三島町「秋の工人まつり」 2022年 秋

新型コロナウィルスの感染拡大により、この3年間中止となっていた「ふるさと会津 工人まつり」(毎年6月第二土日開催)が「秋の工人まつり」として今日と明日開催されると知り、JR只見線の列車に乗って三島町に向かった。

 

三島町では1981(昭和56)年から「生活工芸運動」が始まり、昔から各家庭で作られてきマタタビやヒロロを用いた編み細工(ざる・かご等)の日用品(生活工芸品)を“再興”させようと、製作法を学ぶ教室や町民の作品展などを開催し、町ぐるみで活動が展開された。

「生活工芸運動」の発端は、50年前(1972(昭和47)年)に町で開かれた「観光土産物品コンクール」で、町のお爺さんお婆さんからマタタビ製のザル等、手作りの日用品がたくさん出品されたことに驚いた当時の町長が、千葉大学の先生(宮崎清氏)に相談したこと。この後、宮崎先生は学生を連れて町内の民家を巡り日用品や道具などを調査し、三島町に「生活工芸運動」を提唱したという。*出典/下掲出処:三島町「広報みしま No.200」(2009年11月号) URL: http://www.town.mishima.fukushima.jp/wp-content/uploads/2016/08/kouhou0911.pdf

また、町民からも『冬は好きだ。ものづくりができるから』という声が挙がり、宮崎先生の提唱と町民の動きの関係は不明だが、「生活工芸運動」は1981(昭和56)年から始まった。*参考:三島町「生活工芸館」三島町の生活工芸運動


「生活工芸運動」では憲章も定められ、地域、伝統、生活などものづくりで大切にすべき事柄が、簡素な言葉で挙げられている。

【三島町生活工芸運動憲章】
一.家族や隣人が車座を組んで 
二.身近な素材を用い 
三.祖父の代から伝わる技術を活かし 
四.生活の用から生まれる 
五.偽りのない本当のもの 
六.みんなの生活の中で使えるものを 
八.真心を込めてつくり 
九.それを実生活の中で活用し 
十.自らの手で生活空間を構成する


当初「生活工芸運動」で展開された手作りの編み細工はカゴやザルなどの日用品だったが、千葉大の宮崎先生の研究室で学んだ西牧氏が、生活工芸館の研究員として勤務を始め変化。西牧氏はバッグなどのデザインを考案し、“職人”と試行錯誤し完成させ、現在に至る多様な製品の土台を築いたという。

このような背景の中、2003(平成15)年に三島町のヒロロ細工・ブドウ細工・マタタビ細工は国から「奥会津編み組細工」として伝統工芸品に指定されることになった。*参考:経済産業省 東北産業局「奥会津編み組細工」、「奥会津編み組細工の製法や工程について

 

三島町では「全国編み組工芸品展」とともに、「ふるさと会津 工人まつり」が開催されてきた。このイベントは、「生活工芸運動」の拠点となる生活工芸館が1986(昭和61)年に開館したのを機に始まり、2019(令和3)年まで33年間途切れることなく続いていた。「ふるさと会津 工人まつり」は、工人の手による展示販売会であるが、“作り手と使い手の交流の場”でもある。

“工人”とは、三島町の定義で“自然素材を用いてものづくりに励む作り手”を指す。「ふるさと工人まつり」は、例年町の人口(1,614人(2019年9月1日現在))を上回る来場者を得ているが、第33回は悪天候にも関わらず2日間で2万3千人と人口の15倍近い人出を記録したという(工人の出店は183)。*参考:三島町「生活工芸館」ふるさと会津工人まつり



しかし、「ふるさと会津 工人まつり」は2020年からは今年まで、新型コロナウィルスの流行と感染対策から中止されてしまった。

 

そんな中、今年7月に『来夏の本格開催に向けて出店の規模を縮小し、コロナ対策の実験的措置を行いながら現環境下においても実施していける実績をつくりたい』(出処:三島町「生活工芸館」HP)との趣旨で、10月15日・16日の日程で「秋の工人まつり」を開催することが決定された。ただ、例年「工人まつり」と同時開催されていた、宮下地区のメインストリート(県道237号線)を会場とする「てわっさの里まつり」は企画されなかった。

  

私は、2019年の秋に只見線を利用して「ふるさと工人まつり」を訪れたいと思ったが、コロナ禍でそれは叶わずにいた。そんな中で「秋の工人まつり」を知り、必ず行こうと決め参加申込をして今日を迎えた。


今日の旅程は次の通り。

・郡山駅から、磐越西線の始発列車に会津若松駅に向かう

・会津若松駅から只見線の列車に乗って、会津宮下駅に向かう

・会津宮下駅から、町が用意したシャトルバスに乗って三島町生活工芸館敷地内の「秋の工人まつり」会場に向かう

・「秋の工人まつり」を見学

・会場から、徒歩で会津宮下駅に戻る

・会津宮下駅から下り列車に乗って、車窓から風景を見ながら只見駅に向かう

・只見駅周辺を散策し、会津若松行きの上り最終列車に乗って帰途に就く

 

天気も良く、「奥会津編み組細工」を中心に、様々な工人の作品に出会えることを楽しみにして、三島町に向かった。

*参考: 

・福島県・東日本旅客鉄道株式会社 仙台支社:「只見線全線運転再開について」(PDF)(2022年5月18日)

・福島県:只見線ポータルサイト

・NHK:新日本風土記「動画で見るニッポンみちしる~JR只見線」 

・産経新聞:「【美しきにっぽん】幾山河 川霧を越えてゆく JR只見線」(2019年7月3日) 

・拙著:「次はいつ乗る?只見線」カテゴリ ー只見線沿線のイベントー  / ー只見線の秋

 

 


 

 

磐越西線の始発列車に乗るために、早起きして郡山駅に向かった。

 

切符「小さな旅ホリデー・パス」を購入し、改札を通り1番線に向かい、出発間近の列車に乗り込んだ。

5:55、会津若松行きの列車が郡山を出発。

 

 

沼上トンネルを抜け、中通りから会津地方に入り、猪苗代を出ると正面に会津百名山18座「磐梯山」(1,816.2m)の山容がくっきりと見えた。

 

 

7:11、列車は会津若松に定刻に到着。買い物をするために駅舎を出ると、上空には秋らしいウロコ雲が広がっていた。

 


買い物を済ませ、改札を通り只見線のホームに向かった。連絡橋から、既に入線していた只見線の列車(キハE120形)を見下ろした。北東には「磐梯山」に続く、山々の稜線が見えた。

 

ホームに下りると、4番線に停車中の列車はキハE120形の2両編成だったが、只見線全線再開通日(10月1日)と同じく、後部車両は旧国鉄色のラッピングがされていた。

7:41、会津川口行きの列車が会津若松を出発。乗客は私が乗った後部車両が16人、先頭車両が13人だった。

 

 

列車は七日町で5人、西若松で6人の客を後部車両に乗せて、大川(阿賀川)を渡った。会津平野には明るい雲が広がっていた。

 

後部車両は、ほとんどの席が埋まり、賑やかだった。

 

 

会津本郷を出ると会津若松市から会津美里町に入り、左手(南西)には、会津百名山33座「博士山」(1,481.9m)から同61座「明神ヶ岳」(1,074m)に続く稜線が見えた。

 

会津高田を出発し、列車は右大カーブで進路を西から真北に変えた。前方には会津盆地を囲む、飯豊連峰から東に続く山々の稜線が、雲の帯の上に続いていた。*参考:福島県 観光交流課「ふくしま30座 飯豊山

 

右の車窓に目を向けると、「磐梯山」の稜線も見えた。会津平野の広大な田園越しに見える山々は、“観光鉄道「山の只見線」”の車窓景観に厚みを持たせてくれていると改めて思った。

 

列車は、根岸新鶴を経て若宮手前で会津坂下町に入り会津坂下に停車。上り列車とすれ違いを行った。

 

会津坂下を出て、田んぼに挟まれた短い区間を過ぎると、列車はディーゼルエンジンの出力を上げて七折峠を駆け上がった。

 

登坂途中に、木々間から会津盆地を見下ろすと、苅田と黄金色の稲、そして雲の濃淡に秋の移ろいを感じる景色が広がっていた。

 

 

塔寺を出て、全線再開通日に乗車した始発列車が停車した場所を、無事に通過した。ここで列車が停止し、200人もの乗客が線路の上を歩いた事が、遠い昔のように思えた。

 

 

会津坂本を出発し柳津町に入り、列車は会津柳津に到着。ワンマン運転時の降車扉となる先頭車両の前部の扉から6人の客が降り、後部扉から3人の客が新たに乗り込んだ。

 

会津柳津を出て、列車は“Myビューポイント”を通過。会津百名山86座「飯谷山」(783m)は、正面に良く見えた。

 

郷戸で7人の客を降ろし、列車は滝谷出発直後に滝谷川橋梁を渡り、三島町に入った。渓谷の木々は、微かに色付き出していた。*以下、各橋梁のリンク先は土木学会附属土木図書館デジタルアーカイブス歴史的鋼橋集覧1873-1960

 

 

会津桧原を出て、桧の原トンネルと抜ける直後に列車は減速し、「第一只見川橋梁」を渡った。只見川(ダム湖)に現れた水鏡は冴え、秋空を映してなかなか良い眺めだった。*ダム湖は東北電力㈱柳津発電所・ダムのもの

 

反対側の座席に移動し、上流側の景色を眺めた。駒啼瀬の狭隘な渓谷も、紅葉の入口だった。

 

カメラをズームにして、前方上部の山の斜面に立つ鉄塔の足元を見ると、「第一只見川橋梁ビューポイント」の最上部・Dポイントには7人の“撮る人”が居た。

減速は、乗客が橋梁を渡る列車の中から景色をゆっくりと見るため“観光徐行”だが、“撮る人”にとってもありがたい取り組みだと思った。 

 

 

列車は、名入トンネルを抜け会津西方で5人の客を降ろし、出発してまもなく「第二只見川橋梁」を、再び“観光徐行”しながら渡った。上流側に見えるはずの会津百名山82座「三坂山」(831.9m)の山頂付近には、雲が掛かっていた。

 

反対側の座席に移動し、下流側を見た。スゥーっと延びた只見川(ダム湖)の水鏡にはウロコ雲と青空が映り込んで、面白い眺めだった。*ダム湖は東北電力㈱柳津発電所・ダムのもの

 

 

 

 

9:03、列車は会津宮下に停車。私の他、4名の客が降りた。

 

まもなく、すれ違いを行う上り列車がやってきて、私が乗ってきた下り列車と並んだ。反対側のホームでは4人の方が、この風景を写真に収めていた。

 

構内踏切を渡り駅舎を抜けると、まず目についたのが駅頭に停車していた「奥会津ぶらり旅」(10/1~11/20)で使用されるバス。「第一只見川橋梁ビューポイント」の最寄りである道の駅「尾瀬街道 みしま宿」で客を降ろし、会津宮下駅に到着(8時50分に)し発車時刻(9時20分)まで待機しているようだった。

 

駅頭にはテントが設置され、「秋の工人まつり」の受付が行われていた。手をアルコール消毒し、名前を告げた後に検温すると、赤く細い紙を渡され『手首に巻いてください』とスタッフに言われた。どうやら、受付済みを示す目印となる“ブレスレット”のようだった。

 

受付を終了すると、まもなくシャトルバスがやってきたので、乗り込んだ。座席につくと、さっそく手首に“ブレスレット”を巻き、受付で渡された会場案内図を見た。

 

会場案内図(A3用紙)の裏面には、参加工人の一覧(小間割り)が“イ・ロ・ハ・二”というブロック順に記されていた。

 

 

 

シャトルバスは、会津宮下駅前を出発すると5分ほどで、会場近くに建つ「工人の館」前に停車した。

 

会場は感染対策のため、カラーコーンとバーで導線が作られていた。新型コロナウィルス流行前は必要なかった備品で、費用を含め、行政やスタッフは準備が大変だったろうと思った。

 

 

 

導線に沿って歩き、生活工芸館入口に到着。頭上には“ふるさと会津工人まつり”と記された横断幕が張られ、敷地には工人方のテントが並んでいた。

 

入口の先頭にあったのが、「奥会津編み組細工」の伝統工芸士である福田耕士さん(山ブドウ細工)店。「工人まつり」の良さは、店にいる作り手本人と会話をしながら品定めをし、購入できること。福田さんも、椅子に座り、客とやり取りをしていた。

伝統工芸士とは“伝統的工芸品の技術者で、高度の技術・技法を保持していることが(一財)伝統工芸品産業振興協会に認定された人”を指し、「奥会津編み組細工」には現在7名の町民の伝統工芸士が登録されている。*参考:三島町「広報みしま No.290」(2017年5月号) p2  URL: http://www.town.mishima.fukushima.jp/wp-content/uploads/2017/02/f6dd81a91382dcf19fc964e33e1b5855.pdf / (一財)伝統工芸品産業振興協会「日本の伝統工芸士」URL: http://www.kougeishi.jp/keyword.php


生活工芸館の玄関前の通りにゆくと、ここから“イ”ブロックになっていて、それぞれの小間に客が集まっていた。

 

手前の少し大きなテントは、「生活工芸館のお店」となっていて、多くの三島町「編み組細工」の製品が並んでいた。

 

地元・三島町の方々による製品のようで、山ブドウの手提げやヒロロのショルダーバッグやポーチなどがたくさん並んでいた。値札には、材料名や工人(作者)の名も記されていた。

 

 

「工人まつり」は「奥会津編み組細工」に限らず、様々な工人による作品が展示販売されていた。

「生活工芸館のお店」の隣りには、喜多方市の県指定伝統工芸品「雄国の根まがり竹細工」の店「竹工房たけや」があり、大小多様な竹細工が並んでいた。*参考:福島県観光物産交流協会「ふくしま ほんものの旅」竹工房たけや URL: https://www.tif.ne.jp/hontabi/2021/autumn/info.html?info=6

 

この隣りは、台湾の店舗だった。

 

三島町と国立台湾工芸研究発展センターは、2018(平成30)年9月にものづくりに関する友好交流協定を結んでいて、翌2019年の「工人まつり」(第33回)に台湾の工芸家が参加していたようだ。 *参考:三島町観光協会「三島町と台湾 工芸で友好交流協定を締結」(2018年9月30日) / 台北駐日経済文化代表処「福島県三島町の「ふるさと会津工人まつり」に台湾の工芸家が参加」(2019年6月12日) / 下掲記事:福島民報 2018年9月17日付け紙面

 

 

生活工芸館前の直線道を抜けてナラ林に入ると、“ロ”と“ハ”のブロックがあり、工人のテントが並んでいた。

 

手作りの品々を、自然の中を散策しながら見られるのは良いものだと思いながら、各店舗を巡った。

 

 

「奥会津編み組細工」の伝統工芸士の店は、入口付近で店を構えていた福田さんの他、林の中にもあった。

「菅家工房」には五十嵐光栄さん(山ブドウ細工)の製品が並んでいた。

 

「工房 舟木」では、舟木トメ子(ヒロロ細工)さんが座り、客とやりとりをされていた。

 

「工房 青木」でも青木基重さんが、客に囲まれていた。

 

青木基重さんは、3年前の朝日新聞の特集記事(只見線の車窓から)で取り上げられていた。教職定年後に伝統工芸館で学び、技術を磨いて山ブドウの伝統工芸士までになられた。また、良質な材料を探し求め山中を歩き回るため、『手仕事が全てと思われるかもしれないが、丈夫な足腰も大切』と記事には記されていて、「奥会津編み組細工」の奥深さを感じた。*下掲記事:朝日新聞 2019年4月30日付け福島版

 

“工人一覧表”によると、三島町内からは20店舗(工人)が出店されていて、そのほとんどは編み組細工の店だった(編み組15店、木工5店)。

 

また、福島県内からは、23の出店で編み組は7店舗となっていた。「たまゆら工房」にはマタタビ細工のざるも吊るされていた。

 

 

他県の、編み組細工の店舗もあった。「工房てぶら」は山形県。

 

「工房 島吉」は、群馬県からの出店だった。


一部には、体験コーナーを設置している店舗もあり、編み組細工ではストラップ作りができるようで、工人の指導をうけながらの作成風景も見られた。

  

 

 

“工人一覧表”には生活工芸館エリア(イ・ロ・ハ)に103の店舗が記されていたが、編み組細取扱いは28軒で、木工・漆器・陶磁器・染織・皮革加工・金属加工・ガラスなどその他のほうが多く、全国各地の工房の多様な品々が並んでいた。

「ほうき工房左京窯」は青森県階上町からの出店で、吊るされたほうきは、異色を放っていた。

 

金属加工品の「京小鍛冶 祥啓」は、京都市から。刃渡り、柄など、同じものはないように見え手作り感満載だった。

 

「あかり工房 高柳」は新潟県からの出店で、桜の枝と和紙を組み合わせた照明器具はユニークなデザインだった。

 

「レザークラフト F工房」(皮革加工)は山梨県甲州市からの出店で、財布やケーケースなど、重厚な革製品が並んでいた。

 

木工製品は編み組細工の次に店舗が多かった。「wood work toto」は茨城県日立市からの出店で、小物を扱っているようで、イヤリングなどのアクセサリーが豊富だった。

 

「武田制作工房」は山梨県北杜市からで、マグカップなど食器が目についた。

  

木工製品の中には、文字入れサービスを行っている店もあり、「原木工房」(愛知県豊田市)ではホイッスルに電動ヤスリで名入れをしていた。

 

 

店舗中、編み組細工以外で特に目に付いたのが、喜多方市の「水硝舎」のぐい呑み。赤べごが赤、青、緑、茶、水色のガラス製のぐい呑みに描かれていた。かわいらしく、美しかった。*参考:「水硝舎」facebook(URL:https://www.facebook.com/photo.php?fbid=511185017686822&set=pb.100063859830017.-2207520000.&type=3)

 

 

一通り会場を見た後は、「生活工芸運動」の中心となり1986(昭和61)年の開館以来、三島町の工人の技術向上、技術継承の拠点となっている生活工芸館を見学した。

入口では、“かしゃ猫”の置物が出迎えてくれ、廊下には「秋の工人まつり」の客が土足で入られるるように養生されいた。

“かしゃ猫”は、三島町間方地区に伝わる伝承の主人公。「志津倉山」に住み災いをもたらす化け猫(かしゃ(化裟)猫)が、弘法大師によって“更正”し、「志津倉山」の主となり災いを除き村人の難病をも治すようになった、というのが伝承の一つ。*参考:三島町「三島町交流センター 山びこ」三島町散歩「三島の民話」 かしゃ猫かしゃ猫伝説

 

廊下には「奥会津編み組細工」や「生活工芸運動」に関するポスターが掲示されていた。「奥会津編み組細工」の歴史は古く、町内の「荒屋敷遺跡」(出土品は国重要文化財)から縄や籠などの編み組の断片が発掘された。

 

施設の奥は“実習室”になっていて、木工室の入口には伐採や加工に用いる道具が掲示され、中には卓上ボール盤などが揃い、学校の技術実習室を思わせた。この他、館内には組編み室、陶芸室、染織室がある。


生活工芸館はものづくり教室や、ものづくり体験などのイベントにも使用されるが、工人の館とともに「生活工芸アカデミー生」の活動拠点となっている。

「生活工芸アカデミー」は、町が2016(平成28)年に策定した「三島町生活工芸村構想」に基づき開講されたもので、①ものづくり精神の醸成と生活工芸技術の継承、②ものづくりの担い手育成・定着、③山村での自活モデルの構築等を目指し、2017(平成29)年5月9日に開講し第1期生が4名が入学した。*下掲記事:福島民報 2016年3月8日付け、2017年5月10日付け、2018年3月5日付け 紙面 *一部モザイク処理

町ではアカデミー生が修了後に定住できるように、様々な支援をしており、卒後2年間「生活工芸伝承生」として活動できるなどの制度も設けている。現在は、第6期生(開講:令和5年4月~令和6年3月)も募集している。


生活工芸館の前、町の交流センター「山びこ」の駐車場には大きなテントの休憩所が設けられ、取り囲むように飲食を提供するブースが並んでいた。

 

にぎわう飲食ブースには、町の特産品である「会津地鶏」の炭火焼鳥を提供する「会津地鶏みしまや」もあった。*参考:有限会社 会津地鶏みしまや URL: http://www.aizujidori-mishimaya.com/company/

 

飲食ブースの、道を挟んだ向かいには食堂「ログハウスどんぐり」があるが、混みあっていた。ここでも「会津地鶏」料理が食べられ、「もも肉塩焼き定食」は逸品だ。

  

  

生活工芸館の北西、ナラ林を抜け道を渡ると会津桐タンス社があり、「秋の工人まつり」の“ニ”ブロックとして開放されていた。*参考:会津桐タンス株式会社 URL: http://www.aizukiri.co.jp/

 

会津桐は、国産桐の中で最上級品ともいわれており、中でも三島町で産出される宮下桐は“一級”とされている。桐は三島町の町木で、町の観光協会の施設である「からんころん」は桐製の下駄の鳴る音から名付けられたという。会津桐タンス社は、町唯一の桐材加工会社だ。*参考:福島県 会津若松建設事務所「ふるさと回廊あいづ」 (風景)<桐の花>

 

また、町の会津桐の植地「三島町のキリ林」は、2016(平成28)年に文化庁から「ふるさと文化財の森」に指定(N0.64)された。現在のところキリ材の指定地は当地だけで、三島町は国の文化財建造物の唯一のキリ材供給地になっている。*下掲出処:(左)福島民報 2016年3月16日付け紙面、(右)三島町「広報みしま」2016年4月号 p6


 

さらに、町では毎年100本単位の桐を植樹し、新型コロナウィルス流行前の2018年と2019年には“桐の栽培・製品等に関心のある18歳以上の方”を対象に「会津桐植栽体験ツアー」を開催し、桐林を守り育み“宮下桐”のファンを増やす取り組みをしている。*参考:三島町観光協会「会津桐植栽ツアー」 第1回(2018年)の模様 / 第2回(2019年)の模様


会場には桐タンスの他、コーヒーやパスタを入れるキャニスターや米櫃(5㎏用と10㎏用)なども置かれていた。

 

桐は生長が早い(15~20年)ことから『娘が生まれたら桐を植えよ』と謂れ、嫁入り道具の材として使われてきたが、三島町では材となるまでの生長を30年とみているようだ。伐採され板状に加工された桐は、あく抜きのため、“三梅雨”(3年)の間天日干しされるという。会津桐タンス社の敷地には、びっしりと板材が立てかけられていた。

  

また、敷地では薪割り体験のスペースがあった。大きなチェーンソーも置かれ、スタッフによる目立てや取り扱いなどの質問も受け付けていた。ここには、今年2月に訪れた大登地区の「サイノカミ」で御神木を切り出した岩渕さんもいて、少し話をさせていただいた。


「秋の工人まつり」の会場を一通り見てまわり、会場を後にすることにした。ナラ林の中は客が増えていて、賑やかだった。今回は100ほどに絞って開催されたが、“作り手と使い手”のやりとりは熱気があり、互いの気持ちがこもっていたように感じられた。

来年以降は、今回得られた新型コロナ対策の知見を活かし、「ふるさと会津 工人まつり」が通常開催(6月第二土日)に開催されるだろうと思う。いずれ、“本家”「工人まつり」に参加し、より盛り上がった空気を感じたいと思った。

 

 

「秋の工人まつり」会場を後にし、会津宮下駅まで歩くことにした。

会場を出て、まもなく左折し林の間の細道に入り坂を下った。この細道はショートカット道で、会津西方駅を結ぶ最短路になっている。歩くスペースは刈り払いされていて、下りきって振り返ると上り口には案内板も建てられていた。生活工芸館周辺にはみるべき施設が多いので、茂みの刈込や照明の設置、冬場の除雪を行えば、只見線の乗客が気軽に当地を訪れられるようなるだろう、と改めて思った。

 

国道400号線を進み、会津西方駅前を通過すると只見線のレール越しに「洞巌山」(1,012.9m)から会津百名山58座「高森山」(1,099.7m)に続く山塊が見えた。

 

旧道の第二野沢街道踏切の脇に作られたビューポイントと、そこから少し国道を下った場所から「第二只見川橋梁」を眺めた。

 

更に、国道400号線を下る。前方には町道宮下名入線の美しい鋼アーチ橋「三島大橋」が、真っ赤な躯体を只見川(柳津ダム湖)の水鏡に映していた。

 

500mほど国道400号線を下り、振り返って「第二只見川橋梁」を眺めた。ここは、橋が只見川に映り込む撮影ポイントになっている。

 

 

国道400号線から町道宮下名入線に入り、宮下大橋を渡り、坂を上って「みやしたアーチ3橋(兄)弟ビューポイント」に到着。会津若松行きの列車が、“長男”大谷川橋梁を通過するのを待った。

 

12:58、ディーゼルエンジンの小さな音が、徐々に大きくなり、列車が顔を出し大谷川橋梁を渡り始めた。今朝、私が乗ったキハE120形2両編成だった。ちょうど真ん中を通過する瞬間を撮ろうと思ったが、少し遅く、先頭車両が右岸の枝葉に隠れてしまった。


 

列車の撮影を終え、会津宮下駅に向かった。 10分とかからず到着すると、駅前のテントでは今朝と同じように「秋の工人まつり」の受付をしていた。

 

駅舎に入り下り列車の到着を待っていると、車でやってきたご婦人が、入口脇に置いてある机の上で同じような紙数枚に何かを押していた。彼女が去った後に机の上を見るとスタンプがあり、それは立てかけられていた冊子「鉄道開業150周年記念 つながるふくしまスタンプラリー」のものだった。私も一枚いただくことにした。*参考:東日本旅客鉄道株式会社「つながるふくしまスタンプラリー」URL:https://www.jreast.co.jp/press/2022/sendai/20220928_s01.pdf

 

また、駅舎の中を見渡していると、今まで全く気付かなかった注意書きが天井近くの壁に張り出されていた。虫を“いたずらさん”、“昆虫さん”と呼び、“逃がしていただかれば幸いです”と結ばれた文は暖かく、山間の駅の優しさに心が温かくなった。

 

 

下り列車の到着が近づき、ホームに向かい、しばらくするとキハE120形2両編成が静かにやってきた。

列車が停車し乗り込もうとしたが、多くの客が降りて、ホームで写真を撮り始めた。本来、この列車は14時29分着-14時30分発だが、今日は臨時列車が運行されているため、会津宮下駅で20分ほど待機するということだった。

 

運転席を見ると、運転士行路表がアイパッドに変わっていた。最後に見たのがいつだか忘れたが、その時は運転士が駅付近で縦長の紙(運転士行路表)をこまめに指でなぞっていた。アイパッドの表示は、遠目にも見やすく、おそらく通信機能により列車遅延などのアクシデントの際には表示が更新されるだろうから、運転士にとってはこちらの方が良いのだろうと思った。

 


14:49、臨時列車「只見線満喫」号が姿を見せた。

 

ホームでは多くの客がカメラを構え、「只見線満喫」号を出迎えた。

 

JR東日本㈱では、只見線の全線再開通に合わせ複数の臨時列車の運行を計画した。この「只見線満喫号」の他、トロッコ列車「風っこ」号や日本酒・軽食などが楽しめる「Shu*Kura」号が今月下旬に運行されることになっている。*下図出処:東日本旅客鉄道株式会社「秋の臨時列車のお知らせ」(2022年8月19日)より一部抜粋

 

14:52、小出行きの下り列車が会津宮下を出発。2両とも満員で、私が乗った後部車両も20名ほどが立っていた。立客は、只見線自慢の車窓からの景色を座席に座りゆったりと眺める事はできないが、『次も乗ってみたい』と思える風景に出会って欲しいと思った。

私も終点まで立って、乗降口の扉の窓越しに景色を眺め続けた。

 

早戸を出て三島町から金山町に入り、会津水沼会津中川を経て会津川口に到着。降車客はほとんどおらず、車内の混雑は続いた。


会津川口を出発直後に只見川に注ぐ野尻川を渡った。全線運転再開(10月1日)後、下り列車に乗って会津川口→只見を乗車するのは初めてだった。

 

列車は只見川の右岸沿いを走り、西谷信号場跡地の平場を過ぎて「第五只見川橋梁」を渡った。上田ダム湖となっている只見川の水鏡は、まずまずの冴え具合だった。*上田ダム湖は、東北電力㈱上田発電所・ダムのもの

 

本名を出てまもなく真新しい本名架道橋を渡ると、前方に“新”「第六只見川橋梁」が見えた、

 

下路式トラス部分に入る前に、只見川を見下ろした。本名ダム(東北電力㈱本名発電所)の直下ということで、この付近はダム湖にはなっておらず只見川の清流と中州が見えた。

 

 

列車は会津越川を経て会津横田に停車。駅舎向かいの刈り払いされた空き地には、全線運転再開日に合わせて立てられた看板が、まだ残っていた。

 

会津横田を出ると、まもなく“新”「第七只見川橋梁」を渡った。西陽が直射するため、渡河中に撮影するのは止めた。

 

 

会津大塩を出発し、列車は滝トンネル(1,615.2m)の中で金山町から只見町に入り、抜けると国道252号線を間にして只見川の左岸を駆けた。滝ダム湖となった只見川の対岸には、会津百名山71座「鷲ケ倉山」(918.4m)が独特の稜線を見せていた。*滝ダム湖は、電源開発㈱滝発電所・ダムのもの

 

河井継之助記念館」の前を通過する際に、振り返って只見川を眺めた。

 

 

会津塩沢を出ると、只見川が近づき、列車は左岸直上を走った。

 

そして「第八只見川橋梁」の下路式トラス橋を渡った。滝ダム湖浚渫用の巨大な泊地越しに、「柴倉山」(871.1m)の尖った山容が見えた。

 

泊地には“祝 只 見 線 全 線 再 会 ”と一文字ずつ記されたパネルが立てられていた。全線再開日に乗車した際は気付かなかった。

 

列車が会津蒲生を出て、国道252号線の八木沢スノーシェッドの脇を走ると視界が開け、前方に只見川に架かる町道の五礼橋が見えた。「平成23年7月新潟・福島豪雨」以後に右岸か掘削され川幅拡張工事が進められている。

 

列車は国道252号線を二度跨ぐ、只見線最長(372m)の「叶津川橋梁」を渡る。

 

渡河中に振り返ると、「只見四名山」で会津百名山83座である「蒲生岳」(828m)が見えた。“会津のマッターホルン”の名にふさわしいトンガリ具合だった。

 

林の中を過ぎると、前方に福島県立只見高校が見え、車内放送が入り列車は減速した。

 

 

 

 

16:21、只見に到着し下車した。全線運転再開日以来、2週間ぶりの只見町だ。今回利用した「小さな旅ホリデー・パス」は只見駅までがフリーエリアになっている。

 

列車からは多くの客が降り、ホームと駅舎を繋ぐ連絡道を歩いていた。

 

しばらく、ホームで写真を撮ってから駅舎に向かい抜けると、駅頭に人影はほとんどなく静かだった。降車した多くの乗客は、宿が手配した送迎車に乗るなどして、早々に去っていたようだった。

 

駅頭に設置され続いていた、只見線全線運転再開のカウントダウン電光掲示機は、“まで”の上に“から”のシールが貼られ、運転再開日からのカウント機に変わっていた。

 

 

駅頭から北に向かって歩いた。途中、全線運転再開日に多くの人が集った空き地から、「只見四名山」で会津百名山91座である「要害山」(705m)を背景に、私が乗ってきた小出行きの列車を眺めた。

 

また、しばらく歩き、上野原踏切から、停車中の列車を眺めた。遠く背後に聳える背後には、「猿倉山」(1,455m)に雲が掛かり、「横山」(1,416.7m)へに向かう稜線に現れる“寝観音”様の御姿は見えなかった。

 

上野原踏切を渡り、只見線の路盤に沿って南に歩いていると、小出行きの列車の発車時刻となり、キハE120形2両編成が静かに動きだした。全線運転再開日に合わせて立てられた“歓迎案山子”、そして駅構内の連絡道で数名の方が列車を見送った。


宮道踏切を渡り、「只見線広場」に向かった。

 

列車が停車しておらず、宿での食事時間に近づいているということもあってか、コンテナハウス内に客の姿は見られなかった。現在は立ち寄り型の観光施設になっているが、滞在型の施設として利用されれば只見線利用者の目的地となり、客が増えるのではないかと思った。

 

「只見線広場」の先、町役場駅前庁舎の前には、全線再開通を祝う横断幕が掲げ続けられていた。

 

 

国道252号線に面した松屋で買い物をして、駅に戻った。「只見線広場」に移転した只見町インフォメーションセンター跡に設置された「只見線ギャラリー」の写真などを見ながら、会津若松行きの最終列車を待った。

 

列車の到着時刻が近づき、駅員がホームに向かう扉を開けてくれたため、駅舎を出て連絡道を歩いた。

 

ホームに立ちしばらくすると、小出方面にライトの明りが見え、徐々に近づいてきた。

 

会津若松行きの上り最終列車が到着。驚いた事に、1両編成だった。

 

キハ110形の1両編成に乗るのは初めてで、大混雑しているのでは、と心配になった。


しかし、全てのBOX席に1人以上の客は居たものの、ロングシートは空いていて、座る事ができた。日暮れて、車窓からの運転再開区間の景色が見られない事が確実なこの列車は、不人気なのだろうと思った。

 

18:00、私を含め4名の新たな客を乗せて、列車が只見を出発。車内では、「開当 男山」(南会津町)のワンカップを呑み、列車の走行音を聞きながら、ゆっくりと過ごした。

  

今回の旅は、沿線のイベント(秋の工人まつり)参加と只見線復旧区間の乗車と、充実したものになった。

 

観光鉄道「山の只見線」”の確立にためには、毎年定期的に開催されるイベントは欠かせない。「工人まつり」は、並べられる製品の材料(山ブドウやヒロロ、木材など)の大半は“山の恵み”なので、「山の只見線」の代表的なイベントだと感じた。三島町では生活工芸館を中心に、ものづくり体験教室などを行っているので、只見線の列車に乗って参加するようなイベントを企画するのもおもしろいと思う。さらに、観光列車の中で、ストラップなどの小物づくりの企画も考えられる。

 

ただ、「工人まつり」の“根っこ”となる「奥会津編み組細工」の前途も、過疎化の進む地にあっては安泰ではないという。工人の高齢化と担い手不足により技術継承が進まない、また担い手を育てても定着しなかったり、生活を維持するまでの生業にならないなどの問題が挙げられている。

さらに、材料確保の懸念もあるという。特に山ブドウは三島町では採取できず、前述した伝統工芸士・青木さんのように磐梯山麓という遠方に出向かなければならないようだ。町内での栽培も検討されているが、①栽培法が確立されていない、②生育まで10年程度掛かる、などの問題があり進んではないようだ。

 

三島町ではこれらの問題を解決するために様々な施策を実施しているが、私は是非只見線沿線で協業してはどうかと思う。編み組細工は雪国の手仕事ということから、金山町や只見町にも見られるが、国伝統工芸品である「奥会津編み組細工」を中心に据え町村の垣根を越えて、人・技術・材料などの問題を共有し、協業して解決してゆくという仕組みだ。ゴミ処理や給食などでは行政の垣根を越えて組織や建物を作り既に実現しているが、文化・観光・まちづくりに関してより強力な予算と権原をもった組織(広域組合等)は無い。只見線を“大動脈”とし、沿線自治体の過不足を全体で補い合い文化を守り育て、そこから派生する観光やまちづくりに取り組む組織を作る事は大きな意味があると思う。只見線の利活用に関わる福島県が発起人となり、“只見線沿線「文化・観光・まちづくり」広域連携組織”を創って欲しいと思う。

  

 

(了)

 

 

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*参考: 

・福島県 :只見線管理事務所(会津若松駅構内) / 「只見線の復旧・復興に関する取組みについて

・東日本旅客鉄道株式会社:「只見線について」(PDF)(2013年5月22日)/「只見線(会津川口~只見間)の鉄道復旧に関する基本合意書及び覚書」の締結について(PDF)(2017年6月19日)

・福島県:平成31年度 包括外部監査報告書「復興事業に係る事務の執行について」(PDF)(令和2年3月) p140 生活環境部 生活交通課 只見線利活用プロジェクト推進事業


【只見線への寄付案内】

福島県はJR只見線全線復旧後の「上下分離」経営での維持費や集客・地域振興策の実施費用として寄付を募集中(クレジット可)。 

 

①福島県ホームページ:只見線復旧復興基金寄附金・只見線応援団加入申し込みの方法 *現在は只見線ポータルサイト「只見線応援団」URL:https://tadami-line.jp/support/

 

②福島県:企業版ふるさと納税

URL:https://www.pref.fukushima.lg.jp/sec/16005g/kigyou-furusato-zei.html

[寄付金の使途]

(引用)寄附金は、只見線を活用した体験型ツアーや周遊ルートの整備、只見線関連コンテンツの充実化等に活用させていただきます。 沿線地域における日本一の秘境路線と言われる観光資源を活用し、更なる利用者の拡大と認知度向上を図ります。


以上、宜しくお願い申し上げます。

次はいつ乗る? 只見線

東日本大震災が発生した2011年の「平成23年7月新潟福島豪雨」被害で一部不通となっていたJR只見線は、会津川口~只見間を上下分離(官有民営)とし、2022年10月1日(土)に、約11年2か月振りに復旧(全線運転再開)しました。 このブログでは、“観光鉄道「山の只見線」”を目指す、只見線の車窓からの風景や沿線の見どころを中心に、乗車記や「会津百名山」山行記、利活事業に対する私見等を掲載します。

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