「キハE120形」乗車&撮影記 2020年 晩冬

今月14日のダイヤ改正で車両の置き換えが行われたJR只見線。「キハ40形」が引退し、新たに運行されることになった「キハE120形」の只見線内での乗り心地を確かめ、奥会津の自然の中を走る車両の様子を撮影するため三島町を訪れた。

 

キハ40形」は国鉄時代に製造され、1979(昭和54)年から只見線内で運行開始、1991(平成3)年から本格運用されたという。ダイヤ改正の前には“おつかれさま・ありがとうキハ40形”イベントが会津柳津駅、会津川口駅で行われた。 *下記事出処:(左)福島民報 2020年3月1日付け紙面、(右)福島民友 2020年3月14日付け紙面


 

 

後継機の「キハE120形」は、JR東日本が開発し8両が製造、新潟支社管内で運行され磐越西線(新津~会津若松など)にも乗り入れていた。また、兄弟車であるE130形は水郡線(郡山~水戸)で運行されている。JR東日本は、「キハE120形」を只見線への導入を機に、親しまれてきた「キハ40形東北地域本社(仙台支社)色」に近似した塗装を施した。 *下図出処:東日本旅客鉄道株式会社「只見線の運転再開に向けた取組みならびに車両の置換えについて」(PDF)(2019年11月28日)

 

「キハE120形」は、3月13日(金)の夕方の一部の便から営業運転が行われ、ダイヤ改正の翌14日(土)から全列車が置き換わった。*下記事出処:福島民友 2020年3月15日付け紙面

なお、只見線は「平成23年7月新潟福島豪雨」被害で一部不通区間があるため、「キハE120形」は会津若松~会津川口間に導入され、只見~小出間は「キハ40形」の兄弟車種である「キハ48形」の運行が継続されている。

  

 

私は「キハE120形」には何度か乗車したことがあり、今回は只見線内の乗車は昨日に続き2度目となる。

今日は会津平野の平坦部、七折峠登坂、奥会津の山間部での乗り心地などを車窓からの風景とともに体感し、三島町内の只見線の主要な撮影地で写真を撮り、奥会津の自然に「キハE120形」外観はどうなのか?について考えたいと思い、旅をした。

*参考: 

・福島県:只見線ポータルサイト

・NHK:新日本風土記「動画で見るニッポンみちしる~JR只見線」

・産経新聞:「【美しきにっぽん】幾山河 川霧を越えてゆく JR只見線」(2019年7月3日)

・東日本旅客鉄道株式会社:「只見線について」 (2013年5月22日)(PDF)/「只見線(会津川口~只見間)の鉄道復旧に関する基本合意書及び覚書」の締結について(2017年6月19日)(PDF)

・拙著:「次はいつ乗る?只見線」カテゴリ ー只見線の冬ー / ー観光列車

  

  


  

 

只見線の始発列車に乗るために、会津若松市内に前泊した。

  

今朝の会津若松駅上空は、昨夜の弱い雨の名残か、一部に大きな雲が見られたが、天気予報通り晴れるような空模様だった。

 

 

輪行バックを抱え、改札を通り連絡橋で只見線のホームに向かう。連絡橋から見下ろし、初めて「キハE120形」と「磐梯山」の構図を眺めた。 

  

ホームに下り「キハE120形」の車体を眺める。煌びやかなステンレス製の銀色の車体と、鮮明な黄色の扉がキハ40形との違いを明らかにしていて、『奥会津の風景に、この列車は溶け込むのだろうか』と心配になった。

6:00、会津川口行きの始発列車が会津若松を出発。2両編成の乗客は少なく、私が乗る後部車両は8名だった。“コロナウィルス”の影響だと思いたかったが、何度か日曜日であってもこの程度の乗客数ということもあり、違和感は無かった。只見線の復興(乗客増)は緒に就いたばかりと自分に言い聞かせ、その道のりは険しい事を再認識した。

   


 

 

列車は七日町西若松を経て大川(阿賀川)を渡る。

 

上流側を見ると、大川は「大戸岳」(1,416m)に向かって延びているように見えた。

  

 

列車が会津本郷を経て会津美里町に入ると、左側の車窓から「明神ケ岳」(1,074m)を頂点とする、うっすらと冠雪した山々が見えた。

  

 

会津高田を過ぎ、進路を北に変えしばらくすると、シルエットがくっきりと浮かび上がった「磐梯山」(1,816m)を背景に、雲からのぞく朝日が創り出す幻想的な空間が見えた。


 

  

その後列車は、根岸新鶴を経て会津坂下町に入り若宮を出発した後に、会津坂下に停車。上り列車とのすれ違いを行った。

「キハE120形」が並んだ姿を見る事で、『もう只見線にはキハ40形は居ない』事を実感した。

 


会津坂下を出発すると、会津平野と奥会津の境界となる七折峠への登坂を行う。キハ40形よりも甲高く聞こえたディーゼルエンジンの音が車内に響いた。

 

 

登坂の途上、短い木々の切れ間から、会津坂下町越しに会津平野を見る。雲が広がってきている事を知り、奥会津の天気が心配になった。


 

 

列車は、七折峠内の塔寺会津坂本を経て柳津町に入り、会津柳津を出て郷戸手前で“Myビューポイント”を通過。「飯谷山」(782m)を頂点とする山稜上空の雲は濃いものになっていた。奥会津地域は雨が降るのか、はたまた雪か。不安になった。

  

 

滝谷を出発後、滝谷川橋梁を渡り、三島町に入る。*以下、各橋梁のリンク先は土木学会附属土木図書館デジタルアーカイブス歴史的鋼橋集覧」 

 

 

   

7:23、会津桧原を経て桧の原トンネルを抜けると「第一只見川橋梁」を渡る。

車窓から下流(北)側の風景を見ると、「日向倉山」(605m)の稜線がはっきりとしていて、東北電力㈱柳津発電所の調整池である柳津ダム湖が青緑の濃く静謐な湖面鏡になっていた。

  

 

 


7:25、列車は名入トンネルを潜り抜け会津西方に到着。下車し列車を見送った。

  

「第二只見川橋梁」に向かって左に曲がり進む列車を眺める。扉の黄色に目がいってしまった。 

 

この駅から自転車を使って、列車の撮影に向かう。輪行バッグから折りたたまれた自転車を取り出し、組み立てて出発した。 


  

 

7:35、まずは、町道の歳時記橋に向かい、「第二只見川橋梁」を渡る上り列車を撮影した。

 

橋上から只見川の下流側を見ると駒啼瀬の急峻にはっきりと道の跡が見られた。1972(昭和47)年まで使われていた川井新道、国道252号線の旧道だ。“天下の難所”と言われた事が大げさでない道だった事が分かった

 

撮影を終え、次の撮影地に向かう。途中から、ポツポツと雨が降り出した。 

 


 

 

東北電力㈱宮下発電所の慰霊碑周辺にある桜を見るために寄り道。まだ、固いつぼみだった。

 

撮影ポイントに到着し。杉の木の下に入り、本格的に振り出した雨をしのぎ、列車の到着を待った。 

  

9:01、滝原トンネルを抜けて「第三只見川橋梁」を渡る、上り列車を撮影。

  

 

9:17、坂を下り、第一左靭橋梁を渡る下り列車を撮影。

 

次の撮影地、「第一只見川橋梁ビューポイント」を列車が通過するまで3時間40分。雨宿りと思い会津宮下駅に移動すると、待合室のストーブが炊かれていた。雨に降れた体を温め、衣類を乾かし、本を読みながら時間をつぶした。

 

 

12:40、雨脚は弱まったものの、列車の通過時間が近づいてきたため、駅をあとにした。

 

10分ほどで、国道252号線沿いの道の駅「尾瀬街道みしま宿」に到着。自転車を置いて、駒啼瀬歩道橋を渡った。欄干には約1週間後に迫った聖火リレーの実施場所を示すの、公式の幟が設置されていた。

    

「第一只見川橋梁ビューポイント」に向かい、聖火リレーに合わせて整備された丸太階段を上ってゆく。最下段のBポイントには、誰も居なかった。

  

中段のCポイントにも、観光客・撮影者の姿は無かった。

  

『まさか、そんなことは...』と思い最上段のDポイントに到着し、茫然。ここも無人だった。

 

  

今回、列車の撮影はCポイントにした。階段を下り、雨が強くなったり弱くなったりする中、山間を覆う霧の動きを眺めながら通過時間を待った。

 

13:02、会津西方駅を出発した「キハE120形」が、静かに名入トンネルを出て「第一只見川橋梁」を渡った。

 

運悪く霧は濃くなり、「キハE120形」を鮮明に捉える事ができなかった。

 

  

遅い昼食を摂る事にし、道の駅「尾瀬街道みしま宿」に戻る。会津地鶏親子丼とざるそばを注文した。

 

会津地鶏親子丼。鶏肉の食感が秀逸だった。適度な弾力に風味が重なり、これだけで食べ応えがあった。出汁が効いた半熟卵との相性も申し分なく、箸が止まらなかった。

 

ざるそば。のど越しは良く、蕎麦の風味が感じられる一品で、旨かった。

  

 

昼食を終え、列車の通過時間に合わせて、最後の撮影地に向かった。雨は気にならない程度にまで弱まってきていた。

 

14:32、“アーチ3橋(兄)弟”の長男・大谷川橋梁を渡る「キハE120形」を、国道252号線の三男・新宮下橋から見下ろしながらシャッターを切った。

これで、予定していた撮影を終えたが、この列車は会津宮下駅で停車するため時間の猶予があると思い、国道252号線を只見方面に急いで駆け下りた。

そして、宮下跨線橋のたもとから、会津川口に向かうキハE120形の最後の一枚を撮った。

  

 

全ての撮影を終え、列車の発車時刻まで時間があるため温泉に浸かる事にした。

宮下地区を走るメインストリート(県道237号線)を進むと、ここにも聖火リレーの幟が置かれていた。

   

今回選んだ温泉は、町の保養センター「ひだまり」。特別養護老人ホームやデイサービスが併設された社会福祉法人みしまの敷地内にある。

   

受付で、町外利用者の料金を支払い浴室に向かう。ここは眼下には只見川が見え、浴後に涼む事ができるテラスから眺める事ができる。

熱めの源泉が掛け流しされた温泉で、半身浴でもよく温まった。 

 

   

温泉を出ると、雨は上がっていた。

県道沿いの店で買い物を済ませ、会津宮下駅に向かう。自転車を輪行バッグに入れて、構内に入り、列車の到着を待った。

   

 

16:03、会津若松行きの列車が入ってきた。

私一人を乗せたあと、列車は定刻に出発。乗り込んだ後部車両の客は10名程だった。 


 

「第二只見川橋梁」を渡る。下流側、歳時記橋方面を眺めた。

  

「第一只見川橋梁」を渡る。上流側、駒啼瀬の渓谷を眺めた。

 

 

 

列車は、七折峠を下り、会津平野を進む。田んぼに建てられた防風雪柵のネットが取り外され、冬の終わりを再確認した。

 

 

 

17:31、会津若松に到着。今回も無事に旅を終える事ができた。

   

  

ホームの向かいの引き込み線には、キハ40形が停車していた。

本来ならば、今日は「ありがとうキハ40」が会津若松~郡山間を走る予定だった。

私はこのツアーに申込んでいたが。“コロナ禍”の影響で中止になった。今月第1週に主催者側から電話連絡が入り、後日通知も届いた。

残念だったが、引き込み線に停車していたキハ40形を見られただけでも、運が良かった。 

 

 

 

改札の脇には、桜のオブジェが飾られていた。若松の桜が見ごろになる頃には、“コロナ禍”が過ぎ去り、鶴ヶ城の多くの観光客で賑わう事を願った。

 

  

  

奥会津・三島町を走る只見線の「キハE120形」の、乗車と撮影の旅を終えた私見。 

車内は、吊革が多く違和感があった。利用者が多い会津若松~会津坂下間でも、この数は要らないのではないか。この吊革の量に、私は通勤列車の車中が思い出され、旅情がそがれてしまった。

 

車内の扉も黄色で、自然の中を走る列車という特性を考えると違和感があった。ユニーバーサルデザインで取り入れたというが、JR東日本の最新の気動車(GV-E400)に取り入れられていない点を考慮すると、黄色であり続ける必要はないと思った。

 


乗車環境について。

昨日今日と只見線を走る「キハE120形」に乗車したが、キハ40形に比べ改善されたのが、乗車空間の広さと室内照明を輝度。おそらくエアコンの精度も上がり、真冬や真夏は快適に過ごせるのだろうと思った。

肝心の乗り心地は、通勤・通学などの所要時間を想定しているためか、キハ40形より座席が固くなった分、長時間の乗車では改悪されてしまったと思う方が居るかもしれないと感じた。また、エンジン音はキハ40形の重低音より高くなったようで、特に発車や登坂時は車内にディーゼルエンジン音が耳に響いた。

  

乗車してみて、「キハE120形」への置換えの恩恵は、只見線内で最も利用者が多い会津若松~会津坂下間を通勤・通学で利用する方などが受けたのではないかと感じた。この区間は、21.6kmで所要時間が34分、会津平野内を走る事もありエンジンを蒸かし続ける事もないからだ。

 


 

他方、列車+風景の撮影時や、“観光鉄道「山の只見線」”にとって重要なポスターなどのPR媒体に影響を与える外観は、キハ40形に慣れている事もあってか、ステンレスの通勤車両然とした車両への違和感は拭えなかった。

キハ40形東北地域本社(仙台支社)色を踏襲したとはいえ、黒基調の正面の無機質さは奥会津の風景にはそぐわない、と私には見えた。また、黄色の扉は、鮮明だけに人工感が拭えず、主張が強く、奥会津の風景から浮いてしまっている感じがした。

 

 

「キハE120形」は、先日14日(土)のダイヤ改正で只見線内のデビューしたばかりで、今後、桜模様や新緑、紅葉、雪景色の中を走る事でどのような印象を見る人に与えるかは未知数だ。しかし、今日、奥会津の自然と列車を写真に収めてみて、「キハE120形」が只見線の魅力を訴求し、観光需要を創出・定着するかについて、私は一抹の不安を覚えた。奥会津の自然に溶け込んでいたキハ40形とは大きく異なり、「キハE120形」は個性が強く好き嫌いが分かれると思うからだ。 

JR東日本は只見線内への置換えに配慮し、車体の塗装を塗り替え、費用を掛けてくれた。ただ、新潟地区を走っていた「キハE120形」は、新潟駅が高架になり装備(ATS-P)が無い事、車両数が全8両という事もあって、JR東日本内で進行するキハ40形の更新を背景に、只見線に導入されたと言われている。“観光鉄道「山の只見線」”に相応しい車両は?、とJR東日本が保有するキハ110系やGV-E400系など、他の車両と比較して「キハE120形」が選ばれたわけではない、と考えると今回の車両の置換えが正しかったのか疑問にも思う。確かに、只見線の収支を考えた場合、JR東日本にそこまでの手間を期待するのは酷だと思うが...。

 

 

只見線は、“観光鉄道「山の只見線」”として観光需要を創出・定着させる事で乗客を増やす方針の下、多額の税金を充てて復旧・運営されることが決定された。乗客を増やすためには、他地域の山間部を走る鉄道に対しての差別化を図り、観光的魅力の優位性を確保する必要がある。

只見線沿線の風景は国内屈指のものだが、車両が置き換えられ、その魅力が減衰するという事態は避けなければならない。私は「只見線利活用事業」を中心となって進めている福島県が、「キハE120形」の置換えによる観光需要に対する陽陰の効果を検証し、不利益や不経済が発生していて他の対策で埋め合わせができないのであれば、JR東日本の協力を仰ぎ、対策をして欲しいと思っている。

個人的には、キハ40形の復活を望んでいる。会津若松発、小出発の往復する2便に充てられるよう2編成を、改修や外観をそのままにリノベーションするなどして定時運行させられれば、他線との差別化と比較優位が得られ、観光需要創出の強固な基盤となると私は考えている。

   

 

只見線には約81億円の復旧費用のうち54億円もの公費をかけ、経費は年間2億円(赤字分)という公費をかけ続けるという“投資”がなされる。これを無駄金にしないためには、“差別化”と“優位性の確保”について関係者が強い意思持ち、10年、20年と持続しなければならない、と私は考えている。

 

「キハE120形」の運行は始まったばかり。当面は、置き換えられた「キハE120形」の良さを見つけ、発信してゆく事が重要だ。私も、自分なりに努力したいと考えている。

  

 

(了) 

 

 

・ ・ ・ ・ ・ ・

 *参考:

・福島県 生活環境部 只見線再開準備室:「只見線の復旧・復興に関する取組みについて」 

 

【只見線への寄付案内】

福島県はJR只見線全線復旧後の「上下分離」経営での維持費や集客・地域振興策の実施費用として寄付を募集中(クレジット可)。

①福島県ホームページ:只見線復旧復興基金寄附金・只見線応援団加入申し込みの方法 *現在は只見線ポータルサイト「只見線応援団」URL:https://tadami-line.jp/support/

  

②福島県:企業版ふるさと納税

URL:https://www.pref.fukushima.lg.jp/sec/16005g/kigyou-furusato-zei.html

[寄付金の使途]

(引用)寄附金は、只見線を活用した体験型ツアーや周遊ルートの整備、只見線関連コンテンツの充実化等に活用させていただきます。 沿線地域における日本一の秘境路線と言われる観光資源を活用し、更なる利用者の拡大と認知度向上を図ります。


以上、よろしくお願い申し上げます。

次はいつ乗る? 只見線

東日本大震災が発生した2011年の「平成23年7月新潟福島豪雨」被害で一部不通となっていたJR只見線は、会津川口~只見間を上下分離(官有民営)とし、2022年10月1日(土)に、約11年2か月振りに復旧(全線運転再開)しました。 このブログでは、“観光鉄道「山の只見線」”を目指す、只見線の車窓からの風景や沿線の見どころを中心に、乗車記や「会津百名山」山行記、利活事業に対する私見等を掲載します。

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