金山町「炭酸水」 2016年 晩夏

金山町にある二か所「天然炭酸水」を求め、折り畳み自転車を携えてJR只見線の列車に乗車した。

 

今日の予定。

・只見線に乗車し会津川口駅、そこから代行バスに乗車し只見駅に向かう

・只見駅から会津川口駅方面に向けて、自転車で不通区間を走行

・途中、休止中の会津蒲生駅、会津塩沢駅、会津大塩駅に立ち寄る

・今回の目的地、「滝沢天然炭酸水」「大塩天然炭酸水」両炭酸場に行く

・会津横田駅から代行バスで会津川口駅に行き、只見線で帰路につく

 

以前(2014年4月8日)は運休区間(会津川口駅~会津塩沢駅)を約5時間かけて歩いたが、各地での滞在時間を増やし移動範囲の広げたいと思い、折り畳みの自転車を携え輪行旅をすることにした。

*参考:

・福島県:只見線ポータルサイト

・東日本旅客鉄道株式会社:「只見線について」 (2013年5月22日) 

・NHK:新日本風土記「動画で見るニッポンみちしる~JR只見線」 

・拙著:「次はいつ乗る?只見線」カテゴリ ー只見線沿線の食と酒ー / ー只見線の夏

 

 


 

 

郡山発の磐越西線始発列車に乗るため駅に向かう。夜は明けきっていない。夏の終わりを感じた。

 

1番ホームには、これから乗る列車が待っていた。“赤べこ”ラッピング車だ。

 

今回は輪行。自転車を列車に輪行バックに入れ持ち込んだ。輪行(収納)バッグには只見駅から乗る自転車が入っている。このバッグはJRの規定内の大きさ。*参考:JR東日本 「旅客営業規則 第二編 第10章 手回り品

5:55、定刻に会津若松行きの列車が出発。

  

磐梯熱海を過ぎ、中山峠を超えて会津地方に入る。今日は、「磐梯山」がくっきり見えた。稲穂も実り、色づき始めていた。

 

 

  

定刻に会津若松に到着。多くの高校生が改札口に並ぶ姿を見て、連絡橋を渡り、4番線に移動。只見線の折り返しのディーゼル車(キハ40形)に乗車。

今日は金曜日。この列車にも県立大沼・坂下・会津農林の生徒が乗り込み、出発時点ではほぼ満席となり、列車が出発したのち、七日町西若松からは通路まであふれる混雑ぶりとなった。

  

 

そして、会津坂下ですべての高校生を降し、車中は一転閑散としてしまった。私と同じ車両には他2名の乗客。この“差”を見るにつけ、公共交通、移動手段の在り方や運用方法などを考えてしまった。

 

 

会津坂下を出発すると田んぼの間を抜け、列車は右カーブを曲がりながら七折峠に向かって登り始めた。

  

塔寺を過ぎ、引き続き緩やかな勾配を登ってゆく。

    

柳津町に入り会津柳津を出ると、青空に緑の稲穂と「飯谷山」の稜線が映えた景色が見えた。素晴らしい光景だと思うとともに。天候に恵まれた事を感謝した。

 

列車は郷戸滝谷で停発車し三島町に入った。

 

 

会津桧原を過ぎると「第一只見川橋梁」を渡った。*以下、各橋梁のリンク先は土木学会附属土木図書館歴史的鋼橋集覧

橋上からは右(東)に高圧電線の鉄塔がわずかに見えるが、ほとんど人工物の無い大自然が広がる。東北電力㈱柳津発電所の調整池である柳津ダムが作る“湖面鏡”が、景観に一層の美しさを与えていた。また、列車は減速しているためディーゼル音は小さく、鉄橋を渡る音とともにこの風景を演出していた。何度見ても飽きない車窓の風景だ。

 

この季節のこの時間、車窓から見下ろすと、薄紫の鉄橋と“湖面”に列車の影が見えた。

  

   

次の会津西方を出た直後に「第二只見川橋梁」を渡った。

  

 

三島町の中心駅・会津宮下を出発し、まもなく右手に東北電力㈱宮下発電所の調整池である宮下ダムが現れ、ダム湖が眼下に広がった。

  

 

しばらく進むと、「第三只見川橋梁」を渡る。木々の葉が水面下にある。ここが湖ではなく、水位が変動する川であることを再認識した。

  

 

早戸を出ると、金山町に入り会津水沼に停車。出発するとまもなく「第四只見川橋梁」を渡る。トラス橋(下路式)であるため開放的ではないが、列車の速度が遅いため、鉄骨と鉄骨の間から景色を見ることができる。奥の山肌にはアバランチシュート(雪崩路)が見え始めた。 *参考:国土地理院 「日本の典型地形」 URL:http://www.gsi.go.jp/kikaku/tenkei_hyoga.html#アバランチシュート

  

 

次の会津中川手前には、東北電力㈱上田発電所の調整池である上田ダムがあり、上田集落越しに見える。ここでも、山肌にアバランチシュートが見えた。只見線の奥会津沿線を象徴する風景だ。

 

  

大志集落の脇を通り抜けると、前方に上井草橋が姿を現した。

 

 

 

9:39、終点の会津川口に到着。ホームでは旅行者と思わる方が写真を撮っていた。この駅の北側に広がるダム湖は、先ほど見た上田ダムが作り出している。

  

駅舎に向かう途中に振り向き、乗車してきた列車(キハ40形)の全景を眺めた。このカラーリングはJR東日本の東北地域本社色で、気仙沼線や女川線でも走っているが、白地に濃緑と淡緑のラインは自然豊かな只見線に最も似合う、と私は思っている。

 

  

駅舎を出る。国道252号線に面した歩道脇には花壇が整備され、きれいな花を咲かせていた。

  

駅前を東西に走る国道252号線を西に向かい、「転車台」を訪れることにした。春と秋に運行される「SL只見号」を牽引する蒸気機関車を、再び先頭にするためには必要な設備だ。気になっていたが、今まで見る事がなかった。場所は会津川口駅から近い。徒歩5分もかからない西側にある。直近まで行くことができた。

 

転車台は工事中でコンクリート打設用のR型枠が見事に設置されていた。

今秋にも運行が予定されている「SL只見線紅葉号」を迎え入れるための工事と思われた。運行は例年10月末~11月始だから、間に合うだろうと思った。

   

  

転車台の見学を終え駅に戻り、只見駅行き代行バスに乗り込んだ。運転手はいつもと同じ女性のドライバー。乗客は私の他一人。先ほど駅のホームで写真を撮っていた方だった。

10:25、代行バスは定刻に会津川口を出発し、国道252号線を南西に向かった。

  

出発してまもなく「第五只見川橋梁」が現れた。会津川口駅寄りの橋桁が無い。この光景が5年も放置されている。全線復旧し、再び繋がって欲しいと思った。

  

 

代行バスは、本名会津越川会津横田会津大塩の各駅近くに設けられたバス停に“各駅”停車し、滝トンネルを潜り抜け、只子沢を渡ると只見町に入った。

  

会津塩沢を過ぎ、まもなく寄岩橋を渡ると、二連の紫色のトラスが印象的な「第八只見川橋梁」が見えた。一見、被害は無いようだが、今回の運休区間で最も高額な復旧工事費(85億円のうちの45億円)が試算されている。


 

 

11:15、会津蒲生を経て、只見に到着。私が乗ってきたバスは運転手ごと交換し、「只見ユネスコエコパーク」ラッピング車が、折り返しの会津川口駅行きとして“入線”していた。

   

ここから自転車に乗り、今通ってきた国道252号線を北上する。持参してきた約12kgの輪行バッグから自転車を取り出し、組み立てた。

 

5分もかからず、乗れる状態になった。便利な世の中になったものだと、感動。

 

まもなく只見駅前を出発。国道252号線沿いにある近くのコンビニ(二階は以前に立ち寄ったマントケバブの店)に立ち寄り、昼食と、これから採取する炭酸水用の容器となる2本のペットボトル飲料を購入した。

  

それから、夏草が生い茂った只見線の線路を左手に見ながら、自転車を進めた。近くには福島県立只見高校がある。野球用のバッグネットが見えた。レフトとセンターを結ぶ線上を平行して只見線が走っている。

そこまで打球が届けばホームランだが、過去に打った球児はいるだろうか、と思った。ちなみに、今夏の只見高校は3回戦まで進み、日大東北高校に惜敗している。雪深い悪環境の中でも工夫し、練習に打ち込む球児達の努力を想像した。

    

  

国道252号線に戻り、ペダルをこいだ。

  

ゆるやかな坂を上ると、叶津の交差点に到着。国道289号線との分岐点だ。

 

国道289号線は「八十里越」とも言われ、新潟県三条市まで通じる予定となっているが、険しい山々が屹立し、まだ貫通していない。「国道289号線八十里越地点開発促進期成同盟会」のきれいな看板が、早期開通を訴えていた。 *参考:新潟県三条市 公式観光サイト「国道289号線八十里越

   

この交差点の南角には「叶津番所」がある。個人宅ではあるが、江戸時代に会津と越後の国境の口留番所だったという。

 

この「叶津番所」となっていた旧長谷部家住宅は福島県指定重要文化財となっている。*参考:極上の会津プロジェクト協議会 日本遺産「会津の三十三観音めぐり」 叶津番所(旧長谷部家住宅)

また、近所には国指定重要文化財の「旧五十嵐家住宅」もあり、奥会津の歴史の一端を見る事ができる。*参考:只見町「旧五十嵐家住宅」(PDF) / 文化遺産オンライン「旧五十嵐家住宅


  

ここ叶津には、只見線を代表する列車の撮影スポット「叶津川橋梁」がある。ゆったりとした曲線を持つ全長372mにの開放的な橋で、山と川に調和している。橋の構造は「プレートガーダー桁と鉄筋コンクリート桁との混成形式」、「曲線は半径250m」という。*出処:ウィキペディア「叶津川橋梁

 

反対側、山を背景に叶津川橋梁を眺めた。不規則に生えた橋上の草花には違和感を覚えたが、奥会津の自然に溶け込んでいる。

 

国道252号線上から、只見駅方面に向けて叶津川橋梁を眺めた。全長372mの長さを実感できた。

 

区間運休前(平成23年7月新潟福島豪雨以前)にここを通過した時は、それほど有名な橋とは知らなかったが、橋上の程よい高さから見渡す風景の美しさは印象に残っている。

  

「叶津川橋梁」を離れ、まもなく国道252号線沿いに真新しい建物が現れ、その正面には石碑があり“平成23年7月 新潟・福島豪雨災害記念碑 八木沢区”と刻まれていた。この建物はこの豪雨災害で被害にあった集会所が移転新築された「八木沢多目的研修集会施設」で、災害時避難所という看板も掲げられていた。

石碑の裏面には、現在の只見線部分運休の原因ともなった「平成23年7月新潟福島豪雨」水害の概要、国からの激甚災害指定、復旧作業でのボランティアの活躍、寄せられた義援金などに触れられ、最後は、“再びこのような災害に遭わ無いよう念じ、後世に伝える為にこの記念碑を建立する”と結ばれていた。

   

再び、国道252号線を進むと5分ほどで、蒲生川越しに「蒲生岳」の全容を見る事ができた。


この「蒲生岳」の“麓”にある、休止中の会津蒲生駅に立ち寄る。前回(2014年4月8日)は来ることを断念した駅。外から見るのは、初めてだ。

 

ホームに入らさせていただく。待合室は板に覆われ、鉄路を含め周囲は夏草に覆われていた。

 

只見線部分運休前(2009年8月17日)の会津蒲生駅の様子。

   

会津蒲生駅を後にして、国道252号線を北上。

途中、宮原地区で脇道に入り只見線の踏切で鉄路の状況を見た。ポールが取り外され、さび付いた遮断機が5年の年月を感じさせた。この遮断機が再び動き出すよう、只見線を全線復旧させなければならない、と思った。

  

国道252号線に戻り、しばらくすると只見川を蒲生橋で渡る。橋上からは、電源開発㈱滝発電所・滝ダムが作る“滝湖”を中心に緑の景色が広がっていた。奥の山にはアバランチシュート、手前の山裾には只見線のスノーシェッドが見られた。

  

只見線「第八只見川橋梁」の向かいに広がる寄岩地区では電源開発㈱が泊地(はくち)の新設工事を進めていた。

「平成23年7月新潟福島豪雨」で、緊急放流を実施せざるをえなかった滝ダム(発電所)の堆積物の浚渫用だろうか。只見線全線復旧後、沿線有数の撮影スポット「第八只見川橋梁」の価値が損なわれないような、位置や構造になっているだろうか、と心配した。

   

その「第八只見川橋梁」を、寄岩橋から眺めた。「蒲生岳」を背景に、滝ダム湖沿いを走る只見線。見てよし、乗ってよし、撮ってよしの“三方よし”の光景だと思う。

先にも触れたが、この「第八只見川橋梁」は橋桁や鉄路の流出は免れたが、橋梁の損傷や路盤の流出、想定水位の引き上げなどで復旧には多額の費用を要するという。JR東日本の試算では総費用の50%を超える45億円と試算されている。 *出処:東日本旅客鉄道㈱ 「只見線について」(2013年5月22日)p12

   

「第八只見川橋梁」の会津若松側の拡大写真。橋梁が改良され、盛土部分も補強されるという。

 

2連の下路曲弦ワーレントラスは復旧(対策)工事でも再利用され、引き続き景観を維持してくれる予定となっている。

このトラスは静岡県と長野県を結ぶ国鉄飯田線で使われていた「天竜川橋梁」を転用したものだという。只見線の会津川口-只見間は、電源開発㈱が只見川上流に建築した田子倉ダム・田子倉発電所のためにつくられた「電源開発㈱ 田子倉発電所専用鉄道」(1957(昭和32)年供用)が前身。同じ電源開発㈱が4年前の1953(昭和28)年に着工した佐久間ダムに飯田線の一部(約18km)が水没するために路線の付替え工事が行われ、このトラスが取り外され只見の地に移送、「第八只見川橋梁」の一部となったという。*出処:ウィキペディア「第八只見川橋梁」 / 参考:一般財団法人日本ダム協会「田子倉ダム」「佐久間ダム

  

寄岩橋を渡り、坂を登る。住宅の間の道を左折すると、まもなく休止中の会津塩沢駅が見えた。田んぼの中の小屋、と思わるような待合室が印象的な駅だ。

 

ここでもホームに入らせていただく。ススキが生い茂り、鉄路はほとんど見えなかった。

 

運休前(2009年)の様子。お盆で故郷を後にする親子連れの姿があった。この光景を早く取り戻したいと思った。

  

会津塩沢駅を後にして、「河井継之助記念館」に向かう。ここ只見町塩沢地区は、幕末の戊辰役北越戦争で長岡藩を率いた家老・河井継之助が息を引き取った場所。*参考:新潟県長岡市「越後長岡 河井継之助記念館

 

入館料(300円)を係員に渡し、館内へ。入るのは初めてだった。中央ホールは吹き抜けで、彼が臨終した矢沢宗益邸が展示されていた。もともとは目の前を流れる只見川沿いにあったが、ダム(滝発電所)建設のため水没することになり移築されたという。

  

河井継之助の銅像を見上げる。凛々しい姿だ。

 

河井継之助の生涯を記した資料、北越戦争の様子を編集したビデオ、彼が万が一のために購入していたガトリング砲の模型などを見て回り、一旦館外に出る。 

只見川を見下ろせる丘に「河井継之助君終焉之地」を示す石碑があった。

 

その向かいにはベンチが置かれ、“司馬遼太郎が眺めた場所”と立て看板が設置されていた。河井継之助を世に広く知らしめた小説「峠」の作者である氏は、ここで何を思ったであろうか。*参考:司馬遼太郎記念館 

再び館内に戻り、矢沢邸などを見てから記念館を後にした。

 

この後、300mほど北にある医王寺に向かった。

 

ここには河井継之助の“最初”の墓がある。「峠」の読了から約10年。長岡の墓所と会津若松の一時埋設所には訪れたが、ようやく臨終の地の墓前を訪れる事ができた。合掌。

  

国道252号線に戻り、只見川沿いを西に進み、塩沢スノーシェッドを通り抜ける。

 

只子沢を超え金山町に入り、2014年12月20日に供用を開始した滝バイパス( 総事業費 約27億円)を通り抜ける。バイパスができる前は、滝スノーシェッドの柱の間から滝ダムを見続ける事ができたが、現在は滝トンネルの出入りで一瞬見える程度になってしまった。電源開発㈱の発電所を持つ滝ダムは、只見川流域ダムでは奥只見、田子倉に次ぐ規模を誇る大型ダムだが、周囲の山並みと一体化した容姿を持つ。*参考:水力ドットコム「電源開発 滝発電所」URL: http://www.suiryoku.com/gallery/fukusima/taki/taki.html

滝ダム脇の“直角カーブ”や、狭隘な道幅を解消したバイパスの効果は絶大だが、寂しい。ちなみにこの滝ダムではダム湖にたどり着いた流木を木炭化するなどの取り組みをしているという。*参考:一般財団法人 新エネルギー財団 http://www.nef.or.jp/ieahydro/contents/pdf/a8/60ex/15-02.pdf

 

 

 

 

 

滝スノーシェッドを通り抜け、滝沢地区に到着。今日の目的地の一つである「滝沢天然炭酸水」の炭酸場(採取場)がある。

 

国道から見え位置に「滝沢天然炭酸水」の看板が立ち、駐車場には車が一台あり先客が居た。左手に容器を持ち、私に『自転車できたんですか。すごいですねぇ』を声をかけられた。

 

自転車を止め、丸太に取り付けられた看板の後ろの砂利道を下った。

 

『この先に何が?』と思ってしまった。

 

坂を下り、突き当りを右に曲がると沢の水を引いているような水場があった。

 

近づくと、コンクリートの桝がおかれ、正面に塩ビ管が通され水が絶え間なく流れていた。

水は透明。流れ落ちる水の音もいたって普通だ。今まで見たことのある沢水の飲み場と変わらない。これが炭酸水!? と疑ってしまう。藻も水中に漂っていた。次に行く「大塩天然炭酸水」と同じく井戸を想像していただけに、流水であることが信じられなかった。

 

欠けた“ヤン坊マー坊”のマグカップを見て『本当に炭酸水なのだろうか』と更に心配してしまった。

さっそく、持ってきたペットボトルを水の落ち口に当て注ぎ入れる。透明度やゴミの具合を確かめ、問題ない事を確認し飲んでみる。

 

...驚いた。うまい!

確かに炭酸だが、全く刺激を感じない超々微炭酸。“夏場は鉄分が増え、鉄臭くなる”と事前の情報があったが、そんなことはなく、すっきり飲めた。沢の水同様、しっかりと冷えてもいた。

 

この「滝沢天然炭酸水」の採取場(炭酸場)は個人の所有地だが、地区が借りて管理している。駐車場や下りてくる砂利道などは、震災前(2010年)に県の補助事業で整備されたという。

  

ペットボトルいっぱいに炭酸水を詰め、国道252号線に戻り、「滝沢天然炭酸水」炭酸場を後にした。

滝沢架道橋をくぐり、滝名子の坂を登り、代行バスの停留所となっている大塩体育館手前を右折。まもなく、両炭酸場の最寄駅である本来の会津大塩駅が見えた。

 

鉄路上には草が生い茂っていたが、ホームは綺麗で、周囲も除草されていた。地区住民の愛着が感じられた。

 

駅の東にある大塩第一踏切の様子を見る。車道部分の両側は背丈を超えるススキが生い茂っていた。鉄路のすぐ脇には、小さな黄色い花が咲いていた。

   

ここから町道を走り、橋脚が流失した「第七只見川橋梁」を四季彩橋から眺めた。橋脚が残った風景は、テーマをもった絵画のような趣きを感じさせた。

 

だが、橋脚と途切れたレールを見ると現実に引き戻された。

 

 

 

 

 

次の炭酸場、「大塩天然炭酸水」の炭酸場に向かう。田んぼの間の砂利道を進み国道252号線に入ると、まもなく小屋の壁面に描かれた案内が目に入った。

 

その前に、大型バスが停められるような駐車場とトイレが整備されていた。まだ新しかった。

  

ここから町道に入ると、まもなく炭酸場に到着。林を切り開いた空間の奥に屋根が見えた。

 

新聞やテレビで見る機会が多くなった、丸太組の屋根と独特の書体で書かれた「炭酸水」の天然木看板。屋根に覆われた井戸には、網が張られていた。ここにゴミを投げ入れる心無い人がいるようだが、その対策だろうかと思った。

 

井戸を覗くと、感動の光景が。井戸の底から細かな泡が立ち上り、コポコポ、プチプチとかわいらしい音を出し続けていた。

  

この音をBGM用として音源化すれば結構受け入れられるのではと思えるほど、地上ではまず聞くことができない音色だった。

 

井戸の炭酸水はあふれだしていて、手を伸ばせば汲める距離だったが、備え付け紐のついた薬缶を使い炭酸水を汲み上げ、持参したペットボトルに入れた。 

さっそく飲んでみる。...うまい! 冷えてもいる。「滝沢」のものよりも重く、炭酸もわずかに強いと感じられた。そこで飲み比べてみる。やはり同じ感覚。流水の「滝沢」、井戸の「大塩」の違いか。  

両「炭酸場」の間は約2.5km。歩くのはきつい距離だが、自転車であれば負担無く移動できる。只見線全線復旧の折には、会津大塩駅に自転車を置くなどして、只見線の乗客が、容易に飲み比べができる環境を整えて欲しいと思った。

  

敷地内には「大塩天然炭酸水の由来」という案内板も設置されていた。

明治前期には旧会津藩士が「太陽水」が命名し販売され、明治後期には「芸者印タンサンミネラルウォーター」としてドイツに輸出し、東京・銀座では「万歳炭酸水」として直営店販売していたと書かれていた。これほどの歴史があり、世の中に広く受け入れられていたとは知らなかった。

この「大塩炭酸場」のすぐ脇には、炭酸水をボトリングする工場がある。「滝沢炭酸場」の向かいにも同じ会社の工場がある。この民間の力を借りて、「金山炭酸水」が“復活”することを期待したい。*参考:株式会社 ハーベス 「奥会津金山 天然の炭酸水

  

炭酸場巡りを終え、国道に戻り先に進んだ。

途中、路地を入ると只見川沿いに「大塩温泉共同浴場」がある。「大塩炭酸場」から徒歩10分程度。去年(2015年)8月にリニューアルされたばかりだという。*参考:金山町「大塩温泉

今回は訪れることができなかったが、会津大塩駅からも徒歩圏にあり、両炭酸場と一緒に楽しむことができる場所だと思う。次回は立ち寄りたい。   

 

国道をさらに東に進み、横田地区にかかる只見川の二本木橋から川下を眺めた。川岸のかなり高い部分に住宅があるが、護岸工事が済み、右岸にはまだ新しいコンクリート壁が並んでいた。

「平成23年7月新潟福島豪雨」では只見川がこの高さまで増水し、流失した家屋もあった。このコンクリート壁はその対策だが、只見線を部分運休に追い込んだ豪雨災害のすさまじさを思い知らされた。

  

二本木橋から川上に目を向けると、1kmほど上流に「第七只見川橋梁」が見えた。

 

二本木橋を渡り、少し先を右折し休止中の会津横田駅に着くと、駅は夏草に覆われていた。

 

ホームに入らさせていただく。ススキは見られず、ツル性の雑草が鉄路一面に這い、ホームの鉄柵にも絡みついていた。

 

駅の東にはスノーシェッドがある。本線と側線を囲める大きさ。ホームの西端の先には本線と側線の分岐箇所が、草に埋もれながらもかすかに見る事ができた。


かつてこの駅の南側には「横田鉱山」があり、1959(昭和34)年から1972(昭和47)年まで操業していたという。この側線やスノーシェッドは、その名残りだろうか。

 

会津横田駅を後にして会津川口行きの代行バスを待つ間、バス停前のスーパー「ヒロセ」で買い物をする。そして、自転車を折り畳み輪行袋に収納した。   

待つこと10分、15時3分発の代行バスがやってきた。扉が開いて、驚愕した。なんと満員で、補助椅子が二つ空いているだけだった。

東京圏から只見線を使い周回する場合、この代行バスを使うことになるが、乗客の様子を見ると大半はその“周回”旅を楽しむ方々だと見受けられた。今日は平日の金曜日。素晴らしいことだと思った。

私は輪行バッグが他の乗客に当たらないよう気を使いながら、補助椅子に腰を下ろした。

   

  

その後、途中の“駅”では乗客はおらず、代行バスは定刻をわずかに過ぎて会津川口に到着。私も含め、ほとんどが会津若松行きの列車に乗った。出発を待つ列車は2両編成で2両目は代行バスと同じ「只見ユネスコエコパーク」のラッピングがされていた。

15:27、福島県立川口高校の生徒も乗ってきて車内が賑やかになった列車は、会津川口を出発した。

  

 

車中では、往路と同じように車窓から風景を眺めた。

陽の光の当たり具合で、往路とは風景も違っていた。宮下ダムもこのアングルから見続けると、良い景色だと思った。

   

 

塔寺を出て、七折峠を下り切り、会津平野に入る。列車は黄金色に色づきそうな稲穂の中を進んでゆく。会津の風景を堪能しながら、終点の会津若松に向かった。

  

  

今回は、自転車を使ったおかげで、今まで以上に濃厚な旅となった。  

金山町の二つの「炭酸場」は、観光と特産品の両面で価値が高いと思った。大塩温泉を絡めれば、滞在型の観光として大きく育つ可能性を感じた。 

只見線が全線復旧し、会津大塩駅での途中下車で、1時間から3時間の滞在プランを用意すれば観光客はさらに増えて、“只見線に乗るなら、炭酸水を飲もう”という文化が創れるかもしれない。

 

次回は、大塩温泉を訪れ、その可能性を探ってみたいと思う。

 

 

(了)

 


・ ・ ・ ・ ・ ・

*参考:

・福島県 生活環境部 只見線再開準備室:「只見線の復旧・復興に関する取組みについて


【只見線への寄付案内】

福島県はJR只見線全線復旧後の「上下分離」経営での維持費や集客・地域振興策の実施費用として寄付を募集中(クレジット可)。

①福島県ホームページ:只見線復旧復興基金寄附金・只見線応援団加入申し込みの方法 *現在は只見線ポータルサイト「只見線応援団」URL:https://tadami-line.jp/support/

 

②福島県:企業版ふるさと納税

URL:https://www.pref.fukushima.lg.jp/sec/16005g/kigyou-furusato-zei.html

[寄付金の使途]

(引用)寄附金は、只見線を活用した体験型ツアーや周遊ルートの整備、只見線関連コンテンツの充実化等に活用させていただきます。 沿線地域における日本一の秘境路線と言われる観光資源を活用し、更なる利用者の拡大と認知度向上を図ります。

  

よろしくお願い申し上げます。

次はいつ乗る? 只見線

東日本大震災が発生した2011年の「平成23年7月新潟福島豪雨」被害で一部不通となっていたJR只見線は、会津川口~只見間を上下分離(官有民営)とし、2022年10月1日(土)に、約11年2か月振りに復旧(全線運転再開)しました。 このブログでは、“観光鉄道「山の只見線」”を目指す、只見線の車窓からの風景や沿線の見どころを中心に、乗車記や「会津百名山」山行記、利活事業に対する私見等を掲載します。

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