会津美里町「向羽黒山城跡・会津本郷焼」 2018年 初秋

“東日本最大級”の山城と言われている「向羽黒山城跡」と国指定伝統工芸品である「会津本郷焼」の窯元を訪れるため、JR只見線を利用して会津美里町に向かった。

 

会津美里町は今年の4月以来の訪問になる。只見線の始点である会津若松から、3駅から6駅(会津本郷~新鶴)という至近距離にあり乗車時間は短いが、車窓から会津盆地の田園風景を楽しむ事ができる貴重な区間となっている。 また、会津本郷町と会津高田町、新鶴村が合併して誕生(2005年10月)した会津美里町は、“東北の雄”会津の成り立ちに欠かせない役割を果たしてきた。 

 

今日は、その中でも歴史的価値の高い国指定史跡「向羽黒山城跡」国指定伝統工芸品「会津本郷焼」の窯元群を訪ね、最後は“会津”の名の起源となる伊佐須美神社に参拝し、地酒「萬芳代」を手に入れるという旅程を組んだ。

「向羽黒山城跡」のある白鳳(三)山(観音山-羽黒山-岩崎山)は只見線の列車の車内から見る事ができ、旧会津本郷町の市街地と田んぼの中に盛り上がっているその様は目を引いている。

“向羽黒山”とは岩崎山の別称のようで、この一番高い岩崎山(408.8m)の頂上付近に鎌倉期から戦国期に会津を治めた葦名氏の16代・盛氏が築城(1561年)したと言われる「向羽黒山城」跡がある。ちなみに、会津若松城(鶴ヶ城、創建当時は黒川城)は葦名家7代・直盛の時代に築城(1384年)されている。 *参考:(一財)会津若松観光ビューロー「会津の歴史」

  

そして、葦名家の後、伊達政宗の一時統治後に会津を治めることになった蒲生氏郷が黒川城の改修に必要な瓦を播磨国(兵庫県)から招いた瓦工により製造させたのが「会津本郷焼」の始まりで、会津藩始祖・保科正之が本格化させたと言われている。当時、「向羽黒山城」は廃城となっていて、この山の斜面には登窯が築かれ、燃料となる赤松が植えられ、城跡の北側に「会津本郷焼」窯元群が形成されたようだ。

隣接しているが「向羽黒山城跡」と「会津本郷焼」窯元群は中世-戦国期と江戸泰平期でそれぞれ興った時期が違う。

 

 

今日はあまり時間が無かったが、会津若松市と並んで、“観光鉄道”只見線の歴史文化面に厚みを持たせている会津美里町の各地を駆け足で訪ねた。

*参考:

・福島県:只見線ポータルサイト

・東日本旅客鉄道株式会社:「只見線について」 (2013年5月22日)

・NHK:新日本風土記「動画で見るニッポンみちしる~JR只見線

・拙著:「次はいつ乗る?只見線」カテゴリ ー只見線沿線の“山”(登山/トレッキング)ー / ー只見線の秋

 

 


 

 

仕事を終え、一休みしてから郡山駅に向かう。上空には雲一つ無い青空が広がっていた。

 

駅頭で自転車を折り畳み、輪行バッグに入れ、改札を通り磐越西線の列車に乗り込む。

11:39、会津若松行きは多くの乗客を乗せて定刻に出発。

  

 

切符は「Wきっぷ」を利用。

私はまもなく眠った。昨夜は湖南町福良から戻ったのが25時頃で、仮眠に入ったのが26時を回っていた。睡眠不足は体に応えていた。

 

 

 

12:59、列車は会津若松に定刻に到着。一旦改札を抜け、買い物を済ませた後、切符を購入し再び改札を通る。連絡橋で只見線のホームに向かう。右手(東側)奥に見える「磐梯山」は頂上に雲を被っていた。

13:07、会津川口行きの列車は定刻に会津若松を出発。

 

 

下車予定の会津本郷までは210円。

 

 

七日町西若松を経て、阿賀川(大川)を渡った。

 

渡河後に左手(南側)を見ると、今日の第一の目的地である「向羽黒山城跡」が建つ白鳳(三)山の連なりが見えた(向かって左側が「岩崎山」(向羽黒山)、右側が「羽黒山」、その手前に見える稜線が「観音山」のもの)。


 

 

 

 

13:20、列車は会津本郷に到着。

 

ホームから右手、東側に目を遣ると「磐梯山」が見える。頂上の僅かな部分に雲が被ったままだった。

  

乗ってきた列車を見送る。右奥に見えるのが「明神ヶ岳」(1074m)。「会津総鎮守 伊佐須美神社」が遷宮したとも言われる山で、現在は“伊佐須美神社の奥の院(宮)”と言われ石祠がある。右に一部見えるのが北会津受水塔(会津若松市、29.2m・615㎥)。

 

 

会津本郷駅は無人駅で、待合室が大部分を占めるコンクリート製に建替えられている。私は駅頭で自転車を組み立て、出発した。

  

県道219号(会津本郷停車場上米塚)線を進むと、周辺の田んぼでは稲刈りが始まっていた。

  

大内宿(下郷町)へと続く日光街道に合流すると会津美里町に入る。実は、会津本郷駅は会津若松市(旧北会津村区域)に所在している。

 

市街地に入り瀬戸町通りを進んでゆくと、会津美里町観光協会「観光案内所」(本郷インフォメーションセンター)の前に「向羽黒山城跡」入口が現れた。“ドラえもん”は、先の連休(16-17日)に行われた本郷秋季祭礼で使われた山車。

 

 

「向羽黒山城跡」は、2001(平成13)年8月7日に国指定史跡(史跡名勝天然記念物)になった。

向羽黒山城跡
   史跡指定 平成13年8月7日 文部科学省告示第134号
   所在地 福島県大沼郡会津美里町字船場 他
   指定面積 505.746㎡
 向羽黒山城跡は永禄4年(1561年)、当時、黒川城(今の会津若松城の場所にあった葦名氏の本拠地)を本拠とし主に会津地域を支配していた葦名盛氏によって築城された城跡です。ここから上がっていく白鳳三山(観音山・羽黒山・岩崎山)の主に岩崎山の全域と羽黒山の一部に広がっています。
 城跡ではありますが、大坂城のように天守閣や大きな堀をを備えた城ではなく、武家の館のような城です。
 各種の古文献によると、葦名盛氏は家督を息子の盛興に譲り、隠居の城として向羽黒山城を築城したと記されています。そして天正3年(1575年)に盛興が亡くなったため盛氏は再び黒川城に戻り、向羽黒山城は廃城になったとされています。しかし、その後会津を支配した伊達氏や蒲生氏、上杉氏の時代にも城として機能していた可能性は十分に考えられ、城の設備がかなり厳重で、何らかの手を加えられているようです。
 また、向羽黒山城跡は規模・質ともに東北地方で屈指の城跡であり、保存状態も良いことから今後の発掘調査の実施などにより、東北の山城の特質や築城技術の特徴を解明するための有力な資料となるといっても過言ではありません。

 

そして、昨年4月には「続日本百名城」(日本城郭協会)に選ばれている。 *下記事出処:福島民報 2017年4月7日付け紙面より

  

案内板の脇には“東日本最大級山城”と書かれた城跡の想像図が掲げられていた。かの上杉謙信の居城であった春日山城(新潟県上越市)を凌ぐといわれるだけあって、山全体が“城”となっていて、戦国期の防御性の高い山城である事が伝わってきた。

 

国指定史跡「向羽黒山城跡」は白鳳山公園の一部になっていて、林道岩崎線が白鳳(三)山を貫いている。強い陽射しの下、気を入れ直し自転車のペダルを漕いだ。

  

 

13:45、「観音山」(285.5m)と「羽黒山」(344m)の中間地点、それぞれの山頂への遊歩道入口に到着し、「白鳳山公園案内図」を見た。「岩崎山」(408m)の頂上にある向羽黒山城の本丸(一曲輪)跡の展望所から只見線を走る列車を見る予定だ。列車が、会津高田〜会津本郷間を通過する14時05分までに到着しなければならない。

 

林道は私の小径自転車でも、シフトを調整すれば降りて押す事無く進める程の勾配だった。道に凹凸も無く、緑に包まれ気持ちよく進む事ができた。

 

 

13:58、山頂への遊歩道入口に到着。自転車を茂みの際に置き、駆け出した。

 

後で気づく事になるのだが、頂上(一曲輪)への最短路は、先ほど通り過ぎた二の丸(二曲輪)跡の駐車場前に入口があった。私は案内図をよく見る事なく、時間が無いのにも関わらず、わざわざ“長く険しい”「古城の道」を選択してしまった。

  

入口から傾斜のきつい石段が延々と続いた。

 

石段を登ると何度も開けた場所が現れ、その都度『着いたっ!』とぬか喜びさせれられてしまった。どうやら曲輪(郭)が段々に設けられているようで、山城に無知な私は何度も歓喜と失望を繰り返した。

 

さらに途中には巨大な堀切もあり、このアップダウンは寝不足の体には応えた。

  

 

あらん限りの力を振り絞り、登り続けると、ようやく完全に開けた平坦な場所に着いた。

  

 

14:04、「国指定史跡 向羽黒山城跡 一曲輪」に到着。

 

さっそく北側に設けられた展望所に向かう。

 

ベンチの前に立ち見下ろすと、素晴らしい光景が目に飛び込んできた。約6分間、山道を駆け足で登り続けた苦痛が一気に取り払われ、感動が身を包んだ。ここまでの景色とは思っていなかった事で、絶句し、見つめ続けた。

すると、左手、西側から微かに汽笛が聞こえた。私は、只見線の軌道の筋を目で追い、列車が走ってくるのを待った。

 

14:09、黄金に色づいた田園を列車が走ってきた。

 

只見線のキハ40形(東北地域本社色)は、やはり絵になると思った。

 

飯豊連峰から続く、越後山脈を背景に広がる会津盆地と田園。只見線の代表的な撮影地である蓋沼森林公園からの“蓋沼俯瞰”、“根岸俯瞰”に勝るとも劣らない美しい景観だと感じ入った。

 

 

ベンチのある展望所から右手(東)に移動すると、木々の間からは只見線の大川橋梁を見下ろす事もできた。

 

 

しばらく、景色を見てから改めて一曲輪(本丸)跡の周囲に目を遣ると、木が多く、しかも大半が細く年代が経っていないものであることに気付いた。巨木が取り囲んでいたのなら『歴史的価値があり止むを得ない』と思えたが、“会津”を一望できるであろう場所が細木で遮られ、眺望が損なわれている事を残念に思った。

  

南に目を向けると、会津若松市内の最高峰「大戸岳」(1415.9m)が、大川(阿賀川)と田んぼ越しに美しい稜線を見せていたが、こちらも松が視界を悪くしていた。

 

一曲輪(本丸)跡を取り囲む木の大半は赤松のようだった。これらが取り払われるのであれば、360度を見渡す事ができ、「向羽黒山城跡」は国内屈指の“眺望城跡”になるのではないか。

 

「向羽黒山城跡」は国指定史跡で木の伐採には制限があると思うが、当時「向羽黒山城」の姿に戻すのであれば、この限りではないのではないだろうか。「向羽黒山城跡」入口にあった“想像図”の一曲輪(本丸)は見張櫓が建てられて周囲を柵で覆われ、木は描かれていなかった(一曲輪(本丸)は実(ミ)城と呼ばれていた)。

この“想像図”通りならば、取り囲む赤松を取り払っても国指定史跡としても価値は失われないだろう。もともと現在植生している赤松は「会津本郷焼」窯用の薪であったと言われる事も考え合わせると、赤松伐採による眺望創出に無理はない。

そして、何より戦国期の山城の頂上に“見晴らし”を確保する事は、当時武士達が見た風景を現代の私が見られるという事でもある。さらに、平安期の高僧・徳一によって広められた仏教文化により花開いた“仏都・会津”、幕末の戊辰役・会津戦争で一か月に及ぶ激しい籠城戦が繰り広げられた鶴ヶ城、そして民を支え続けてきた広大な稲田など、会津の歴史と文化を一望できる「向羽黒山城跡」の観光面からの価値は高く、観光客が会津を俯瞰することで『あそこに行こう、ここに行きたい』などと観光の幅が広がり、回遊性と滞在時間の増加が期待できるのではないだろうか。

「向羽黒山城跡」の“眺望創出事業”は会津地方全体に利益をもたらす可能性がある。会津美里町が中心となり、会津若松市や福島県と協業し、是非挑んでもらいたい。

  

一曲輪跡でゆっくりと時間を過ごし、再び「古城の道」を通り、自転車のある場所まで戻った。この「古城の道」は勘違いで選択してしまったが、歩いて正解だった。山城の特徴を身をもって知る事ができたからだ。是非、多くの人に歩いてもらいたいと思った。

  

次は、二曲輪跡に向かった。入口には“熊出没注意”の看板があった。今日は公園整備の作業員が多く居たおかげで、私はこれを見てもあまり驚かなかった。観光客が増えれば、熊も白鳳山公園に近づく事はなくなるのではないだろうか。

 

二曲輪(二の丸)跡は広場と展望台があり、林道から急な石段が設けられていた。

 

広場は整備されていて、キレイだった。

 

二(の)曲輪跡は城主の居所となっていたようで、公園となっている平場の広さに納得した。

向羽黒山城 二の曲輪跡(二の丸)
国指定文化財
 向羽黒山城は東北の雄、葦名盛氏が永禄四年(1561)に着工し、同十一年に完成した軍事的にかたよった縄張りをもつ山城である。
 この二の曲輪は実質的には近世の本丸(城主の居所)にあたる所と考えられ、一の曲輪の嶮峻さに比べ、曲輪取りも広く、展望性に富んでいて、生活に必要な飲料水を確保している水の手曲輪も近くにあり、生活機能が重視されている。
 この平場上から礎石も発見されているので、それを用いた建造物などが存在したとも考えられている。
 大川の清流を眼下に、眺望絶佳のこの曲輪は四百余年前の盛氏の大きな夢を今に伝えている。
会津本郷町教育委員会

 

この案内板の横にある展望所から景色を眺める。会津若松市街地と背炙高原、その奥に磐梯山に続く山並みが見えた。

  

二(の)曲輪跡を後にして、「御茶屋場曲輪跡」に向かった。下り坂なので2分ほどで到着。東屋と松の木、“茶屋”に相応しい雰囲気だった。

 

この「御茶屋場曲輪跡」では毎年5月に「炎の郷・向羽黒山城跡ふれあい茶会」が行われ、今年は5月27日に行われたという。地元紙の記事でもその様子が報じられていた。 *下記事出処:福島民報 2018年5月28日付け紙面より

 

東屋の下にはこのような景色が広がっている。葦名家の殿様はこの景色を愛でながら茶をたしなんでいたという。

 

当時、政務と執り行っていたと言われる黒川城(現鶴ヶ城)と城下も一望できた。ここに茶屋を建て、茶や団子などが振る舞われれば、良い休憩所となるのではないだろうか。野趣味ある山城の中腹で、戦国期の殿様気分を味わいながら、茶をいつでも楽しめるというのは観光客への訴求力は高いと思った。

 

「向羽黒山城跡」の見学はここまでだったが、気になった事があった。トイレである。公園内にはトイレが意外と多くあったが、複数のクモの巣が張っていたり、薄暗い木立の中にあったりと、外観で使用を躊躇してしまうような雰囲気だった。

私の使ったこのトイレは、男性用はコンクリート製で、便座を見ると和式だった。場所を考えると水洗で無い事は仕方ないかもしれないが、我慢できるのならば遠慮したいというのが使用後の感想だ。

観光地のトイレは重要だ。女性や外国人はトイレの清潔感やホスピタリティーに敏感で、“使いたくないトイレ”で観光地の滞在時間が短くなるという話も聞く。ここは高地でトイレの改善・改修は大仕事だと思うが、集約する事でコストを抑え、使うのに抵抗を感じないトイレをこの公園に整備して欲しいと思った。

  

 

 

 

 

「向羽黒山城跡」を後にして、林道を快適に駆け下りた。

 

15:08、本郷インフォメーションセンターに到着。2階は会津本郷焼資料展示室となっている。隣りは会津本郷焼陶磁器会館で、1階に共販所「窯の美里いわたて」があった。

 

1階の入口には地酒の試飲器が設置されていた。地元の白井酒造店の「萬代芳」本醸造と会津若松の「末廣」の二種が一杯100円で提供されていた。

『なぜ若松の酒!?』と不思議に思った。「萬代芳」の純米酒か別銘柄の「風が吹く」を置けば...とは思ったが、コストの関係で無理だったのだろうか。飲みたかったが、私は自転車なので遠慮した。*追記:2018年12月10日 末廣酒造㈱は本社が若松(嘉永蔵)だが、1996(平成8)年に会津美里町宮里に博士蔵を稼働させたので、「末廣」も美里の地酒だったようだ。*参考:会津美里町「企業紹介・工業団地企業誘致促進」末廣酒造株式会社 博士蔵 URL: https://aizu-misato-company.com/company/suehiro/

   

 

「会津本郷焼」は東北最古の焼き物と言われ、関東以北で唯一陶器と磁器の両方を作っている窯場となっている。

陶器は瀬戸の陶工・水野源左衛門が、磁器は地元の佐藤伊兵衛が有田から技術を持ち帰り、それぞれ確立したという。二人はそれぞれ“陶祖”、“磁祖”と呼ばれ、町内の常勝寺の陶祖廟に祀られている。江戸時代に繁栄した「会津本郷焼」は、幕末の会津戦争や大正5年の大火などで壊滅的な打撃を受けるが、その都度立ち直り、規模は大きく縮小したものの地場産業して継承されてきたという。そして、この功績が認められ1993(平成5)年7月に国の伝統工芸品に指定された。

 

只見線沿線では「会津塗」(1975(昭和50)年)5月)に続く2件目の指定で、以後、「奥会津編み組細工」(2003(平成15)年9月)、「奥会津昭和からむし織」(2017(平成29)年11月)と続いた。 

毎年8月の第一日曜日には瀬戸町通りを中心に「会津本郷せと市」が開かれ、私も一度訪れている。

 

私は本郷インフォメーションセンターでガイドブック等を手に入れ、会津美里町観光協会「観光ポータルサイト」に記載されている窯元14軒の位置と外観を確認するために移動を開始した。*各窯元の「手びねり体験・絵付け体験・工房見学・販売」の区分は会津美里町観光協会「観光ポータルサイト」窯元(組合員)紹介から引用


「富三窯」(新町176)

磁器の窯元。椿の絵付けが有名。

[工房見学 ✖/販売 [手びねり体験 △(要予約)/絵付け体験 ✖]


 


「かやの窯」(川原町甲1099)

陶器・磁器の窯元。筆を重ね濃淡のある塗り方が特徴。

[工房見学 /販売[手びねり体験 ✖/絵付け体験 ✖]


 


「鳳山窯」(新町253-1)

陶器と磁器の窯元。山水画や季節の草花が絵付けされた品が多い。

[工房見学 /販売 ][手びねり体験 △(要予約)/絵付け体験 △(要予約)]


 


「樹ノ音工房」(瀬戸町3272-1 )

2001年に開窯した窯元。“しのぎ”と呼ばれる縦模様の品が目を引いた。

[工房見学 /販売 ][手びねり体験 〇/絵付け体験 〇]


 


「玉山窯」(瀬戸町甲3167)

大正期より続く窯元。白磁の急須や土瓶を主に生産してきたという。

[工房見学 △(要予約)/販売 ][手びねり体験 △(要予約)/絵付け体験 ✖]


 


 

 

街の中で用水路が目を引いた。

大川(阿賀川)から引かれているようで、この水流を利用し、磁器の原料となる大久保陶石を砕くための水車が、最盛期には13軒あったという。 *参考:会津美里町観光ポータルサイト「会津本郷と水車

 

 


「陶雅 陶楽」(瀬戸町3180)

白磁から陶器に転換した窯元。粘土にトルマリン鉱石を混ぜた品がある。

[工房見学 /販売 ][手びねり体験 △(要予約)/絵付け体験 ✖]


 


「草春窯」(瀬戸町甲3175)

白磁(磁器)に特化している窯元。妹が「草春窯」、兄が「工房 爽」を担う。

[工房見学 /販売 ][手びねり体験 △(要予約)/絵付け体験 △(要予約)]


 


「酔月窯」(瀬戸町3174)

会津藩士が開窯した磁器の窯元。“生活器”として実用性が高い品が多い。

[工房見学 △(要予約)/販売[手びねり体験 〇/絵付け体験 〇]


 


「陶房 彩里」(川原町甲1868-1)

2007年に開窯した陶器の窯元。小さな赤ベコが顔を出す品が目を引いた。

[工房見学 /販売 ][手びねり体験 〇/絵付け体験 〇]


 


「力窯」(川原町甲1881)

大正生まれの当主が営む窯元。エメラルドグリーンの釉を使った品が目を引いた。

[工房見学 △(要予約)/販売][手びねり体験 △(要予約)/絵付け体験 △(要予約)]


 


「錦宝窯」(北川原2345 )

伝統的な絵付け(染付)の品を作り続ける窯元。山水画や柿、椿、葡萄など多様な絵柄がある。

[工房見学 ✖/販売 [手びねり体験 ✖/絵付け体験 ✖]

*写真の建物の向かいに直販所があり、そちらが「錦宝窯」となっているようだった。

 



「閑山窯」(瀬戸町松原際2195)

創業280年余りの歴史ある窯元。作品の種類が多様で、青磁の品もある。

[工房見学 /販売 ][手びねり体験 〇/絵付け体験 ✖]


 


「流紋焼」(川原町1933)

電線架線に用いられる碍子の工場を起源に持つ磁器の窯元。“流し釉”により独特の紋様の品が特徴。

[工房見学 /販売 ][手びねり体験 〇/絵付け体験 〇]

 

 

ここでは、工房を見学させていただいた。直販所側は見学コースの終点となっていて、逆から見て回り、往復する事にした。

  

本来の入口には、“流紋焼の特徴と工程”という大きな案内板があった。

 

「会津本郷焼」の磁器の原料である大久保陶石。採掘場は向羽黒山(岩崎山)の南西の麓にある。

 

工房の入口にはこの大久保陶石が積まれていた。

 

この大久保陶石をクラッシャー(砕石機)で粉状にすることから工程が始まる。

 

砕かれた陶石(陶石粉)が箱に吐き出される。粒は意外に粗い。陶石粉は水を加え攪拌され、脱鉄機で鉄分を取り除き、板状に成形された粘土となる。

  

その後、専用の機械(真空土練機)で円筒形に再変形。

 

そして、この円筒を切り分け、各製品の製造工程に移ってゆく。

 

成形の工程では、轆轤を回し仕上げを行う職人の姿が見られた。

 

成形し乾燥させた器は低温(800~1000℃で)素焼きされる。ここではガス窯が使われていた。

 

素焼きされた器に釉が塗られ(施釉)、高温(1300℃)で本焼き(焼成)となる。この後、窯出しされて完成となるが、上絵付けを経て完成となる品もある。

 

 

私は工房見学の後、直販所を見て回り、酒器を二点購入した。その際、店の方と話をしたのだが、ここで初めて“碍子”の話を聞き、「流紋焼」が30名ほどの従業員を抱える最大の窯元である理由を知った。「流紋焼」では低圧用の碍子を製作し、近隣にある二つの会社の工場が高圧用の他多様な碍子を製造しているのだという。

磁器という生活品であり美術品が、電力供給の一部までをも担い、それが只見線沿線で作られている事実を知り、驚くとともに納得した。只見線と交わりながら流れる只見川は国内有数の水力発電の供給地で、沿線に電力関連産業が発展する理由があると思ったからだ。

「会津本郷焼」の窯元で碍子が作られている事実は、「向羽黒山城跡」からの眺望とともに、今回の旅の大きな発見となった。

*参考:近隣の碍子製造会社(工場)

那須電機鉄工株式会社(東京都新宿区、1929(昭和4)年設立)

会津工場(会津美里町字川原町甲1933、1945(昭和20)年設置):総合的な絶縁物製作工場

会津碍子株式会社(会津若松市北会津町上米塚889、1952(昭和27)年設立):「高圧中実がいし」「引下線把持がいし」等を製造

 

 


「宗像窯」(本郷上甲3115)

筑前(現福岡県)の宗像大社の布教師を先祖に持つ陶器の窯元。万国博覧会(1958年、ブリュッセル)でグランプリを受賞した「にしん鉢」は有名。

[工房見学 /販売][手びねり体験 ✖/絵付け体験 ✖]

 

この「宗像窯」には、江戸中期に造られ、東北最古と言われる「登窯」(会津美里指定文化財)がある。

 

場所は工房から離れていて、通りの突き当りにある常勝寺前を左折し、お地蔵公園前の細い道を上ってゆくことになる。

  

「登窯」は巨大な建屋で覆われていた。

 

中を覗くと、斜面にそって窯が造られているのがはっきり分かった。「登窯」は見学可能だが、直販所が休業(毎週水曜日)していたので、私は見学を断念した。

 

 

この「登窯」は2011年3月11日の東日本大震災で被害を受け激しく損傷したが、福島県棚倉町出身の大塚孝義氏が中心となり「登り窯再生プロジェクト」を立ち上げ、2013年4月に最新の技術で修復工事を終え復活したという。戊辰役・会津戦争の戦火から免れ、未曽有の震災での“大ケガ”を人智を集結し完治させたこの「登窯」は一見の価値がある。次回は必ず見学したいと思う。

登窯(のぼりがま)
 会津本郷焼は会津藩主保科正之公が瀬戸の陶工水野源左衛門を招き。本郷村に窯を築かせ、城内の用度品や茶碗・水指等の日用品を焼かせたのが始まりです。以来三百五十余年、幾多の変遷を重ね今日に至っております。
 陶磁器の製法も時代と共に改良され「窯」も、松樹を燃焼させる「登窯」が長く続きました。しかし、時代の変遷により、石炭窯・石油窯・重油窯・ガス窯が導入されると、「登窯」はその姿をほとんど消してしまいました。
 観音山麓に位置する宗像窯の「登窯」は全長約二十m、幅約五m、窯内七室を有し、壮大な景観は会津本郷焼のシンボルであります。
 この窯が築かれたのは江戸中期頃と推定され現在町内で稼働している唯一の登窯です。
 会津本郷焼の歴史を伝える貴重な文化財ということができます。
会津美里町教育委員会

  

 

「会津本郷焼」窯元を一通り見て回った。会津美里町観光ポータルサイトには以上の14窯元が記載されていたが、これは碍子製造会社2社を除く会津本郷焼事業協同組合加盟窯元である。ただし、本郷インフォメーションセンターで手に入れた「会津美里町本郷エリアまちあるきマップ」(PDF)には、上記「宗像窯」から独立した「宗像眞弓(窯)」(川原町北甲1773-17)と碧色が特徴の「雅千堂」(川原町北甲1765-1)が記載されている。

 

このように『会津本郷焼の窯元はいったい何軒あり、それぞれどのような特徴があるの?』という観光客の疑問に答えられる媒体(ネット、紙)が、私の調べでは発見されなかった。

 

東北最古の窯元群関東以北唯一の磁器窯元群全国でも珍しい陶器と磁器の混成窯元群瀬戸と有田の流れをくむ陶器と磁器のまち、など国内外を問わず多くの観光客を惹きつける特徴を持ちながら、それに比例するような観光客の誘客策を施していないという印象を受けた。組合の協力は欠かせないが、会津本郷地区にある窯元が協業し、まちに一定の一体感を持たせる事が、観光客を惹きつけ、情報の拡散で販路・販売量の拡大につながり、会津本郷焼に関わる人々の利益になるのではないかと思う。会津美里町が中心となり、まち共有の歴史財・観光資源である「会津本郷焼」の可能性を広げて欲しいと思う。

 

今回は見て回るだけとなったが、次回は時間をとって、手びねりや絵付けの体験をしたいと思った。

 

 

会津本郷地区を後にして会津高田地区にある伊佐須美神社に向かった。途中、只見線の列車の通過時刻が近いため、鉄道風景写真を撮ろうと寄り道をした。

 

県道130号(会津高田会津本郷)線を横切り、農道に入りまもなく左折し、線路を右手に見ながら自転車を走らせる。振り返ると、向羽黒山城跡の山並みが西日を浴びて黄金色に輝く稲穂越しに見えた。

 

荒井ライスセンター手前を右折し、松崎踏切手前に撮影場所を決める。黄金穂越しに磐梯山と北会津受水塔(29.2m)が見える、良いアングルだと思った。会津若松行き上り列車の通過を待った。

  

16:59、レールを滑る乾いた音が聞こえ、背後から列車が通り過ぎようとしていた。列車が液晶画面の真ん中に入る時にシャッターを押そうと思ったが、何と列車が木立に隠れてしまった。確認不足だった。その木立には気づいていたが、列車はその前を通ると勝手に思ってしまっていた。思わず苦笑い。鉄道風景写真の難しさを、また一つ学んだ。

 

気を取り直して、今度は約15分後にやってくる会津川口行きの下り列車を撮ろうと、移動を開始。ほぼ正面に西日を受けながら農道を進んだ。

  

移動すること2km。宮木浄化センターの側にある後庵(ゴアン)踏切手前に場所を決める。レール周辺に立木などが無い事を確認。  

17:16、会津本郷駅で汽笛を鳴らした列車がやってきた。シャッターを切る。「磐梯山」と列車の位置が難しかったが、無事撮れた。

 

続いて後ろから列車を撮った。飯豊連峰の一部が入り込む構図となった。

 

そして、西部山麓を背景に西陽を浴びながら進む様子を写した。構図と日光の入り具合など、鉄道風景写真は気遣う項目が多いと実感した。

  

陽が山影に隠れ、辺りは徐々に明るさを失っていった。伊佐須美神社に向かい、自転車のスピードを上げた。

  

 

 

17:30、伊佐須美神社に到着。今年の春以来、二度目だ。

 

自転車を駐車場の隅に置き、赤鳥居を潜り、桜門に入って行く。高さ約14mの二重門に圧倒された。

この桜門に比べ、この先にある拝所は小さい。伊佐須美神社は2008(平成20)年に火災に見舞われ、本殿・神楽殿・神饌所が焼失してしまったため仮社殿がおかれて拝所となっているためだ。

 

この拝所の前に、白い猫が居た。縁起の良さを感じた。

 

毛並みの良く、上品さがあった。ここに住み着いているのだろうか。だが、この猫は私が賽銭箱の前に進もうとすると、仮社殿の床下に消えてしまった。

私は拝所の中心に立ち、心を鎮め、祈った。

  

 

お参りを終え、伊佐須美神社を後にすると、「萬代芳」の酒蔵である白井酒造店に向かった。

 

17:50、国道401号線と県道330号(大内会津高田)線の交差点の南にある合資会社白井酒造店に到着。大きな看板が無く、少し迷ったが、蔵と思われる場所に積まれた酒のケースと“ふくしま酒蔵めぐり スタンプラリー2018”の幟で間違いないと確信した。 *参考:福島県南酒販(株) 「新・酒蔵探訪」34(2014年11月)合資会社白井酒造店 / 福島県観光交流局観光交流課 URL: https://www.fukushima-sakagura.jp/

  

白井酒造店の主たる銘柄は「萬代芳(バンダイホウ)」。蔵に売店が併設されているか分からなかったが、夕方5時を回り、あっても閉まっているだろうと思い、この酒を入手するために近くの大手のコンビニに移動。

やはり地酒。酒コーナーの最上部に並べられていた「萬代芳」の普通酒(本醸造)と純米酒を手に入れた。帰宅後の楽しみができた。

  

白井酒造店で、今日の活動は終了。当初は、新鶴地区にある地産ワインを作ろうとしている「会津コシェル」を訪ね、新鶴駅前にある「肉の丸長本店」で夕食を摂ろうと思ったが、時間が無く、断念した。 

予定を変更し、会津高田駅に向かい、駅前にある「喜楽屋 神龍」に入った。ラーメンと定食がメインの料理店だった。

 

まずは、春巻き餃子とビールを注文。春巻きのパリパリ食感とあんのボリューム感が味わえる逸品だった。

 

次は名物のホルモン焼。ホルモンの歯ごたえを残した何とも言えない柔らかさに驚いた。濃厚な味噌だれとの相性は良く、御飯が欲しくなった(定食もある)。

 

このホルモンを塩で味付けしたのであれば、日本酒に合うのではないかと思った。次の機会、地酒「萬代芳」と一緒に食べてみたい。

締めにラーメンを食べ、「喜楽屋 神龍」を後にした。

   

自転車を押して駅に向かい、輪行バッグに入れた後に待合室で列車を待った。 

20:38、会津若松行きの最終列車が入線し、乗り込んだ。

    

20:58、列車は会津本郷西若松七日町を経て、会津若松に到着。短い只見線の乗車が終わり、磐越西線の郡山行きに乗換えた。

  

  

22:13、定刻に郡山に到着。水曜日の夜ということだろうか、駅前周辺の人通りは多くはなかった。

   

只見線を利用した、会津本郷地区を中心とする会津美里町の旅が無事に終わった。

 

今回、訪ねる事はできなかったが、会津高田地区は徳川三代を政治的・宗教的に支えたと言われる天海大僧正(慈眼大師)の生誕の地で、ゆかりの地が数多くある。

 

只見線で会津美里町を訪れる場合は、会津本郷駅か新鶴駅から自転車で各地を巡り、再び只見線に乗って帰るという旅程がお勧めだ。会津美里町は平坦な場所が多く、会津平野に広がる田園を見ながら自転車に乗られるからだ。

 

しかし現在、駅にレンタルサイクルは置かれていない。会津美里町には只見線の利活用事業に一つとして、レンタルサイクルを駅に設置して欲しい思う。機種はお洒落な小径型やロードバイクが理想で、いわゆる“ママチャリ”は避けた方が良い。非日常を楽しみに来ている観光客に、日常を思わせる“ママチャリ”は適さないと思うからだ。

貸出方法はワンウェイ可として、例えば会津本郷駅で借りて、新鶴駅で返すという乗捨ても可能とすれば、観光客の旅の幅も広がる。貸出管理はスマホで、施錠もスマートロックにすれば人手も省ける。盗難防止はIPカメラやGPSである程度はカバーできると思われる。

会津美里町も只見線の復旧費用と運営費用を搬出する。県立高校生の利用で町内区間が大赤字ではないとは言え、“観光鉄道”に生まれ変わろうとしている只見線を活用し、町内へ観光客を誘客し、点在する魅力的な観光資源に多くの方々がアクセスし、経済効果をもたらすようにして欲しい。その一つの策として、新たなレンタルサイクル事業を検討して欲しいと思う。

  

  

帰宅後に地酒「萬代芳」を頂くことにした。常温でそれぞれ2杯ずつ呑んだ。


盃は「流紋窯」で手に入れた、お猪口とぐい吞みを使った。

 

まずは、普通酒(本醸造)を頂く。甘口だが、まろやかで香りも良い。そして純米酒。さっぱりしているが、その味を邪魔しないまろやかさと香りが感じられた。透明な液体で、これほどの差が出る日本酒には、未知の銘柄を口にする度感心・感動してしまった。

 

白井酒造店「萬代芳」の普通酒と純米酒は地元産の五百万石米と“神峰”「明神ヶ岳」の伏流水で仕込まれているという。この日本酒が、近いうちに世に出る「新鶴産ワイン」と共に、只見線の観光列車内で振る舞われることを期待したい。それまでは、多くの方に会津高田駅や会津本郷駅で下車して、「萬代芳」を楽しんで欲しいと思った。


 

(了)

 

 

・ ・ ・ ・ ・ ・

*参考:

・福島県 生活環境部 只見線再開準備室: 「只見線の復旧・復興に関する取組みについて

・東日本旅客鉄道株式会社:「只見線(会津川口~只見間)の鉄道復旧に関する基本合意書及び覚書」の締結について(PDF)(2017年6月19日) 

 

【只見線への寄付案内】

福島県はJR只見線全線復旧後の「上下分離」経営での維持費や集客・地域振興策の実施費用として寄付を募集中(クレジット可)。

①福島県ホームページ:只見線復旧復興基金寄附金・只見線応援団加入申し込みの方法 *現在は只見線ポータルサイト「只見線応援団」URL:https://tadami-line.jp/support/

 

②福島県:企業版ふるさと納税

URL:https://www.pref.fukushima.lg.jp/sec/16005g/kigyou-furusato-zei.html

[寄付金の使途]

(引用)寄附金は、只見線を活用した体験型ツアーや周遊ルートの整備、只見線関連コンテンツの充実化等に活用させていただきます。 沿線地域における日本一の秘境路線と言われる観光資源を活用し、更なる利用者の拡大と認知度向上を図ります。

  

以上、よろしくお願い申し上げます。

次はいつ乗る? 只見線

東日本大震災が発生した2011年の「平成23年7月新潟福島豪雨」被害で一部不通となっていたJR只見線は、会津川口~只見間を上下分離(官有民営)とし、2022年10月1日(土)に、約11年2か月振りに復旧(全線運転再開)しました。 このブログでは、“観光鉄道「山の只見線」”を目指す、只見線の車窓からの風景や沿線の見どころを中心に、乗車記や「会津百名山」山行記、利活事業に対する私見等を掲載します。

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