会津若松市「堂ヶ作山」「滝沢峠」トレッキング 2021年 初冬

観光鉄道「山の只見線」”沿線の「会津百名山」登山。今日は、会津若松市内にあり、沿線の会津百名山では一番低い「堂ケ作山」(381.1m)と、その東にある旧白河・会津街道「滝沢峠」(最高点489m)を歩こうと、JR只見線の列車に乗って金山町から会津若松市に向かった。

  

「滝沢峠」は1591(天正19)年に、当時の会津領主・蒲生氏郷により、若松から白河に至る街道として開かれ、江戸期には会津五街道の一つである白河・会津街道の峠道として整備された。「滝沢峠」は、会津藩主の他、越後の新発田藩主と村上藩主が参勤交代で通行したこともあり賑わったと言われている。

戊辰役を経ても、「滝沢峠」はしばらく主要街道の一部でありつづけたが、1882(明治15)年に荷馬車が通行できる滝沢南新道が開通し、旧道になってしまった。さらに、1886(明治19)年に北新道(昔の国道49号線の一部)が開通すると、人や物資の往来は途絶えてしまったという。「滝沢峠」を含む白河・会津街道は2019(令和元)年10月に文化庁から「歴史の道 百選」に選定された。*参考:文化庁「歴史の道 百選」85.白河・会津街道(福島県会津若松市・郡山市・須賀川市・天栄村・白河市)(PDF)/会津若松市「白河・会津街道が「歴史の道百選」に追加選定されました」(2019年11月26日) URL:https://www.city.aizuwakamatsu.fukushima.jp/docs/2019111500017/ *下掲記事出処:福島民報 2019年10月30日付け紙面より

 

会津藩の地誌「會津風土記」(初代会津(松平家)藩主・保科正之が寛文年間(1661~72) に編修)を,第7代藩主・容衆が1809(文化6)年に編纂が完了した「新編會津風土記」(全120巻)の瀧澤組瀧澤村の項に、「滝沢峠」を指すと思われる“瀧澤坂”の記述があり、その中に「堂ヶ作山」を指すと思われる“堂作山”が記されている。

●瀧澤村 ○瀧澤坂
村端より丑寅の方に登る、白川街道なり麓より登ると十六町、頂を九折峠と云、金堀村に界ふ舊の往還は此村より南二十町餘を隔て、本郡南靑木組院内村より背炙峠(加藤嘉明 冬坂と改む)を踰て、原組原村に出しを、寛永四年此道を改め闢けり、されども秋雨の折は泥濘深く駄馬通せず、旅人往來に苦めり、仍て加藤明成の時寛永九年より八萬の人夫を以て泥土を除き、二尺餘三尺計の石を敷しむ、同年十一年に功成れりこれより今に至り人馬往來に患なり、此坂より西に連る支峯二あり、南を堂作山(又堂柵に作る)と云、北を柏木山と云、里人此山より秣をとる

*出処:新編會津風土記 巻之31「陸奥國會津郡之二 瀧澤組 瀧澤村」(国立国会図書館デジタルライブラリ「大日本地誌体系 第二十六巻」p11,p13 URL:https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1179202)


「新編會津風土記」で同項に記述され、一体化したものととらえられているためか「堂ヶ作山」と「滝沢峠」は双方で「会津百名山」の第98座になっていて、「会津百名山ガイダンス」(歴史春秋社)では以下の見出し文で紹介されている。

滝沢峠・堂ガ作山 <たきざわとうげ どうがさくやま> 489メートル 382メートル
滝沢峠と堂ガ作山は、会津若松市市街地から最もアプローチの短い距離に位置する。滝沢峠は、あちこちに歴史的遺構が見られるとともに説明板が整備されていて興味深い。[登山難易度:初級]*出処:「会津百名山ガイダンス」(歴史春秋社)p190

  

会津若松市市街地から近い「会津百名山」は、既に登頂した「奴田山(青木山)」(第89座)、「羽黒山・背炙り山」(第80座)に続き、「堂ヶ作山・滝沢峠」が3座目となり最後となる。市内には他「大戸岳」(第36座)、「思案岳」(第73座)、高贏山(第70座)があるが、3座とも南に離れた旧大戸村地区にあり、只見線沿線ではなく会津鉄道会津線沿線となっている。

 

「堂ヶ作山」「滝沢峠」は、前者が低山で後者が峠越えということで、登山というよりトレッキングとサイクリングとなる。会津若松市付近は晴れ予報ということで、安心して会津若松駅から現地に向かった。

*参考:

 ・福島県:只見線ポータルサイト

・産経新聞:「【美しきにっぽん】幾山河 川霧を越えてゆく JR只見線」(2019年7月3日)

 ・NHK:新日本風土記「動画で見るニッポンみちしる~JR只見線

・東日本旅客鉄道株式会社:「只見線について」(PDF)(2013年5月22日)/「只見線(会津川口~只見間)の鉄道復旧に関する基本合意書及び覚書」の締結について(PDF)(2017年6月19日)

・拙著:「次はいつ乗る?只見線」カテゴリ ー只見線沿線の“山”(登山/トレッキング)ー / ー只見線の冬

 

 


 

 

昨夜は、金山町の玉梨温泉「恵比寿屋旅館」に泊まった。今朝起きて、部屋から外を見ると明るく、雨や雪は降っていなかった。

 

昨夜予約していた時間に、入浴の準備をして1階の貸切風呂「月と太陽」に向かった。本館から金属の扉を開けて表に出ると、細い通路があり、その先に木造の離れがあった。

 

扉を開けると、玄関と一体化した脱衣場となっていた。浴室は十分な広さで、雰囲気が良かった。野尻川側が四角の浴槽で、寝湯になっていた。

 

手前の六角浴槽の後方にも窓があり、 野尻川の支流・湯沢川を見る事ができた。

 

貸切風呂「月と太陽」は、2014年のオープン当初は中井源泉を六角浴槽に引いていたようだが、現在は亀ノ湯源泉と玉梨温泉町営源泉の混合泉になっている。湯沢川を挟んで「月と太陽」の対岸にある八町温泉共同浴場も同じ混合泉ということで、亀ノ湯源泉と玉梨温泉町営源泉をそれぞれ別に楽しむ事ができるのは、「恵比寿屋旅館」のかっぱの湯だという。


「玉梨八町温泉」には玉梨温泉、亀ノ湯、大黒湯という3種類の源泉があり、「恵比寿屋旅館」と3箇所の日帰り温泉施設(金山町温泉保養施設せせらぎ荘八町温泉共同浴場(混浴)、玉梨温泉共同浴場(男女別浴室))で利用されている。

   

 

朝風呂から出ると部屋に戻り荷物をまとめて、7時30分に1階の大宴会場に移動し朝食を摂った。

 

夕食時を同じ席で、細長い二段重をあけると、おかずが並んでいた。着席後まもなく、温泉粥と味噌汁、そして小お櫃に入った白米が運ばれてきた。湯豆腐はとろろに付けて食べるとの事だった。

  

  

朝食を終え、まもなくチェックアウト。会津川口駅を8時41分に出発する列車に乗るため、「恵比寿屋旅館」を後にした。   

「恵比寿屋旅館」は、良い旅館だった。“家族経営でアットホームな宿”という口コミを多く聞いていたが、その通り落ち着ける宿だった。特に、温泉と食事は秀逸で、この二つを求めまた訪れたいと思えた。会津川口駅への送迎もあり、路線バスのバス停も目の前にあるので、多くの観光客に只見線を利用した旅で利用して欲しいと思った。 *参考:日本  秘湯を守る会「恵比寿屋」URL:https://www.hitou.or.jp/provider/detail?providerId=603

  

 

 

「恵比寿屋旅館」から会津川口駅までは、約5㎞。路面凍結の可能性もあったため、早めに宿を出たが、濡れていただけで、いつものように自転車に乗って、移動できた。

 

「恵比寿屋旅館」から20分ほどで、会津川口駅に到着。

 

自転車を輪行バッグに収め、駅舎に入る。駅員に聞くと、列車に乗り込んで可能ということだったので、キハE120形2両編成が待機しているホームに向かい、後部車両に乗り込んだ。

8:41、会津若松行きの列車が会津川口を出発。 

  

まもなく、前方に大志集落が見えた。只見川(ダム湖)の水面の冴え具合はいま一つだったが、周囲の景色が映り込みまずまずの景観を創っていた。*ダム湖は東北電力㈱上田発電所・ダムのもの

 

会津中川手前で、東北電力奥会津水力館「みお里」を見る。背後の山並みに溶け込んでいるデザインだと思ってはいたが、山々が冠雪していると一体化しているように見えた。

  

 

会津水沼手前で、「第四只見川橋梁」を渡る。*以下、各橋梁のリンク先は土木学会附属土木図書館デジタルアーカイブス歴史的鋼橋集覧

 

朝陽が車内に差すようになる。私以外に客の居ない後部車両は、長閑な雰囲気になった。

...しかし、やはり車両の前後まで二列に並んだ吊革は、観光鉄道化を目指す只見線には不要だと思った。乗客の多い会津若松~会津坂下間でも、キハ40形に慣れているせいか、吊革を使う方は少ない印象がある。「只見線利活用」事業を進める福島県は調査を行い、観光客と生活利用客の快適さが両立される車内設備をJR東日本に提案して欲しい。

 

 

列車は、細越拱橋(8連コンクリートアーチ橋)を渡ったあと、金山町から三島町に入る。只見川右岸の木々から水蒸気が立ち上り、幻想的な光景を創っていた。*ダム湖(只見川)は東北電力㈱宮下発電所(水路式)の宮下ダムのもの

 

振り返って会津川口方面を眺めると、順光で、木々が朝陽に照らされて綺麗だった。

 

 

早戸を出発した列車は、早戸・滝原の両トンネルを抜け「第三只見川橋梁」を渡った。まずは、反対側の座席に移動し、上流側を眺めた。*ダム湖(只見川)は東北電力㈱宮下発電所(水路式)の宮下ダムのもの

 

そして、自席に戻り、下流側を眺めた。陽光は雲に遮られ、紅葉を終えた初秋の風景だったが、ここは、両側とも人工物がほとんどない場所ということで、いつ見ても味わいがあると思っている。

  

 

列車は、宮下ダムと東北電力㈱宮下発電所の脇を通り抜け、会津宮下に停車。下り列車とすれ違いを行った。

 

 

会津西方の手前で「第二只見川橋梁」を渡る。下流側を眺めると、ここも木々から水蒸気が立ち上がっていた。*ダム湖(只見川)は東北電力㈱柳津発電所・ダムのもの

 

自席に戻り、上流側を見る。今日は、会津百名山「三坂山」(831.9m)の山頂付近には雲が掛かり、全体は見えなかった。

   

 

会津西方を出発すると、列車は名入トンネルを抜け「第一只見川橋梁」を渡った。下流側は、朝陽が駒啼瀬渓谷の山々に遮られ、水面付近が暗くなっていた。*ダム湖(只見川)は東北電力㈱柳津発電所・ダムのもの 

  

 

会津桧原を経て、滝原直前で滝谷川橋梁を渡り、柳津町に入る。 ここでは渓谷に陽光が差していた。

 

 

郷戸を出発し、振り返って“Myビューポイント”から会津百名山「飯谷山」(783m)を眺めた。昨日、山肌を覆っていた雪は融けたようで、山頂には雲が掛かっていた。 

  

列車は会津柳津を出て、会津坂本手前で会津坂下町に入り七折峠に入る。峠の中の塔寺を出発してまもなく、木々の間から会津平野を見下ろした。 

  

七折峠を抜けると、会津盆地に入ってゆく。

 

このあと、列車は会津坂下若宮会津美里町に入り新鶴根岸会津高田会津若松市に入り、会津本郷西若松七日町の各駅に停車し、乗客を増やしていった。

 

 

10:32、終点の会津若松に到着。

輪行バッグを抱え改札を抜け、必要な荷物だけを小さなリュックに入れ替えて、残りはコインロッカーに預けた。 

 

 

 

10:40、自転車を組み立て、まずは「堂ヶ作山」に向かって、会津若松駅前を出発した。上空には鼠色の雲が広がっていたが、青空をのぞかせつつ早く動いていたので、天気予報通り雨は心配ないと思った。 

  

 

駅前から飯盛山に向かう白虎通りを東に向かい、滝沢東交差点を左折し白河・会津街道に入った。

  

まもなく、左前方に「堂ヶ作山」の頂上が見えてきた。 

  

途中、「旧滝沢本陣」跡に立ち寄る。郷頭の家屋が会津藩主の参勤交代などの休息所として利用され、戊辰役・会津戦争では“本陣”として機能した。*参考:会津若松観光ビューロー 会津若松観光ナビ「旧滝沢本陣(国指定史跡・国指定重要文化財)」URL:https://www.aizukanko.com/spot/139/ /文化遺産オンライン「旧滝沢本陣横山家住宅」URL:https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/192860

 

「旧滝沢本陣」からは、白虎隊が自刃した飯盛山が見えた。*参考:会津若松観光ビューロー 会津若松観光ナビ「白虎隊十九士の墓」URL:https://www.aizukanko.com/spot/137

 

  

正面に「堂ヶ作山」を見ながら、直進し白河・会津街道をさらに進んだ。

 

右にクランクした道を少し進むと、前方につづじ山団地の看板が見え、そこを左折した。

 

突き当りを左に曲がり、少し進むとT字路が現れた。真っすぐ進むと種子釋稲荷があり、「堂ヶ作山」登山口になっている。今回は右に曲がった。

  

坂を上ると突き当りになった。国土地理院地図にはこの先に道(作業道)が続いていることになっていた。

 

振り返ってみると、会津若松市街地が見えた。

   

 

 

11:13、自転車を置いて、草藪の中を進んだ。

  

進んでみても、踏み跡は見られず、一面クマザサに覆われていた。

 

踏み跡や道の形状を認められなかったため、先に進むのを止め、左の斜面に取り付き、「堂ヶ作山」の尾根に向かうことにした。

直登したが、斜面は急で、クマザサなどを掴みながら進んだ。

  

 

20分ほどで尾根に出た。すると正面にピンクテープがあった。

 

左右を確認すると、踏み跡もはっきりしていて、短い間隔でピンクテープが枝木に巻き付けられていた。登山道にのったようだった。

 

斜面の急登は、想定せず準備をしていなかったために、“痛手”を負った。まず、クマザサが中心の草藪には露が付着していて、ズボンが濡れてしまった。

 

また、足元を滑らせた際に思わず握った茎に棘がついていて、指を2箇所刺しケガをしてしまった。手袋をしなかったことを悔いた。*出血箇所はモザイク処理

   

 

頂上に向かって進む。適度な傾斜の、歩き易い登山道が続いた。

   

 

まもなく、登山道は一気に急坂になり、前方に広い平場が見えた。

  

 

 

11:27、短い急坂を登り、「堂ヶ作山」山頂に到着。時折、陽射しが注ぐようになってきた。

 

平場のほぼ中央に三角点標石があり、触れて登頂を祝った。

 

標石には、“四等”の文字が刻まれていた。

 

 

頂上の平場は広いが、周囲はナラはスギなどに覆われていた。落葉していたため、わずかに木々の間から麓の様子が見えたが、夏場に葉が茂るようになれば眺望はまったく得られない植生だった。

東側、会津若松市街地方面の眺め。 

 

西側、滝沢峠方面の様子。

 

 

11:33、5分ほど留まり、「堂ヶ作山」山頂後にした。落ち葉が濡れていて、足元が気になったが、さほど堆積していないようで、最後まで足を滑らすことは無かった。

  

往路で登る事がなかった坂を下る。踏み跡が、はっきりと、まっすぐ延びていた。

 

振り返って、登山道を見る。新緑と紅葉期のトレッキングに、良い山だと感じた。

 

最も開けた場所から、会津若松市街地を見下ろした。高層マンションが意外と多かった。

  

 

 

あっという間に建物と、その先に鳥居が見えた。

 

建物は種子釋稲荷の社で、狛“狐”が左右に置かれていた。

 

 

11:42、鳥居前に到着。9分という、あっという間の下山だった。本来、ここが「堂ヶ作山」登山口になるが、ここからでも15分ほどで山頂まで行けるだろうと思った。

  

種子釋稲荷大明神の鳥居前から、自転車のある場所に戻り、次の「滝沢峠」を目指した。 

 

 

つづじ山団地を抜け、白河・会津街道を左に曲がり少し進むと、「滝沢峠」に向かう白河・会津街道と滝沢観音(日本遺産「会津三十三観音」台18番札所)との分岐になった。*参考:日本遺産「会津の三十三観音めぐり ~巡礼を通して観た往時の会津の文化~

 

分岐を左に進むと、道端には少し色あせた標杭があり、旧滝沢峠(白河街道)と記されていた。

 

道端に立てられていた「旧滝沢峠(白河街道)」案内板を見た。「新編會津風土記」に記されていたものと同じ内容だった。

  

 白河・会津街道は急坂となり、自転車を降りて直登した。

 

まもなく、舗装道が終わり、市役所土木課が設置した“車両通行止”看板がたてられたゲートが置かれていた。自転車を押して、脇を通り抜け、未舗装道に入った。

 

急坂は続いたが、道は、江戸期に整備された200年以上の歴史があるとは思えない雰囲気だった。

 

「滝沢峠」の白河・会津街道の特徴は、“石畳敷”の路盤。一見、苔と枯葉で分からなかったが、よく見ると丸石が敷かれ、歩くのに違和感のない平坦な路盤となっていた。雨や雪解け時のぬかるみの影響を受けることなく、会津藩主の参勤交代などで使われた往時を偲んだ。

 

しばらく登り、振り返って見ると良い景色だった。道の両側は桜の木ということで、春は桜並木になるという。歩いてみたい、と思わせる雰囲気だった。

 

街道の峠道は、一部スギ林の薄暗い区間に延びていた。 

 

平坦な区間に出ると、ほぼ直線に長い距離に延び、軍事上の配慮を必要としない、徳川泰平の時代に造られた道であることを思った。

 

しばらく進むと、路盤の石畳が変化し、削られた石で全面を覆った区間がしばらく続いた。道の脇には水路も設けられ、水はけが悪い箇所ということで施工法を変えたのだろうかと思った。

 

この全面石畳敷には、凸凹の箇所もあった。地震や流水による洗堀の影響などで、当時は維持が大変だったろうと思った。

 

 

 緩やかな坂を登ると、左に倒れた案内板があった。「舟石」と書かれていた。

 

「舟石」について、「新編會津風土記」には「船石」として記載されいる。

●瀧澤村 ○古蹟 ○船石
瀧澤坂の上街道の西側にあり、縦横丈餘の巨石にて貌船に似たり、府中島居町に鎮座ある伊舎須彌明神給ひし船の化する所なりと云傳ふ *出処:新編會津風土記 巻之31「陸奥國會津郡之二 瀧澤組 瀧澤村」(国立国会図書館デジタルライブラリ「大日本地誌体系 第二十六巻」p11,p18 URL:https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1179202)

  

 この「舟石」の先を見上げると、東屋が見えた。

 

 

12:15、「滝沢峠」の茶屋跡に到着。

 

茶屋跡には行先案内の標杭が立っていたが、「滝沢峠」の矢印は北を向いていた。北側には踏み跡に続いていたが、地理院地図を見ると「滝沢峠」のピーク(489m)は東側の金堀方面にあるので、直進した。

  

東屋の先に“芭蕉の道”と案内があり、踏み跡が続いていたので行ってみた。

 

すると、まもなく石碑が現れ、松尾芭蕉の句が刻まれていた。

 〽 ひとつ脱て うしろにおひぬ 衣かえ

松尾芭蕉自身は、みちのくの旅(奥の細道行)で会津に立ち寄っていなかったが、のちに訪れなかった事を惜しんだという。この歌碑は、芭蕉の死後164年を経て、1840(天保11)年に会津俳壇の歌人達が、芭蕉の句集「笈の小文」から選び刻んだものだという。

  

  

芭蕉の句碑を見終えて、峠道を進んだ。緩やかな坂が続いた。

  

まもなく、短い左カーブになり、解放されたゲートが見え、舗装道になった。

 

平坦な道が100mほど続き、その先が下り坂になっている事から「滝沢峠」白河・会津街道のピークに到着したようだった。 道の脇には、比較的新しい“新奥の細道”の案内板が立てられていた。振り返って、通ってきた道を眺めた。

  

 

峠道が下りになった直後の道端に、墓のようなものがあった。倒れていた案内板を見ると“会津藩三十八人墓”と書かれていて、戊辰役・会津戦争で命を落とした会津藩士を地元金堀・下馬渡の村民が葬った合同墓だった。

 

この“会津藩三十八人墓”の奥に、小高い場所が見えた。付近には「滝沢峠」の三角点があるということなので、そこに向かった。

 

 腰高ほどのクマザサと雑草の茂みを進んだ。

 

左(西)には、電波塔があった。

 

クマザサの茂みを抜けると、小高い山が現れ斜面を登った。

 

  

 

12:31、すぐに平場になり、白いプラスチック製の杭の脇に三角点標石があり、「滝沢峠」のピークに到着した事が分かった。


三角点標石に触れ、登頂を祝った。

 

標石には“三等”の文字がはっきり見えた。

  

「滝沢峠」ピーク周囲の様子。峠ということもあり眺望は無かった。

西側は灌木に覆われていた。

 

東側のはナラなどの木々に覆われていた。

 

 

 

12:36、「滝沢峠」ピークを後にして、峠道に戻り、自転車にまたがて急坂を下った。

 

坂を下り、金堀集落から振り返って「滝沢峠」を眺めた。家々の形状は変わったが、取り囲む風景は当時のままだ。江戸期に若松城下を目指してやってきた人々は、この峠をどのような思いで越えたのだろうかと思った。

 

 

金堀集落を抜け、200mほど白河・会津街道が合流する幹線市道I-9号線を進むと、右に標杭が見えた。

 

右斜めに進むと、新たな標杭がり、沓掛峠と書かれ、その先にバリケードが置かれ白河・会津街道が延びていた。白河・会津街道はこの後、沓掛峠、黒森峠と続き会津を抜け、猪苗代湖の南側を進み白河を通る奥羽街道(現在の国道4号線)に伸びている。

    

 

12:47、沓掛峠入口を後にして、市街地に戻る事にした。金堀集落越しに「滝沢峠」を眺めた。ピーク付近の電波塔が見え、峠道が山と山の間に拓かれた事が分かった。

   

今回も無事に、「堂ヶ作山」に登り、「滝沢峠」を踏破した。「滝沢峠」は思いのほか長く感じられたが、双方とも適度な負荷が得られ、楽しく登る事ができた。これで、会津若松駅付近の「会津百名山」3座に登頂したが、今回挑んだ「堂ヶ作山」と「滝沢峠」の組み合わせが、会津若松駅から『最も気軽に登れる会津百名山』だと確認できた。 

 

課題について。

登山道は、「堂ヶ作山」は踏み跡明瞭で、「滝沢峠」は当時の石畳敷の路盤が残り、ピークから金堀集落まではアスファルト舗装されているため、双方とも問題なかった。但し、「滝沢峠」の三角点は峠道から外れた場所にあるので、50mほどの藪道を刈り払いする必要と感じた。 

案内板は、「堂ヶ作山」は登山口(神社前)は必須で、山頂に山名標があればベスト。登山道は一本道なので、道中の案内板は不要だと思った。「滝沢峠」は史跡を含め、十分案内板があったが、更新が必要だと思った。会津藩主の参勤交代などに長く使われた道なので、石畳の路盤の見せ方も含め、案内板を新しいものに変えることを検討して欲しい。

 

二次交通について。

「滝沢峠」の終点となる金堀集落には、バス停がある。但し、日曜日は全便運休なので注意が必要だ。「滝沢峠」は雰囲気の良い旧街道なので、踏破後に来た道を引き返しても、違った風景が見られて良いのではないか。また、「滝沢峠」の先、沓掛峠から強清水まで白河・会津街道を歩き、バスに乗って会津若松駅前まで戻る手段もある(土日祝は15:44発が唯一適当な便になるので、事前確認が必要)。*参考:会津乗合自動車㈱「路線バス」 若松 ⇒ 金堀線/若松 ⇒ 河東 ⇒ 湊 ⇒ 高坂線

 

「堂ヶ作山」「滝沢峠」は、時間をかけゆっくりと登れ(歩け)ば負担の少ない「会津百名山」だ。只見線の乗る前や乗った後、会津若松市内観光の中に「堂ヶ作山」登山と「滝沢峠」トレッキングを組み入れ、多くの方に会津の歴史を感じながら、楽しく登って(歩いて)欲しいと思う。 

  

 

市街地へ戻る。

滝沢バイパスが開通(1966年)するまで国道49号線だった、くねくねとした市道幹Ⅰ-9号線を進む。途中、八幡字八百山のカーブで大きく開けた場所があり、田園に建物が点在する会津盆地を見通す事ができた。

  

対向車に気を付けながら快調に自転車を進め、15分ほどで「堂ヶ作山」に向かう白河・会津街道との分岐を通過。

 

滝沢本陣の前を過ぎ信号を左に曲がり、市道幹Ⅰ-8号線を進む。白虎隊自刃の地である飯盛山の入口となる仲見世には、観光客の姿が見られた。

  

 

13:09、『昼食は蕎麦』と思い、「そば処 和田」に到着。

 

店内は混んでいて、入口脇のテーブル席に案内された。「そば処 和田」は南会津町に会津のかおりの蕎麦畑をもっているのだという。 *参考:福島県「「会津のかおり」ができるまで」(PDF)

 

「天ぷらそば」を注文し、まもなく運ばれてきた。

 

蕎麦は透明感がり、ほのかに香りが立ち、のど越しと適度のコシが良く、旨かった。ボリュームもあったので、満足がゆく昼食となった。

  

 

ゆっくりと蕎麦を食べた後、会津若松駅に戻った。観光客の姿が目立ち、賑やかだった。

  

コインロッカーから荷物を取り出し、一つにまとめた。今日は高速バスを利用するため、駅前にある会津バスターミナルに向かった。

14:50、いわき行きの高速バスが、バスターミナルを出発  

 

 

いわき駅前に到着すると、駅前大通りはイルミネーションで明るく輝いていた。 

 

18:29、いわき駅から列車に乗り換え富岡駅に到着。今回の只見線を使用した旅も、無事に終える事ができた。


 

只見線沿線の「会津百名山」登山は、今年は今日で終了にすることにした。

今年は、登頂断念が2座(貉ヶ森山と大仏山)、初の滑落(2mほど)があったが、大きなケガや致命的な道迷いをせず、そして、何より熊に遭遇することが無く20座の「会津百名山」に登頂することができ、良かった。

全ての山の山頂で眺望を得られるということは無かったが、難易多様な登山道やその道中で見られた動植物、街道や村々をつないだ峠道の歴史など、歩いて・見て・知って、とても楽しく有意義な時間を過ごせた。“観光鉄道「山の只見線」”のアクティビティとして、沿線の「会津百名山」登山は魅力的なコンテンツになるであろうことを、より確信した。

 

課題は、登山道や案内板などの整備が絶対必要が山もあるが、やはり二次交通になる。自転車が二次交通のベースになる事は、再確認できたが、やはり電動アシスト付き必須で、日常性を感じさせてしまう“ママチャリ”型は観光鉄道化を目指す只見線には不適当だと思っている。

また、グループ登山の需要や、ソロ登山者が複数いる場合に対応するため、デマンド型送迎車も必要ではないか、と今年登山を重ねるうちに思うようになった。登山前に体力を消耗してしまっては、登山時の滑落や道迷いなどの事故を引き起こす可能性が高まるのではないか、と考えたからだ。

例えば、“只見線クラブ”というスマホ用アプリで会員登録してもらい、全日までに申し込むと、駅から登山口まで送迎してもらえるというもの。当面はタクシー会社に運行を委託し、運賃は一律ワンコイン(500円)、往復で1000円とし、不足分は行政側(只見線利活用を進める福島県)で負担する、という形が考えられる。この運賃では費用対効果が無い、という場合には、沿線への宿泊者だけワンコイン運賃にするなどの制度にすればよい。いずれにしても、只見線乗車と登山を楽しんでいただくために、移動の身体的・経済的負担を軽くするという制度設計が必要だと思う。

   

 

私の只見線沿線(自治体)の未登頂「会津百名山」は以下10座になった。“マイナー12名山”に挙げれている「丸山岳」(只見町)を除き、できれば今年中に9座を登りたいと思う。


 

【只見線沿線の未踏「会津百名山」】 *2021年11月28日現在

(1)第85座:美女峠(810m、三島町-昭和村)

[只見線最寄駅:会津宮下(三島町側、登山口(間方)まで約14km)、会津川口(昭和村側、登山口(野尻)まで約14km)]

コロナ禍前の2019年までは、秋に「美女峠トレッキング」イベント(主催:間方地区)があった。できればこのイベントで踏破したいと考えているので、コロナ禍が落ち着いて来秋に開催されれば参加したい。


 

(2)第65座:大仏山(994.3m、昭和村)

[只見線最寄駅:会津川口(昭和村、登山口(喰丸峠)まで約26km)]

2021年11月27日に積雪と悪天候のため断念した山。山頂からの眺望が期待できないため、春の残雪期に登りたい。


 

(3)第56座:駒止湿原/駒止峠(1,100m/1,135m、昭和村-南会津町)

[只見線最寄駅:会津川口(昭和村側、駒止湿原入口まで約32km)、只見(南会津町側)、駒止峠まで約42km]

只見駅~(自転車42km)~駒止峠~(自転車1km)~駒止湿原(輪行)~(自転車32km)~会津川口駅、という経路で踏破したいと考えている。距離が長いので、自転車はロードバイクが必要。調達出来次第、挑みたい。


 

(4)第27座:会津朝日岳(1,624.3m、只見町)

[只見線最寄駅:只見、登山口まで約20km]

来年の山開き登山(6月第四日曜日)に参加したいが、当日中に富岡町に戻るのは難しい。登山道が整備されている山開き前後に登りたい。


 

(5)第79座:八十里越(845m、只見町)

[只見線最寄駅:只見、入叶津登山口まで約7km]

八十里越街道にある“山神の杉”までは登った事があるが、その先は無い。できれば旧街道を踏破したいが、福島県側の崩落や不明箇所が多く、現状では無理。過去に、新潟県側の吉ケ平から八十里越街道を歩き、只見町に入って新道を通って叶津まで歩くイベントがあったので、また開かれるようであれば参加したい。来年「最後のサムライ 峠」がいよいよ公開されるので、その機運に乗じてウォーキングイベントが開催される事を期待したい。*映画『峠 最後のサムライ』製作委員会 URL:https://touge-movie.com/


 

(6)第36座:大戸岳(1,416m、会津若松市)

[只見線最寄駅:会津本郷、登山口まで約17km]

会津若松市の最高峰であり一等三角点峰。最寄り駅が会津鉄道・芦ノ牧温泉駅ということもあり、当初は登るつもりは無かったが、只見線大川橋梁を渡る際、車窓から大川(阿賀川)上流にそびえる優雅な山容を見続けるうちに、登るべきだと考え直した。山開き(毎年6月第2土曜日)に合わせて挑みたい。

 

 

(7)第73座:思案岳(874m、会津若松市)

[只見線最寄駅:会津本郷、登山口まで約17km]

登山口が、「大戸岳」闇川登山口から近く、『大戸岳に登るならば』と登りたいと思った。後述する「高贏山」と合わせて挑みたい。


 

(8)第70座:高贏山(933m、会津若松市)

[只見線最寄駅:会津本郷、登山口まで約19km]

登山口が「思案岳」登山口と林道一ノ渡戸・四ツ屋線でつながっていることもあり、同日登山をしたいと考えている。 


 

(9)第51座:舟鼻山(1,234m、南会津町-昭和村)

[只見線最寄駅:会津川口、登山口(舟鼻峠)まで約34km]

三角点(1,223.5m)、最高点(1,230m)は南会津町側にあるが、昭和村側から登山口に行くことができる。山頂は広い平場だが灌木や藪に覆われているため、残雪期に挑みたい。


 

  

(10)第17座:丸山岳(1,820m、只見町-桧枝岐村)

[只見線最寄駅:只見、登山口(黒谷川 大幽沢出合)まで約22km]

“マイナー12名山”に挙げられ、駅から登山口まで遠く、その後山中泊が必要な難関コースになっている。現状の私の登山技術では単独山行は難しいので、候補から外しておく。

*マイナー12名山:雑誌「岳人」2002年4月号で発表された『四季を問わず創造的登山をしなければ登頂できない名山』。①道がなく登頂することが困難な山であること、②山容風格ともに名山と呼ばれてもおかしくないこと、③山群の主峰、またはそれに準ずるものが望ましい、という3要件を満たした山となっている。選定人は大内尚樹氏、宮内幸男氏、高桑信一氏、そして「岳人」編集部。  

 

  

(了)

  

 

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*参考: 

・福島県 生活環境部 只見線再開準備室:「只見線の復旧・復興に関する取組みについて

・東日本旅客鉄道株式会社:「只見線(会津川口~只見間)復旧工事の完了時期について」(PDF)(2020年8月26日)

 

【只見線への寄付案内】

福島県はJR只見線全線復旧後の「上下分離」経営での維持費や集客・地域振興策の実施費用として寄付を募集中(クレジット可)。URL:https://tadami-line.jp/support/ 

①福島県ホームページ:只見線復旧復興基金寄附金・只見線応援団加入申し込みの方法 *只見線ポータルサイト「只見線応援団」

 

②福島県:企業版ふるさと納税

URL:https://www.pref.fukushima.lg.jp/sec/16005g/kigyou-furusato-zei.html

[寄付金の使途

 (引用)寄附金は、只見線を活用した体験型ツアーや周遊ルートの整備、只見線関連コンテンツの充実化等に活用させていただきます。 沿線地域における日本一の秘境路線と言われる観光資源を活用し、更なる利用者の拡大と認知度向上を図ります。

 

以上、宜しくお願い申し上げます。

次はいつ乗る? 只見線

東日本大震災が発生した2011年の「平成23年7月新潟福島豪雨」被害で一部不通となっていたJR只見線は、会津川口~只見間を上下分離(官有民営)とし、2022年10月1日(土)に、約11年2か月振りに復旧(全線運転再開)しました。 このブログでは、“観光鉄道「山の只見線」”を目指す、只見線の車窓からの風景や沿線の見どころを中心に、乗車記や「会津百名山」山行記、利活事業に対する私見等を掲載します。

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