て(552年)、現在、「伊佐須美神社」が建つ高田原に鎮座された(560年)という。

祭神は大毘古命と建沼河別命の親子が合祀され、現在、四神が祀られている。*参考:伊佐須美神社「由緒と社格

[伊佐須美神社 御祭神]
・伊弉諾尊 (いざなぎのみこと) 
・伊弉冉尊 (いざなみのみこと) 
・大毘古命 (おおひこのみこと) 
・建沼河別命 (たけぬなかわわけのみこと)

   

 

「博士山」は柳津町と会津美里町、昭和村にまたがり、一等三角点を持つ山。名は“侍が太刀を腰にはいて(はかせて)尾根を登ったという言い伝えが由来(諸説あり)”(昭和村観光協会)とある。

 

初代会津藩主・保科正之公が1666(寛永6)年に編纂させた「會津風土記」(参考:国立公文書館)の不足を補う形で、1809(文化6)年に会津藩によって完成させられた「新編會津風土記」には、「博士山」について次のような記述がある。*下図出処:国立国会図書館デジタルコレクション「大日本地誌体系 -新編會津風土記参-」p317 (花見朔巳校訂、雄山閣版、昭和7年8月11日) 

「新編會津風土記」 卷之七十一 大沼郡之一 大沼郡
博士山
冑組下谷地村の西にあり、喬木茂れり、頂まで三里、 野尻・大谷・瀧谷三組に連り、
山勢高大にて其脈支分して藪山となる、
西に引たる峯に伊佐須美明神の社跡あり、御神楽嶽より此山に遷座ありて、又明神嶽に遷れりと云、其地二間四方計、今に草木生せず、
 (是は大谷組大成澤村に属す)東は冑組に属し西は野尻組に亘り、
南北は綿延して諸山に續く博士川・高森川・魚留川・松倉川等これに出づ、
山中に怪岩三あり、地蔵岩高十丈計、天狗岩高二十丈計、高岩高五十丈計、
此山の南の方を越て、金山郷諸村に通るを博士峠と云、

  

私は昨年6月、“御神楽岳山開き登山”に参加し、「本名御神楽」(金山町)を経て「御神楽岳」に登った。*参考:拙著「金山町「本名御神楽・御神楽岳 登山」2019年 初夏」(2019年6月2日)

 

今年は「博士山」、続いて「明神ヶ岳」、日をずらして開催されるそれぞれの山開き登山に参加した後に「伊佐須美神社」に参ろうと計画を立てていた。しかし5月の第三日曜日である今日に予定されていた「博士山」の山開き登山は、新型コロナウィルスの影響で中止になってしまった。 *出処:柳津町「令和2年度 山開きイベント中止のお知らせ」(2020年3月30日) URL:http://www.town.yanaizu.fukushima.jp/docs/2020033000011/

 

ただ、この町ホームページには

『登山道の整備を実施する予定ですので、登山をする場合は山開き開催予定日以降を目安に十分注意して行ってください』

との記述があったため、本県の非常事態宣言が解除されたことも合わせて、今日、登山を決行した。 *下新聞紙面出処:福島民報(左)、福島民友新聞(右) ともに2020年5月15日付け一面

  

「博士山」の登山口は3ヵ所あると言われている。昭和村側の「奈良布(黄金沢)」登山道は藪が深くなっているという事で、柳津町大成沢地区の2ヵ所(「道海泣き」尾根口、「近洞寺」尾根口)の登山口が“標準”になっている。事前に調べたところ、山開き登山もそうだが、ほとんどの登山録で、登りは「道海泣き」尾根口、下りは「近洞寺」尾根口というルートをたどっていたため、私もこれに合わせた。 

また、福島県観光物産交流協会がホームページを開設している「ハイキング・トレッキング ガイドブック ~ふくしまの山へ出かけよう!~」では、「博士山」登山は上級者向けで、歩行時間は4時間30分になっている。 *参考:福島県観光物産交流協会「ハイキング・トレッキング ガイドブック ~ふくしまの山へ出かけよう!~」14柳津町「博士山」-ブナやクロベの巨木に出会える山-

    

只見線の最寄は滝谷駅(柳津町)で、登山道までは16.6kmと離れていて二次交通が無いため、輪行した折り畳み自転車で移動することにした。ちなみに、会津柳津駅から大成沢地区まで、町民バス“ふれあい号”が運行されているが、便が少なく乗り換えが必要となっている。また、“日曜日・祝祭日及び年末年始”が運休などの制約があり、今回は二次交通の選択肢には入れなかった。 *参考:柳津町「柳津町民バス “ふれあい号” 運行時刻表(支所管内) 令和2年4月1日改正」(PDF)

     

今日、天候が心配だったが、只見線の列車に乗って柳津町に入り、“東北百名山”・“うつくしま(福島)百名山”・“会津百名山”に名を連ねる「博士山」登山に臨んだ。

 

*参考: 

・福島県:只見線ポータルサイト

・NHK:新日本風土記「動画で見るニッポンみちしる~JR只見線」 

・産経新聞:「【美しきにっぽん】幾山河 川霧を越えてゆく JR只見線」(2019年7月3日) 

・東日本旅客鉄道株式会社:「只見線について」 (2013年5月22日)(PDF)/「只見線(会津川口~只見間)の鉄道復旧に関する基本合意書及び覚書」の締結について(2017年6月19日)(PDF)

・拙著:「次はいつ乗る?只見線」カテゴリ ー只見線沿線の“山”(登山/トレッキング)ー / ー只見線の春

 

 


 

 

昨夜、郡山市から会津若松市内に移動し宿泊。

 

今朝、只見線の始発列車に乗るために駅に向かう。上空には薄い雲が広がっていた。

  

輪行バッグを抱え、改札を通り、只見線のホームに向かう。連絡橋から見下ろすと、2両編成のキハE120形が待機していた。

 

車内には全く客がおらず、結局、この列車は私一人を乗せて出発することになった。初めての経験だったが、決してあってはいけない事態に愕然とした。

新型コロナの影響を実感するとともに、観光客の利用無くして只見線は成り立たない事を思い知らされた。インバウンドに偏った集客ではなく、国内と域内(福島県とその周辺)の観光需要を喚起し定着させる取り組みも並行して行い、“観光鉄道「山の只見線」”を確立させる必要があると強く思った。

  

6:03、会津川口行きが会津若松を出発。「博士山」登山口の最寄り滝谷駅まで運賃は770円。

  

 

七日町を経て、西若松で乗客が1人乗り込んできた。その後、列車は阿賀川(大川)を渡り、会津平野の田園地帯に入って行く。

    

会津本郷を過ぎて会津美里町に入り、会津高田の手前で、宮川を渡る。堰堤には新緑の桜並木があった。コロナ禍で、あまり目に触れられる事がなかったであろう宮川の千本桜は、今年も綺麗に咲き誇っただろうかと思った。

 

向かい側の車窓に目を遣ると、綺麗な借景が見られた。

   

根岸の手前、右側(東)は水が張られていない田が多く見られた。田植えの時期に結構な差があるのだと思った。意図的なのか、高齢化や人手不足なのか、理由は分からないが、違和感があった。

 

 

 

列車は、新鶴を経て、会津坂下町に入り、若宮を経て会津坂下に停車。上りの始発列車とすれ違いを行った。ホームの人影は、まばらだった。

  

会津坂下を出た列車は、会津と奥会津の境界となる、七折峠に向かって登坂を始める。車内は、キハE120形の甲高いディーゼルエンジンの音が響き渡った。

  

登坂の途上、開けた場所からは水の張られた田が薄日を受け、静かに、美しく広がっていた。

  

  

塔寺会津坂本を経て、柳津町に入る。水田が並んでいて、奥会津の季節の移ろいを感じた。

  

 

会津柳津を出て、郷戸手前で“Myビューポイント”を通過。「飯谷山」(783m)の両端の稜線は良く見えた。 

  

 

 

 

 

7:18、滝谷に到着。乗降の客は私1人。列車を見送った。

  

駅舎には、列車内でもアナウンスされていたが、新型コロナウィルス対策で換気のためにドアを自動で(全ての駅で)開閉させることを示すビラが貼られていた。

  

7:24、自転車を組み立て、滝谷駅(標高281m)を出発。「博士山」道泣き尾根登山口駐車場まで標高差509m、16.6kmを駆け上る。

  

県道32号(柳津昭和)線に入り、しばらく下り、只見線の滝谷川橋梁の撮影ポイントに立ち寄る。新緑に囲まれた渓谷の鉄橋は存在感があった。

15分ほどで上り列車が通過するが、できだけ時間を稼いでおきたいと思い、列車の撮影を断念して、先を急いだ。

  

坂を下り、滝谷川が真横に見えるようになると、一旦、柳津町から三島町に入る。滝谷風穴を取り囲む緑と清流の眺めは、美しかった。

  

滝谷集落を通り過ぎ、三島町から再び柳津町に入ろうとする時、町の立て看板を見かけた。

蔓延防止のために“何を”協力したらよいのか不明だったが、県内有数の高齢化率ということもあり、観光客の来町はできれば避けて欲しい、との町の苦悩を私は感じた。 

 

7:57、西山温泉郷を見下ろす西山大橋を渡る。地熱発電所の水蒸気柱は見えなかった。 

  

坂を上り、砂子原地区から東北電力㈱柳津西山発電所の排気塔を見ると、微かに水蒸気が立ち昇っているのが見えた。稼働(発電)はしているようだった。

  

黒沢地区を通り過ぎ、一旦、下って滝谷川を渡った後に再び坂を上る。  

  

8:15、緩やかに坂を下り冑中(かぶちゅう)地区に入る。

芋小屋地区手前では、田植えの進む田の間を通り向け、坂を上り続けた。


 

 

8:31、登山口へと続く林道の入口となる大成沢地区に到着。

 

まもなく、県道32号線と林道博士線(3.579km)の分岐が現れた。

  

“博士山登山口”と書かれた杭標の先には、急勾配の上り坂が待っていた。

  

林道博士線を進む。傾斜は、思った以上にきつかった。気温は低かったが、登山の事を考えると、無理に自転車に乗って体力を使うわけにもゆかず、自転車を押して進んだ。

  

20分ほど進むと、前方から人工的な音が連続的に聞こえてきた。更に、先に進むと山菜を採る方が居て、車の周りで、この方の奥様と思われるご婦人が、熊除けの笛を吹く事を止めず山菜を採っていた。 

通り過ぎる際、ご婦人は『一人で怖くないの?』と私に問いかけられた。私は『怖くはないです』と応えたものの、ちょっと背筋がヒンヤリした。

  

先に進むと、またハウス群が現れ、その向こうに雲が掛かった山々が見えた。博士山頂上も隠れているだろうと思った。

  

 

 

9:10、緑資源幹線林道飯豊・檜枝岐線の合流点に到着。

  

この飯豊・檜枝岐線を東に進むと会津美里町に入り、「明神ケ岳」大岩登山口を経て、喜多方市、山形県飯豊町へと続いている。

 

 

 

 

 

9:19、合流点から約300m、広々とした舗装道の坂道を進み、登山者用の駐車場に到着。滝谷駅から1時間55分も掛かった。

今日は、予定通りならば山開きがあったということもあり、一定程度の登山者が居ると思ったが、駐車場には、1台しかなく、周囲に人影は無かった。この車は、私を黒沢地区付近で追い抜いていった記憶があり、「博士山」に登っているのであれば登山道の半分以上は歩いているだろうと思った。

 

この駐車スペースの下に大きな駐車場があり、山開きがあれば、多くの車両で埋め尽くされるという。


  

自転車を停め、小休止し、準備をしてから林道を50mほど進んだ場所にある道海泣き尾根登山口に向かった。

「博士山」の北側に広がる約204haの森林は、林野庁の郷土の森に指定されている。 *参考:林野庁「博士山 郷土の森」(PDF) 


 

9:31、道海泣き登山口(標高798m)から、一人、登山を開始した。

 

福島県が設置している“熊出没注意”の看板が目立っていた。気を引き締めた。

 

“熊除け”は、いつもの熊鈴と、今回は笛を用意した。熊鈴は、常にチャリンチャリンと鳴らし、笛は定期的にピィーピィーと鳴らし、登山道を進んだ。

  

登山道の序盤は、小さな沢の脇の、平坦な場所を歩く事になった。

 

登山道には、所々に目印があったが、進むべき“道”は、はっきりと見分けられる事ができ、迷う事は無いと思えた。

 

登山開始から、8分。右(南)に登る斜面が現れた。

 

道海泣き尾根の取付だった。左には南沢に設けられた水場があると、寝かされた鉄製の看板に書かれていた。

  

取付を歩き始める。歩き易い登山道が続いていたが、取付の名に違わず、勾配はどんどんとキツくなっていった。

  

所々にツツジが見られ、新緑とピンクの競演を美しいとは思ったが、早くも息を切らし、見入る余裕は無かった。

  

 

9:45、第1ヒモ場が現れた。ヒモに頼らずとも登れそうだったが、ありがたく、ヒモを握り、慎重に進んだ。

登山開始から15分でヒモ場になったということで、この山が“上級者向け”であることを実感した。

  

ヒモ場を登りきると、まもなく、正面に枯れた木に看板を認めた。『さぁ 元気を出してガンバりましょう!!』と書かれていた。

  

 9:50、登山道が明るくなり、前方が開けた。

  

標高948m。20分で150mを登った事になったが、博士沢の沢筋の向こうは、柳津町を取り囲む低い山々の稜線が見え、標高の高さを実感した。

  

9:55、第2ヒモ場を進む。 

  

この先には、唯一と言われているハシゴ場があった。

今進んでいる、道海泣き尾根登山道が登りのルートになっている理由が分かったような気がした。

  

10:00、第3ヒモ場に挑む。

 

このヒモ場は二段になっていた。

  

登りきると、岩場となり、慎重に進んだ。雨が降り、濡れてしまうと厄介な場所だと思った。

  

10:02、第4ヒモ場を進む。

  

急こう配を登り、熊除けの笛を吹く事に精一杯だったが、時折見上げると飛び込んでくる、新緑のトンネルは綺麗で、元気が出た。

  

10:11、第5ヒモ場を進む。

  

10:13、第6ヒモ場を進む。

  

前方が明るくなり目を遣ると、看板が取り付けられた木が見えた。

 

根元に着き、看板を見るが、文字はかすれ、何が書いてあるか分からなかったが、他の方がネットに公開されている登山記を見ると、樹齢800年を超えたクロベ(黒檜)だという。

この老木は芽はふいていなかったが、名が掛かれた看板を付けられてもおかしくない特徴的な立ち姿だと思った。

   

10:19、第7ヒモ場に臨む。

 

登りきると、すぐに第8ヒモ場があった。

 

このヒモ場は長く続いていた。

 

ヒモ場は、顕わになった松の根に結び付けられながら、急坂に沿って“踊り場”まで続いていた。

   

10:24、第9のヒモ場(同1,145m)に到着。

 

右(北北西)側は崖で、一気に高度が上がった事が分かった。林道博士線が通る場所も確認できた。

  

ヒモをしっかり握り、足元に気を付けながらゆっくり進んだ。

 

登坂途上、「しゃくなげ洞門」があった。中には入られないようだった。

   

10:30、「しゃくなげ洞門」の急坂を登りきると、左(南南東)側が開けた。これか向かう博士山は濃い霧に覆われていた。

 

少し左に視線を移すと、細い滝が見られた。名はつけられているのだろうか、と思った。

  

しばらくは、緩やかで、歩き易い登山道が続いた。

  

10:37、第10のヒモ場を登る。

  

登山道には、複雑に張り巡らされた松の根が見られた。巨岩を乗り越えている根もあり、生命の力強さを感じた。

  

10:46、第11番目、最後のヒモ場を登る。

  

霧が出てきて、至る所に見られた老木が、幻想的に見えた。“神の山”に相応しい光景だと思った。

  

 

  

登山道をトボトボと登ってゆくと、正面にオレンジの人工物が見えた。

 

10:50、近洞寺尾根登山道との分岐点(同1,276m)に到着。オレンジの案内板は、クロベ(黒檜)の巨木に取り付けられていた。

   

分岐を左、南東に向かうと、しばらくは緩やかな尾根道が続いた。

 

尾根道は左側が切り立っていた。が、見下ろしてもガスで何も見えなかった。

  

灌木が少ない場所には、ロープが張られ、安心して進む事ができた。

 

松の木には、“キケン”の文字も。

  

 尾根道に立ちふさがる巨岩。霧が掛かっていた事もあり、荘厳さを感じた。

  

登山道には急坂もあったが、ヒモ場は無かった。

  

 

11:24、「社峰」(やしろみね、1,442m)に到着。平場は狭く、看板は見当たらなく、何も無かった。

一時期、「伊佐須美神社」が遷座した場所であり、“神々の山”の謂れを示すような何かあると思ったが、大きく期待が外れ、残念に思った。

  

11:35、狭い平場(1,460m)を通過。

   

ここから、「博士山」を見る。霧に覆われ、視界が悪い事が、逆に厳かさを感じさせた。

  

平場を下り、再び登坂を始めると、行く手に大きな残雪が現れた。20mほど、雪を踏みしめながら進んだ。

  

残雪を抜けると、歩き易い登山道になった。 

  

登山道では、数は少なかったが、小さく可憐な花々が見られた。

よく見かけたのが、ショウジョウバカマ。橙色の花も見られたが、やはり薄紫が美しかった。

 

ヒメイチゲ。これから咲こうとしているのか、小さく可憐な様は見られなかった。 

 

イワナシ。これもよく見かけた。ウラジオヨウヨクと思ったが、サイズが大きく、違う花と思い、帰りの列車内で調べてみるとイワナシだった。

 

オオカメノキ。白い花弁に水滴が付き、みずみずしい美しさだった。 

 

 

 

左膝と、股関節の痛みに耐えながら、ゆっくりと進んでゆくと、前方が大きく開け、標杭が見えた。

  

 

11:43、「博士山」(1,482m)山頂に到着。登山口から2時間12分掛かった。頂上を示す標杭の脇には、一等三角点の石標もあった。 


頂上は、「社峰」のそれよりは広かったが、この標杭と三角点の他、「博士山」と書かれていたであろう崩れた石碑以外、何もなく、質素だった。

  

事前の情報では、木々に覆われた山頂からの眺望は期待できないとあったが、確かに、登山道側を含め、半分以上は木立で視界が遮られていた。

 

今日は、深い霧で周囲の景色は全く見えず残念だった。ガスが無ければ、どんな景色が見られるのだろうかと思った。

11:52、下山を開始。16:10に滝谷駅を出発する只見線の列車に乗るため、頂上でゆっくりとはできなかった。

 

 

 

一度通った登山道だったので、安心して下る事ができたが、登ってくるときは気付かなった険しい場所も認識した。

  

12:16、前方の霧が晴れてきて、沢の水音も聞こえてきた。

  

少し進むと、霧が晴れ、麓の景色が見られるようになった。

 

   

12:24、「道海泣き」尾根コースと近洞寺尾根コースの分岐に到着。

  

直進し、「近洞寺」尾根コースを進む。道がはっきりと区別でき、目印もあったので道に迷う事はないと思ったが、この先どれ程の傾斜なのか心配だった。

  

尾根道の右側の斜面には、数多くのタムシバが咲いていた。

  

しばらく、下山道は緩やかに下っていった。短い時間だったが、痛んだ脚の負担が和らぎ、ありがたかった。

  

開けた場所から後方を振り返ると、霧に頂を包まれた「博士山」が見えた。

  

下山道は、再び上りになり、矢印を見ながら先に進んだ。


  

12:36、近洞寺山(1,295m)の頂上にあったと言われる近洞寺跡を通過。

近洞寺は“平安初期(大同年間)の大地震で崩壊”したと言われている。この大同の初期には様々な出来事があった。近洞寺の在りし日を想像すると、面白い。

(803(延喜22)年 坂上田村麻呂による第3期蝦夷征討が終わる)
806(大同元)年 (会津)磐梯山の噴火
806(大同元)年3月 第50代・桓武天皇崩御
806(大同元)年10月 弘法大師・空海、唐から帰国  
807(大同2)年 法相宗・徳一が慧日寺を開山
      *徳一から空海に「真言宗未決文」が送られる

  

近洞寺跡附近の、開かれた尾根道から麓の様子を見ると、約8km離れた鳥屋集落が見えた。

  

近洞寺山を過ぎると下り坂が続き、近洞寺尾根口まで、上りの急坂や長く続く坂はなかった。

  

12:41、下り第1のヒモ場に到着。ここを含め、短い距離に3ヵ所のヒモ場が続いた。


まもなく、下り第2のヒモ場。

 

そして、下り第3のヒモ場。以降、最後の第4まで、ヒモ場は無かった。

この近洞寺尾根登山道は、道海泣き尾根登山道より距離が長いだけではなく、ヒモ場にするほどの急坂が少ない事から下山道として勧められている、ということに納得した現場の状態だった。

  

ヒモ場を過ぎ、しばらくして、右(北北東)側に目を遣ると、会津盆地が見えた。 *標高1,169m地点

阿賀川(大川)を境に、市街地と田園が分かれているのが判別できた。右端に北会津受水塔があることがから、只見線の路盤が何処を通っているのかも検討がついた。

 

下り勾配がきつくなった。足元は落ち葉が積もっていたため、フカフカで安定せず、決して安心はできなかった。体を横にして、ゆっくりと下りた。

  

時折、尾根道を右(北東)側には、ブナの見事な枝ぶりと鮮やかな新緑が現れ、元気づかせてもらった。

 

 

13:03、下山道が北西から北東に変わり、まもなく藪が多くなり、下山道の様相が変わった。

  

太い倒木が道を塞いでいたようだが、通路だけ切り取られていた。倒木は次世代の栄養分になるため、最低限の処置にとどめている。

   

下山道で一番の“ヘアピンカーブ”。きつい下り勾配が、鋭角に曲がっていた。

  

13:11、『もうすぐ! ガンバレです』と書かれた看板が現れた。

 

だが、下山道は延々と続き、先は見えなかった。

  

13:17、最後の第4のヒモ場となる、斜面を下る。

  

13:24、前方に沢のⅤ字地形が現れ、急坂を下った。

  

沢は僅かに水を流しているだけだった。この小さな沢沿いを歩くと、徐々に頭上が開け、新緑が明るさを増していった。

 

 

 

13:32、緩やかな下り坂をしばらく進むと、林道飯豊・檜枝岐線の舗装道が見え、標杭が立っているのを確認した。

  

近洞寺尾根登山口に到着(同735m)。頂上から1時間38分で下山することができた。

  

ここから、自転車を停めた駐車場まで林道を歩く。博士山登山には欠かせない約1kmの上り坂の舗装道は、精神的にも肉体的にも応えた。

 

林道博士線との合流点を通過。


カーブを過ぎると、前方に霧が掛かった「博士山」の頂上が見えた。

  

 

 

13:46、駐車場に到着。出発時に停まっていた自動車は、居なくなっていた。登山道ですれ違う事はなかったが、見知らぬ登山者は無事に下山できたようだった。

 

今回、登山中“熊除け”に流し続けた音楽は松山千春。北海道出身である氏のお蔭か、熊に出くわす事はなかった。

  

只見線の駅を起点とした「博士山」登山が無事に終わった。

滝谷駅(281m)から「博士山」の頂上(1,482m)まで、標高差1,201mを自転車と徒歩でたどりつけるか心配だったが、何とか登りきった。頂上付近に深い霧がかかり眺望は得られなかった事は残念だったが、正直、熊に出くわす事が無かったことの“達成感”の方が強く、安堵した。

  

登山コースは、“上級者向き”の名に違わず、登下山ルートとも急坂が続き、挑み甲斐のある山であると感じた。「新編會津風土記」に記述があった“三巨岩”は特定できなかったが、コースに点在していた樹齢800年超のクロベの枯れた様が、“神々の山”らしさを演出していて、二祭神・第二遷座の地である感覚を覚えた。  

しかし、“神話の山”を示してくれる登下山道に掲示物が何もなく、せめて「社峰」(1,442m)にはと思ったが、遷座の地と思わせてくれるようなモノは何も見当たらず、これについては失望した。 

天津獄ー博士山ー波佐間山(明神ケ岳)、この三山での「伊佐須美神社」遷座の“あしあと”を実感するためにも、「社峰」に「伊佐須美神社」由来のモノ、できれば祠を設置し、登山者が“遷座三峰”の物語を実感できる環境を創り出し、さらに多くの登山者や訪会者を呼び寄せて欲しいと、思った。

13:50、帰途に就く。

滝谷駅に向かう途中、「ツムジクラ滝」展望台に立ち寄るため、林道飯豊・檜枝岐線を東へ、会津美里町方面に進んだ。

 

14:03、博士トンネル(全長474m、2005年3月竣功)に到着。内部には照明が無く、全体の1/3を過ぎるまでは、暗闇の中を進んだ。

  

14:12、林道漆峠線との分岐に到着。

  

林道漆峠線は、一旦下るが、杉山川に架かる、つむじくら橋を渡ると一転長い上り坂になった。

  

14:28、林道が下り坂になってまもなく、「ツムジクラ滝」展望台に到着。

 

展望台には東屋の他、ベンチもあり、綺麗に整備されていた。

  

柵の前に立ち、「ツムジクラ滝」を眺める。眼下には、緑に包まれ絶え間なく、衰える事無く落ち続ける白い筋が見られた。


もっと近くで、できれば見上げて眺めたい思わせる二段の瀑布だった。紅葉時に、また来たいと思った。

 

展望台には「ツムジクラ滝」の説明板があった。

ツムジクラ滝
  滝谷川上流の川床流失沈下によって生じたこの滝は博士山麓をえぐる、瀑布群で最大のものであり、博士山の雪どけ水で水量は豊富で上段が二十五メートル、下段が六十メートルで滝つぼ附近に七色の虹がかかり神秘的で壮観である。
  ツムジクラの地名についてであるが、ツムジはツムジ曲りの意であり、クラは岩場のことである。またクラは坐とかき(水神)のとどまる所という意味もあり、古くから奥州白女が滝として知られている。

  

 

14:47、「ツムジクラ滝」展望台を後にして林道を下り、10分ほどで大成沢地区に到着。

 

14:55、県道32号線に合流。6時間13分後に戻ってきた。

ここで一休みしてから、約1時間後にせまった列車の発車時刻に間に合うために、坂を一気に下り、滝谷駅を目指した。

 

  

 

15:38、滝谷駅に到着。下り坂の威力は絶大で、大成沢地区から30分程で着く事ができた。小さな待合室に入り、着替えをして、列車を待った。

駅までの道の途上には西山温泉があり、日帰り入浴施設である「せいざん荘」は営業を再開(入浴のみ)していたが、今回は時間が無く諦めざるを得なかった。 

  

16:09、会津若松行きの列車が到着。先頭車両に乗り込むと、3名の客が居た。

列車はまもなく滝谷を出発。 

  

車内ではビールで乾杯、とゆきたかったが、今日は車で富岡町まで帰ることもあり、コーラの地域限定ボトルを飲んだ。会津ボトルは、鶴ヶ城・赤べこ・起き上がり小法子がデザインされていた。


 

列車は快調に進み、七折峠を下り会津盆地の田園地帯を駆け抜けた。右(西)側の車窓から、次に登る予定の「明神ヶ岳」(1,074m)の稜線が見えた。

 

 

 

17:18、会津若松に到着。10名にも満たない客が、パラパラと降り、連絡橋に向かっていった。

私は、ここから磐越西線の列車で郡山に向かい、今回は車に乗り換えて、無事に富岡町に帰る事ができた。


今回の登山。「博士山」の駅から遠い登山口を知り、二次交通も無いことから、当初は前日に西山温泉に泊まる予定を立てていたが、新型コロナの影響で前泊を断念し、只見線で一番近い滝谷駅から輪行した自転車で登山口まで往復することに変更した。

実際やってみて、これはお勧めできないと実感した。標高差450mの16.6kmの上り坂を自転車で登りきった後に待つ登山道が、11ヵ所のヒモ場を持つ急坂では、体力や集中力は持続できず危険だ。私は体力には自信がある方だが、それでも今回はきつかった。 

とは言え、私は只見線と「博士山」登山を結びつけ、“観光鉄道「山の只見線」”が浸透してゆく過程で「博士山」は多くの人々に耳目にふれなければならないと考えている。

 

“会津の名”の伝承の神話の舞台を包み込んでいる只見線の地理的な要因や、“観光鉄道「山の只見線」”とアピールし誘客を進める県の施策を考えると、「博士山」も只見線と関連付けられるのは自然な流れだ。しかし、過去2年の「博士山」山開きのパンフレット等の情報でも、只見線の駅(滝谷、会津柳津)からの送迎は行っていなかった。現状、只見線と「博士山」は縁遠い。

昨年、山開きの開会式は8時に開始されていた。只見線の始発列車は会津若松発が6時03分で、会津柳津駅着が7時04分となっていて、会津柳津駅から送迎バスで移動すれば開会式には間に合う。通り道にある西山温泉で宿泊客が合流することも可能だ。

 

只見線と「博士山」を関連付けるため、まずは山開き登山に駅からの送迎バスを手配する事から始めるのが、自然だと私は思う。

予算の確保や一定の需要(利用者)が見込めるかなど不明点が多く、柳津町単独では検討を始める事もできないというのは容易に想像できるので、福島県が主体となって進める「只見線利活用事業」の一環として、予算化と需要創出を図ってから、町と県の協業で進めてはどうだろうか。

 

神話の山である「博士山」が、“観光鉄道「山の只見線」”の確立と、観光需要創出に役割を果たす事を期待したい。

 

 

(了)

 

 

[追記]

「博士山」は「会津百名山」の第33座で、「会津百名山ガイダンス」(歴史春秋社)では以下の見出し文で紹介されている。*出処:「会津百名山ガイダンス」(歴史春秋社)p170

博士山 <はかせやま> 1,482メートル
全国でもめずらしい「博士」の名を持つ会津の名峰。ブナの原生林が残る山中には花の節にシャクナゲが美しく咲く。[登山難易度:中級]

   

 

・ ・ ・ ・ ・ ・ 

 *参考: 

・福島県 生活環境部 只見線再開準備室: 「只見線の復旧・復興に関する取組みについて

  

 【只見線への寄付案内】 

福島県はJR只見線全線復旧後の「上下分離」経営での維持費や集客・地域振興策の実施費用として寄付を募集中(クレジット可)。

①福島県ホームページ:只見線復旧復興基金寄附金・只見線応援団加入申し込みの方法 *現在は只見線ポータルサイト「只見線応援団」URL:https://tadami-line.jp/support/

 

②福島県:企業版ふるさと納税

URL:https://www.pref.fukushima.lg.jp/sec/16005g/kigyou-furusato-zei.html

[寄付金の使途]

(引用)寄附金は、只見線を活用した体験型ツアーや周遊ルートの整備、只見線関連コンテンツの充実化等に活用させていただきます。 沿線地域における日本一の秘境路線と言われる観光資源を活用し、更なる利用者の拡大と認知度向上を図ります。

  

 以上、よろしくお願い申し上げます。

次はいつ乗る? 只見線

東日本大震災が発生した2011年の「平成23年7月新潟福島豪雨」被害で一部不通となっていたJR只見線は、会津川口~只見間を上下分離(官有民営)とし、2022年10月1日(土)に、約11年2か月振りに復旧(全線運転再開)しました。 このブログでは、“観光鉄道「山の只見線」”を目指す、只見線の車窓からの風景や沿線の見どころを中心に、乗車記や「会津百名山」山行記、利活事業に対する私見等を掲載します。

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