会津若松市「奴田山(青木山)」登山 2021年 初夏

観光鉄道「山の只見線」”沿線の「会津百名山」登山。今回は、JR只見線を利用し金山町から会津若松市入りし、市街地を見渡せる場所にそびえる「奴田山(青木山)」(723.3m)に登った。

  

「奴田山(青木山)」は、会津若松市街地の南南東にあり、市街地と名湯・東山温泉-東山ダムを隔てている山並みの頂点となっている。正式名称は「奴田山」だが、地元では「青木山」と呼ばれる事が多いという。*下掲地図出処:国土交通省 国土地理院「地理院地図」URL: ttps://maps.gsi.go.jp/ *一部文字入れ等、筆者加工

  

また、「奴田山(青木山)」は会津百名山の第89座で、「会津百名山ガイダンス」(歴史春秋社)では以下の見出し文で紹介されている。

奴田山(青木山) <ぬたやま> 723メートル
会津平の朝霧はお昼前には晴れる。さぁ出かけよう。登山口近くまでは自転車でも歩いても行ける。老いも若きも体力に合わせて四季折々の山登りを楽しめるうえ、これほど身近な里山は他にない。[登山難易度:初級]*出処:「会津百名山ガイダンス」(歴史春秋社)p194

  

初代会津藩主・保科正之公が1666(寛永6)年に編纂させた「會津風土記」(参考:国立公文書館)の不足を補う形で、1809(文化6)年に会津藩によって編纂された「新編會津風土記」の南青木組御山村の項に、「奴田山(青木山)」を指すと思われる“干鱈兀山”の記述がある。*出処:新編會津風土記 巻之三十四「陸奥國會津郡之七 南青木組 御山村」(国立国会図書館デジタルライブラリ「大日本地誌体系 第31巻」p139-140(コマ76) URL:https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1179202) 

干鱈兀山 ヒダラハゲ
村東三十町計にあり、高五十丈餘、南は堤澤村の山に續き、北は南青木村の山に連る

 

この「新編會津風土記」の記述について、「奴田山(青木山)・・・その山名について考える」(PDF)(会津大学短期大学部名誉教授 渡邉幸夫氏 2012年)という論文があり、『ニタラハゲ(干鱈兀)とは棒タラのことで、青木山の地形を遠くからみると棒タラを剥いだような地形に見える。山の名をその地形から呼ぶのは自然な呼び方であろう(以下略)』という記述がされていた。

  

 

会津若松駅の徒歩圏には、3か所5座の「会津百名山」があるが、只見線の起点であるため、私は列車に乗ってからの登山は想定していなかった。しかし、金山町や只見町の「会津百名山」に登り、当地に泊まれば、翌日に只見線を利用し会津若松市内に入り、市内の「会津百名山」に登れると考えた。

 

今回は、会津川口駅(金山町)から只見線の始発列車に乗って会津若松市入り。「奴田山(青木山)」に登って、鶴ヶ城(若松城)に立ち寄り、富岡町に帰るという計画を立てた。

*参考:

・福島県:只見線ポータルサイト

・東日本旅客鉄道株式会社:「只見線について」(PDF) (2013年5月22日)/「只見線(会津川口~只見間)復旧工事の完了時期について」(PDF)(2020年8月26日)

・拙著:「次はいつ乗る?只見線」カテゴリ ー只見線沿線の“山”(登山/トレッキング)ー / ー只見線の夏

 

 


 

 

昨日は会津百名山「鬼が面山」登山を終え、只見線の代行バスに乗って金山町に移動し、「旅館 橋本屋」に泊まった。一昨年に初めて利用し、今回で二度目となる。

  

部屋は前回と同じ、2階の階段を上がってすぐの和室だった。

 

窓からは、会津川口構内の転車台が見られる。

  

夕食は部屋で摂らせてもらった。

 

金山町沼沢湖名産のヒメマスの塩焼き。身が厚く、旨かった。

  

白飯は、御櫃にたっぷり盛られ給仕された。香り、艶、そして味、旨いコメだった。 

  

 

 

今朝、始発列車に乗るために宿を5時にチェックアウトして、自転車で2分ほどの場所にある会津川口駅に向かった。

 

平成23年7月新潟福島豪雨」被害で区間運休(会津川口~只見間、27.6km)後、この時間帯のホームには2本の列車が並ぶ。被災前、このうち1本は只見始発の列車だった。

 

この光景を見られるもの、全線復旧までの1年ほどだ。

  

会津川口から、「奴田山(青木山)」の最寄りとなる西若松までの運賃は1,170円。ちなみに2つ先の終点・会津若松までも同額だ。

5:35、会津若松行きの始発列車が会津川口を出発。 

   

まもなく、列車が林道の上井草橋を潜り抜けると、左手前方に大志集落が見えてくる。只見川(上田ダム湖)の水面に水紋はほとんどなく、まずまずの水鏡となり、大志集落と取り囲む木々や山々を映し込んでいた。*上田ダムは東北電力㈱上田発電所の施設

  

列車は、会津中川を出て、「第四只見川橋梁」を渡る。宮下ダム湖に変わった只見川の水は、少し濁っていた。

  

会津水沼を出て、細越拱橋(8連コンクリートアーチ橋)を渡り、金山町から三島町に入る。

   

早戸に到着し、只見川が沼沢(山)にぶつかり蛇行する場所に目を向けると、うっすらと川霧が発生していた。

 

  

早戸を出発し、早戸と滝原の二つのトンネルを抜けると「第三只見川橋梁」を渡る。上流側には川霧は見られなかった。

   

反対側の席に移動し、下流側を眺めた。川霧は見られず、只見川には細かい水紋が出ていた。 


  


東北電力㈱宮下発電所の宮下ダムの洪水吐ゲートが見えてきた。朝日を浴びて渓谷の形が浮かび上がり、ダムが大量の水をせき止めている様子がよく理解できた。

  

 

会津宮下を過ぎ「第二只見川橋梁」を渡る。東北電力㈱柳津発電所の柳津ダム湖になった只見川の、下流側の長い区間で川霧が発生していた。


上流側を見ると、大谷川橋梁の合流付近一帯に川霧が張っていた。

  

 

会津西方を出発し、名入トンネルを抜けると「第一只見川橋梁」を渡る。上流側、駒啼瀬の狭隘な渓谷には、分厚い川霧が出ていて、立ち上っていた。

 

一転、下流側は冴えた水鏡の上に、川霧が美しく現れ、一面を覆っていた。

 

夏の早朝は、只見川の川霧を見られる確率が高い。川霧を見たいと思う観光客には、朝一番に只見川に沿って、または交わって走る会津川口発の上り列車に乗って欲しいと思う。

 

列車は、会津桧原を出発した後、滝谷手前で滝谷川橋梁を渡り三島町から柳津町に入る。生い茂った渓谷の木々と葉が朝日が作り出した陰影に映え、清々しかった。

 

郷戸を出発した列車は“Myビューポイント”を通過。振り返ってみると、会津百名山「飯谷山」(723m)の全体が良く見えた。

 

列車は会津柳津を出て、会津坂本手前で柳津町から会津坂下町に入り、“七折登坂”を終えた下り坂の途上にある塔寺を経て、静かに会津盆地に向かって進んだ。木々の切れ間から、会津盆地とそれを取り囲む山々がうっすらと見えた。

  

 

列車は会津盆地に入り、快調に進む。前方、太陽の真下に、ぼんやりと会津百名山「磐梯山」(1,816.2m)が見えた。

  

列車は会津坂下に停車し、先に到着していた下りの始発列車とすれ違いを行った。

  

列車は会津坂下を出発すると真南に進路を変え、若宮を過ぎて会津美里町に入る。その後、田園の間を進み新鶴根岸で停発車を繰り返した。

  

会津高田を出発し、会津若松市に入った直後に会津本郷に停車。列車最後部の窓からは、会津総鎮守府・伊佐須美神社の最後の山岳遷座地である会津百名山「明神が岳」(1,074m)の山影が見えた。

 

会津本郷を出発し、大川橋梁で大川(阿賀川)を渡る、解禁になったアユ釣りをする方の姿が見られた。

 

  

渡河後に列車は、田園地帯から一転、工場などの大型施設や住宅地の間を進んでゆく。まもなく「奴田山(青木山)」の稜線が目に入るようになった。

 

  

  

7:13、西若松に到着。降りたのは私の他2人。日曜日の早朝ということもあってか、ホームに人影は見当たらず、静まり返っていた。

  

橋上にある改札を抜け、東口に出ると、右前方に「奴田山(青木山)」の山並みが見えた。

  

自転車を組み立て駅前を出発してして、湯川放水路を渡る。

  

以前、夜明け頃にここを通った時、山の稜線が綺麗に見え印象に残っていた。この山並みに「奴田山(青木山)」が含まれている事を、今回の登山計画の際に知った。

  

先に進み、鶴ヶ城(若松城)の南側を流れる湯川の河川敷からも、「奴田山(青木山)」が良く見えた。

  

 

自転車をしばらく進め、住宅地に入り細い道を進むと、前方に小田山公園入口の看板が見えてきた。

 

入口の正面に立って驚く。前方の一面に、猫、猫、猫。

 

近寄っても、半数以上は警戒はするが、逃げもせず、夕方に毛づくろいしたり、仲間同士でじゃれあったりしていた。

 

 

猫の集会を通り抜けさせてもらい、しばらく進み右に鋭角に曲がると、小田山公園入口に到着。


公園の中腹にあった案内板には「小田山公園」について、次のように記載されていた。

小田山公園碑
 小田山は鶴ヶ城の東南2kmにあって名山といわれ、会津平原が一望に見えて美しく、山麓には葦名氏の墓所があり、山頂には会津の産業振興に功績のあった藩家老田中玄宰の墓がある。また戊辰の役(1868)においては、この山が西軍の砲兵陣地ともなった。今ではこれらの歴史と眺めの美しさから、年とともに訪れる人も多くなっている。
 市内の有志家で組織する商工研究会は、日下義雄のすすめにより、巨費を投じて道路を開き、桜を植え、休憩所を設けるなど、人々のためにこの山を整備し、一切を若松市に寄附された。
 小田山はもと国有林であったが、昭和6年12月市会の議決によって払下げをうけ、これを小田山公園と称し、この名勝旧蹟を永遠に保存するため、ここにその由来を記す。
  昭和12年3月 若松市長 従四位勲四等 佐藤 剛 (訳 坂井 正喜)


バリケードを通過し、最初のカーブにあった「小田山史跡等案内図」には次のように記載されていた。

「小山田史跡等案内図」
 小田山には今から八百年余りほど前から四百年に亘って会津を統治した葦名氏の山城がありました。
 普段は黒川の館に住んでいて、敵が攻めてきた時はこの山城に立て籠って戦うのです。敵の侵入を防ぐための帯曲輪・竪堀・柵等の遺構が今でも残っています。
 山頂には会津藩の産業や経済の立て直しに功績のあった家老田中玄宰が葬られています。
 戊辰会津戦争の時は西軍が大砲を運び上げ、鶴ヶ城に向かって大量の砲弾を撃ち込みました。
 小田山は会津の歴史を知るためには大切な場所なのです。
    二〇一六年ふくしま元気市民活動助成金 NPO法人 はるなか

  

公園内には数多くの案内板が多く、市民に大切にされていると思った。

  

しばらく進むと開けた場所にベンチが置かれていた。

 

ベンチの前は木々が無く開け、鶴ヶ城を見下ろすことができた。

 

ベンチの脇の案内板には、新政府軍砲陣跡の説明が記載されていた。会津戦争で鶴ヶ城に壊滅的な打撃を与えた、佐賀藩のアームストロング砲が置かれた場所との事だが、この場に立つと砲台としては適地だと実感した。

案内板の“新政府”という文字が消されていた。未だ、消してしまう人がいるとは驚きだったが、戊辰役・明治維新の歴史観は様々で、悔しさや憤りを受け継ぐ会津の方が少なからず居る事を改めて認識した。

  

三つ目のヘアピンカーブを経て、高度が上がり、見える市街地の範囲も広がった。

 

鶴ヶ城の全体が良く見えた。小田山公園ではここが鶴ヶ城を見下ろす、一番のビューポイントだと思った。

  

  

小田山の山頂(371.7m)まであと少しという場所に、大きな“石群”がよく刈り込まれた芝の中に立っていた。形状から墓石とは思ったが、あまりの大きさに驚いた。中央には丹羽能教墓と刻まれていた。

初めて知る名だったが、案内板を見て、会津藩を支えた軍事奉行である事が分かった。*以下、現地案内板より引用

丹羽能教(1766~1843) 
 会津藩士で軍事奉行。若年寄を経て家老に進み。五代藩主松平容頌以来、四代の藩主にわたり仕えました。
 この間、鎖国中の日本に交易や開港を求める外国船が盛んに出没するようになりました。
 このため文化五年(1808)東北の雄藩会津藩は北方警備を命じられ、能教は軍事奉行として遠くカラフトに出陣しました。さらに同七年には江戸湾警備を命じられ三浦半島に砲台を築き、再び海防に力を尽くしました。
 また領内の荒地を開墾し、藩祖保科正之の祭田に加えるなどの功績があり、兵法、経済にも長じ、多くの人に慕われました。 

 

 

 

 

「丹羽能教墓」から先は、車両が進める道になってはおらず、自転車を置いた。この丹羽能教氏の墓を「奴田山(青木山)」登山の起点にした。

8:11、準備をして、「奴田山(青木山)」に向けて出発した。

  

 

段がつけられた坂を上ってゆくと、ここにも巨大は墓石があり、“田中玄宰”と刻まれていた。

この方は良く聞く名で、、田中玄宰(はるなか)は、会津藩中興の忠臣と言われている。会津の酒には“玄宰”と名のついた日本酒がある。*以下、現地案内板より引用

田中三郎兵衛玄宰 (寛延元(1748)年)~文化5(1808)年
 会津藩の名家老田中正玄の四世の孫に生れ幼名小三郎、若くして田中家を相続、三十四歳で家老となり、後に大老に任じられた。
 その頃会津藩は天明の大飢饉の直後で、荒廃した農村経済と藩財政の救済復興が急務であったが、玄宰は松平容頌、容住、容衆の三代の藩主に仕え、藩政の大改革を断行した。
 これが「寛政の改革」である。農民や町人に養蚕、漆木、薬用人参、紅花の栽培や漆器・酒造・ろ蝋燭・陶磁器の手工業の殖産興業を勧め、藩校日新館を創設して人材を養成し、軍制を強化して唐太(サガレン)へ出兵する等の諸改革を果した。
 特に漆器については、漆木栽培を奨励し、江戸に産物会所を設け、さらに京都から蒔絵や金粉・金箔等の技術を導入した。このため長崎から中国やオランダへ輸出するほどになり、今日の会津漆器産業の基礎を確立した。
 文化五年八月七日、玄宰は六十一歳で病没したが、遺言によって鶴ヶ城と日新館を望見できる小田山山頂に葬られたという。

  

 

「田中玄宰墓」の裏には、踏み跡が続いていた。

 

開けた手前に「小田山城址」の標杭があった。

公園内にあった「小田山城」を説明する案内板には、次のように記述されていた。

「小田山城跡大手口」
 小田山城跡は「会津古塁記」「会津鑑」「旧事雑考」「富田家年譜」に記載されている城跡です。  城跡は、371メートルの小田山公園・大窪山墓地の区域と、標高500メートルの荒佐原山・青木山の地域に分けられます。
 小田山地区は、田中玄宰の墓や、その下に丹羽家の墓地を中心に城跡の遺構があります。 丹羽家墓地の平場から北側に向かって、7段の三日月形を呈した曲輪(くるわ)が連続しています。その遺構は、屋根を取り囲むように幅約2メートルから5メートルで存在しています。 道の下には、北に面して、高さ約1メートルの土塁を伴う大手入口となる虎口(こぐち)があります。虎口が発達していないことや土塁が低いことかた、南北朝時代から室町時代前半に築かれた可能性があります。明治時代以降に道路建設では、曲輪の平場を利用して造られています。

  

その先にある、標杭と案内板は倒れていた。小田山公園は市民が勝手を知っているので、案内板が無くても良いかもしれない。ただ、私のように初めて訪れた者は、このような倒れている案内板を見ると『ここは大丈夫か?』と思ってしまう。修復か撤去が必要だろうと思った。

  

開けた場所を過ぎると、また木立の中になった。NPO法人はるなかの「青木山の里山再生事業」の看板の前には、黒々とした熊の“落とし物”があった。この先、この“落とし物”は登山道にポツポツと見られた。今日も熊鈴は無かったが、気を引き締め、時折、手を叩き、笛を吹きながら歩みを進めた。

  

登山道は再び開け、「物見櫓跡」に到着。

  

開けた北に目を向けると、眺めは良く、若松市内の街並みの中に御薬園や大塚山古墳、そして東側の低山の中に“白虎隊士自決の地”飯盛山(372m)などが見えた。


福島県観光物産交流協会がホームページを開設している「ハイキング・トレッキング ガイドブック ~ふくしまの山へ出かけよう!~」では、「小田山」登山は初級者向けで、歩行時間は1時間30分になっている。 *参考:福島県観光物産交流協会「ハイキング・トレッキング ガイドブック ~ふくしまの山へ出かけよう!~」10.会津若松市「小田山」-見どころあふれる歴史と展望の山-

 

「物見櫓跡」の裏、灌木の間に踏み跡が続いていた。ここから本格的な「奴田山(青木山)」登山が始まった。 

 

直後、踏み跡が二手に分かれ、迷ってしまった。右に進むと、踏み跡は途絶えたため、引き返して、左側に進んだ。よく見ると、左側の方が、土面がはっきりしていた。

 

迷い路の途中には、エンゴサクの群れがあった。

  

 

この後は、森の中に、はっきりとした踏み跡が続いた。 

 

途中、案内板が木に括り付けられていた。このプラ製の案内板と表示方法はは統一されたもののようで、登山道に何度も見られた。“黒い落とし物”の主の存在は気になったが、登山道ついては安心して進む事ができた。

 

  

8:30、林道明光寺線に出る。左に進み、日向に出た。

 

すると、まもなく森の中に続く、踏み跡があった。入口には“ヒメシャガ 群生地”と書かれた看板が立てられていた。*参考:東京大学大学院理学系研究科附属 日光植物園「ヒメシャガ

 

「奴田山(青木山)」はヒメシャガの群生地で、新聞記事によると“東北最大級の規模とされ”ているという。*記事出処:福島民報 2020年5月24日付け紙面より


この入口の左側には“青木山”という茶色い、見慣れた案内板が木に括り付けられ、右側には“奴田山へ”という小さな白い案内板が立っていた。

  

登山道は、しばらく、掘り下げられたような場所に続いた。

 

アカマツが目立つ森の中を進む。踏み跡ははっきりしていて、歩きやすく、気持ちよく進む事ができた。

 

  

8:40、前方からカランカランと乾いた音が聞こえ、この日唯一となる登山者とすれ違った。 

  

さらに進み登山道の中で、最も深い切通しとなり、右側に大きく曲がった。

     

しばらく進むと、登山道が右に折れていて、前方に尾根と合流するような雰囲気だった。

  

  

8:52、想像通り、尾根道に合流した。右が「奴田山(青木山)」で、左は「子どもの森スキー場」方面だった。

 

尾根にあったブナに「もみじ平」と手書きされた木版が括り付けられていた。

 

この「もみじ平」を右に曲がり、「奴田山(青木山)」に向かった。

  

少し進むと、右(北)側が明るくなり、開けた場所になった。

 

JR会津若松駅から西南に1kmほど離れた、蠶養國神社を取り囲む鎮守の森が正面に見えた。

  

 

歩き進むと、には“クロモジ”など、木々の名が記された名札が見られた。「奴田山(青木山)」が“環境省から“生物多様性保全上重要な里地里山”に指定され、また「小田山子どもの森公園」に直結しているということで、子供たちの事を考え取り付けられたのだろうと思った。*参考:環境省「重要里地里山」No.7-4 青木山(奴田山)

 

「もみじ平」からの登山道には、熊払いの一斗缶が複数、棒とともに吊るされていた。

 

また、傾斜には土嚢袋が階段状に敷かれ、快適に歩くことができた。これも、子供たち用だろうと思った。

    

さらに登山道には、5か所ほどの“分岐”があった。バイパス道のようだった。

 

踏み跡も同じような様子で、確かに片方が短い感じがした。

 

 

しばらく進むと、登山道は緩やかな上り傾斜の尾根道となり、数か所、前方が開け明るい場所があった。

 

何かあるのかと思い、見渡したが、特別なものは無く眺望も得られなかった。

 

登山道には、季節柄か花々が少なかった。この尾根道で見かけたのは、カタバミのような白い花だけだった。

 

 

9:17、前方が開けた場所が3か所目になり、今度はどうだろう??、と思い階段状に整備された登山道を進んだ。

  

到着すると、両側が開けた平場だった。山頂ではなかったが、素晴らしい眺望が得られた。左(東)側には、「背炙山」(823m、会津百名山80座)に連なる「背炙高原」。

 

尾根には数々のアンテナの他、会津ウィンドファームの風力発電風車もはっきりと見えた。

  

右(西)側は、会津若松市街地とそれを取り囲む会津盆地の田園、そして背後に堂々と聳える飯豊連峰が見られた。なかなかの景色だった。早春や晩秋の空気の冴えた時機ならば、冠雪した飯豊連峰がくっきりと見え、絶景だろうと思った。

 

ここには、手作りの山座同定図盤が置かれていた。ありがたかった。

 

この平場(眺望ポイント)は、“山頂巡回コース”の合流点になっているようで、青木山を守る会の看板が木に括り付けられていた。

 

 

「奴田山(青木山)」山頂目指して、先に進んだ。

眺望ポイントを出発すると、直後に森の中に入り、まもなく妙見コースとの合流点に到着。

 

手作りの案内板を見ると、ここを左に進むと吹矢山に至るということだった。

   

「奴田山(青木山)」を示す案内板に従い、分岐を右に曲がり、先に進んだ。

   

すると、すぐに前方が平たい空間になり、標杭が見えた。

 

 

  

 

9:21、「奴田山(青木山)」山頂に到着。標杭の山名は“青木山”だった。

 

山頂はナラやアカマツ、ブナなどの木々に覆われ、眺望は無かった。

 

三等三角点標石に触れ、登頂を祝った。

  

 

この山頂広場にあった不思議な緑シートには、“防風 調理場”と書かれていた。

 

そして、内側には小さな椅子が置かれ、“湯沸し台”と書かれていた。誰が置いたのかは不明だが、ここは私有地で、オーナーが設置したのではないかと思った。

 

「奴田山(青木山)」山頂では、水分を補給するなど10分ほど滞在し、下山を開始した。 

 

 

 

 

9:50、「もみじ平」に到着。

 

ここから往路とは違ったコースを進む。「子どもの森」を目指して直進した。

  

道は踏み跡が明瞭なままだったが、笹竹などの藪が濃くなり、直後に急な下り坂になった。ここはヒモ場になっていて、虎ロープが設置されていた。足元は腐葉土のためか滑りやすく、ロープをつかみゆっくりと下りた。

 

道を塞ぐような倒木は一本だけだったが、巨木で跨ぐのに難儀した。

  

道々の木には、赤いスプレーによる印や、リボンがまかれていた。「子どもの森」からの登山道ということで手厚いのだろうと思った。

  

序盤のヒモ場以後は、負担が掛からない下り坂が続いた。

 

見慣れた案内板も、往路の小田山ルートより多かった。

 

  

10:05、前方が明るくなり、アカマツに案内板が括りつけられたY字路に到着。

  

正面にまわり、振り返って看板を見ると麓山神社への案内板だった。

   

この麓山神社分岐の先を進むと、まもなく左下に林道が見えてきた。

  

そして、まもなくこの林道に接続した。

 

 

林道に下り、少し右(東)に進むと「子どもの森」を示す案内板が現れた。踏み跡は夏草で覆われていたが、“道”としての空間ははっきりしていたので、安心して先に進んだ。

   

道を覆っていた夏草は、日陰となる森の中に入ると無くなり、踏み跡が鮮明になった。ただ、木々の赤ペンキ印やピンクリボンはほとんど見られなくなった。大半の登山者は、あの林道を使ってから登山道に入るのかと思った。

  

 

途中、広く木が伐採された開けた場所があった。市街地を眺めた。結局、ここがこの登山道唯一の眺望だった。

  

  

10:18、掘り下げられたような道をしばらく進むと、少し広めの道に突き当たった。

 

振り返って見ると、案内表示が何も無く、松の枝に小さなかピンクリボンがあるだけだった。ここには案内板が必要だと思った。

  

 

合流点の先は幅が広く、歩き易い登山道がしばらく続くと、目の前にクマザサが現れ道が覆われた。踏み跡は視認できたが、今まで歩いてきた道とは違った“閉ざされた”空間に、少し驚いた。

   

クマザサ群を抜け振り返ると、祠があった。この祠は目印にはなるが、先ほどの分岐を含めて案内表示が必要だと思った。

  

 

先に進むと、道の周辺は明るさを増し、右手の木々の間には家々が見えた。

  

そして、夏草が腰高ほどに生い茂った場所を通り抜けると、刈払いされた空間に出た。

 

ここでも振り返って見ると、踏み跡は夏草に覆われていた。草の生命力のある夏場は刈払いでは追いつかないと思うので、ここにも案内表示の設置が必要だと思った。

  

 

この“刈払い場”の先には轍があり、車道が住宅地の方に延びていた。

 

 

 

  

10:24、「子どもの森」(青木集落)登山口に到着。「会津百名山ガイドブック」では、ここから「奴田山(青木山)」登山が開始されている。当時、車道左脇に立っていた“青木山”という案内板は無くなっていた。

  

 

登山口から「子どもの森」に向かうと、車が停まり家族連れの姿が多く見られた。コロナ禍でイベントは考えづらいので、それぞれがバーベキューでもするのだろうかと思った。

  

振り返って「子どもの森スキー場」に進む。往路で歩いた「奴田山(青木山)」の登山道は、スキー場の最上部にある。

 

ゲレンデの正面に行き、スキー場の斜面を登り始めた。

 

ゲレンデの中腹から横切り、右(北)端を息を切らしながら進んだ。

  

ゲレンデの最上部で突き当りとなり、左に曲がり、平坦な道を進んだ。

 

そして、「奴田山(青木山)」登山道にぶつかる、最後の斜面を登った。

  

 

10:36、合流点に到着。登ってきたスキー場を見下ろすと、正面には八合目付近が雲に隠れた「磐梯山」の稜線が見えた。

   

登山道を引き返すと、前方に、田中玄宰墓が近づいてきた。

 

田中玄宰墓を過ぎ、階段状の坂を下っていると、鮮やかな紫の花が目についた。アザミだった。

  

 

 

  

10:40、自転車を置いた「丹羽能教墓」前に到着。無事に「奴田山(青木山)」登山を終えた。登り1時間30分、下り1時間10分、一部周回コースで2時間40分掛かった。

  

時間があれば、小田山の東側にある東山温泉で、日帰り温泉につかり汗を流したかったが今回は断念。「丹羽能教墓」の真下にあった公衆トイレの水道を使わせてもらい、体を拭いて、着替えをした。

   

「奴田山(青木山)」は、事前情報通り登りやすい山で、山頂手前の眺望も良く、飯豊連峰と田園に囲まれた会津若松市街地の構図は美しかった。

また、 “市民の山”として登山道(ハイキングコース)も整備され、小学生低学年でも気軽に登られるということで「会津百名山」の入門としては良いのだろうと感じた。 さらに、今回のように小田山公園を起点にすれば、会津若松の歴史にも触れられ、得られるものは多いだろうとも思った。

「奴田山(青木山)」の登山道については、 今回採った「小山田公園」ルートに喫緊の課題は無いと感じた。 ただ、下山時に通った「子どもの森スキー場」 側は、入口を示す標識の復活や、 夏草やクマザサが繁茂している場所などへの案内表示の設置が必要だと思った。


「奴田山(青木山)」は、会津若松市内にあるため、只見線を利用した登山というのは現実的でないかもしれないが、沿線の山を登り、会津若松市内で観光をする際に、半日を利用し登るというプランは受け入れられるのではないだろうか。 

観光鉄道「山の只見線」”の起点・会津若松駅の徒歩圏には「奴田山(青木山)」の他、2カ所4座(山と峠)の「会津百名山」がある。今後、奥会津での登山と只見線乗車を組み合わせ、会津若松の歴史を学び識り、来し方を感じながら、山道や山頂での眺望も期待し登ってみたいと思う。

   

 

「奴田山(青木山)」登山を終え、市内で用事を済ませた後、昼食を入手し鶴ヶ城に移動。今日は三の丸と二の丸の間にある東口から“入城”した。

 

天守閣の入口にはテントが置かれ、検温など新型コロナウイルス対策を行われていた。

  

前庭から鶴ヶ城を見上げた。天正年間に組まれたという石垣に建つ、赤瓦を乗せた天守閣は見ごたえがあった。

  

天守閣を背にして東に進み、石垣に上った。「奴田山(青木山)」の山並みが良く見えた。

 

   

鶴ヶ城の場内で天守閣を見ながら弁当を食べた後、会津若松駅に移動。鶴ヶ城を模した、赤瓦風の屋根を持つ駅舎を見上げた。

  

13:26、磐越西線の列車に乗り込んで、会津若松を後にした。

  

 

 

 

17:28、郡山駅といわき駅で乗り換え、富岡駅に到着。駅から海に向かい空を見上げると、鼠色の雲が広がっていた。

 

 

(了)

 

 

・  ・  ・  ・  ・

*参考:

・福島県 生活環境部 只見線再開準備室:「只見線の復旧・復興に関する取組みについて

・産経新聞:「【美しきにっぽん】幾山河 川霧を越えてゆく JR只見線」(2019年7月3日)

・NHK:新日本風土記「動画で見るニッポンみちしる~JR只見線

・東日本旅客鉄道株式会社:「只見線(会津川口~只見間)の鉄道復旧に関する基本合意書及び覚書」の締結について(PDF)(2017年6月19日)

  

【只見線への寄付案内】

福島県はJR只見線全線復旧後の「上下分離」経営での維持費や集客・地域振興策の実施費用として寄付を募集中(クレジット可)。

①福島県ホームページ:只見線復旧復興基金寄附金・只見線応援団加入申し込みの方法 *現在は只見線ポータルサイト「只見線応援団」URL:https://tadami-line.jp/support/

 

②福島県:企業版ふるさと納税

URL:https://www.pref.fukushima.lg.jp/sec/16005g/kigyou-furusato-zei.html

[寄付金の使途]

(引用)寄附金は、只見線を活用した体験型ツアーや周遊ルートの整備、只見線関連コンテンツの充実化等に活用させていただきます。 沿線地域における日本一の秘境路線と言われる観光資源を活用し、更なる利用者の拡大と認知度向上を図ります。

 

以上、よろしくお願い申し上げます。

次はいつ乗る? 只見線

東日本大震災が発生した2011年の「平成23年7月新潟福島豪雨」被害で一部不通となっていたJR只見線は、会津川口~只見間を上下分離(官有民営)とし、2022年10月1日(土)に、約11年2か月振りに復旧(全線運転再開)しました。 このブログでは、“観光鉄道「山の只見線」”を目指す、只見線の車窓からの風景や沿線の見どころを中心に、乗車記や「会津百名山」山行記、利活事業に対する私見等を掲載します。

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