名物・馬肉(桜肉)と3つの酒蔵の日本酒を呑もうと、JR只見線を利用し会津坂下町に向かった。
会津坂下町は会津盆地の西にあり、かつては越後街道の宿場として栄えた。只見線の駅は、若宮ー会津坂下ー塔寺ー会津坂本で、会津坂下駅付近には二つの県立高校(坂下、会津農林)があるため、起終点の駅を除くと最大の乗降客がある。
今日は、猪苗代町の「土津神社」と会津若松市七日町の「會津庄助蔵」に立ち寄ってから会津坂下町に入り、駅の北側に広がる市街地を歩き、「馬肉」を食べ、3軒の酒蔵の「地酒」を呑む予定だ。
*参考:
・福島県:JR只見線 福島県情報ポータルサイト
・東日本旅客鉄道株式会社:「只見線について」 (2013年5月22日)
・NHK:新日本風土記「動画で見るニッポンみちしる~JR只見線」
・拙著:「次はいつ乗る?只見線」カテゴリ ー只見線沿線の食と酒ー / ー只見線の冬ー
今朝、8時過ぎに郡山駅に向かう。上空には鼠色の雲が広がっていた。構内に入り、切符を購入して、急ぎ1番線に停車中の列車に飛び乗った。
8:29、会津若松行きの列車が出発。
快速列車なので安子ヶ島と中山宿を通過し、沼上トンネルを抜け会津に入る。
9:08、猪苗代に到着。スノーボードなどを携えた、20代前後の多くの若者と一緒にホームに降りた。会津松平藩祖・保科正之公の墓参りをするため、途中下車。
会津若松を起点に持ち、会津地方を駆け抜ける只見線にとって、保科正之公を知ることが利活用に役立つと思い、今回初めて墓参することにした。
駅を出て「磐梯山」の山すそに向かう道を、黙々と歩き、30分ほどで「土津神社」に到着。土津はハニツと読む。正之公が祭神として祀られている。正之公は熱心に学んだ神道家でもあり、土津霊神として神式で葬られた。
正之公は徳川家康の孫で、異母兄・徳川三代将軍家光を輔佐し、甥の4代将軍家綱を後見し江戸幕府265年の基礎固めに大きな役割を果たすとともに、1643(寛永20)年に会津藩を拝領すると殖産興業や社倉制度の充実などで民生の安定を図り、“奥州の抑え”の役割を果たせるよう藩政の改革と充実を推し進めた。正之公は現代に通ずる会津の歴史・文化的価値の創造者の一人であることは間違いない。
土田(ハニダ)堰を渡り鳥居をくぐり、工事中の拝殿に進み参拝した。梁には徳川の家紋「三つ葉葵」入りの扁額が掲げられていた。
参拝を終え、拝殿脇から、さらに山裾に伸びる参道を進んだ。
5cmほど積もった雪を踏みながら、435mの参道を上ってゆくと、8分で「奥の院」に到着。正之公の墓がある場所だ。
「奥の院」の前に立ち参拝し、木塀を間を除くと墓石が見え、“会津中将源君之墓”と刻まれていた。正之公に送られた官位が「正四位下左近衛中将兼肥後守」であるため、彼は会津中将と呼ばれるていた。 *幕末の9代・容保公は藩主になって9年後に左近衛中将になっている
墓石の裏には八角の墳墓があり、墳頂には土津神墳鎮石が据えられていた。鎮石は2011年の東日本大震災でズレや欠けが発生し、修復されている。
「奥の院」での墓参を終え、再び参道を下り、鳥居脇にある「土津神社霊神之碑」を見る。保科正之公の履歴を1943字で刻んだものだ。選文は山崎闇斎、筆者は土佐左兵衛高庸。
高さ7.3m、重量30tの日本最大の石碑を支えているのが「亀石」。元々南を向いていたが、“猪苗代湖に向かって逃げ出してしまったため”、向きを北側にすると二度と動く事はなくなったといわれている。
鳥居を背に南を眺めた。
猪苗代湖がうっすらと見えた。
保科正之公は、会津藩の出城であった猪苗代城(亀ケ森城)からここ(見祢山)に登り、磐椅神社に参拝した際、この眺めが気に入り墓所に定めたという。
当時、徳川幕府は葬式は仏式と定めていたが、正之公の功績と関係者の尽力で神葬祭が可能となった。会津松平藩は二代・正経が仏式の後、三代・正容から九代・容保まで神式で葬られている。 *二代以降の墓所は会津若松市内の院内御廟にあり、土津神社とともに「会津藩主松平家墓所」として国指定史跡になっている。*参考:会津若松市「 会津藩主松平家墓所(院内御廟)」
正之公は“将軍のご落胤”で、父秀忠が正室・江の方(浅井長政娘)に憚り認知しなかったため、武田信玄の娘を頼りながら幼少期を過ごし、武田家臣だった保科家(信濃高遠藩)の養子に入り武家の素養を身に着けてゆく。1631(寛永8)年に養父・保科正光から家督を継ぎ高遠藩主となり、翌年に実父・秀忠が亡くなることになるが、父子の対面は叶わず認知もされなかったという。このため、正之公は武田家とそれに連なる保科家への恩義が強く、幕府から松平姓と葵紋の使用を許されたがこれを固辞した(三代・正容から松平を名乗る)。
正之公は、義の人であり希代の名君であった、と言われている。彼によって定められた『会津家訓十五箇条』は幕末・戊辰戦争でも忠実に守られ、会津の人や風土に大きな影響を与え、現在も脈々と受け継がれている。
正之公が治めた歴史を持つ会津に敷かれた只見線は、車窓からの豊かな自然を見られるばかりでなく、正之公が礎を強固なものにした会津の財(産業、歴史文化)を観光資源として活用できる。この遺産を最大限に生かし、多くの乗客を乗せる観光鉄道になって欲しいと思う。
この後、磐椅神社への参拝をした後、猪苗代駅に戻り、列車に乗って会津若松市に向かった。正之公を国元で支えた家老・田中三郎兵衛正玄の墓にも参りたいと思ったが、場所が分からず断念した。
11:50、会津若松に到着。雪は全く見当たらず、猪苗代より寒さは感じなかった。駅前のバスプールから「まちなか周遊バス・ハイカラさん号」に乗り、七日町方面に向かった。
12:09、七日町中央に到着。先月オープンした「會津庄助蔵」に向かった。*参考:「會津庄助蔵」Facebook URL: https://www.facebook.com/aizushosukekura/
バス停から少し大町札辻方面に引き返すと、「七日町パテオ」に着いた。ここに「會津庄助蔵」がある。
入口脇には“小原庄助”さんボードが立ち、『やっているよ』と示していた。「會津庄助蔵」の営業を表すものだが、ちょっと分かりづらかった。
奥に入ると蔵の入口があり、看板が掲げられていた。
重い引き戸を開け、中に入る。右側はガラス張りになっていて、外光が入り明るい店内になっていた。そのガラスの前には棚が置かれ、色とりどりの四合瓶が綺麗に並べれていた。会津地方の29蔵、30種がある(ちなみに会津地方には35の蔵があるという)。
各瓶の前には名刺大の説明書きが置かれていた。
スタッフは1名。彼女から説明を受け、¥500を“店内硬貨”である“庄助(王冠)”3つと交換。棚に置かれた希望の酒の番号を伝え、店頭に置かれたお猪口に注いでもらう。1庄助で1杯と、中には純米大吟醸もあるので、お得だと思った。
どれも旨く、お猪口では物足りなかったが、この後の予定もあり三杯でやめた。
このお猪口による試飲の他、おつまみの付いた“もっきりセット”(6庄助)があり、急な“蔵階段”を上った2階の炬燵が置かれた居間でゆっくりと楽しめるという。
七日町通りは、無電柱化工事が進み国内屈指の歴史通りになろうとしているが、会津地方の大半の蔵の酒を呑む事ができる「會津庄助蔵」はこの空間に厚みを持たせる施設だと思った。誘客方法や店頭表示に工夫を凝らし、今から多くの観光客が訪れるようにして欲しい。
また、「會津庄助蔵」のような“会津酒蔵試飲場”を会津若松駅構内にも作って、訪会客に会津の酒の地力を感じてもらい、新酒鑑評会6年連続日本一を誇る福島県全体の醸造力に思いを馳せて欲しいと思う。
「土津神社」「會津庄助蔵」での予定を終え、七日町駅から会津坂下町に向かった。「馬肉」の料理で昼食を摂り、夜は、3軒の酒蔵の「地酒」を呑むつもりだ。
七日町駅には高校生を中心に、多くの客が待っていた。
しばらくすると、冬の雲の間に広がった青空を背に列車が入ってきた。
13:10、会津川口行きのキハ40形2両編成が七日町を出発。
七日町~会津坂下間の料金は410円。
西若松を経て、大川(阿賀川)を渡る。青空は見えなくなってきた。前方に見えるのが国指定史跡である向羽黒山城を持つ向羽黒山(408m)と羽黒山(344m)。
駅から国道49号線沿いにある、昼食を摂るため「ドライブインほり」に向かった。
赤穂浪士の堀部安兵衛の誕生地である貴徳寺などに立ち寄り、15分ほどで「ドライブインほり」に到着。国道49号線沿いにあり、“桜さし”の大きな看板が目立つ、一度見たら忘れない店構えだ。国道側の3階建て建物の1階が売店で、その隣の和風建築物が食堂になっている。
食堂に向かい、大きな玄関を入る。ホールの右側が食堂になっていて、天井が高い両側座敷の作りだった。
靴を脱いで上がり、メニューを見ているとお通しとして桜肉の煮込みを出された。さっそく手を付ける。煮込みは初めてたっだが、脂分が無く牛筋よりも淡泊だが、適度な弾力と柔らかさ、そして深みのある味で旨かった。
メニューを見る。
2品食べたいと思って来店し、煮込みが出されたのでどうしようかと迷ったが、予定通り頼む事にした。「桜焼肉定食」と「桜さしみ(モモ)」単品だ。
注文後、5分と掛からず用意された。客が少ないが、異様な早さに驚いたが焼肉の状態を見て合点がいった。肉はタレに付け込んであるので焼きの時間が短く済み、刺身は専門店ならでは早業なのだろうと考えた。
「桜焼肉定食」。
一見マトン(羊)のような肉の外観と縮れ具合だったが、口に入れると全く別物だった。臭みは全く無く、肉感があり、タレとの相性が素晴らしいと思った。脂身が無いため、ドンドンと箸が進んだ。初めて食べた桜肉(馬肉)の焼き肉だったが、想像以上に旨く、注文して良かったと思った。
「桜さしみ(モモ)」。
「桜肉のさしみ(馬刺)」は何度か食べた事があったが、まずこの色つやに驚いた。ここまでのものは目にしたことが無かった。
口に入れると、程よい弾力があり、臭みは全く無く、肉自体に感じられる程の強い味はない。次に、辛子味噌を醤油に溶かして食べてみる。旨い! 肉の食感を十分に堪能させながら、すっかり料理に変わってしまった。産地の空気がそうさせているのだろうが、何度か食べたことのある馬刺しが、これ程旨いものだったと再認識させられた。本当は地酒と一緒に食べたかったが、今後の予定を考えて食事だけにしたこのさしみ、香りや甘みが微かに残った程よく冷えた純米酒と合わせたら、たまらないだろうと思った。
食事を終え、会計をする。驚いたことに、お通しで出された「煮込み」はサービス品(無料)だった。さすが、専門店と思わせる心遣いに、また来たいと思った。
会津坂下町はかつて街道の宿場町として賑わい、馬のセリ場があったことから「桜肉(馬肉)」を食べる文化が根付いたという。詳しくは文末に記す。町には馬肉を扱う精肉店が7軒(他にスーパー有り)、飲食店が約20軒(内精肉店直営3軒)あるとう。今日訪れた「ドライブインほり」は隣に売店があるように精肉店直営だ。 *パンフレット出処:会津坂下町観光物産協会「ばんげ美味・馬マップ」(PDF)
「ドライブインほり」を後にして、町内3軒の“酒蔵群”に向かった。
国道を左折し正面に見えて来たのが「曙酒造」(1904(明治37)年創業)。蔵の間の道を進もうとすると、ちょうど15時の休憩のようで、職人が次々と作業場から出てきて、すれ違う私に挨拶をしてくれた。「天明」各種、「一生青春」が作れれている。
町道を役場方面に100mほど進むと、「豊国酒造」(1862(文久2)年創業)が見えてくる。一昨日、酒蔵見学をしたいと連絡したところ『見学は10月で終わりました』ということだった。「大吟醸 學十郎」「吟醸 真実」「豊国」「豊久仁」などの銘柄がある。ちなみに「豊國酒造」という名の酒蔵は県南の古殿町にもある。
再び町道を90mほど進むと「廣木酒造」(1804~30年(文政年間)創業)がある。プレミアム日本酒の先駆けとも言える「飛露喜」の醸造元だが、ほとんど地元で消費されてしまうという「泉川」もある。*参考:福島県南酒販㈱「酒蔵探訪」:70 「飛露喜」「泉川」合資会社廣木酒造本店
会津坂下町は越後街道の宿場であったが、現在は3軒の酒蔵があり、全て1800年以降に操業し、うち1軒は明治に入ってからだ。喜多方市は街道の宿場ではなく在郷町(農村部の都市的集落)として発達したが、1631(寛永8)年に酒造りを始めた蔵も含め、多い時で30軒の酒蔵があったという。そのように考えれば、会津坂下町にももっと多くの酒蔵があったと思うが、それがはっきりと分かる資料が見つからなかった。
これは想像だが、現在残る3軒は、宿場町の賑わいと生活を支えた酒蔵群の伝統を引き継いでいるのだろう。これから呑む各蔵の酒が楽しみになった。
酒が呑める店の開店まで時間があるので、町内を歩いた。
まず、戊辰役で娘子隊を作り、新政府軍との戦いで銃弾を受け亡くなった中野竹子女史が眠る法界(ホッカイ)寺に向かう。左の門柱には、“会津戦争之烈婦 中野竹子之墓”と書かれた木札が掛けられていた。*参考:会津坂下町「中野竹子関連」URL: https://www.town.aizubange.fukushima.jp/soshiki/29/321.html
ここには作曲家・猪俣公章氏の墓あり、門を入って直ぐ左脇にある猪俣家墓所の墓誌には“11代佐平治 公章”と刻印されていた。猪俣総本家の当主にあたる方だったようだ。
中野竹子女史の墓は猪俣家の墓所から先に進んだ左角にあった。百合を含む、まだ新しい花が手向けられていて、雪吊された立派な松もあり、18歳で亡くなった(一説には22歳)方の墓とは思えない荘厳さで、彼女が残したものの偉大さが伝わってきた。
中野竹子女史は、江戸詰勘定役の長女として生まれ、戊辰戦争が始まるまで当地で暮らしていた。才色兼備で書では祐筆まで務め、“小竹”という雅号で和歌を詠み、薙刀は免許皆伝の腕前だったという。鳥羽・伏見の戦いが始まると、藩主・松平容保が会津に引き上げるのに従い家族とともに会津に帰る。その後、現在の会津坂下町で子供たちに学問や薙刀を教えていたが、新政府軍が若松城下に迫ると「娘子(ジョウシ)隊」という義勇軍を結成し、容保の義姉・照姫を守るために若松城に入る。そして、慶応4(明治元)年8月25日に「柳橋(涙橋)の戦い」で善戦するも、新政府軍の放った銃弾を受け亡くなった。介錯された首級は法界寺に埋葬された。このため、彼女は“烈婦”や“烈女”と呼ばれる事がある。
彼女の辞世の句は、戦闘で使用した薙刀に付けた短冊に書かれていたという。
〽武士(もののふ)の猛きこころにくらぶれば 数にも入らぬ我が身ながらも
*参考::会津の先人たち 中野竹子/一般社団法人ニッポニア・ニッポン「会津物語」:8 戦場に咲き誇った一輪の花 中野竹子/福島民友新聞「会津の華は凛としてー新島八重の生涯ー」22.娘子軍の結成と八重(2012年8月26日)/会津若松市「戊辰150周年」
法界寺を後にして、会津坂下町の「馬肉」や「日本酒」、「只見線」についての歴史を調べようと中央公民館内にある図書室に向かった。
途中、古い蔵があり、表に回ると「八二醸造」という味噌屋だった。その店頭に町の“街角に歴史あり”という小さな看板が取り付けられていた。
ここは戊辰戦争の際に西軍(新政府軍)に接収され、野戦病院となった。そして、ここで亡くなった小倉藩士の生田孫八郎氏と岩竹伝七氏は、今でも当家で弔われているという。“街角に歴史あり”とはそのままに、宿場町であり戊辰役の戦場となった会津坂下の街なかにはこのような逸話が多いようだと思った。
役場と駅の間にある中央公民館に到着。広場では、子どもたちがテニスボールで野球らしき事をしていた。
土足厳禁の図書室に入り、「会津坂下町史」(編集:会津坂下町史編さん委員会)や「会津坂下町史」(編集:田代重雄)などを読む。「馬肉」や「日本酒」に関する記述は生産や取引の量などで他欲しい情報は得られなかった。
「只見線」については、『越後街道の宿場でありながら、岩越線(現磐越西線)の誘致合戦で喜多方に負け、歴史に取り残された』事もあってか、両誌とも詳しい記述がなされていた。この史実は興味深く、もし岩越線が会津坂下経由となっていたら、只見線の起点が会津坂下となり、不採算区間が廃止されていた可能性がある。なぜなら、只見線は会津若松~会津坂下間の乗客が格段に多く全体の数字を押し上げているからだ。「平成23年7月新潟・福島豪雨」で運休となった会津川口~只見間は線内で最も利用者が少ないながらも、なんとか復旧にこぎつけられたのは、起点が会津若松だったと私は思う。今でも岩越線(現磐越西線)が喜多方を通っている事に悔しい思いをされている町民の方も多いと思うが、私はこの歴史の流れに感謝したい。
18時前に移動を開始して、地酒を呑むために居酒屋に向かった。
事前に調べておいた「虎次郎」に開店と同時に入る。店内は広々としてカウンターの幅もあり良い雰囲気だった。
冷蔵庫の上には廣木酒造の「飛露喜」の空き瓶が並べられていて、会津坂下町の3つ酒蔵の主要な銘柄も、しっかり置かれていた。
さっそくメニューを見ると“飲み比べセット980円”とあり、“会津坂下3酒蔵”から各2種と会津地方の名の知れた酒が並んでいた。
まず注文したのが、「飛露喜」(廣木酒造、特別純米)、「天明」(曙酒造、純米)、「一生青春」(同、特別純米)の3種。冷やされた酒器に注がれ、各種の“名札”も並べられ、出された。
次に頼んだのは、「真実」(豊国酒造、吟醸)、「泉川」(廣木酒造、純米吟醸)、「ばんげぼんげ」(豊国酒造、純米吟醸)の3種。
どれも旨く、笑みがこぼれた。純米はさっぱりしているが、香りや深みに特徴が感じられた。吟醸酒は、まろやかでコクと甘みはもちろん、冷やながら香りがしっかり立っていた。
レベルの高い酒を並べて呑むと、味の表現が難しなる。香り、深み、口当たりなど微妙な違いがあり、それは生産地で味わう事と相まって、大きな喜びを感じさせてくれた。
肴は、遅めの昼食の“馬肉づくし”が腹に残っていた事もあり、軽めのものにした。鯵の開き、卵焼き、冷奴、そしてお通し(野菜のコンソメ煮)。
満足できた酒宴となった。予定では「馬刺しで地酒」だったが、それは次回の楽しみにしようと思った。
会津坂下町は、只見線に乗ると“高校生の町”という印象が強い。平日の会津若松7時37分発の列車に多数の高校生が、会津坂下で一気に降りて、社内も一気に閑散とするからだ。
しかし、今日「馬肉」と3酒蔵の「地酒」を呑み、歴史文化財を見て回り、観光地としての地力を感じた。越後街道の宿場で岩越線(現磐越西線)敷設の候補地になり、歴史的要地であた史実が、この地力の根拠となっているのだろう。
店を出る。外は、年末ということもあり賑わっていると思ったが、旧越後街道の役場前通りに人気は無かった。
駅に向かい、会津若松行きの列車に乗り会津坂下町を後にした。明日は、只見線の始発列車に乗り、小出まで全線乗車する予定なので、今夜は会津若松で宿泊する。
今日は、猪苗代町「土津神社」、七日町「會津庄助蔵」を経て会津坂下町を歩き、「馬肉」を食べ町内3つの酒蔵の「地酒」を堪能した。また、中野竹子女史の墓前にも参ることができ、充実した一日となった。“会津”の歴史と産業の厚さを新ためて思い、また広く知られていない観光資源が未だ多く埋もれていると感じた。
この会津に通ずる只見線は、乗ることを楽しんでもらいながら、多くの乗客を沿線の観光資源へと運ぶ能力がある。只見線の利活用により、観光資源が掘り起こされ、持続的発展的な観光産業が作られてゆくと私は思う。
【会津坂下町の「馬肉」について】
前述したように、会津坂下町は、かつて越後街道の宿場町として栄え、荷役に使う馬に加えて農耕馬も多く、畜場とセリ場、屠場が塔寺付近にあり、馬食文化が生まれた。
馬肉は「桜肉」とも呼ばれ、“西の熊本、東の会津”と言われるように生産量は熊本県が2,316t、福島県が1,107t(大半が会津産)と全国2位を誇る。以下、青森、福岡、山梨各県と続き、この5県で国内の約9割を占めるという。*出処:農林水産省「平成28年度馬関係資料」馬肉関係
馬肉に使う馬は外来種で、農耕馬など頑丈な「重種」と、競走や乗馬に使うサラブレッドなどの「軽種」に分かれ、熊本産や青森産は重種が中心だが、会津産はほとんどが軽種という。重種は味わいが深いが肉が硬くサシが入った霜降りで、軽種は柔らかく赤身の肉種という。
会津で馬肉が食べられるようになったの150年前の戊辰戦争中と言われている(平石弁蔵著「会津戊辰戦争」)。現在は会津坂下町、会津若松市など会津地方の他、店舗は少ないが中通りの郡山市でも食べられる。生の馬刺しが食べられ始まったのは戦後しばらく経ってからで、昭和30年代の後半から冷蔵庫の普及に伴って急速に広がったという。『(引用)交通網や冷凍技術が発達する前で、新鮮な魚の刺し身が手に入らなかった会津の地理的条件も重なり、「刺し身と言えば馬肉」の文化が浸透していった』(福島民友新聞2016年9月4日)。
馬刺しが食べられ始めた当初は醤油にワサビを溶かしていたが、辛子味噌が合うと分かると爆発的に広がり、精肉店は競うように辛子味噌に工夫を凝らしていった。この“馬刺しと辛子味噌”については、若松に興行に来ていたプロレスラー力道山が会津若松市内の肉屋を訪れ、馬肉を『生でくれ!』と言いい持参した辛子味噌を付けて食べた後に広まったという逸話もある(福島民友新聞2016年9月4日)。
町内の精肉店の店頭にはロース、モモ、ヒレなど、さまざまな部位の馬刺しが並び、飲食店では馬刺しのほか、馬肉のステーキや握り寿司、ハンバーグなど様々なメニューがある。会津坂下町が実施した町民の意識調査(2013(平成25)年)で、対象者の半数以上に当たる53.2%が「馬肉は家庭食」と答え、「外食では食べない」とした人も多かったという。(福島民友新聞2016年9月4日)
*引用・参考:日本経済新聞社 NIKKEI STYLE:「幕末・維新がつくった会津・馬刺しの妙味 」(2013年11月30日) / 福島民友新聞「【食物語・会津の馬肉(上)】『健康志向』馬刺し人気 需要を伸ばす」(2016年8月28日) / 福島民友新聞 「【食物語・会津の馬肉(下)】 力道山が与えた『衝撃』 生食と辛子みそ」(2016年9月4日)
(了)
・ ・ ・ ・ ・ ・
*参考:
・福島県 生活環境部 只見線再開準備室:「只見線の復旧・復興に関する取組みについて」
・東日本旅客鉄道株式会社:「「只見線(会津川口~只見間)の鉄道復旧に関する基本合意書及び覚書」の締結について(2017年6月19日)
【只見線への寄付案内】
福島県はJR只見線全線復旧後の「上下分離」経営での維持費や集客・地域振興策の実施費用として寄付を募集中(クレジット可)。
①福島県ホームページ:只見線復旧復興基金寄附金・只見線応援団加入申し込みの方法 *現在は只見線ポータルサイト「只見線応援団」URL:https://tadami-line.jp/support/
②福島県:企業版ふるさと納税
URL:https://www.pref.fukushima.lg.jp/sec/16005g/kigyou-furusato-zei.html
[寄付金の使途]
(引用)寄附金は、只見線を活用した体験型ツアーや周遊ルートの整備、只見線関連コンテンツの充実化等に活用させていただきます。 沿線地域における日本一の秘境路線と言われる観光資源を活用し、更なる利用者の拡大と認知度向上を図ります。
以上、よろしくお願い申し上げます。
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