三島町「第7回 沼田街道トレッキング」 2022年 紅葉

三島町観光協会などの主催で開かれる「第7回 沼田街道トレッキング」に参加するため、JR只見線の列車に乗って滝谷駅に向かった。


「沼田街道トレッキング」は只見線の滝谷駅を出発し、旧沼田街道の滝谷宿(現在の三島町滝谷地区)の史跡などを巡る。今回は「江戸時代の沼田街道トレッキング(滝谷駅から会津宮下駅まで)」という名で、滝谷地区から先は旧沼田街道を歩き只見線の会津宮下駅に向かう内容だった。*下図出処:三島町観光協会「「第7回沼田街道トレッキング」参加者募集」

このイベントは2017年9月に開催された「~滝谷のお宝巡り~ 風穴体験と史跡見学モニターツアー」が初回のようで、以来名称やコースを変更してきたようだ。今回と同じようなコースになったのは2019年で、只見線利活用促進企画として只見線乗車(会津宮下→滝谷)が組み込まれた。*参考:三島町交流センター「山びこ」ゆるいばた「~滝谷のお宝巡り~ 風穴体験と史跡見学モニターツアー」(2017年9月6日) / 下図出処]:三島町観光協会「滝谷宿お宝巡りウォーキング参加者募集」(2018年10月31日)

 

 

「沼田街道」について。

「沼田街道」は(会津)若松城下と上州(群馬県)沼田城下を繋ぐ街道だが、江戸時代は「伊北(イホウ)街道」(気多宮(塔寺)~只見)、「伊北越後街道」(只見~小林~山口(南郷))、「(上州)沼田街道」(山口(南郷)~檜枝岐~(尾瀬)~沼田)という3本の街道だったという。三島町滝谷地区は、この「伊北街道」の宿駅(滝谷宿)として、賑わったという。*参考:東北「道の駅」公式サイト -まいにち・みちこ- 「第35回 沼田街道(上)気多宮から只見」 

 

その後明治になり、“会津三方道路”を拓いた三島通庸が着任する前年(1881(明治14)年)に、伊北・伊北越後・沼田の3街道は県道に昇格し、「沼田街道」に一本化した。*下図出処:福島県 南会津建設事務所「南会津の街道」 URL: https://www.pref.fukushima.lg.jp/uploaded/attachment/69583.pdf


 

しかし、1891(明治24)年に、旧伊北街道の駒啼瀬越えを回避する川井新道が開通するに至り、「沼田街道」は滝谷宿を通過することがなくなり、“急速に疲弊した”という。*出処:文化庁「歴史文化基本構想について」 「三島町歴史文化基本構想」(平成23年3月) URL: https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/rekishibunka/pdf/mishima.pdf

「三島町歴史文化基本構想」(平成23年3月) p81より引用
滝谷村は若松から伊南・伊北へ通じる沼田街道の宿駅として繁栄した。駅内の構造は外部からの進入を遮断できるつくりで、巡見使や幕府高官の休泊地として多く利用されたが、明治 24 年以降は、沼田街道開修による路線の換線により交通が遮断され、急速に疲弊した。代わりに国鉄会津線を通す計画を進めたが、駒啼瀬峠がネックで実現出来なかった。


ちなみに先週トレッキングをした「美女峠」を持つ(会津)銀山街道は、この伊北街道のバイパス路になるが、「沼田街道」が県道に昇格し馬車運行が可能になると、(会津)銀山街道の往来は一気に少なくなり、その歴史的役目を終えたという。



今回の、「第7回 江戸時代の沼田街道トレッキング」は只見線を利用した参加者に配慮したスケジュールになっているため、郡山市から日帰りで参加することができた。


天気予報は晴れで、三島町は紅葉の見頃が未だ続いているということで、景色を楽しみながら江戸期の主要街道を歩けることに期待し、現地に向かった。

*参考:

・福島県・東日本旅客鉄道株式会社 仙台支社:「只見線全線運転再開について」(PDF)(2022年5月18日)

・東日本旅客鉄道株式会社:「只見線について」(PDF)(2013年5月22日)

・福島県:只見線ポータルサイト

・拙著:「次はいつ乗る?只見線」カテゴリ -只見線沿線の“山”(登山/トレッキング)- / -只見線の秋-

 

 


 

 

今朝、磐越西線の始発列車に乗るために郡山駅に向かった。

 

駅舎に入り、改札を通り1番線に停車中の列車に乗り込んだ。

 

5:55、会津若松行きの始発列車が発車。今夜は会津若松市内に泊まるため、Wきっぷを使った。

 

 

沼上トンネルで中山峠を越えて会津地方に入る。青空は続いていたが、猪苗代が近付くと地表に霧が大量に発生し、「磐梯山」は隠れて見えなくなってしまった。

 

 

7:11、会津若松に到着。改札脇には「ぽぽべぇ」のパネルが立っていた。JR東日本の“会津若松エリアプロジェクトのオリジナルキャラクター”だが、今週月曜日の地元紙にその話題が掲載されていた。

誕生日は会津若松駅開業日と同じで、『会津エリアのみりょくを広めるためモォ~れつにがんばっている』という。この袴姿の「ぽぽべぇ」は、会津らしくて私は気に入っている。是非キャラクターグッズを企画・販売して欲しいと思っている。*上掲記事:福島民報 2022年10月31日付け紙面

 

 

改札を抜け買い物をしてから、只見線のホームに移動。4番5番ホームには、既に20名近い客が待っていた。

私は、ホームにいたJR職員に“3両編成で入線する”と聞いたので、誰も居ない停車位置でしばらく待った。

 

7:23、列車が入線し、最後尾の3両目が私の前で停車した。今までこの列車は会津川口駅行きだったが、福島県など地元の“増車・増便”要望を受けたJR東日本が、一昨日の11月3日から13日までの祝日と土日の5日間に行き先を只見駅まで延伸し、運転再開区間(会津川口~只見)を走行するようになった。さらに、混雑を緩和させるために2両から3両編成にした。*下掲記事:福島民報 2022年11月3日付け紙面


そして、来週にはこの列車が小出行きに接続できるように、只見~小出間で増車されることになっている。会津若松~只見間がJR東日本㈱東北本部、只見~小出間がJR東日本㈱新潟支社のそれぞれ管轄ということで、このように分かれた対応にはなったが、JR東日本としては地元の“増車・増便”要望に対して、可能な範囲で素早く対応してくれた。民間企業の対応力までゆかなくとも、福島県などの行政機関も只見線を利用する乗客の満足度を高める対応をして欲しいと思う。

 

電光掲示板にも“普通 7:41 只見”と表示され、特別な対応による稀有な表示に、見入ってしまった。この只見行きの列車は、キハ110+キハE120+キハE120という編成だった。

 

3号車に席を確保し、連絡橋に上った。駅は濃い霧の中にあるようで、周囲の山々は全く見えなかった。

 

席に戻ると、車内の客の数はほとんど変わっていなかった。

 

会津若松からの切符は、滝谷までの往復で購入した。片道770円になる。

7:41、只見行きの列車が会津若松を出発。1号車に21人、2号車に20人、そして私乗る3号車は8人の乗客だった。

 

 

 

列車は、七日町西若松を経て大川(阿賀川)を渡った。霧は一層濃くなり、何も見えなかった。

 

会津本郷を出発直後に会津若松市から会津美里町に入り、列車は濃霧の会津平野を駆けた。

 

会津高田を出ると、“右大カーブ”で進路が西から真北に変わった。

 

会津平野一面に広がる刈田は、すっぽりと濃霧に覆われていた。

 

 

列車は根岸新鶴を経て、会津坂下町に入り若宮を出て、すれ違いのため上り列車が待機する会津坂下に停車した。上り列車は、キハ110形の単行だった。


 

会津坂下を出ると、一旦車内が静かになった後に、列車はディーゼルエンジンを蒸かし七折峠に向かって登坂を始めた。

 

峠の中の塔寺を出ると、徐々に周囲の霧は薄くなり、上空には青空も見えてきた。会津盆地が霧で覆われ、七折峠を境に奥会津地域が晴れるという特有の気象現象は、慣れてしまえばヤキモキしなくなる。

 

会津坂本を出て柳津町に入った列車は、会津柳津に停車。2名が降りて、4名が新たに乗車した。全線運転再開後、周辺に宿がある駅では客の乗降が増えているように見える。この状態が続いて欲しいと思った。

 

会津柳津出発直後に、柳津スキー場跡を眺めた。雲はまだ多かったが、まもなく見頃を迎える木々を陽光が照らしていた。

 

只見線は、10月1日の運転再開後に会津若松~只見間をワンマン化したが、この車両には運転手の他3名の乗務員の姿が見られた。その中の車掌と思われる方が『この列車が3両編成のため、会津柳津から先、会津宮下、会津川口、只見以外は3両目がホームからはみ出るため扉は開かない』と乗客一人一人に伝え回った。

 

 

郷戸の手前で“Myビューポイント”では、会津百名山86座「飯谷山」(783m)の山容が綺麗に見えた。

 

 

 

 

8:55、滝谷に到着。私の他1人が降り、身に着けているものから、トレッキングへの参加者だと思った。

 

駅舎の前には、既にスタッフや参加者が集まっていた。

 

さっそく、受付をされている方に名を告げて、参加費1,000円を渡して名札と袋に入った地図などの資料をいただいた。同じく列車を下りた方も、受付をされていた。

 

受付が終わると、「沼田街道トレッキング」の主催者団体の一つである「NPO法人まちづくりみしま」の代表・佐久間宗一さんからの挨拶と、“列車の通過時間があるので...”と簡単な注意事項の伝達があった。

その後、皆が駅頭のスペースに広がって、準備運動をした。

 

9:08、滝谷駅前を出発。まずは「滝谷川橋梁ビューポイント」に向かった。

県道32号(柳津昭和)線を横切り、山道を上った。ビューポイントは県道沿いではなく、山の中にあるようだった。

 

林道中野大峯線に入り、緩やかな坂を上って行くと、先頭が右に曲がった。

 

2017年7月、私は“滝谷川橋梁を見下ろせる場所がある”と聞いて当地を訪れ探したが、当時は畑でそこにたどりつけなかった。まさに、その畑だった場所に向かったのだ。

 

林道から、その場所を見て驚いた。畑は無く、前方のスギが切り倒されていて、見通しが良く、ビューポイントの名にふさわしい場所に変わっていた。

 

9:16、「滝谷川橋梁ビューポイント」である崖の縁に立ち、絶句。眼下には、只見線の滝谷川橋梁を包み込む、素晴らしい景色が広がっていた。参加者もスタッフも『おぉっ~!』『きれい!』と声を上げ、カメラやスマホを向けていた。ある方は『第一只見川橋梁ビューポイントより、こっちの方が良いと思うなぁ』とこぼしていた。

 

 

9:27、列車が原谷トンネルを抜けたようで、橋梁に乗った車輪の音が渓谷に響き、上り列車が姿を現した。到着時より雲が少し多くなり、青空が見えず光量が足りなかったのは残念だったが、まずまずの一枚を撮る事ができた。

 

 

「滝谷川橋梁ビューポイント」での鑑賞・撮影会を終え、一行は林道を引き返し、薬師堂に向かった。

 

そして、薬師堂前で本格的な開会式が行われた。佐久間さんから今日の詳細な予定などの話の後、「沼田街道トレッキング」の主催者団体に名を連ねる滝谷地区の目黒常廣さんから挨拶などがあった。

 

9:38、「沼田街道トレッキング」が再開され、一行は石段を下りて県道32号を進む事になった。この薬師堂には、柳津町の文化財に指定されている木造薬師如来像が安置されているという。

 

また、この薬師堂は、「新編會津風土記」の河沼郡牛澤組中野村の項にも記されている。*下図出処:新編會津風土記 巻之九十三「陸奥國河沼郡之六 牛澤組下十六箇村 中野村」(国立国会図書館デジタルライブラリ「大日本地誌体系 第33巻」p284 URL:https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1179220)

実は、只見線・滝谷駅の所在地は、柳津町・中野地区だ。しかし、これから向かう事になる三島町滝谷地区は、沼田街道という主要街道にある宿場で町の規模も大きかった。そのことから只見線が会津柳津から会津宮下に延伸(1941(昭和16)年)される際に、当時の村長が国鉄に『滝谷地区に鉄道を通してくれ』と陳情した。しかし、当時は難所・駒啼瀬をトンネルで貫く技術がないということで、結局中野地区に作られる駅名を“滝谷”とすることで落ち着いたという。ちなみに、この陳情した当時の村長というのが、薬師堂前で挨拶された滝谷区長・目黒さんのお爺さんということだった。


 

県道32号線を進む。車両の交通量は少なく、路側帯が狭くても安心して歩き進められた。

 

県道を少し下ると、“本家”の「滝谷川橋梁ビューポイント」がある。

 

元々は、ガードレールの向こう側に四畳ほどの平場があり、撮り鉄諸氏はここに三脚を置いて滝谷川橋梁を走行する列車を撮影していた。


そこで、福島県などが策定した「只見線利活用計画」の“景観整備”に基づき、2020(令和2)年にここが「滝谷川橋梁ビューポイント」として整備された。ガードレールも景観色である濃茶に替えられるほど、施工者の意志を感じる工事に思われた。*下掲図:福島県 会津若松建設事務所「工事に関する情報」より、一部抜粋 URL:https://www.pref.fukushima.lg.jp/uploaded/attachment/539332.pdf

 

 

県道を下りきり滝谷川が横に並ぶ付近で、柳津町から三島町に入った。

 

滝谷川の清流を眺めがら、進んだ。

 

9:56、「滝谷風穴」に到着。

 

「滝谷風穴」は岩場から冷気が噴き出し、“大正時代の農務省の記録に養蚕業を営む住民が蚕の卵の保存に活用していた”と言われ、現在は風穴小屋(2018(平成30)年築)で名産の蕎麦や味噌などが貯蔵されている。私は先代の風穴小屋((2016(平成28)年築))を含め、ここを訪れるのは4度目になる。*参考:福島民報 2017年7月17日付け紙面

ちなみに、この記事の掲載日に、今回の「沼田街道トレッキング」の第1回と思われる「~三島町滝谷地区にあるお宝巡り~『風穴体験と史跡見学モニターツアー』」が総勢23名で行われたという。*参考:三島町観光協会「風穴体験と史跡見学モニターツアー開催」(2017年7月18日) URL: http://www.mishima-kankou.net/20170718-2/


風穴小屋には体験室が設けれ出入り自由になっているが、貯蔵室は施錠されている。今回、初めて入る事ができた。

「滝谷風穴」 *沼田街道滝谷宿案内マップより
 下舘山の北側裾野にある滝谷風穴は、真夏でも5度~7度の冷風が吹き出すところで、滝谷風穴と呼ばれている。近隣の住宅でも裏山から出ている箇所があり、これらの家では今も冷蔵庫代わりに使われている。
 大正時代の農務省濃務局の繭業取り締まり成績には滝谷の若林吉三郎が繭種六九九二枚を冷蔵保存していた記録が残っている。繭種を冷蔵し、時期をずらして蚕様を孵化させ、年数回にわたって養蚕をしていたことがうかがえる。 

 

 

「滝谷風穴」の見学が終わり、県道32号線を引き返した。

 

町界の手前で、右に曲がった。今回のイベントでは、観光協会の方がスマホでビデオ撮影していた。三島町観光協会は、只見線沿線の中ではイベントの企画が多い印象があり、また観光協会の他、町交流センター「山びこ」のホームページなどでの情報発信は充実している。素晴らしい取り組みだと思っている。

 

一行は、町界となる小さな沢沿いの轍のある砂利道を進む。

 

まもなく、道端に“これより沼田街道 巌谷城主郭 ➡”という看板が現れ、一行は矢印通り右に曲がり、斜面の縁の踏み跡を進んだ。

実は、沼田(伊北)街道は、ビューポイントに行く際に通った林道中野大峯線から分岐し、山の斜面のトラバースするようにここに至っていた。しかし、その区間に大規模の崩落があり、歩くことができないため県道32号線を経由してここに至るルートにしているという。スタッフに聞くと、できれば整備し歩行可能にしたいが、地元だけの力ではどうにもならないほどの損壊ということだった。

 

 

沼田街道は山中に延び、しばらくスギ林の中を登った。

 

少し進むと、スギ林越しに、微かに山の稜線が見えた。これから登る下舘山のようだった。

 

 

10:20、街道は鞍部の堀切になり、下舘山取付き点に到着した。一行は右に曲がり、尾根に進んでいった。取付きには階段が設けられ、その反対側には“滝谷巌谷城跡入口”と刻まれた石柱が立っていた。

 

尾根に取付くと、岩が散在する急坂になった。

 

急坂は、まもなく岩壁になった。“トレッキング”ということで想定していなかったため、一時そそり立つ岩山を見上げ唖然としてしまった。

 

気を引き締め、足元を確認しながら、岩場をゆっくりと登った。鎖場もあり、本格的な登攀も味わえた。

 

登攀を無事に終え、岩場を過ぎると一転緩やかな道になった。

 

10:31、登りきると、目の前は広い平場の空間になった。ここが「巌谷城 主郭」跡だ。

 

中心部に進むと、城跡碑があった。表には“岩谷城俊政之城跡”、裏には“十一代 孫 俊舜 建”と刻まれていた。

 「新編會津風土記」(1809(文化6)年編纂完了)の瀧谷組瀧谷村の「古蹟」の項に、「巖谷城」の記述がある。

●瀧谷村 ○古蹟 ○館迹
村北にあり、巖石壁立し西の方瀧谷川に臨めり、高一町計巖谷城と稱す、東西四十二間南北三十一間、中に老松兩三株あり、永正年中横田の城主山内秀俊二男攝津守長俊 一名は俊正 と云者、住せりと云、
*出処:新編會津風土記 巻之七十三「陸奥國大沼郡之三 野尻組 野尻村」(国立国会図書館デジタルライブラリ「大日本地誌体系 第33巻」p91 URL:https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1179220)

  

 

中心から、“展望所”となっている縁に向かう。

 

眼下には、滝谷川沿いに並ぶ、滝谷地区の集落が見えた。町割りは、近世の沼田街道滝谷宿であった頃と変わらないという。トタン屋根の家も多く、往時の面影を伝えてくれる街並みで、一見の価値ある眺めだと思った。

 

滝谷集落の滝谷川沿いに立てられている観光案内には、「巌谷城位置図」があり城下の様子が描かれ、「明治初期滝谷宿屋敷割図」は町割りが変わっていない事を裏付けている。*下図出処:三島町滝谷地区「沼田街道滝谷宿案内マップ」 *一部抜粋、「屋敷割図」は左右反転など加工

 

「新編會津風土記」(1809(文化6)年編纂完了)の瀧谷組の項に、瀧谷村と記された滝谷地区の記述がある。*瀧谷村→原谷村(1889年町村制により檜原村を合わせて発足)→宮下村(1942年、他2村と合併し発足)→三島町(1955年、西方村と合併し発足)

●瀧谷村
府城の西に當り行程八里、家數三十四軒、東西三十間南北二町三十間、山間に住し、西は瀧谷川に傍ふ、村中に官より令ぜらるゝ掟條目の制札あり、東十九町五間河沼郡牛澤組郷戸村の山界に至る、其村は寅に當り一里、西五町二十間檜原村の界に至る、其村は戌に當り十五町餘、南九町五十二間湯八木澤村の界に至る、其村まで廿八町、北六町四十五間牛澤組中野村の界に至る、其村は丑に當り十六町 *出処:新編會津風土記 巻之八十「陸奥國大沼郡之九 瀧谷組 瀧谷村」(国立国会図書館デジタルライブラリ「大日本地誌体系 第33巻」p89,91 URL:https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1179220)

 

10:37、「巌谷城 主郭」跡を後にした。岩壁の下りは、間隔を空けるようで、スタッフからのOKが出てから進むことになった。

 

スタッフから『どうぞ』と言われ、慎重に岩壁を下りた。落石には至らぬ岩の状態とは思えたが、複数人数で登り下りする場合はヘルメットを被った方が安心、と思えるような場所だった。

 

 

無事に全員が「巌谷城 主郭」跡の岩場を下り、沼田街道に戻った。街道は下り坂になり、スギ林の中に続いた。

 

前方が開けてきて、街道はヘアピンカーブの先で平場になった。

 

そして舗装道に合流し、分岐には取付き点と同じ“滝谷巌谷城跡入口”と刻まれた石柱が立ち、周囲は綺麗に刈り払いされていた。

 

分岐の先は、滝谷地区の家々が見える方に向かって舗装道を下った。

 

 

滝谷地区の住宅地に入り県道32号線に合流すると、下舘山(332m)が正面に現れ、皆が見上げた。「巌谷城 主郭」跡の“展望所”の位置も確認でき、『あそこから、(滝谷集落を)見たんだぁ』『結構、高い場所にあるんだなぁ』と声が上がった。

  

次は、集会所に向かい早めの昼食となった。集会所に向かう県道の先には、上舘山(410m)が見えた。

 

今回の「沼田街道トレッキング」では立ち寄らなかったが、滝谷川沿いには案内板が立てられ滝谷地区(旧滝谷宿)の上館山や史跡などの配置が載っていた。

「滝谷宿の繁栄と沼田街道」 *沼田街道滝谷宿案内マップより
 大沼郡滝谷組滝谷村は古くから歴史の舞台に登場し、山ノ内俊政永楽銭百貫分滝谷巌谷城の城下町として発達した中世期以来の伊北及金山谷郷の中核の地でもあった。
 また、滝谷村は若松から伊南・伊北へ通じる広義の沼田街道、正しくは伊北街道沿いの要所に位置していため、早くから宿駅として繁栄した。
 宿駅は、巡見使や幕府高官の休泊地として多く利用されたが、明治二十四年以降は、沼田街道改修による路線の換線により交通が遮断され。これより急速に衰退した。
 現存する古絵図には街道に沿って町割りされた家並みが短冊形に並び、宿中央には制札所があり、街道中央には渠(町割り)の存在の明記されている。現在は明治三十五年の大火で渠の跡は残っていないものの、町割りは今も当時の面影を残している。


11:06、滝谷地区公民館に到着。

 

中に入ると、30畳ほどの座敷にテーブルが並べられていた。

 

テーブルには漬物やリンゴが並べられ、参加者が座ると地域のご婦人方がキノコ汁を給仕してくれた。キノコ汁はお代わり自由で、私は2杯頂いた。

「沼田街道トレッキング」では昼食持参ということで私はおにぎりを持ってきたが、キノコ汁や漬物などが振る舞われたことで大満足の食事になった。ありがたい、ありがたい。


 

 

11:52、昼食を終え、「沼田街道トレッキング」が再開。この先難所“駒啼瀬”に入り、「丸山城」跡を経て会津宮下駅に向かう長丁場になる。

  

県道32号線に入り、下舘山を見ながら少し歩き左折、狭い路地に入った。

 

路地は、滝谷川に架かる真っ赤な欄干の橋に続いていた。

 

橋上から、滝谷川下流にある下舘山を眺めた。


そして、上流側に聳える上館山を眺めた。この上館山は、“巉巖にして他山に續かず”(新編會津風土記)という外観から、「大舘山」ではないかと私は思ったが、スタッフの方に聞くと『大舘山なんて聞いた事がない』との事だった。

●瀧谷村 ○山川 ○大舘山
村より申の方二町、瀧谷川の西にあり、高十五丈計巉巖にして他山に續かず、昔年鉛を産す、鉛壙今に遺れり、此山の西に並峙て天狗岩と云巖山あり、大館に比すれば稍小なり
*出処:新編會津風土記 巻之八十「陸奥國大沼郡之九 瀧谷組 瀧谷村」(国立国会図書館デジタルライブラリ「大日本地誌体系 第33巻」p89 URL:https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1179220)

 

橋を渡ると、まもなく民家の間の細い道に入り、斜面を登った。

 

そして、県道366号(滝谷桧原)線の舗装道を横切り、再び山の中に入った。轍のある道からすぐに右に曲がり、スギ林の中の踏み跡を進んだ。


スギ林に入ると、上方は開け、再び県道366号線に出会い、その後はこの舗装道を進んだ。

 

県道366号線はまた(会津)西山温泉郷と国道252号線を結ぶ路線ということもあってか、交通量は多かった。*参考:柳津町 西山温泉郷 URL: http://www.nishiyamaspa.aizu-yanaizu.com/index.htm

 

上りきると県道は右に大きくカーブしていたが、「沼田街道」は直進だった。入口には“ふるさと深訪コース 巡見使の道 小舘山観音 狼煙台跡”と刻まれた石柱が立っていた。

 

沼田街道はスギ林に延び、緩やかな上り坂が続いた。

 

まもなく、街道は小舘山の取り付き点になり、一行は左に曲がった。取付き点には“小舘山観音・狼煙台跡”と刻まれた石柱が立っていた。

 

小舘山への道は、すぐに急坂直登になったが、ここには階段が設けられ問題無く登る事ができた。

 

急坂を登りきると、凹字の尾根になり、先に見えたマツには、看板が掲げられていた。少し古いようで、ここが長く整備され続けられている場所に思えた。

 

12:14、小舘山山頂に到着。

 

山頂の縁に向かい、滝谷集落を見下ろした。景色は下舘山(巌谷城跡)の方が良かったが、大きく開けているため「狼煙台」を置くには適当な場所だと思った。

 

山頂には「小舘山観音」がおられたが、両脇の観音様は首が取れてしまっていた。

 

 

12:19、小舘山山頂を後にし、再び沼田街道に入り、緩やかな上り坂を進んだ。植生はスギから、ナラやブナなどに変わった。また、少し前から落ちていた雨粒が、少し大きくなり、フードを被る事にした。

 

街道は、短い区間だったが、九十九折れになった。

 

天候はすぐに回復し、陽光が色付いた木々を照らし、綺麗だった。

 

街道は小さくアップダウンしたが歩き易く、開けた場所もあり気持ち良かった。

 

 

12:41、前方に次の目的地・「丸山城」跡のある、山の稜線が木枝越しに見えた。

 

前方に鉄塔が見え、街道は平坦になり、ここで小休憩になった。街道の周辺には送電線の鉄塔が多く、東北電力の巡視路が街道から枝分かれし、分岐には黄色い看板が立っていた。

 

 

小休止の跡、一時スギ林の中を進んだが、一部の幹に“会津トレイル”と記されたテープが巻かれていた。

 

“会津トレイル”とは、福島県が環境省と交わした「福島の復興に向けた未来志向の環境施策推進に関する連携協力協定」に基づいた「ふくしまグリーン復興構想」の中の具体的取組の一つで、磐梯朝日国立公園・尾瀬国立公園・越後三山只見国定公園内に設定された7ルート・15コースを指す。「沼田街道トレッキング」は、県道366号線分岐から、越後三山只見国定公園内の三島町ルートの「沼田街道コース」にほぼ一致している。*参考:環境省「福島の復興に向けた未来志向の環境施策推進に関する連携協力協定の締結について」(2020年8月27日) / 福島県「ふくしまグリーン復興構想」会津トレイル *下掲図:会津トレイル「三島ルート



12:56、街道の上り坂は終わり、「丸山城」跡のある山に向かう取付き点になった。一行は、小休止の後に右の斜面を登った。

 

取付き点には、丸山城址と記されたA4紙パウチ製の案内板が、地表に差されていた。

 

「丸山城」跡に向かうが、道はすぐに平坦になった。

 

まもなく小さな段差を越えた。曲輪の切岸ということだった。

 

曲輪に乗ると、藪に挟まれ道幅は狭くなるが、地表はほぼ平坦だった。しばらく進んだ後、前方に山の頂をみながら少し下った。

 

 

13:06、鞍部に着くと、一行は立ち止まり、左手にカメラを向けていた。ビューポイントだという。

 

ビューポイントに行くと、斜面の木々が切られたのか見晴らしが良く、素晴らしい景色が目に飛び込んできた。

 

悠々たる「三坂山」(831.9m、会津百名山82座)を背景に、名入地区(左岸)と川井地区(右岸)の間を只見川が上流に延び、只見線の「第二只見川橋梁」がほぼ中心に見える構図の風景だった。『これは凄い!』とつぶやき、しばらく見入ってしまった。

「第一只見川橋梁ビューポイント」は、橋梁以外の人工物がほとんど入り込まない構図を得られることで芸術性が高い。対して、この“第二只見川ビューポイント”は点在する集落の家並みや田んぼが入り込む事で、奥会津の人の息吹を伝えられるメッセージ性の高い風景だと思った。

見たところ“第二只見川ビューポイント”は、狭隘な鞍部ではないので、整備すれば10名ほどが立ち止まって眺望を楽しんだり、写真撮影ができるようだった。三島町は、調査をし施工可能ならば「第二只見川ビューポイント」として整備して欲しいと思った。

 


“第二只見川ビューポイント”の後は、数か所の切岸と思われる場所を越え、まもなく山頂になった。

 

13:13、「丸山城」跡となる山頂(465m)の平場に到着。太い木は切り倒されたようで、大きく開けていた。

 

ただ、斜面には木々が残っていて、360度眺望は良くなかった。

 

この「丸山城」跡は、「新編會津風土記」の檜原村の項に記述がある。

●檜原村 ○古蹟 ○館迹
村南四町丸山と云山の頂にあり、頂まで山町、天正の頃、山内氏の支族豊前守俊範と云者住せりと云、樹木生茂て其形さだかならず *出処:新編會津風土記 巻之八十「陸奥國大沼郡之九 瀧谷組 檜原村」(国立国会図書館デジタルライブラリ「大日本地誌体系 第33巻」p91,92 URL:https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1179220)

 

また、今日受付で配布された資料に、「丸山城」は以下のように記載されていた。

桧原丸山城
[歴史]築城年代は定かではないが、葦名盛氏によって築かれた。盛氏が桧原丸山城を築くと重臣内山淡路守を城代として守らせた。弘治元年(1555年)会津大地震によって混乱していた葦名氏の滝谷巌谷城を横田の山ノ内俊政、俊範兄弟が攻めて攻略する。盛氏はこれを討伐しようとしたが、山ノ内氏が葦名氏の旗下に入ることで和議となり、山ノ内俊政が滝谷巌谷城主、俊範が内山淡路守の養子になることに決まった。
[説明]桧原丸山城は桧原集落の南に聳える標高465mの山に築かれている。主郭は山頂で小規模ながら削平され、南に小さな段曲輪となる。南下のトンネルの上の辺りが二の丸とされるが、この辺りの遺構も乏しい。主郭から北へ続く尾根には一ヶ所高い切岸と堀切の部分がある。この辺りがやや広く削平され、堀切に面して土塁のようになっている部分もあるが、大きな木が根こそぎ倒れた感じになっているので、土塁ではないかもしれない。先端付近には石祠が祀られ、これに対して参道の石段が残っている。この石祠のあるところが土塁のようでもある。

 

北西に目を向けると、会津百名山67座「黒男山」(980.4m)が木々の間から見えた。ただ、ここから斜め下にあるはずの「第一只見川橋梁」は、斜面の木々や灌木が邪魔して、まったく見えなかった。

 

この「丸山城」跡には、その名が示す通り檜原地区からの登城(登坂)道があったという。入口は春日神社だが、現在はその痕跡は無く、経路も不明だという。ただ、只見線・会津桧原駅から「丸山城」跡への距離は短く、城跡に続く“第二只見川ビューポイント”の眺望美を考えると、遊歩道整備は意味があると思う。*下図出処:国土地理院「地理院地図」 *一部、筆者文字入れ

 

 

13:22、「丸山城」跡を後にして来た道を戻るが、途中で、二股の分岐になり一行は右の斜面に下った。A4パウチの案内板を見ると、右は“道の駅 みしま宿(第一只見川橋梁ビューポイント)”、左は“滝谷地区(小舘山狼煙台)”と記されていた。

 

斜面が九十九折れになっていて、街道ではなくショートカット道として敷設されたものだった。

九十九折れ道は、まもなく沼田街道に合流したが、今回歩くことはなかった街道に目を向けると、急坂になっていた。「丸山城」跡へ分岐する取付き点を過ぎると、“駒啼瀬”という難所になるのではないかと思った。

 

沼田街道は、スギ林とナラとブナの二次林の間に延び、登るには大変だろうと思われる傾斜の坂が続いた。

 

道が鋭角に折れ、その先がぬかるみになった。ぬかるみは少し長いので、側溝か木道の設置があれば良いと思った。

 

ひたすら下りてゆくと、胸高の倒木があり、それを屈んで進み涸れ沢に出会った。左に曲がり涸れ沢を進むが、足元には大きな石が転がっていた。

 

涸れ沢の先には沢があり、横断した。

 

沢の水は少なく、靴を濡らさずに渡る事ができた。振り返って下ってきた道を見ると、これが当時は主要街道だったとは思えない、急峻さだった。荷を積んだ馬が進むのに難儀したという、“駒啼瀬”の名に違わぬ場所だった。

この渡渉では、参加者の一人が不安定な石に足を載せたようで、転倒してしまった。幸いかすり傷で済んだようだが、渡渉の怖さを思い知らされた。


渡渉後、沢の左岸を斜めに登ってゆくと、車の走行音らしきものが聞こえ、まもなく構造物が見えた。駒啼瀬を貫く国道252号線(バイパス)の川井トンネルと駒啼瀬トンネルを繋ぐ、川井スノーシェッドだ。ここに開けたスペースがあり、小休止となった。

 

 

13:55、小休止の後にトレッキングは再開。駒啼瀬越えは続いた。

 

斜面に延びる道はかなり急でヒモ場があり、短い平場の後には斜面に土を削った階段となった。道の形状から、パイパス敷設で「沼田街道」は経路を変更せざるを得なくなったと考えた。

  

急坂を越えると平場になり、少し下ると、見慣れた道の合流した。「第一只見川橋梁ビューポイント」のCポイントとDポイントに向かう遊歩道だった。

 

この遊歩道を登る度に『分岐するこの踏み跡は何なのだろう』と思っていたが、今日「沼田街道」の分岐だと分かり、良かった。

この分岐で自由行動になり、20分後に道の駅「尾瀬街道みしま宿」に集合ということだった。私は遊歩道を登り、「第一只見川橋梁ビューポイント」の最上部Dポイントに向かった。

 

 

Cポイントには、多くの方がいて、三脚も複数並んでいた。

 

14:05、急坂を登り、「第一只見川橋梁ビューポイント」Dポイントに到着。Cポイント以上に人がいた。

 

高圧送電鉄塔を取り囲むフェンスの脇を進み、より高い位置から「第一只見川橋梁」を見下ろした。20名は優に超える方々が、三脚に載せたカメラを覗いたり、スマホ片手に景色を眺めたりしていた。

 

「第一只見川橋梁」は、上路式スパンドレルブレーストバランストアーチ橋で、三島町の町の花である桐の花の薄紫に塗られている。只見川(柳津ダム湖)は波打ち、水鏡は現れていなかったが、まずまずの美しさを見せていた。

 

只見川の下流側、右岸の開けた場所を見ると複数の人影が見えた。ここも撮影ポイントになっていて、順光気味となる午後は“撮る人”を多く見かける。

 

このビューポイントに近づくにつれて、上空を旋回するヘリコプターの音が頻繁に聞こえるようになり、ここではその機影を見る事ができた。“空鉄”という企画で飛行しているというが、大きな音が山間にこだまし、のどかな景色が広がる奥会津の只見線沿線にはそぐわないと感じた。

 

 

集合時間が近付いたため、「第一只見川橋梁ビューポイント」を後にして道の駅に向かった。駒啼瀬歩道橋の脇には、山の斜面を大きく削り敷設された国道252号線(バイパス)がある。「沼田街道」はその斜面の通されていたというが、面影は全くなかった。

 

道の駅「尾瀬街道みしま宿」では、トレッキング中も聞こえていた、ライブ演奏が続いていた。会津を拠点に活動する「B²mac Special」(ビートマック・スペシャル)というバンドで、只見線の応援ソングも制作しているという。

 

集合時間になると、東側の駐車場の空きスペースに集り、記念撮影を撮った。撮影後、柵に近づき只見川を見下ろした。右岸の切り立つ斜面には、「沼田街道」の換道となる国道252号線(川井新道)が通っていて、狭隘地で落石多発の難所だったという。

 

この「川井新道」は、会津桧原駅から1.3kmほど歩くとガードレールや標識などの遺構が見え(*落石注意)、只見川に架かる町道の四季彩橋上からは崖を這うように敷設されたその様子を確認することができる。


 

14:40、「沼田街道トレッキング」が再開。

 

「沼田街道」は道の駅の後方(北側)に広がるスギ林の中に延びているが、現在は駐車場の拡張工事のため通行不可になっているため、国道252号線(バイパス)を進んだ。

 

この付近の国道252号線(バイパス)に歩道は無く、路側帯も狭いため車が通るたびに怖い思いをする。300mほど歩くと、右に下る道に入った。

 

坂を下って行くと、前方に去年塗り直されたばかりの国道252号線(バイパス)の大石沢橋を見ながら、「沼田街道」(旧道の川井新道)に合流した。

 

旧道を50mほど進むと、一行は右に曲がり、川井地区の集落の間を進んだ。街道沿いに家々が立ち並ぶ、良い雰囲気だった。

 

 

14:58、一行は立ち止まり、スタッフの佐久間さんが軽トラの前にテーブルを広げた方の元に行き、話し掛けた。

 

町の養蜂家、時任真由美さんによる、トレッキング参加者に対する即席展示販売会だった。トチ(栃)やキハダ、春の花などの5種のハチミツが並べられ、参加者の質問に対して時任さんが丁寧に応えられていた。私は、今まで食べたことのない「蕎麦のはちみつ」を購入した。

時任さんは名古屋市出身で、会津若松市で養蜂を学び、2017年に三島町に移住され時任養蜂園(2018年)を立ち上げられたという。県はちみつ品評会では、2018年に県議会議長賞、2019年には県知事賞を受賞したという。*参考:三島町観光協会「時任養蜂園のはちみつが県知事賞」(2019年8月22日) URL: http://www.mishima-kankou.net/20190822-2/

 


川井集落を抜け、高台から見下ろした。右奥には「丸山城」跡の山も見えた。

 

 

一行は、「沼田街道」を進んだ。国道252号線(バイパス)の架道橋を潜り、国道に並んだ後には左の側道に入り大登地区方面に歩いた。

 

まもなく分岐になり、畑の間に延びる「沼田街道」の入口には、古い石碑と“ふるさと探訪コース 巡見使の道”と記された標杭が立っていた。

 

「沼田街道」は平坦で歩き易く、小さな沢を渡った後に、三島町町民運動場の南側に延びていた。

 

町道を横切り、「沼田街道」は畑と竹林の間になった。

  

15:23、少し下り、一行が立ち止まった。「金烏供養塔」が置かれているということで、スタッフの佐久間さんが説明を始めた。

 

「金烏供養塔」は、3つの石碑の右端に置かれ、烏を表したと思われる文様が刻まれていた。金烏とは“きんう”と読み、伝承に見られる想像上のカラスだという(出処:Wikipedia)。

 

 

「金烏供養塔」の先、「沼田街道」はスギ林の中の下り坂になった。

この後、街道は東北電力㈱只見川ダム管理所に突き当り、敷地沿いに設けられた道を進み国道252号線(バイパス)の歩道に入った。

 

歩道を150mほど進むと、国道を横断する地下道に入り、抜けると「沼田街道」再びになり、急坂を下った。前方には「アーチ3橋(兄)弟」の長男・大谷川橋梁(只見線)が見えた。

「三島町歴史文化基本構想」(平成23年3月)によると、「沼田(伊北)街道」は“大登村の北端八木ノ平の金烏供養塔祭祀地か ら宮下村まで一直線に下り、大谷川を高欄付きの板橋で渡った”とあり、当時はこの急坂の直線上に橋が架かっていた事になる。

 


15:37、急坂を下った後に県道237号(小栗山宮下)線に合流し「アーチ3橋(兄)弟」次男・宮下橋を渡り、「アーチ3橋(兄)弟ビューポイント」に立ち寄った。真ん中の長男・大谷川橋梁に列車が通過せず残念だったが、デザインがほぼ同じ“開腹式”で日本で唯一無二の眺望に、参加者はカメラやスマホを向けシャッターを切っていた。

 

 

「アーチ3橋(兄)弟ビューポイント」の後は、200m先の会津宮下駅前にある「三島町観光交流館 からんころん」に向かった。ここでコーヒーを頂き、会津宮下~滝谷間の列車の切符が配られた。

“からんころん”とは三島町特産品の桐で作った下駄が発する音で、この施設は三島町観光協会が運営し観光案内・物販を行い、併設するカフェでは毎月第2・4の土曜・日曜は“からんころん茶屋”として宮下そばを提供している。 

 

 

15:49、「からんころん」で数名の離団者と別れ、「第7回 沼田街道トレッキング」のゴールとなる只見線の会津宮下駅に到着。

 

駅頭で参加者が輪をつくり、短い閉会式が行われた。スタッフの佐久間さんによる挨拶と総括があり、記念撮影をして約11lmのトレッキングが終わった。

 

「第7回 江戸時代の沼田街道トレッキング」は、一時小雨がぱらついたり、陽光をあまり得られなかったのものの、「沼田街道」の大半は歩き易く見どころも多く、何より“只見線のビューポイント”を新たに知る事ができ、とても充実した6時間40分だった。

会津藩という大藩の存在が、街道の往来激しくし、宿場も繁栄させた。このため、現在に至るまで街道の形状が残り、各宿場に伝統が残り守ろうとする子孫がいるのだろう、と今回の「沼田街道トレッキング」で考えた。また、街道を歩くことは、歴史文化に触れるだけではなく、当時の土木技術と地形、人だけが往来するのか?牛馬もか?、などの道を拓いた際に考慮した諸条件に思いを馳せられることでもあり、学びの場となり得るとも思った。只見線に沿線に「沼田街道」のような古道があり、トレッキングイベントが継続して行われているのは、大きなことだと再確認した。

 

今回の「沼田街道トレッキング」で只見線の振興に直結する収穫は、2箇所の未知のビューポイントを訪れたことだ。林道側の「滝谷川橋梁ビューポイント」は滝谷駅から300m(徒歩5分)で、滝谷川橋梁を見下ろして得られる構図は秀逸で、周知されれば集客が期待できる“観光鉄道「山の只見線」”を代表するビューポイントになるだろうと思った。

他方、「丸山城」跡の“第二只見川橋梁ビューポイント”は、未だ開発途上で、眺望の良さを考えれば、大化けする可能性を感じた。大化けのためには、アクセスを改善する必要があり、前述した通り桧原地区側の春日神社からの“登城路”を復活させることがベストだ。この“登城路”が整備されれば、只見線の会津桧原駅から徒歩圏になるばかりか、“第二只見川橋梁ビューポイント”から「第一只見川橋梁ビューポイント」、道の駅「尾瀬街道みしま宿」、会津西方駅or会津宮下駅へ、二次交通が不要な一筆書きの山岳アクティビティになり、訪問者の滞在時間を延ばすことが可能になる。また、“第二只見川橋梁ビューポイント”は背景に三島町を代表する「三坂山」(会津百名山)がそびえ、奥会津の点在する集落も見えることから、“観光鉄道「山の只見線」”の名所となることは間違いない私は思った。

 

散会後は、最終イベントとなる只見線乗車。

スタッフを含め大半の参加者は滝谷駅に戻るため、私は会津若松駅に向かうため、会津宮下駅舎を抜けホームに入った。10月1日の只見線全線運転再開以後、紅葉シーズンということもあって連日混雑しているということだったが、今日も駅舎とホームに観光客があふれていた。 

会津宮下駅は、駅頭に大型バスが乗りつけられることもあり、「第二只見川橋梁」と「第一只見川橋梁」を列車に乗って景色を眺め、会津柳津駅で降りて再び大型バスに乗り込んで帰る、という旅程がツアーに組み込まれることが多い。ある程度は覚悟していたが、今日の人出は想像以上だった。

 

16:02、会津若松行きの上り列車が入線してきた。

 

停車すると多くの客が降りた。運転再開前はあまり見られなかった光景だったが、同じく大型バスを駅頭に付けられる只見駅か会津川口駅から乗車し、第八から第三までの橋梁上からの景色を見るツアーの一行だと思った。

 

多くの客が降りたので、少しは余裕があるだろうと思い先頭車両に乗り込むと、腰を抜かすほどの込み具合だった。

 

まさに都市部の“通勤列車”の状態だった。先日地元紙の一面をも飾った只見線の混雑ぶりは、まだ続いているようだった。これでは、只見線の“売り”である車窓からの素朴でのどかな風景が見られないばかりか、高齢の観光客も目立つことから体調面での不安もある。実際、今月2日には車内で体調不調者が出て、救急搬送されている。

前述したように、JR東日本は列車の増発・増便を既に行っているが、単線で交換可能駅が限られる只見線でさらなる増便は難しく、即効的な解決法はないと思われる。後の祭りではあるが、「只見線利活用」を進める福島県はツアーへの補助を強化すると同時に、事前に増車・増発をJR求め期間限定の特別ダイヤを組むようにすべきだったと思う。

現在の混雑で、数時間立ちっぱなしで只見線の列車に乗った客が、『次は絶対座って乗りたい』と前向きになれる企画や策を福島県は練り、沿線自治体とJR東日本と協力し実現して欲しい。

 

 

 

16:05、定刻わずかに過ぎてを列車は会津宮下を出発し、まもなく「第二只見川橋梁」を渡った。「丸山城」跡の“第二只見川橋梁ビューポイント”からは、どのように列車を取り囲む風景が見られるだろうか、と思った。

 

会津西方を出た列車は名入トンネルを抜けて、「第一只見川橋梁」を渡った。「第一只見川橋梁ビューポイント」でカメラを構えていた方々は良い写真が取れたのだろうか、と思った。

この後、列車は会津桧原を経て柳津町に入り、滝谷に停車。ここでスタッフや参加者が降り、「第7回 江戸時代の沼田街道トレッキング」は終了となった。私は、降りることなくそのまま列車に乗り続けた。

 

 

 

16:26、郷戸を出た後、列車は会津柳津に停車。予想通り多くの客が降り、車内の立ち客は少なくなった。駅頭には大型の観光バスが見えた。

紅葉期を中心に、観光シーズの会津宮下~会津柳津間のツアー客の満足度を高めるためにも、会津柳津駅の2番線を復活させ、会津宮下間でピストン運行させる必要性を私は感じている。これにより、ツアー客は座る事ができ、通しで乗っている客はツアー客による喧騒を避けられ、只見線の車窓からの景色を楽しんでもらうことで、個人旅行への繋がりやリピーターになることを期待できるからだ。ポイント新設と駅員の常駐(or遠隔監視システムの導入)、車両の確保など簡単な事ではないが、福島県にはまずはコスト試算を行い、10年計画で実現させて欲しい。

 

 

 

 

17:24、列車は会津坂本から会津坂下町に入り、七折峠を越えて、徐々に暮れてゆく会津美里町内の会津平野を駆け抜け、定刻に会津若松に到着した。列車は、今回も3番線に入線し、磐越西線の郡山行きを待つために向かいの2番線に多くの方が列を作っていた。

 

今夜は会津若松市内に泊まるため、私は改札を抜け駅頭に出た。人々や行き交い、旅館の送迎車が次から次にやってきて、駅頭は観光地らしい賑わいだった。

 

この後、私は明日の只見線全線乗車で車内で呑むための地酒を渡辺宗太郎商店で調達し、本日すべての予定を終えた。

 


“観光鉄道「山の只見線」”の確立や魅力向上のためには、列車を利用して沿線を訪れた客が体験できる山岳アクティビティが欠かせない。滞在時間が延びることで、宿泊や食事などの消費の他、思い出が印象付けられることでリピーターやSNSなどを通したインフルエンサーになり得るからだ。

今回の「沼田街道トレッキング」は、適度なアップダウンと只見線を山間から見下ろせるビューポイントを巡り、只見線の滝谷駅発→会津宮下着という内容で、最良の山岳アクティビティだ。このような、山岳アクティビティを増やし継続させることが、“観光鉄道「山の只見線」”の確立や魅力向上につながり、乗客を増やし降車客による沿線の経済需要をもたらすと私は考えている。

また、「沼田街道トレッキング」では、地元の区長さんや町のまちづくりNPO、観光協会、役場のそれそれの職員から“地元愛”を感じ、参加者をもてなす心遣いが伝わった。これにより、また参加しようと思い、友人知人に積極的に勧められる。只見線沿線では様々な山岳アクティビティのイベントが開催され、今後も新たに企画されると思われるが、地元に誇りを持ち訪問者を気持ちよく迎える方々がそのイベントスタッフに欠かせないと思う。そして、このスタッフがイベントを継続して継続できるようなサポート(事務的、人材的、金銭的)を、行政が行う必要があるのではないか、と思った。福島県は、中心となって進める「只見線利活用計画」で、このようなサポートを事業に含めて欲しい。 

 

 

(了)

 

 

・  ・  ・  ・  ・

*参考: 

・福島県 :只見線管理事務所(会津若松駅構内) / 「只見線の復旧・復興に関する取組みについて

・東日本旅客鉄道株式会社:「只見線(会津川口~只見間)の鉄道復旧に関する基本合意書及び覚書」の締結について(PDF)(2017年6月19日)

・NHK:新日本風土記「動画で見るニッポンみちしる~JR只見線

・産経新聞:「【美しきにっぽん】幾山河 川霧を越えてゆく JR只見線」(2019年7月3日) 

・福島県:平成31年度 包括外部監査報告書「復興事業に係る事務の執行について」(PDF)(令和2年3月) p140 生活環境部 生活交通課 只見線利活用プロジェクト推進事業

  

【只見線への寄付案内】

福島県はJR只見線全線復旧後の「上下分離」経営での維持費や集客・地域振興策の実施費用として寄付を募集中(クレジット可)。 

 

①福島県ホームページ:只見線復旧復興基金寄附金・只見線応援団加入申し込みの方法 *現在は只見線ポータルサイト「只見線応援団」URL:https://tadami-line.jp/support/

 

②福島県:企業版ふるさと納税

URL:https://www.pref.fukushima.lg.jp/sec/16005g/kigyou-furusato-zei.html

[寄付金の使途]

(引用)寄附金は、只見線を活用した体験型ツアーや周遊ルートの整備、只見線関連コンテンツの充実化等に活用させていただきます。 沿線地域における日本一の秘境路線と言われる観光資源を活用し、更なる利用者の拡大と認知度向上を図ります。


以上、宜しくお願い申し上げます。

次はいつ乗る? 只見線

東日本大震災が発生した2011年の「平成23年7月新潟福島豪雨」被害で一部不通となっていたJR只見線は、会津川口~只見間を上下分離(官有民営)とし、2022年10月1日(土)に、約11年2か月振りに復旧(全線運転再開)しました。 このブログでは、“観光鉄道「山の只見線」”を目指す、只見線の車窓からの風景や沿線の見どころを中心に、乗車記や「会津百名山」山行記、利活事業に対する私見等を掲載します。

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