私選“只見線百山”の候補の検証登山。今回は、1泊2日の予定で魚沼市と南魚沼市にまたがる“越後三山”縦走を企画。1日目はJR只見線を利用し新潟入りし、大倉登山口から「八海山」から難所「オカメノゾキ」を経て「中ノ岳」を目指した。
“越後三山”は“魚沼三山”とも言われ、「八海山」(入道岳 1,778m ) 、「中ノ岳」(2,085m )、「越後駒ヶ岳」(2,002.6m)から構成される。登山者の間では、それぞれの頭文字(越後駒ヶ岳は駒ヶ岳から)をとって、“ハナコ”の愛称で親しまれている。
“越後三山”は、只見線の小出駅駅頭から見えるだけではなく、小出~藪神間でも見られ、特に魚野川橋梁上からは美しい三山の稜線を眺める事ができる。標高は真ん中の「中ノ岳」が最も高いのだが、奥まっているため一番低く見えてしまっている。
“越後三山”は「越後駒ヶ岳」が「日本百名山」(深田久弥著)で挙げられているため、“魚沼三山”として、次のように記されている。
25 魚沼駒ヶ岳(二〇〇三米)
(前略)そして小出からは、中ノ岳を中央にして、右に八海、左に駒、三つの山がキチンと調和のある形で並ぶ。ここでわれわれは魚沼三山という名称の当を得ていることを合点する。多雪の地であるからそれらが純白に輝く時の偉観は、二千米の山とは思われない。(後略)
(前略)魚沼三山は水無川の上流を包んで三角形に立っている。そのうち一番高いのは中ノ岳二〇八五米、一番名の聞えているのは信仰登山でにぎわう八海山であるが、私があえて三山の代表として駒ヶ岳を挙げたのは、山としてこれが一番立派だからである。(後略)
*出処:深田久弥著「日本百名山」<新装版>(新潮社、p118-119)
また魚沼市・南魚沼市域の一部が会津藩の預地であったためか、会津藩の地誌「新編會津風土記」(1809(文化6)年編纂完了)の魚沼郡の項に“越後三山”のそれぞれが、「駒嶽」(越後駒ヶ岳)、「八海山」、「中嶽」(中ノ岳)の順に記されている。
魚沼郡 〇山川
〇駒嶽
小出島組大湯村の南にあり、頂まで三里餘、東北は大湯村に屬し、西南は浦佐組の諸村に屬す、山勢峻しく半腹より上は人跡通ぜず、寒風殊に烈く熊猿の類猶棲こと稀なり、只獵人冬雪を踏て上攀ることを得ると云、春夏の際殘雪駒の形をなす、故名けしとぞ
〇八海山
浦佐組大倉村の南にあり、頂まで四里計、東は陸奥國會津郡の諸山に續き、西南は六日町組條内谷の諸村に屬し、西北は浦佐組の諸村に屬す、山上に八つの池あり、因て名く絶頂は鋸齒の如く凡六の峯あり、頂より少し下に八海明神の祠あり、毎年八月朔日遠近より参詣する者少からず、其夜山の半腹に數萬點の火星の如く見ゆ、是龍王の獻ずる燈なりと云、又胎内潜とて數丈の巖洞あり、半山より上は盛夏にも雪をふみ、見なれぬ艸木多く、猿嘯の聲幽谷に聞え、雲霧の陰氣常ならず、物すごき地なり、頂は益々嶮難にて絶壁峭立し、天氣睛明の時には眺望尤も佳なり、西南に信州の戸隠・淺間の二山を望み、西北は本州の諸郡を一矚し、佐渡・能登の沖まで遙に烟の中に見ゆると云、斯る高山なれば海舶の往來に中嶽・駒嶽と此山を併て三本嶽と稱へ、標準とするとぞ、浦佐組大倉山・大崎村及六日町組山口村三方より通路あり
〇中嶽
八海山の東北に並び數山の奥にあり、八海山より稍高しと云、水無川の源にて人跡至ること稀に全山の景象を知る者少なし、支峯連出して左右に環拱せり
*出処:新編會津風土記 巻之百六「外篇 越後國魚沼郡之一」(国立国会図書館デジタルライブラリ「大日本地誌体系 第34巻」p148‐149 URL: https://dl.ndl.go.jp/pid/1179230/1/80)
“越後三山”は、三山とも山頂は只見線が通らない南魚沼市にあるが、只見線の列車内からその山容が見え、魚沼地方を代表する山ということで候補に入れているものの、“只見線百山”に外せない山々だと考えている。従って今回の山行は、難易度や所要時間を確認することにした。
今回は“ハナコ”の順に辿る1泊2日の山行で、旅程は以下の通り。
【1日目】
・只見線を利用し、終点・小出駅で乗り換えて浦佐駅前の宿に宿泊
・浦佐駅から、輪行した自転車に乗って大倉登山口に向かう
・大倉登山口から「八海山」(ハ)に登り、最高点の「入道岳」を目指す
・「入道岳」から「五龍岳」を経て、難所「オカメノゾキ」を越えて「中ノ岳」山頂手前の「中ノ岳避難小屋」を目指し、泊まる
【2日目】
・「中ノ岳避難小屋」から「中ノ岳」(ナ)に向かう
・「中ノ岳避難小屋」に戻り、朝食を摂った後に、「越後駒ヶ岳」(コ)を目指す
・「越後駒ヶ岳」から、難所「クジガハナ」を下って、十二平登山口に向かう
・十二平登山口から水無川沿いを歩き、大倉登山口に向かう
・大倉登山口から自転車に乗って、浦佐駅に移動
・浦佐駅から列車に乗って小出駅に移動し、只見線の会津若松行き最終列車に乗る
他登山者の山行録を見ると、1日で“越後三山”縦走を為した強者も少なく無かったが、私は「中ノ岳」の避難小屋に泊まる1泊2日の山行を計画した。
*上図出処:国土交通省 国土地理院「地理院地図」URL: https://maps.gsi.go.jp/ *赤線・青線、赤文字・青文字などは筆者にて記入
初日となる今日の天気予報は曇りで、低い降水確率。「八海山」の“八ッ峰”のクサリ場・ハシゴ場や、「中ノ岳」に至るキレットの難所「オカメノゾキ」(1,250m)と、そのあとの800mほどの登り返しなど厳しい山行が予測されたため、雨が降らない事は良かった。しかし、山行の予定時間は10時間以上と、2021年の“鬼が面山‐浅草岳 周回登山”の8時間を優に超えるため、相当の覚悟をして「八海山」と「中ノ岳」(避難小屋)を目指した。*参考:拙著「只見町「鬼が面山 」周回登山 2021年 初夏」(2021年6月26日)
*参考:
・福島県 :只見線管理事務所(会津若松駅構内)
・福島県・東日本旅客鉄道株式会社 仙台支社:「只見線全線運転再開について」(PDF)(2022年5月18日)
・福島県:平成31年度 包括外部監査報告書「復興事業に係る事務の執行について」(PDF)(令和2年3月) p140 生活環境部 生活交通課 只見線利活用プロジェクト推進事業
・拙著:「次はいつ乗る?只見線」カテゴリ -私選“只見線百山”候補の山行記- / -只見線の秋-
昨日、仕事を午前中に切り上げ、郡山駅から只見線経由で浦佐駅に向かった。
磐越西線の列車に乗って会津若松に到着し、只見線の4-5番線ホーム移動。跨線橋から北を眺めるが、晴れていれば右奥に見えるはずの「磐梯山」(1,816.0m、会津百名山18座)は、ぶ厚い雲に覆われていた。
只見線・小出行きの最終列車は、キハE120 とキハ110の2両編成だった。
17:00、小出行き最終列車が会津若松を出発。車内は帰宅する高校生が目立っていた。
市街地の七日町、西若松を経て大川(阿賀川)を渡った。上流には、山頂に雲を頂く「大戸岳」(1,415.7m、同36座)の山塊が見えた。
日本酒を呑みながら、切符を見て『失敗したぁ』とつぶやいた。
今回、郡山~会津若松間は「Wきっぷ」を使ったが、会津若松から浦佐までの切符は別に購入した。この切符を会津若松駅で購入する際、券売機の表示画面をよく確認しなかったようで、只見線経由ではなく、遠回り(磐越西線~新津~信越線・上越線~浦佐)のルートを選んでしまった。その差額、1,100円。やってしまった。
19:23、会津川口を出た後、本名、会津越川を経て会津横田に停車すると、高校生2人を含む、3人が下車した。
20:44、小出発の上り最終列車(大白川止り)の到着を待って、大白川を出発。ここから越後の酒を呑んだ。今回選んだのは朝日酒造㈱(長岡市)の「純米吟醸 久保田 千寿」。久しぶりに呑む「久保田」だったが、香りが立ちながら軽やかな吞み口はさすがだと思った。
列車は暗闇の中快調に駆け、柿ノ木駅跡付近からポツポツと家の灯りが見え始め、入広瀬、上条、越後須原、魚沼田中、越後広瀬、藪神と進むにつれて、その数を増やしていった。
21:26、終点・小出に到着。私を含め、4人が下車した。
21:44、小出から上越線の列車(越後湯沢行き)に乗り換えて、南魚沼市に入り八色を経て、浦佐に到着。
改札を出て新幹線改札の先を見ると、東京行きの最終列車(22時13分発)の表示が見られた。只見線の会津若松発・小出行きの最終列車に乗っても東京に帰る事はできるが、暗闇の中を走る列車に乗る価値があれば日本最大の人口を持つ東京圏の観光客がこの最終列車を利用する可能性がたかまるのでは、と改めて思ってしまった。
輪行バッグを抱え八海山口を出て、宿に向かった。
今朝、宿を出ると、玄関先から「越後駒ヶ岳」が見えた。
6:15、コンビニで水を調達し、“只見線全通の父”田中角栄氏の銅像が立つ浦佐駅前を、自転車に乗って出発した。*参考:拙著「乗り納め(全線乗車 小出⇒会津若松) 2016年 初冬」(2016年12月26日)
魚野川に架かる、県道28号(塩沢大和)線の浦佐大橋を渡ると、「八海山」の北肩「池ノ峰」(1,296m)と思われる稜線が見えた。
関越自動車道を潜り抜けると、正面に「越後駒ヶ岳」、右手前に「池ノ峰」が大きく見えた。
そして、福島県の偉人・野口英世から千円札の肖像画を引き継ぐ、北里柴三郎が創設した北里大学の保健衛生学院前を通過し、傾斜がほとんど変わらぬなだらかな坂を上り進んだ。
道は市道から県道234号(桐沢麓五日町停車場)線に変わり、大倉地区に入ると標識の根元に“クマに注意”と記された看板が倒れていた。『倒れているということは、ここでクマの被害はそれほどないのでは』と思ってしまった。
「八海山 坂本神社」社務所前を通過。
住宅が途切れ、道が下りになると前方に開けた場所が見えた。
6:48、大倉登山口に近い、「八海山おおくらの森」の駐車場に到着。
ここから6.5km先の浦佐駅方面を振り返ると、雲に覆われていた。Web上の地理院地図で標高を確認すると駅周辺が約120m、この「八海山おおくらの森」近辺が約260mということで、140mの差で雲海が見られるとは思わず驚きの光景だった。
自転車は、丸屋根の倉庫脇に置かせてもらった。
クマ除けの電子ホイッスルと、熊鈴を身に着け、印刷してきた“越後三山”縦走ルートの地図を取り出しすなど準備をした。
そして、まずは「八海山」大倉登山口に向けて、「八海山おおくらの森」を出発。
坂本神社の幟がはためく、平坦な参道を進んだ。
駐車場から3分ほどで、「八海山 坂本神社」に到着。
「八海山」には登拝口が大倉・大崎・山口の3箇所で、それぞれに神社が建つという。この「八海山 坂本神社」は大倉の登拝口で、“最古の登拝口”と言われている。 *大崎=「八海山尊神社」、山口=「八海神社」
敷地内はよく刈払いされ、石段脇のスギ木立も枝打ちされ、「八海山」“最古の登拝口”が納得できる荘厳さを感じた。
石段したから参拝し、横に延びる坂を上って行くと神社から人が出てきた。『八海山に登られるのですか?』と問われ、『八海山を経由して、中ノ岳まで行く予定です』と応えると、氏は一瞬押し黙り時計を見ながら『何とか大丈夫でしょう』と言ってくれた。クマの出没についても尋ねたが『もちろんいますよ』と当然の返答だった。
氏から『お気をつけて!』と送り出され、『行ってきます!』と返し別れた。
7:03、「八海山」山頂(入道岳)を目指して、霊神碑の間を抜けて大倉登山口を出発。
霊神碑は御嶽信仰に因るもので、「(木曽)御嶽山」(3,067m)には2万を超える霊神碑が建っているという。「御嶽山」は普寛行者によって開かれた(王滝口)が、彼はこれより前に「八海山」を開きこの時大崎出身の弟子・泰賢行者が大きな役割を果たしたと言われている。これが縁で「八海山」の神は“八海山大頭羅神王”(だいのづらしんのう)となり“御嶽三座神”(御嶽三大神とも)の一つとして祀られている。*参考:(一社)木曽おんたけ観光局 王滝村観光案内所「御嶽山・古道遊歩」
登山道は、踏み跡がはっきりし、その両脇も刈払いされていた。
まもなく、“斬岩剣”で真っ二つに割れたような大岩の間を進んだ。
7:10、赤鳥居が現れ、七滝・八海山おおくらの森との分岐となった。赤鳥居を横目に直進した。
鳥居の脇には、“八海登山”と彫られた石標が立っていた。
7:15、登山道が、石垣が積まれた招魂碑(左)と霊神碑(右)の間に延びた。
この背後は急斜面となり、登山道は九十九折りになった。
一時、登山道は不明瞭になるほどの夏草が生い茂る場所もあったが、歩行空間ははっきりしていて迷うことは無かった。ただ、このあたりから登山道を“横断”したクモの巣が頻発し、難儀した。
再び登山道の踏み跡がはっきりしたが、急坂箇所や、斜面を巻き足元が不安定な箇所などがあり、スイスイとは進めなかった。
7:32、初めてのハシゴ場になった。
アルミ製の梯子を昇ると、木枝の間から麓を見下ろせた。
続いて、クサリ場になった。鎖を掴むほどの急坂ではなかったが、地面が濡れている場合は、助かる場所だと思った。鎖の先の斜面には穴が穿かれ、祠が祀られていた。
登山道の脇には、意外に多くの花が見られた。
名が分からず帰宅後に調べ、オトコエシ(男郎花)、ツリフネソウ(釣船草)、ホツツジ(穂躑躅)と分かった。
7:37、巨岩に描かれた不動明王の鮮やかな絵があり、更に先に進み短い坂を上ると、御堂が現れた。
御堂の中には、“猿田彦大神”が祀られ、脇には霊神碑などの石碑が並んでいた。
このお堂から少し歩き登ると、また霊神碑が並んでいた。
霊神碑群を背にすると、麓の景色が見られた。ここまで急坂という感じではなかったが、かなり標高を稼いだように感じた。
だが、霊神碑群を後にすると登山道は急坂となり、直登することになった。
枯葉が一面に重なった急坂は、登山靴のグリップが効かず、何度も足裏を滑らせながら進んだ。
秋ということで、足元にはツブイボタケ、シロハツモドキ、シロオニタケなどの様々なキノコが見られた。
8:06、前方が開けた。地図上では、755m標高点のようだった。
切れ落ちた尾根の上に立つと、明日登る「越後駒ヶ岳」の山肌がはっきりと見えた。
この後、登山道は尾根筋に延び、傾斜も緩やかになった。
途中、大岩があり、その上を見ると霊神碑と神鏡が置かれていた。
登山道を進むと、前方にこんもりとしたピークが見えた。手元の地図を見ると、大崎登山口・八海山ロープウェイ山頂駅からの登山道との合流点(標高約1,220m)のようだった。
8:31、三合目となる風穴に到着。傾いた標杭の先にある風穴に近付いてみるが、冷風は感じられなかった。
ここで、バウムクーヘンで小腹を満たした。水は、先月の尾瀬トレッキングから利用しているハイドレーションから飲んだ。
8:50、潰れた小屋の前を通過。大きさから社ではないかと思ったが、今ある情報からは何の小屋だったかは不明だった。
この先で登山道に朽ちた丸太階段も見られたが、踏み跡や歩行区間も明瞭で迷う危険性は感じなかった。
9:25、前方が開けた。
登りきると平場になり、どうやら「雨池」のようだった。地面に錆びた鉄材が2本が落ち、「雨池」にはほとんど水がなかった。
冒頭に掲載した「新編會津風土記」の記述(山上に八つの池あり、因て名く)にあるように「八海山」の“八海”の語源は、山に“八つの池”があったことだとも言われている。「雨池」はその一つで、他は五合目にある「漕ぎ池」、八ッ峰付近にある「月池」と「日池」、そして「浦戸池」「ひょうたん池」「一の池」「二の池」だという。
「雨池」の東側は開けていて、「越後駒ヶ岳」が見えたが、その左、はるか後方の山の稜線に霧が見られた。
手元の地図で確認すると、福島県‐新潟県境に連なる「毛猛山」(1,516.9m、新潟百名山)の南側稜線の低い位置から霧が滝のように落ちているようだった。“枝折峠の滝雲”のようで、しばし見入った。*参考:魚沼市観光協会「枝折峠(しおりとうげ)」
地理院地図を見て見ると、田子倉ダム湖で発生した霧が、鞍部となっているこの場所から流れ落ちているのではないか、と考えた。*下図出処:国土交通省 国土地理院「地理院地図」URL: https://maps.gsi.go.jp/ *一部、筆者にて文字・図入れ
「雨池」を後にすると、登山道は急斜面に延びていた。踏み跡は明瞭だったが、草が繁り狭い歩行空間がしばらく続いた。
9:42、大倉登山口からの登山道と合流。
左が「八海山」方面だったが、右は八海山ロープウェイ山頂駅と大崎登山口方面であることを示す案内板が立っていた。
合流点の隅には、私が登ってきた方の面に“大倉道”、大崎方面に“大崎道”と彫られた道標が立っていた。
合流を左に入り、土間の安定した登山道を進んだ。上方には「薬師岳」が見えた。
途中、“四合半(出合)”と記された標杭が立っていた。また、登山道には木道も敷かれていたが、一部だった。
しばらくは、緩やかな勾配の硬く歩き易い登山道を進んだ。丸太階段もあった。
9:58、「池ノ峰」(1,296m )の南側を抜けると、前方が開け「薬師岳」(1、653.6m))が大きく見えた。手元の地図で確認すると、この当たりの標高は約1,270mで、「薬師岳」までは2時間近く掛かるようだった。
少し歩くと右(南西)側が開け、遠く石打スキー場や、雲が載った「苗場山」(2,145m、日本百名山)が見えた。
10:05、初めて登山者とすれ違った後に五合目となり、「槽ぎ池」への分岐を通過。真新しい標識に、八海山ロープウェイ山頂駅から「八海山」へと向かうこのルートは、登山者が多いのだろうと思った。
10:09、北側が開けた場所になった。
「守門岳(袴岳)」(1,537.2m、新潟百名山)や県境にある一等三角点峰「浅草岳」(1,585.3m、会津百名山、新潟百山)、そして未だ南稜線に“滝雲”を見せている「毛猛山」などが見え...
その手前には、“権現堂山”(「下権現堂山」(896.5m)、「上権現堂山」(997.6m、新潟百名山))と「唐松山」(1,079.3m)も良く見えた。*参考:拙著「魚沼市「権現堂山」登山 2020年 盛夏」(2020年8月13日) / 「魚沼市「唐松山」登山 2024年 初冬」(2024年11月25日)
そして、山々の左側(西)の色付いた田園の中に向けてカメラをズームにすると、只見線(藪神~越後広瀬間)の直ぐ脇に立つJA魚沼の薮神カントリーエレベーターが確認できた。
10:15、「胎内くぐり」への分岐を通過。
この先は、岩場が多くなり、ハシゴ場が3箇所続いた。
10:19、尾根の肩に乗り上がると、上方に女人堂の避難小屋が見えた。
この先、登山道はまもなく急坂になり、ハシゴ場や...、
岩肌の直登となり、そこを登り進んでゆくと、前方が明るくなった。
10:26、かつて“この先女人立ち入るべからず”という境界だった、「女人堂」(六合目)に到着。かなり広い平場で、避難小屋(無人)は丸太組の洒落たものだった。“八海山大神”と彫られた、東京八海山一心講社の霊神碑は、朱色の講紋が目立っていた。
ここでベンチにリュックを置いて、小休止。
さっそく、片手で食べられる羊羹を食べた。
一息ついた後、周囲を見て回った。平場の北端に立つと良い眺望で、小出・広神地区の田園越しに、遠く「弥彦山」(634m、新潟百名山)の稜線も見え、その左後方には佐渡島も確認できた。
避難小屋の扉を開けると無人で、綺麗に整理整頓され、トイレも清潔で男性小用と洋式バイオトイレが設置されていた。
10:38、「女人堂」を出発。踏み固められた登山道を進んだ。
登山道には、途中丸太階段が設置されていたり、一部が洗堀された場所も見られたが、快適に登り進めた。
10:47、“これから急坂”と記された案内板の前を通過。“祓川 沢登は厳禁”とも記されていたが、ここから沢登りをする方がいるのだろうかと思った。
登り進むと、まもなく左側が開け、祓川と思われる沢の両側に広がる草原が見えた。
そして登山道は標識通り、急坂となった。岩に足をしっかり載せて進んだ。
11:01、見晴(七合目)に到着。本日2人目の下山者とすれ違った。
振り返ると、“見晴”というだけあって、良い眺めだった。魚野川が合流する信濃川が日本海に向かっていく様子が、谷底平野の田の色付きで分かった。
小出地区に向けてカメラをズームにすると、小出駅に待機している只見線の列車(13時12分、会津若松行き)が確認できた。
見晴を後にして先に進んだ。ハシゴ場もあったが難なく越えられ、その先には窪んだ砂礫が固まったような場所をしばらく進んだ。
途中、足元の花々に目がとまった。
シロヨメナ(白嫁菜)、アキノキリンソウ(秋の麒麟草)。
11:19、八合目となる鎖場に到着。“急な登りもあと少し 登りきると薬師岳山頂”と案内板に記されていて、元気が出た。
短い梯子を昇ると、岩肌に垂らされた鎖があり、細かい凹凸のある岩肌は、思いのほか長かった。鎖を使わずとも登れる傾斜だったが、雨の日など岩肌が濡れている場合は、必ず掴むことになるだろうと感じた。
クサリ場を越えると、まもなく登山道は平場になり、前方が大きく開け...
11:24、小さな赤鳥居をもった小さな遙拝所のある「薬師岳」に到着。
遙拝所の奥には、太郎坊大神と思われる銅像が立っていた。
平場の西端に立つと、魚野川の谷底平野に延びる南魚沼市の塩沢・六日町・大和地区中心部の様子が見て取れた。
「八海山」の三角点は、この「薬師岳」に設置されている。遙拝所の手前に石像に続く小径があり、その先の藪の中に三等三角点「八海山」があるということだったが、今回は探索をしなかった。
*「薬師岳」:三等三角点「八海山」
基準点コード:TR35539503101
北緯:37°06′51″.4068
東経:139°00′50″.7867
標高(m):1,653.57
造標:明治41年7月1日 *「点の記」より
*出処:国土地理院地理院地図「基準点成果等閲覧サービス」URL:https://sokuseikagis1.gsi.go.jp/
「薬師岳」を背に霊神碑の並ぶ登山道の先には、「八海山」八ッ峰・第一峰の「地蔵岳」と山小屋「千本檜小屋」が見えた。
そして、少し先に進むと大きく開け、左から「越後駒ヶ岳」、「中ノ岳」、「八海山」と“越後三山”を一望できた。
先に進むと鞍部になり、「千本檜小屋」を見上げながら登り返した。
11:33、九合目となる「千本檜小屋」に到着。これから下山するであろう3人組パーティが、管理人と話し込んでいた。*参考:Ameba「千本檜小屋管理人ブログ」
休憩はせずに、そのまま先に進み、八ッ峰・第一峰「地蔵岳」を目指した。
途中振り返って「千本檜小屋」を見下ろした。「薬師岳」を中心に右に魚沼市小出・広神地区、左に南魚沼市大和地区を見下ろせた。
「地蔵岳」を南に巻いて進んだ。登山道は斜面を延び、「地蔵岳」側に体を預け、慎重に進んだ。
2人組の下山者とすれ違った後、立ち止まり崖下を見下ろした。直下には屏風登山道(上り専用)の一部が見え、黄金色に染まった麓の中心には、南魚沼市の中心・六日町の市街地が確認できた。
先に進む。岩肌が剥き出しの登山路は、さらに斜面側に切れ落ちていたが、鎖が這わされていたため安全に歩き進むことができた。
まもなくトラバース(巻き)を終え、クサリ場となり、岩場を登攀した。
11:43、錆びた鎖の次に、真新しいピカピカの鎖をしっかりと掴み昇り進むと目の前に「越後駒ヶ岳」が見え...
岩尾根に載り、右に目を向けると護摩段岩があり、岩肌が「地蔵岩」に続いていた。
「地蔵岳」の石標には立ち寄らず、先に進んだ。岩が露出した登山路は南東に延びていた。慎重にトラバースし進むと、正面に「中ノ岳」が見え...
山頂に向けてカメラをズームにすると、今日の宿泊地となる「中之岳避難小屋」と、その右隣り(南)に「中ノ岳」山頂が確認できた。
先に進むと、登山道はまたクサリ場になった。錆びた鎖をしっかりと握って登攀したが、途中、真新しいアンカーが打たれていた。鎖も新しものに替えるのだろうと思った。
11:46、八ッ峰・第二峰「不動岳」に到着。
振り返ると「地蔵岳」が見え、カメラをズームにすると、石標とその文字も確認できた。
「不動岳」の石標を越え先に進むと、“キケン注意!”、“転落すれば助かりません”と記された看板が立てられていた。実際に目にすると、覚悟がより強くなった。
この看板の先には、錆びた鳥居と祠、銅像、たくさんの霊神碑が置かれていた。
「不動岳」を後にして、次の峰に向かった。
クサリ場を慎重に下った。
鞍部の左(東)側は、垂直に切れ落ちていた。危険な場所だった。
次の峰への登山道は、左側(東)を巻いていた。
12:01、八ッ峰・第三峰となる「七曜岳」の下に到着。登り口が見当たらず、下から見上げた。石標には別名である「五大岳」と刻まれていた。
巻いた登山道を進み、次の峰に向かった。
鞍部に下って、鎖を頼って岩場を登った。
そして、岩場の斜面を慎重にトラバースした。
途中、斜面に体を預けて、切れ落ちた東側に延びる高倉沢を眺めた。
先に進むとクサリ場となり、慎重に登攀した。
12:10、八ッ峰・第四峰「白河岳」の上に立った。霊神碑は立っていたが、岳銘が刻まれた石標は見当たらなかった。
次の峰に進んだ。
岩場を、鎖を掴んで鞍部に下りた。鞍部の両側は、垂直気味に切れ落ちていたが、岩場は傾斜が緩く、足裏をしっかり保持できたため、見た目ほどの恐怖は感じなかった。
12:34、鞍部から岩場を登り返し、八ッ峰・第五峰の「釈迦岳」に到着。ここの石標には、別名の「白川岳」と彫られていた。
次の峰に向かった。
鞍部には、傾いた標杭と、その前に案内板が立っていた。
鞍部に下りて看板を見ると、八ッ峰迂回路(月の池、日の池方面)との合流を示すものだった。
更に先に進むと、登山路は右(西)に巻くようになり、行き止まりはハシゴ場になった。
梯子の先には鎖があり、足裏に神経を使いながら、慎重に登攀した。
登りきると、岩山の前方に石標が見えた。
12:31、八ッ峰・第六峰「摩利支岳」に到着。
次の峰に向かった。
鞍部は深く、鎖を掴んで慎重に下った。ここまで触れた鎖は全て確実に固定されていたが、足裏のグリップは疎かにしてはならぬ、と念じた。
鞍部に下りると、登山道は岩山*の東側に延びていた。そして岩山の下を通り過ぎると、垂直に立ったハシゴ場になり、その上方からは鎖が垂れていた。
左側(東)はかなり切れ落ちていたので、梯子や鎖から手を離せば岩場の下の方までの滑落は避けられず、今まで感じたことの無い死への恐怖を感じた。
梯子の下に行き、両手で梯子を力強く掴み固定状況を確認し、覚悟を決めて登った。
鎖の上端に着き、登攀を終えた。岩場に立ち、振り返って見降ろすと梯子は見えなかった。『ここは梯子と鎖に命を預ける場所だ!』と痛感した。
12:40、この岩場の先には、銅像と石標が立っていた。そして、さらにその先は「八海山」山塊の最高峰「入道岳」へと続き、正面には「中ノ岳」が見えた。
岩場を少し進んで南西を表に立っている石標を見ると、八ッ峰・第八峰となる「大日岳」と刻まれていた。ここで、第七峰「剣ヶ峰」が“命預けの梯子”の手前、下を通り過ぎた岩山だったことが分かった。
「大日岳」からの、南西方面の眺めも良かった。
「大日岳」を“八海山の山頂”としている記述もあったので、石標に触れて登頂を祝った。
“八海山”は、全国に3座にあり、「日本山名事典 <改訂版>」によると、最高峰は尾瀬ヶ原の北西にある別名“背中アブリ山”(1,811m)で、当山はその次の標高となっている。
はっかいさん 八海山 (高)1778m
新潟県南魚沼市。上越線五日町駅の東10km。中ノ岳、駒ヶ岳とともに越後三山と呼ばれ、秩父古生層とそれに貫入した花崗岩類からなる。山頂は薬師岳・八ッ峰・入道岳(最高峰)からなり、八ッ峰には地蔵岳・不動岳・七曜岳・白河岳・釈迦岳・摩利支岳・剣ヶ岳・大日岳の岩峰がある。大日岳には八海山大明神を祀り、修験者の道場であった。近世末に御嶽行者の霊地にかわり、今日なお全国的組織をもつ八海登拝講中が行われる。登山口は大崎口のほか城内口・大倉口があり、それぞれが山頂の奥の院に対する里宮の所在地。*出処:「日本山名事典 <改訂版>」(三省堂、p835m)
先に進んだ。
ここ「大日岳」は、下りるのも覚悟が必要だった。まず、一つ目のクサリ場を下った。
下りきり振り返ると、この岩場の急峻さを実感した。そして、岩場の下部には、ここで亡くなったと思われる方を悼んだ文字が刻まれた銅板があった。合掌。
続いて2つ目のクサリ場。ここもほぼ垂直で、高さもあった。
ゆっくりと慎重に下りると、「不動岳」に立っていたものと同じ“警告”看板が岩場の下に固定されていた。そして少し進んだ登山路の脇には、八ッ峰迂回路(千本檜小屋方面)との合流を示す石板が置かれていた。
「日本百名山」の著者・深田久弥は「八海山」を“恐怖の度合いにおいては、全国一かもしれない”と記しているが、北アルプスの三大キレット(大キレット・八峰キレット・不帰キレット)などの難所を知らぬ身では、氏の指摘が納得できた。
25 魚沼駒ヶ岳(二〇〇三米)
八海山の名は山上に八つの池があるからだと伝えられるが、そんなに顕著なものは見当らない。むしろ頂上の岩峰群が階をなしているので八階山と命名された、という説の方が適切である。(後略)
(中略)
古来修験道の山はたいて岩山であって、その嶮岨な個所に鎖や鉄梯子をとりつけ、登拝者の胆を寒からしめる所に、その功徳を誇っているように見受けられる。八海山も例外ではない。恐怖の度合いにおいては、全国一かもしれない。(後略)
*出処:「日本百名山」<新装版>(新潮社、p120)
12:50、「剣ヶ峰」以外の八ッ峰を無事に踏破し、「八海山」の最高点となる「入道岳」に向かった。
「入道岳」への登山道はなだらかで、左奥に聳える「中ノ岳」を見ながら快調に登り進んだ。
「入道岳」が近付き、振り返って八ッ峰方面を眺めた。「大日岳」を頂点とする八ッ峰は、かなり危険だが、魅力ある山だと思った。
平たい尾根に載ると、ポツンと立つ標杭が見えた。
13:16、「八海山」山塊の最高峰となる「入道岳」(1,778m)に到着。標杭の脇には、“丸ヶ岳”と刻まれた石標が立っていた。
だが、この刻字の“丸”は、“九”にも見えなくもなかった。“八ッ峰の次”ということで、意図的にこのような刻字にしたのではないか、という想像をしてしまった。
「入道岳」山頂に三角点は無いので、標杭に触れて「八海山」登頂を祝った。
大倉登山口から「入道岳」まで、6時間13分。想定より1時間遅く、次の「中ノ岳」までは5時間30分を見込んでいたため、『日が暮れる前に、難所・オカメノゾキを越えて、できるだけ距離を稼ぎたい』と思い、「入道岳」をすぐに後にした。
まずは、分岐となる「五龍岳」を目指した。右前方には、山頂付近池塘を多く持つ「阿寺山」(1,508.7m )が見えた。
下り斜面に入ると、前方に「五龍岳」と、左奥に「中ノ岳」を見ながら進んだ。登山路はしばらく夏草に覆われたが、踏み跡明瞭で心配は無かった。ただ、草々に付いていた水滴が靴を濡らし、結局靴下まで水浸しになってしまった。
夏草群を抜けると、ザレ場のクサリ場になった。急坂だったため、時折鎖を掴んで慎重に下った。
この場所は、先に登山路鮮明な尾根筋が見えるため大きな問題にはならないがルートロス頻発箇所で、鞍部手前でザレから夏草に覆われた踏み跡に入らなけばならない。私も、ザレ場をどんどん下り、『おかしい』と思い振り返るとピンクテープが見え、それに向かって引き返すと夏草に覆われた踏み跡に戻る事ができた。
「五龍岳」はこんもりとしたピークで、中心部が登山路のため刈払いされ凹んでいた。ここに近付くと、手前の平場にテントが見えた。テント内からは2人の男性の声が聞こえ、タープ下には刈払い機が置かれていたため、登山路整備の方と思った。
13:49、「五龍岳」に到着。振り返り「入道岳」を眺めた。地理院地図で確認すると、ここは標高1,600mなので178mも下ってきたことになり、『登りは大変だろうな』と思った。
「五龍岳」を後にして分岐を左(東)に進んだ。“越後三山”縦走の最難所と言われる「オカメノゾキ」を経て「中ノ岳」に至るルートだ。
まもなく、登山道は左側(北)は東不動沢に向かって鋭く切れ落ち、源頭部には万年雪が載っていた。
一旦鞍部に下り、1,585mピークに取付いた。一部岩肌が露出した急坂は、意外と安全に楽に登ることができた。
14:02、1,585mピークに乗り、「中ノ岳」とそこに向かう尾根を眺めた。
この「五龍岳」(1,600m)から「中ノ岳」(2,085m)に至るルートは、区間最低部「オカメノゾキ」(1,250m)までアップダウンを繰り返し、登山道は両側が切れ落ちているというこで気を引き締めた。
この「五龍岳」(1,600m)から「中ノ岳」(2,085m)に至るルートは、区間最低部「オカメノゾキ」(1,250m)までアップダウンを繰り返し、登山路は両側が切れ落ちているというこで気を引き締めた。
明日の朝に歩くことになる「中ノ岳」から「越後駒ヶ岳」に至る稜線もはっきりと見えた。
1,585mピークを後にすると、草に覆われた急坂をしばらく下り、草に覆われた岩場を登った。
14:29、1,442mピークに乗った。カメラをズームにすると、「オカメノゾキ」からの急坂の様子が良く見えた。
ここで栄養補給。スティック型の黒糖わらび。時間に追われている中、このような食品は助かると改めて思った。
1,442mピークを後にし、少し進んで次の小高いピークに乗ると、明日「越後駒ヶ岳」登頂後に下る事になる「グシガハナ」から水無川渓谷に至る急な稜線が見えた。『明日も大変だ...』と独り言ちた。
この先、登山道は切れ落ちた岩場になった。どうやって下ろうか、と思いながら地面を見つめるとクサリ場になっていた。『助かった!』と思い、鎖をしっかりと掴みながら岩場を下った。
岩場を下り切り見上げると、結構な難所だった。
15:04、岩場を背に少し進み、「荒山」(1,344m)を通過。この山は三等三角点峰だが、時間が無かったため、三角点標石探しはせずに、先に進んだ。
「荒山」から先は、しばらく、なだらかなアップダウンを繰り返す稜線を進んだ。
途中、振り返って「五龍岳」から、「入道岳」、八ッ峰、「薬師岳」へと連なる稜線を眺めた。良い眺めだった。
そして、南に目を向けると、黒又沢の先に「中ノ岳」登山口のある十字峡の施設が見えた。
先に進んだ。
登山道は切れ落ち、クサリ場になっていた。
鎖を使って鞍部に下り、北側の「中ノ岳」~「越後駒ヶ岳」間の檜廊下付近下の斜面を見ると、中腹にトンネルのようなものが見えた。『まさか、あんなところに人工物があるわけない』と思いカメラをズームすると、沢水が雪渓をくり抜いた“天然トンネル”だった。沢水は白糸のように流れ落ち、地理院地図を見ると、この先で関門ノ滝に向かうようだった。
先に進んだ。
まもなく鋭角の岩山が現れた。手元の地図の等高線からは読み取れない形状のピークだった。
草や灌木に覆われた登山道を一旦下り、鞍部から右(南)に巻いて進んだ。斜面は灌木に覆われていたため、岩場に延び斜めになっている登山道でも不安無く進めた。
突き当たると、岩が露出しクサリ場になっていた。端に垂れていた太い鎖を掴み、しっかりと握って登攀した。
2分ほど進むと岩場が終わり、登山道は土場になった。鎖やロープは見当たらなかったので、滑らぬよう、一歩一歩ゆっくりと進んだ。
15:53、“鋭角岩山”の登攀を終え前方を見ると、「中ノ岳」山頂は隠れ、手前の「御月山(1,821m、九合目)がピークとなって見えた。
“鋭角岩山”の先は、鞍部へ。途中南側に突き出た岩塊から沢に残る万年雪を見下ろした。
登山道は尾根の肩になり、すぐまた鞍部に下った。途中、左(北)側が崩落している箇所があった。
そして、ここから北に「グシガハナ」から水無川に“傾斜角45度”と思えるような急坂の側面を見る事ができた。『明日の下山は、間違いなく過酷になる』と覚悟した。
16:12、想像以上のアップダウンを繰り返し、ようやく「オカメノゾキ」の直前に到着。
さっそく鞍部である「オカメノゾキ」(最低コル1,250m)に下りた。
両側は切れ落ちていたが、斜面が灌木に覆われていたため、さほど高度感と恐怖は感じなかった。
1,250mから「中ノ岳」(2.085m)に向かって約800mの強烈な登坂となる、「オカメノゾキ」からの登り返しを開始。
まずは、上方に見える「出雲先」(1,528m)を目指した。
ここで『日没まで「オカメノゾキ」は越え「出雲先」までは行けそうだが、その先は日暮れて暗闇の中を登り進む事になるだろう』と覚悟した。そして、避難小屋到着は確実に夜になるが、遭難を避けるため、できるだけ明るいうちに距離を稼ごうと急いだ。
「オカメノゾキ」の登坂はナイフエッジの岩場、と覚悟していたが、思いのほか平坦で、足場もしっかりしていて不安と恐怖は感じなかった。
ただ鋭角の最低コルということで、時折、南から北に抜ける強い風が起こった。先を急ぎたい焦る気持ちを抑え、風の具合を確認しながら、慎重に岩場を乗り越えていった。
16:25、この「オカメノゾキ」区間で、両側が最も切れ落ちた箇所を通過。幅が1m強あったため危険は感じなかったが、強風時と残雪期は恐ろしい場所だと思った。
岩場は続いた。浅い鞍部や肩があったが、基本は登り基調の登坂だった。
16:32、切れ落ちた裸岩の登坂を終えた。前方には緑が目立つようになり、「出雲先」もだいぶ近づいて見えた。
振り返って「八海山」方面を眺めた。
「五龍岳」を出て約3時間。“越後三山”の最難所「オカメノゾキ」の岩場を越えたようで、ひとまず安心した。
南側を見下ろすと黒又沢の支流の沢に雪渓が載っていた。
地理院地図を見ると、この雪渓がほぼ正確に記載されていて、今日見られた雪渓の大半も同じように正確に載っていて、国土地理院の仕事に感動を覚えた。*下図出処:国土交通省 国土地理院「地理院地図」URL: https://maps.gsi.go.jp/ *筆者にて一部、文字や線形を記入
北に目を転じ、小出地区に向かってカメラをズームにすると、小出駅の只見線のホームは空だった。17時24分に到着する会津若松からの列車は、どれほどの客を乗せて到着するのだろうかと思った。
先に進む。
「出雲先」を見上げながら岩場を登り、どんどんと緑が多くなる登山道を進んだ。
16:54、岩場を登りきると、左上方に九合目となる「御月山」(1,821m)が見えた。但し、この時「御月山」の手前にある垂直の斜面には気を留めなかった...。
この先、登山道は薄い籔に覆われ、鞍部に続いた。
登り返しも、登山道は夏草に覆われていたが、踏み跡は明瞭で、灌木に歩行空間も延びていたため、道迷いの心配は無かった。
また、急坂には鎖も垂れていた。
このクサリ場を越えてまもなく、前方の登山道が“広く”なった。刈払いされているようだった。急坂だったが、“人の存在”を感じられたことで力が湧き、スイスイと登り進む事ができた。
しばらく進むと、日陰や斜面を巻いている箇所となり、刈払いはされていなかった。ただ、夏草の丈は低く問題はなかった。刈払い作業は、効率を考えて進められたのだろうと思った。
17:25、再び刈払いされた急坂を登り進むと、前方が開け「出雲先」の平場になった。ここで完全に「オカメノゾキ」登攀は終わり、日没前に越えられた事でだいぶ気が楽になった。
この平場を地理院地図で確認すると、厳密には「出雲先」(1,528m)から東へ150mほど離れた場所だった。大きな岩の前に、“八合目”と彫られた標石が置かれていた。
「出雲先」の平場からは、刈払いされた登山路の先に「御月山」が見えた。日没までできるだけ進もうと思い、八合目を後にした。
刈払いされた登山道を登り進んだ。ただ、傾斜はどんどんと増し、スピードは徐々に落ちた。
切れ落ちた場所では枝打ちもされていて、登山道の安全は確保されていたが、なんせ急で、枯れた笹でたまに足を滑らせ、想像以上に体力と気力を消耗した。
17:51、尾根の肩に乗ると、前方が茜色を帯び、自分の影が登山道に落ちた。
振り返ると、「入道岳」「五龍岳」から「阿寺山」に至る稜線上に陽が落ちる所だった。良い眺めで、少し元気が出た。
登山計画時は『夕陽は「中ノ岳」山頂で見られるかも』と想定していたが、ここで見る事になることになってしまった。
まもなく日が暮れてしまう、と先を急いだ。たが、再びの急坂でガクッと登坂スピードが落ちた。
10歩進んでは休憩を入れるほどの急坂が続いた。暗さが増したところで振り返ると、西の空に茜色の層が見えた。
18:10、暗闇が濃くなり、ヘッドライトを装着し点けた。ただ、刈払いされているお陰で登山道から外れることはなかった。
18:24、完全に陽が落ち、「御月山」は暗闇に稜線を浮かび上がらせるようになった。
振り返ると、小出市街地には灯りが見えた。
急坂が終わり、平坦な場所を進むと、前方に垂直に切り立つ影が見え、近づくと裸岩に鎖が垂れていた。この終盤、しかも暗闇の中で岩山の登攀があるとは思っておらず一瞬気落ちした。
思い返せば、八合目手前で「御月山」手前の垂直斜面が見えたが、この場所のようだった。切り立つ斜面を見上げ、『進むしかないっ!』と気合を入れ鎖を掴んで垂直の岩場を登攀した。
18:41、登攀を終えると平場になり、少し進むと“九合目”と彫られた標石が倒れていた。「御月山」に着いたようだった。
18:55、「御月山」から先は岩がゴロゴロした緩やかな下り坂となり、鞍部となる祓川の水場に到着した。夏場は涸れているという情報通り、沢を少し上流側に移動しても、浅い水たまりがある程度だった。
給水をあきらめようかと思ったが、「中ノ岳」の避難小屋で雨水を煮沸する手間を考えると、ここで飲み水を得るのが最善と思い、さらに上流に行くと水流があり、その先に給水可能な水たまりがあった。飲んでみると、冷えておいしく、不純物の混入も感じられなかった。そこで、水たまりにペットボトルを入れ、3Lほど給水した。
給水後、登山を再開。
沢をかなり上ってきたこともあり、横着し少し引き返して沢の右岸に上がり登山道に合流しようとしてしまった。
...しかし、なかなか登山道は見当らずササ藪の中を右往左往。暗闇の中、ササに着いた夜露に全身を濡らし10分ほどさまようが登山道に合流することはできず、『ここで遭難かよ...』と思い一瞬気を落とすが、『GPSが電波を拾っているのであれば...』と端末を取り出すと、今までの“右往左往”が表示され、そして登山道の位置が判明した。さっそく、GPS端末片手に進むと登山道が見え合流することができた。
「オカメノゾキ」の手前から、GPS端末が電波ロスして正しい位置情報を示していなかったため使わずいたが、最初から見ていればこんな時間の無駄はせずに済んだのにと悔いた。*下図出処:GoogleMyMapsに今回のGPSデータをダウンロードした画像 *一部、別途文字入れ
19:40、“発見”した登山道から、祓川水場を背に登坂を再開。「八海山」から見えた「中之岳避難小屋」までのルートをイメージし、トボトボと登り進んだ。
息を切らしながら、両脇が刈払いされた登山道を登り進んでゆくと、“ドンドン”と音が聞こえた。振り返り麓を見渡すと、小出市街地方面から花火が打ちあがっていた。後で調べると堀之内地区で開かれた「十五夜まつり」のイベントのようだった。
背中に花火の音を聞きながら、急坂を登り続けた。両脇が幅広く刈払いされた登山道は、結局最後まで続き、道迷い無く安心して登り進むことができた。刈払いしてくれた管理者に、心底感謝しながら足を進めた。
20:58、『坂はまだまだ続くのかぁ..』と思いながら進むと、ヘッドライトの先に杭が見え、正面に回ると「八海山」と「越後駒ヶ岳」との分岐を示す案内板だった。
ということは避難小屋は近いっ‼と思い、右に進むと、すぐにヘッドライトは建物を浮かび上がらせた。屋根の形状が「八海山」から見えたものと同じで、ようやく「中之岳避難小屋」に到着したと思い、歓喜した。
前掲した「日本百名山」には、著者の「中ノ岳」から「八海山」までの縦走の様子が記されていて、到着が夜9時とあったが、私は「八海山」→「中ノ岳」縦走で目的地にほぼ同時刻に着く事になった。全く想定していなかった到着時刻だったが、この奇縁に少しばかり喜んでしまった。
25 魚沼駒ヶ岳(二〇〇三米)
(前略)中ノ岳から八海山までの縦走は、予想以上の厄介な道であった。痩せた岩尾根を急激に下ったり上ったりする。いったん八百米もグンと下って、それから八海山への登りも楽ではなかった。八海山は岩の連なりで、最初の二、三の岩峰は鎖に頼るほかなかった。その八ッ峰を終った時には夕方になり、麓の大崎口の社務所へ辿り着いたのは、夜の九時すぎであった。
*出処:「日本百名山」<新装版>(新潮社、p121)
「中之岳避難小屋」からは灯りも漏れておらず、人の気配も感じられず、入ると案の定無人で貸切状態にだった。
さっそく、汗と夜露で濡れた衣類を脱いで備え付けのハンガーにかけ着替えをして、「八海山」登頂と「中之岳避難小屋」到着の祝いの乾杯をした。氷で冷やしていた新潟限定のビール(風味爽快ニシテ)は、格別に旨かった。
夕食は、冷凍のまま持ってきた白米にチゲスープの素を入れて雑炊にした。腹にしみて、旨かった。
そして、空腹が満たされてから、「八海山」に登頂した多くの登山者に倣ってワンカップ「八海山」(八海山醸造㈱)を呑んだ。今まで何度か呑んだことのあるワンカップだったが、五臓六腑にしみわたる酔いは、別格だった。
しばらく「中之岳避難小屋」での宴を楽しみ、明日の「中ノ岳」「会津駒ヶ岳」登頂から、下山後の只見線乗車の過程を地図などを見ながら再確認した後、寝床を用意して就寝した。
(了)
・ ・ ・ ・ ・
*参考
*参考: ・福島県:只見線ポータルサイト
・NHK:新日本風土記「動画で見るニッポンみちしる~JR只見線」
・産経新聞:「【美しきにっぽん】幾山河 川霧を越えてゆく JR只見線」(2019年7月3日)
・東日本旅客鉄道株式会社:「只見線について」(PDF)(2013年5月22日)/「只見線(会津川口~只見間)の鉄道復旧に関する基本合意書及び覚書」の締結について(PDF)(2017年6月19日)
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URL:https://www.pref.fukushima.lg.jp/sec/16005g/kigyou-furusato-zei.html
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